【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
冬の午後、グレイヴェル館の厨房棚で、赤いジャム瓶が小さな泡を抱いていた。
紋章入りの紙片はきちんと貼られている。布も整っている。日付も、果物の出どころも書かれている。
見た目だけなら、母の言う「貴族の品」に一歩近づいた小瓶だった。
ただし、その縁で、泡が一つ、ゆっくり浮いた。
「料理長」
俺が言うと、ハロルド料理長の手が止まった。
鍋を磨く音が、ぴたりと消える。
「触ってはいけません」
いつもの「若様、袖が危のうございます」より、声が低かった。
厨房の空気が一段冷える。
甘い匂いと、磨いた銅鍋の金属の匂いと、薪の煙が、急に別々のものとして鼻に入った。
「泡、ですよね」
「泡でございます」
「発酵、ということも」
「若様」
料理長が俺を見た。
厨房帳面に「若様の大丈夫、信用せず」と書かれた日の顔をしていた。忘れてほしい記録ほど、責任者は忘れてくれない
「これは酒ではございません。贈答前のジャムで、食べ物でございます」
「はい」
「食べ物は、泡を立てて人を驚かせてよい品ではございません」
「はい」
◇
瓶は、ハロルド料理長が自分で棚から下ろした。
布を外す前に、ロウリーが呼ばれた。
ロウリーは瓶を一目見て、俺を見た。
「若様」
「今回は、まだ何もしていません」
「まだ、でございますか」
言葉の選び方を間違えた。
料理長は瓶を作業台の上へ置き、口元を布で覆ってから、ゆっくり蓋を緩めた。
ぷつ、と小さな音がした。
大きな破裂ではない。派手な事故でもない。ただ、瓶の内側で溜まっていた息が、ようやく外へ逃げたような音だった。
甘い匂いの奥に、少しだけ酸っぱい匂いが混じる。
ベリーの香りはまだある。だからこそ、困る。
「捨てます」
ハロルド料理長は即決した。
「味見は」
言い終わる前に、ロウリーと料理長が同時にこちらを見た。
「しません」
俺は自分で訂正した。
学習能力はある。たまに遅いだけだ。
料理長は瓶の中身を鍋へ移さず、別の陶器鉢へ空けた。赤いとろみは光っていたが、表面に小さな泡がいくつも残っている。
口元の内側に、薄く白っぽい筋も見えた。
「煮た鍋は悪くありません」
料理長が言った。
「果物も、砂糖も、火も、前と大きく変えてはおりません。問題は、増やした後でございます」
「瓶、ですか」
「瓶。蓋。布。詰める時の熱。閉めた後の置き場。開けた時の状態。どれか一つとは限りません」
どれか一つとは限らない。
たいへん嫌な言葉である。
原因が一つなら、そこだけ直せばいい。原因がいくつも候補として並ぶと、途端に分析が面倒くさくなる。5M+1E分析...
◇
母セシリアは、瓶を見て騒がなかった。
厨房の入口に立ち、赤い中身の鉢、外された布、蓋、紙片を順番に見て、最後に俺を見た。
「外へ出す前に止まったのは、幸運です」
「もし、これが相手の家の茶卓で泡を立てたら、味の話では済みません」
「家の顔、ですね」
「何が起きたのか分からない品を、グレイヴェル家の紋章で包んではいけません」
母の言葉は静かだった。
「ロウリー。外へ出す話は止めます」
「かしこまりました」
「ハロルド。残っている瓶はすべて確認を。食べる分も含めて」
「承知いたしました」
リディアは母の後ろから、赤い鉢を覗き込んだ。
「兄様」
「はい」
「瓶までおなかを壊すのですか」
「瓶はたぶん腹を持っていない」
「では、なぜ泡を」
多分雑菌が繁殖したんだろう...。
◇
その日の厨房帳面には、新しい欄が増えた。
果物の種類、煮た日、砂糖の量、鍋の番号、瓶を選んだ者。
そこまでは前回もあった。
そこに、瓶を煮た時刻、蓋を煮たか、布の状態、詰めた時の熱、閉めた者、保存した棚等。
「帳面が、だんだん食べ物より大きくなっていきますね」
「食べ物を外へ出すなら、帳面も外へ出るつもりで整えます」
泡の出ていない瓶も開けられた。
全部を捨てるのではなく、状態を分ける。蓋が固く閉まっているもの。匂いがよいもの。棚の端で暖かい壁に近かったもの。
ただ、見ているうちに、俺は別のものが気になり始めた。
瓶を洗った水。
蓋を置いた台。
布を濡らした桶。
厨房の水桶へ水を汲む人の動き。
「水、かもしれません」
俺が言うと、ロウリーの眉がほんの少し上がった。
「厨房の水でございますか」
「厨房だけではありません。水桶に入る前の水です。井戸からここまで。あと、瓶を洗った桶と、布を濡らした水と、手を洗う場所と」
話しているうちに、自分でも嫌になってきた。
「地図をください」
「今回は、たぶん井戸です」
◇
翌朝、俺はベネット土地差配人と一緒に、厨房の水場から外へ出た。
冬の空気は乾いているのに、石畳の端は黒く湿っている。厨房口の近くには、水桶を置いた跡が丸く残り、井戸へ向かう道には薄い泥が筋になっていた。
俺は紙の上に、厨房、水桶、井戸、洗濯場、家畜小屋、厩肥場、側溝を書いた。
絵としてはひどい。
だが、水の流れは見える。
「この水は、どこへ流れますか」
「雨なら、こちらの低い溝へ。洗濯場の水は、あちらへ。家畜小屋の洗い水は、本来こちらでございますが、詰まると道へ出ます」
ベネットはすぐ答えた。
知っているのだ。
現場の人は最初から見ている。
ただ、それが上まで上がってこない。
「井戸の周りは」
「毎日汚れます。人が来ます。桶が来ます。靴が来ます。子供も来ます。泥のついた道具も来ます。雨の日は、もっと来ます」
「泥のついた道具」
「誰も汚すつもりはございません。ですが、置けば汚れます」
当然だった。
村の井戸へ行くと、もっとよく分かった。
つるべ桶は地面に置かれ、周りの石には苔がつき、側溝には落ち葉と泥が溜まっていた。少し離れたところで洗濯がされ、さらに先には家畜小屋がある。
「若様」
井戸端の男が、半分笑って、半分困った顔で言った。
「貴族様の甘いジャムのために、村の井戸まで口を出されるんですか」
言い方は軽い。
だが、芯に小さな反発がある。
そりゃそうだ。屋敷の瓶が泡を吹いたから井戸を掃除しろ、では、言われる側はたまったものではない。
俺が答える前に、ベネットが一歩前へ出た。
「ジャムのためだけではない。教会前の冬の鍋にも、ここの水が入る。お前の家の粥にも、ここの水が入る」
男は口を閉じた。
別の女が、濡れた手をエプロンで拭きながら言った。
「掃除するのは構いません。でも、井戸の周りを空けろと言われると、洗濯をどこですればいいのか困ります」
正しい。
改善案は、だいたい誰かの置き場所を奪う。
「洗濯場は動かさず、流れる先だけ先に見ます」
俺は紙を見ながら言った。
「井戸のすぐ縁に桶を置かない台と、つるべ桶を地面へ置かない決まり。それから、側溝の落ち葉を取る日を決めるだけなら、どうでしょう」
「誰がやるかでもめます」
別の男が言った。
◇
母は、その反発を聞いて、うなずいた。
「ジャムのため、と言ってはいけません」
「ですよね」
「教会と組みます。冬の鍋の続きとして、井戸周りを清める日を作りなさい。礼拝後に、側溝の泥を取り、井戸縁を磨き、つるべ桶を地面に置かない台を置く。病を減らすと断言せず、共同の水を気持ちよく使うため、と言うのです」
社交界に強い母は、領地でも言い換えが上手い。
同じ掃除でも、「若様の命令」と「教会前の共同鍋に続く清めの日」では、受け取られ方が違う。
「費用は」
「伯爵家が木材と釘を出します。人手は、ベネットと牧師に割り振らせなさい。ただし、出られない家を責めてはいけません。冬は、薪も時間も足りません」
「病気が減るとは、まだ言いません」
「よろしい」
母は、そこで少しだけ表情を緩めた。
「アーサー。安全は、味より地味です。けれど、外へ出す品ほど、地味な部分が先に見られます」
甘いジャムの話をしていたのに、俺たちは井戸端で苔をこする話をしている。
ただ、ほかの偉い貴族様の腹を壊したりするよりはマシだと考えよう。
◇
数日後、厨房棚には新しい札のついた瓶が並んだ。
泡の出た瓶は、新しく詰める分は瓶と蓋を煮るところからすべてハロルド料理長が見張った。
詰めた時の熱、閉めた者、保存場所、開ける前の確認。
帳面は厚くなったが、棚の前で料理長が腕を組む顔は、少しだけ穏やかだった。
井戸周りでは、側溝の落ち葉がさらわれ、つるべ桶を置く小さな台ができた。洗濯場の位置はそのままに、流れの悪い溝だけを掘り直す。
文句は出た。
文句が出たということは、生活に触ったということだ。
すべてが感謝で返ってくる改革など、たぶん信用してはいけない。
「若様」
ハロルド料理長が、小さな瓶を一つ持ち上げた。
「こちらは、まだ外へ出せません。ですが、家の中で確認する分には、ようやく試せます」
リディアが入口で待っていた。
目が、完全に赤い甘いものを待つ目である。
「兄様、今度は大丈夫ですよね?本当に大丈夫ですよね??」
「大丈夫」
「では、少しだけ」
少しだけ、という言葉は、保存食の天敵である。
それでも、薄いパンに乗ったベリーの赤は美しかった。香りは前より少し控えめで、甘さの奥に酸味がある。口に入れると、冬の冷たい空気の中で、果物だけが小さく夏を覚えていた。
おいしい。
その夜、ロウリーが母の手紙と小さな木箱を持ってきた。
「奥様が、最初に送る相手を一軒だけ選ばれました」
「もう送るんですか」
「数を絞って、良い瓶だけを。駅まで運び、そこから先は相手方の使いへ渡します」
窓の外で、雨の音がした。
冬の終わりに近い、冷たい雨だった。
瓶は安全になりつつある。