【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
温室の小さな春が茶会で褒められてから、季節はゆっくり冷たい方へ傾いた。
霜が朝の草を白く縁取り、村道の轍には薄い氷が張る。
「若様。屋敷の春は、よく整いました」
ベネット土地差配人は、荷車道の脇でそう言った。
「ありがとうございます」
「ですが、領地の冬は、厳しいものでございます」
前にも聞いた気がする言葉だった。
その朝、俺は彼に連れられて、小作人トムの家へ向かっていた。
◇
トムの家は、畑と低い生け垣の間にあった。
壁は古く、藁屋根は丁寧に直されているが、すきま風が入ってきている。戸口には薪が積まれていた。乾いているものは奥へ、湿ったものは手前へ分けてある。
いい置き方だ、と俺は思った。
ただし、その量は少なかった。
「若様」
トムは戸口で帽子を取った。
日に焼けた顔に、笑おうとして止めたような皺がある。妻のメアリは、下の子を片手で引き寄せ、もう片方の手で粗末な前掛けを押さえていた。奥では、上の子が椀を持ったまま、こほん、と咳をした。
「急に来てすまない」
「ベネット様から聞いております。中は狭うございますが」
狭い、とトムは言ったが、実際には狭さだけではなかった。
土間に近い床は冷え、炉の火は細く、鍋から立つ湯気も弱い。
湿った薪を無理に燃やす煙と、薄く煮た根菜の甘い匂いが混ざっている。
鍋の中には、カブの切れ端と少しの豆が浮いていた。
水の方が多い。
「よい匂いですね」
俺が言うと、メアリは少し困った顔をした。
「よいものではございません。冬前は、こんなものです」
トムは俺ではなく、ベネットの方を見た。
「試し畑のカブは、悪くなかったと聞いております。村道から見える場所でしたから、みんな見ておりました」
「興味はございますか」
ベネットが静かに聞く。
トムは一拍置いた。
「興味はございます。けれど、うちの畑で外れれば、笑い話では済みませぬ」
その言葉は礼儀正しかった。
四輪作も、屋敷では試験で失敗しても問題ない。
だが、トムの家では、そのまま一家離散につながるだろう。
寒さが、土間の足元から上がってきた。
「若様は、悪くしようとなさる方ではないと、ベネット様は言います」
メアリが小さく言った。
「ですが、悪くしようと思って悪くなる冬ばかりではございません」
◇
館へ戻る道で、俺は馬車の中でも黙っていた。
ベネットは俺を急かさない。
それがまた、たいへん重い。
「温かいものを、配れないでしょうか」
ようやく言うと、ベネットは窓の外の畑を見たまま答えた。
「施しでございますか」
「カブ、じゃがいも、豆、余った根菜を使って、冬のスープを。屋敷で余らせている分もありますし、試し畑のカブも、全部食卓に上げるよりは」
「若様」
「はい」
「施しは、面子を冷やすこともございますし、働くなる恐れもごさいます」
分かっていなかったわけではない。
だが、分かっているつもりでも、口に出されると鈍く刺さる。
「どうするとよいでしょうか?」
「奥様にお聞きなさいませ。私が考えるより、よほど人の目を読まれます」
そこで母の名が出るのは、納得だった。
実用は恥ではないが、見せ方を間違えれば嫌われる。
◇
母セシリアは、話を最後まで聞いた後、すぐに答えを出さなかった。
茶卓には、温室の香草をほんの少し使った薄い焼き菓子があった。甘い香りの向こうで、母は指先を重ねて考えている。
「教会と組みましょう。冬前の礼拝後、貧しい家だけではなく、村の者が温かい椀を受け取れるようにします。屋敷は野菜と薪と鍋を出す。村からも、出せる家は少しずつ根菜を出す。受け取るだけの列にしないこと」
なるほど。
全員を受け取る側にすれば、特定の家だけが恥をかかない。
出せる者は出す。出せない者も椀を持てる。
慈善というより、冬前の共同鍋に近い。
「母上、すごい」
「すごい、ではありません。女主人の仕事です」
母は淡々と言った。
「それから、スープはおいしすぎてはいけません」
「えっ」
「毎日ほしくなるものにしてはいけません。けれど、冷えた体にありがたいものではなければなりません。料理長に言いなさい。味より、温度と配り方です」
味より温度。
ハロルド料理長が聞いたら、どういう顔をするだろう。
たいへん見たい。
たいへん怖い。
◇
ハロルド料理長は、予想通り不機嫌な顔をした。
「ですが、薄い湯を出すなら、この屋敷の厨房の名を出してはなりません」
「では」
わざとおいしいものを作らないということは、プライドを損ねて作ってくれないだろうか。
「作ります」
結局作ってくれるらしい。
大鍋には、カブ、じゃがいも、豆、玉ねぎに似た香味野菜、少しの燻製肉の端が入った。
豆は前の晩から水に浸す。
じゃがいもは煮崩れてとろみになる分と、形を残す分に分ける。
カブは大きすぎると冷めた時にぼそぼそするので、子供でも匙で割れる大きさに切る。
温室の香草は、最後にほんの少しだけ。
大鍋から湯気が上がる。
燻製肉の香りは強すぎず、豆の厚みと、カブの甘さを後ろから支えていた。じゃがいもが少し溶け、汁はただの水ではなくなる。
匙で味を見ると、派手ではない。
だが、喉を通ると胸の下がじんわり温まった。
屋敷の皿のような華やかさはない。
「うまいです」
「温かいのでございます」
ハロルドは短く言った。
◇
初回の礼拝後、村の教会の前は、思っていたより早く混雑した。
湯気の立つ大鍋を見れば、人は集まる。
寒ければなおさらである。
「押さないでください」
牧師の声は穏やかだったが、子供たちには気にせず近寄ってくる。
椀を持った手が前へ伸び、後ろの男たちが様子を見ながら詰める。誰が先か、どの家が多いか、どの家が少ないか。温かい椀一つで、人の目は忙しく動く。
列が崩れかけた時、ロウリーが一歩前へ出た。
「椀をお持ちの方は、こちらへ一列に。子供と年寄りを先に。お代わりは、全員へ行き渡ってからでございます」
ベネットはすぐに木杭と縄で列の口を作り、村の男たちを二人呼んで、空の椀と受け取った椀の流れを分けた。
ハロルドは俺から柄杓を取り上げた。
「若様は、数を」
「俺も配れます」
「こぼします」
たいへん信用がない。
俺は横で木札を動かし、何椀出たか、何度鍋を温め直したか、どの家が受け取らなかったかを記録した。
湯気が鼻先に触れ、子供たちが両手で椀を抱える。カブの白、豆の薄茶、香草の小さな緑。燻製肉の端はほとんど見えないが、匂いはちゃんといる。
トム一家は、少し離れたところにいた。
メアリが子供の背を押す。
トムは帽子を握ったまま、まだ迷っている。
「トム」
ベネットが呼んだ。
「これは屋敷だけのものではない。村の根菜も入っている。おまえの畑の豆も少しな」
トムは困ったように笑った。
「少しだけでございます」
「少しも入れば、鍋の味でございます」
ベネットが言うと、トムはようやく列に入った。
下の子が椀を受け取り、両手で抱えた。すぐ飲もうとして、メアリに止められる。
「熱いよ」
「いい匂い」
トムは俺に帽子を下げた。
「若様」
「はい」
「これは、ありがたいです」
礼の言葉は短かった。
けれど、家で聞いた警戒の刃は、少しだけ鞘に戻っていた。
俺は妙にほっとして、うっかり大きくうなずきそうになった。
そこで母の顔を思い出す。
勝った顔をしてはいけない。
これは施しの勝利ではなく、寒い日の一椀が、ぎりぎり屈辱にならず渡っただけである。
「こちらこそ、豆をありがとうございます」
俺が言うと、トムは少し驚いた顔をして、それからまた帽子を握り直した。
◇
その日の記録は、思ったより厚くなった。
使ったカブ、じゃがいも、豆、薪。
前夜の豆の浸し時間。
鍋を運んだ人数。
最初に列が崩れかけたこと。
子供と年寄りを先にしたこと。
お代わりは一巡後にしたこと。
受け取らなかった家がいくつかあること。
味への不満より、冷めた椀への不満があったこと。
ハロルドは、鍋を見下ろして言った。
「次は鍋を二つに分けます。片方を配る間、片方を温める」
「次があるのですね」
ベネットは帳面を閉じた。
「若様。今日、腹が温まった者はおります」
「はい」
「それで、畑の試験をすぐ信じる者が増えるわけではございません」
「はい」
「ですが、若様が冬の土間を見たことは、村に残ります」
俺は教会の前を見た。
湯気はもう薄く、空の椀が洗い桶に積まれている。トムの子供は、まだ椀の底を名残惜しそうに見ていた。