【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
雨の日の初出荷は、報告書にすると三行で済む。
一、瓶は安全確認済みのものだけを選んだ。
二、道が悪く、積み荷を減らした。
三、駅には間に合ったが、荷札が濡れた。
これだけなら、たいしたことは起きていないように見える。
だが、その三行を書くまでに、俺の胃になぜかダメージが入っていた。
◇
朝から雨だった。
昨夜から窓を叩いていた冷たい雨は、翌朝になってもやむ気配がなかった。空は灰色で、屋敷の庭道は黒く濡れ、車輪の跡には薄い水が溜まっている。
厨房の作業台には、小さな木箱が並んでいた。
中身は、ハロルド料理長が見張って詰め直したジャム瓶と、温室から採った少量の葉もの、それから母が選んだ手紙である。送り先はマーロウ夫人。母の茶会につながる相手で、最初に渡すには大きすぎず、小さすぎない家らしい。
「瓶は、これだけですか」
俺が数えると、ハロルド料理長は腕を組んだ。
「外へ出せるものは、これだけでございます」
ロウリーは箱の側面に札をつけ、紐を結び、控えの紙へ行き先と中身と数を書いている。
「ロウリー、その札、雨で濡れませんか」
「濡れないよう布をかけます」
「布も濡れますよね」
「濡れます」
「では」
「だから急ぎます」
外では、御者と車大工が荷車を見ていた。荷台は小さく、箱を置くと少し心もとない。俺は前世の感覚で、ワレモノ注意の札を張って黒猫さんにお願いしたくなる。だが、ここにあるのは木箱と藁と布と紐と、少し機嫌の悪い馬である。
「若様、この道では揺れます」
御者が言った。
「ゆっくり行けば」
「列車に遅れます」
車大工も、車輪を手で押しながら首を振った。
「箱が浅いですな。瓶を立てるなら、もう少し深い箱が要ります」
「今から作れますか」
「無理です」
ですよね。
◇
最初の轍で、箱が傾いた。
荷台の中で、木箱がごとりと音を立てる。俺の胃も同じ音を立てた気がした。
「止めてください」
御者が馬を止め、ロウリーが布をめくる。
ハロルド料理長が、俺より先に箱へ手を伸ばした。瓶を一本ずつ見る。その顔が、だんだん無表情になっていく。
無表情の料理長は怖い。
「一本、ひびがございます」
ひびの入った瓶は即座に外された。さらに、その隣にあった瓶も揺れが強かったとして、外すことになった。
車輪がハマりそうなぬかるみには、ベネットの指示で板を敷いた。重い箱を下に、軽い籠を上にする。布を多めに挟む。等々雨に打たれながらの出荷作業だった。
駅に着いたころには、俺の靴も裾も泥だらけだった。列車の時間にはぎりぎり間に合った。
黒い煙を吐く機関車がホームの向こうにいる。
かつて俺の蒸気機関チートを葬った、あの鉄の塊である。
だが、今日は機関車に感動している場合ではない。
荷置き場には、他家の箱や袋や木樽が集まっていた。濡れた外套の駅員が、帳場の紙を押さえながら次々に荷を確認している。
「グレイヴェル伯爵家、マーロウ夫人方へ」
ロウリーが落ち着いた声で告げる。
駅員が札を見る。布をめくる。そこで眉を寄せた。
「こちらの札、読みにくくなっております」
俺は凍った。
札の端に水が染み、墨がにじんでいる。
読めなくはない。読めなくはないが、雨の中で、他の荷と混ざり、急ぐ駅員の前に出されたら、十分に事故の種だった。
「控えは」
ロウリーがすぐ紙を出した。
駅員はそれと札を照合し、何とか受け取ってくれた。
荷は出た。
列車にも間に合った。
割れた瓶は外した。
成功と言えなくもない。
だが、駅の荷置き場で濡れた札を見た瞬間、俺は分かった。
瓶を安全にしても、箱を閉めても、道を越えても、最後の紙切れが濡れれば荷は迷う。
鉄道はもうある。
だからこそ、その手前と向こう側の
◇
本当の問題は、雨が上がってから来た。
二日後、マーロウ夫人方から手紙が届いた。
品は無事に届いた。ジャムは美しく、温室の葉も珍しく、母への礼も丁寧だった。
だが、最後にこう書かれていた。
荷の確認に少し時間がかかりました、と。
礼状である。
礼状なのに、俺の胃にだけ苦情として届いた。
さらに駅からも、ロウリー宛に短い確認が来た。
雨の日は荷札が読みづらく、同じ方向の荷と紛れかけた。次から控えを分かりやすくしてほしい。
俺は父の書斎で、その紙を前にして言った。
「駅の荷置き場を直しましょう」
父エドマンドは、眉を上げた。
ベネットは、俺の横で小さく息を吐いた。
「若様」
「はい」
「駅は、グレイヴェル家だけの場所ではございません」
「ですよね」
「屋根を直すにも、置き場を分けるにも、鉄道会社、駅長、他家、商人、荷役の都合がございます」
「ですよね」
俺は言いながら、心の中で駅前倉庫改善計画に線を引いた。
やりたいことは多い。棚を作り、雨よけを増やし、行き先ごとに置き場を分け、帳場の流れを整えたい。
だが、それはグレイヴェル領と管轄が違う。
父が静かに言った。
「まず、こちらの荷を迷わせない工夫だ」
ロウリーが紙を置いた。
「札は二重にいたします。外側は油を引いた紙で覆い、内側に同じ行き先の控え札を入れます。紐は行き先ごとに色を分け、箱の側面へ焼き印を足します」
「焼き印」
「紋章では大げさですので、グレイヴェルの頭文字と番号だけでよろしいかと」
ベネットも続ける。
「駅の帳場では、こちらの控え番号と駅の控えを合わせてもらう。駅員に余計な手間だけ押しつけるのではなく、迷った時に探しやすい形にします」
「雨よけの布は」
「箱ごとに用意します。ただし、高い布は使いません。濡れてもよいものを」
◇
同じ机に、別の紙束も積まれていた。
冬のスープ。
井戸周りの清めの日。
側溝の泥取り。
つるべ桶を地面に置かない台。
そして、村の発熱報告。
俺は、その数字を見て少し身を乗り出した。
「減ってませんか」
父は答えなかった。
代わりに、隣に座っていた医師が咳払いをした。教会の牧師も、紙を指で押さえる。
「減っている気がします」
医師は言った。
「気がします、ですか」
「気がする、です。今冬は寒さの出方も、雨の日も、村人の出入りも昨年と同じではありません」
牧師もうなずいた。
「教会へ来られなかった者、家で休んだだけの者、医師を呼べなかった者もおります。椀を受け取ったから熱が減った、井戸を磨いたから病が減った、と今ここで言うことはできません」
俺は口を閉じた。
減った。
そう書きたかった。
冬のスープも、井戸周りも、側溝も、意味があったのだと書きたかった。
そう思いながらメモを書く。
「若様のメモ帳は、畑より荒れておりますな」
ベネットが言った。
ひどい。
父は、笑わずに俺の紙を見た。
「アーサー。これは一枚にするものではない」
「でも、つながっています」
「つながっていることと、同じ紙に書くことは違う」
父は、俺の紙の上に三枚の白い紙を置いた。
「一つ。外へ出す言葉。相手にどう伝わるかを考える紙だ。母上が見る」
母が静かにうなずいた。
「一つ。領地の勘定。費用、手間、誰がどれだけ動いたかを見る紙だ。私とベネットが見る」
ベネットがうなずく。
「一つ。家の中で見る失敗と再発防止。これは、恥も消さずに残す紙だ。ロウリーとハロルドが見る」
ロウリーはすでに紙を分け始めていた。ハロルド料理長は、瓶の項目だけを俺の地獄表から救出している。
俺のメモは解体された。
悲しいが、見やすくなった。
母は外向きの紙へ、さらさらと文を書いた。
「雨の道を考え、最初の品は数を絞りました。行き先の確認を重ね、届く数を守りました」
「割れた瓶は」
「家内の記録です」
「荷札が濡れたことは」
「再発防止の記録です」
「嘘では」
母は俺を見た。
「すべてを同じ紙に書かないと嘘、ではありません。ただし、どこの記録からも消すと嘘です」
父は発熱報告の紙に、ゆっくり書いた。
「教会と医師の記録上、今冬の発熱報告は少ない。ただし原因は未確定。水場の清掃との関係は、次季も記録を継続する」
◇
夕方、母は外向きの紙をもう一度読み直していた。
マーロウ夫人への礼状の返事に添える抜粋である。
「味、由来、共同の水場の清掃、丁寧な荷出し」
母は指で順に追った。
「それ、伝わると面倒になりませんか」
母の答えは早かった。
「アーサー。茶会の話題は、料理の味だけではありません。この家は今なにをしていて、これからどうなっていくのかも噂になります」
ロウリーが封蝋の準備をしながら言った。
「マーロウ夫人の次の茶会には、
「ルディオン」
俺の声が少し上ずった。
母は、何でもないことのように言った。
「アスターフェル侯爵家に近い方がいらっしゃると聞いています」
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。
父は何も言わない。
俺だけが、椅子の上で固まった。
侯爵家。
格上。
なぜかお腹が痛くなってきた。
雨でぬれたせいだろうか。
母は封をした手紙を見て、静かに微笑んだ。
「次は、茶会です」
日曜日から予約投稿ミスしていてました、すみません。