【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
雨の日の初出荷と父への報告書から数日後、グレイヴェル館の客間には、磨いた銀器と焼き菓子と、冬の終わりの湿った花の匂いが並んでいた。
南向きの窓から入る光はまだ弱い。けれど、暖炉の火で温められた部屋には、温室から切った小さな葉ものと、白い皿に落とした赤いジャムが、妙に春らしい顔で置かれている。
母セシリアの茶会である。
俺は壁際の小さな椅子に座らされ、膝の上に手を置いていた。逃げ道はない。
「アーサー、その顔はおやめなさい」
母が言った。
「どの顔でしょう」
「茶会を、ただ菓子を食べて話すだけの場だと思っている顔です」
ばれている。
卓の上には、母が父の報告書から抜いた紙が三枚置かれていた。
一枚目は外へ出す言葉。
二枚目は領地勘定。
三枚目は家内の失敗記録。
父の書斎で分けられた紙は、母の手にかかるとさらに細く、やわらかく、そして逃げ場のない言葉へ変わっていた。
俺が書きかけた「発熱が減った気がする」は、母の紙では「教会と医師の記録を続けております」になっている。
ロウリーは茶卓の横で、皿の位置を少しずつ直していた。小さな焼き菓子、薄く切ったパン、香草を混ぜた柔らかなバター、温室の葉を添えた魚の冷製、それから赤いジャムをほんの少し落とした菓子。
ジャムは山盛りではない。
白い皿の縁に、小さな宝石みたいに置かれている。傷ありリンゴと少量の苺、残りベリーをハロルド料理長が煮詰めたものだ。砂糖と蜂蜜は貴重なので、口いっぱいに甘いというより、果物の酸味が舌の上できゅっと明るくなる。
美味しいけど、少ない。
この少なさに、母は価値を見ている。
「ハロルド」
母が呼ぶと、料理長は控えめに頭を下げた。
「今日の菓子は、どこまで出せますか」
「外へお出しできる瓶は確認済みでございます。ですが、多くはございません」
「よろしい。客人に惜しいと思わせる量で止めましょう」
料理長は一瞬だけ目を伏せた。
たぶん、もっと食べさせたいのだ。
料理人としては、うまいものはたっぷり出したいだろう。
だが、母は違う。
茶会は満腹にする場所ではない。
覚えて帰らせる場所である。
俺の胃は、食べ足りない。
◇
客人は三人だった。
マーロウ夫人。
ウェザビー夫人。
それから、ルディオンから来た年配の夫人。
名は聞いた。聞いたはずだ。だが、母が「アスターフェル侯爵家に近い方」と事前に言ったせいで、俺の頭はそこだけ拾って名前は聞こえなかった。
侯爵家に近い。
その言葉だけで、茶の湯気が少し胃に悪い。
母は、いつもの穏やかな顔で三人を迎えた。
「先日は、雨の中の小さな品をお受け取りくださって、ありがとうございました」
マーロウ夫人は笑った。
「こちらこそ、あの赤いジャムには驚きましたわ。瓶も布も可愛らしくて。あれほど小さいのに、棚で目を引きました」
「小さいものほど、包みを整えませんと」
母はそう言いながら、ロウリーへ目だけで合図を送る。
ロウリーが皿を進めた。
焼き菓子は、外がさくりと軽く、中に薄くジャムが挟まっている。温かい茶の香り、バターの甘い匂い、果物の酸味が、客間の空気を少し柔らかくした。
ウェザビー夫人が菓子を半分に割り、目を細める。
「まあ。甘いだけではありませんのね」
「料理長が、果物の酸味を残してくれました」
母が言う。
ハロルド料理長は部屋の端に控えていたが、その肩がほんの少しだけ固くなった。
俺は黙っていた。ここで俺が「実は赤い甘いものが食べたくて」などと言えば、結果は想像するより恐ろしい。
ルディオンからの夫人は、温室の葉を添えた魚の冷製を見た。
「この時期に、青い葉があるのは楽しいことですわ」
「庭師が温室の奥で、小さな春を作ってくれましたの」
母はさらりと言った。
温室の奥で、小さな春。
俺の「温室って食べられるのでは」という雑な思いつきは、母の口を通るとたいへん上品になる。
「食卓まで飾れるのは、庭師の手がよろしいのでしょう」
夫人が言うと、扉の近くに控えていた庭師頭が深く頭を下げた。
顔は真面目だ。
だが、耳のあたりが少し赤い。
「雨の日の荷は、大変でしたでしょう」
マーロウ夫人が、茶を置きながら言った。
来た。
俺の背筋が少し伸びた。
濡れた札に読みにくい字で起こしかけた配送事故。
母は、まったく動じなかった。
「ええ。最初の品でしたから、数を欲張らず、届くものだけにいたしました」
「それで、瓶が少なかったのね」
「はい。途中で無理をすれば、相手のお手元へ届く前に贈り物ではなくなってしまいますもの」
母は、割れた瓶とは言わなかった。
だが、届くものだけを選んだことは伝えた。
ウェザビー夫人がうなずく。
「近ごろは鉄道が便利になりましたけれど、駅までの道はまだ馬と車輪ですものね」
「ええ。荷札も、雨の日には少し工夫が要ります。控え札と紐を改めました」
「まあ、そこまで」
そこまで。
客人の声には、少しだけ驚きが混ざっていた。
ただのジャムの話ではない。
瓶、布、荷札、道、駅。
母は、食べ物の話から、いつの間にかグレイヴェル家が何を見ているかの話へ移している。
俺は、茶会を少し見直した。
おしゃべりだけではない。
◇
話題は、井戸周りへ移った。
移ったというより、母が移動させた。
「冬の共同鍋のあと、村では教会と一緒に水場を清める日を設けましたの」
「井戸まで?」
ルディオンからの夫人が、興味深そうに首を傾ける。
「ええ。ジャムのためではございません。村の共同の水ですから」
母は、ここで一度だけ俺を見た。
分かっている。
病気が減ったとは言わない。
マーロウ夫人が言った。
「それで、村の熱は減りましたの?」
俺は膝の上で手を握った。
言いたい。
少なく見える、と言いたい。
冬スープも、井戸周りも、側溝も、意味があったのだと胸を張りたい。
母は微笑んだ。
「まだ、そうとは申せませんわ」
部屋が少し静かになった。
母は続ける。
「医師と牧師に記録を続けてもらっています。寒さ、雨、欠席、往診、教会へ来られなかった家。そうしたものを、もう少し季節を重ねて見ませんと」
「慎重ですのね」
ウェザビー夫人が言った。
「白い皿に赤いジャムを置くより、そちらの方がよほど難しそう」
母は笑った。
「ええ。赤いジャムは見えますけれど、熱は見えませんから」
ルディオンからの夫人は、茶を口に運ぶ前に、ほんの少しだけ目を細めた。
「グレイヴェル家では、料理の皿から井戸の記録までつながりますのね」
母は扇を閉じた。
「つながってしまうことを、アーサーがよく見つけます」
俺の名前をあまり出さないでほしい。
俺は心の中で言った。
母は続けた。
「ただし、それを形にするのは料理長、執事、土地差配人、庭師、教会、医師、村の人々です。思いつきだけでは、茶卓へも井戸へも届きません」
今度は、少しほっとした。
俺だけの奇行として出荷されるところだったが、母はきちんと荷札を貼り直してくれた。
◇
茶会が終わるころ、客人たちはそれぞれ違うものを持って帰った。
マーロウ夫人は、小さなジャム瓶と控え札の話を。
ウェザビー夫人は、温室の葉と料理長の菓子を。
ルディオンからの夫人は、井戸の記録と荷札の工夫を。
同じ卓に座っていても、持ち帰る噂は同じではない。
これも母の計算なのだろう。
客人の馬車が去ったあと、客間には茶の香りと、焼き菓子の欠片と、少しだけ緊張の抜けた空気が残った。
ロウリーが皿を下げ、ハロルド料理長が菓子の残りを確認する。庭師頭は温室の葉がしおれていないか気にしている。廊下の向こうでは、侍女たちが小さく笑いながら布を片づけていた。
「よく働いてくれました」
母が言うと、ロウリーは深く頭を下げた。
「皆に伝えます」
ハロルド料理長は、皿を見たまま言った。
「菓子は、もう少し酸味を抑えられます」
「いいえ、今日はあの酸味でよかったわ」
母が答える。
「甘すぎると、覚えていただけませんもの」
料理長は、少し考えてからうなずいた。
リディアが客間へ顔を出した。
「お母様、お客様は楽しそうでした」
「ええ」
「お兄様の変わったことも、少し広まりそうですね」
妹よ。
俺は振り向いた。
「少しでは困ることもある」
「でも、泥に落ちたり、蜂に刺されたり、匂いを流したりしたことは、もう村で知られていますもの」
「それは領内です」
「社交界でも、きっと楽しいです」
楽しくない。
いや、聞く側は楽しいかもしれない。だが、話題の中心にいる人間は、あまり楽しくない。
母は笑わずに、俺を見た。
「アーサー。料理が褒められると、家そのものが褒められます」
以前、鴨とガレットの皿が少し褒められたころにも聞いた言葉だ。
あの時は、鴨とガレットの皿が少し褒められただけだった。
今は、ジャム、温室、道、荷札、井戸、記録が混ざっている。
「そして、家が褒められると」
母は続けた。
「家へ期待が集まります」
そこへ、ベネット土地差配人が帳面を持って入ってきた。
茶会の間は外で馬車や荷の控えを見ていたらしい。靴に少し泥がついている。
「奥様、控えの品は無事に渡りました」
「ありがとう、ベネット」
ベネットは俺の方を見た。
「若様」
「はい」
「噂が広がると、期待も広がります」
母と同じことを、より胃に悪い言い方で刺してきた。
「今日の茶会は、平和な名声アップでは」
「名声は、仕事の依頼状にもなります」
俺は黙った。
とても嫌な正論だった。
◇
その夜、ロウリーが小さな盆に手紙を載せてきた。
茶会の礼ではない。まだ早い。
マーロウ夫人の馬車に同乗していたルディオンの夫人から、母へ添えられた短い控えである。
母はそれを読み、扇を閉じた。
父エドマンドは、書斎の椅子で顔を上げる。
「何か」
「アスターフェル侯爵家のお耳にも、いずれ届きそうです」
部屋の空気が静かに締まった。
アスターフェル侯爵家。
格上。
ルディオン。
見る人は見る。
俺自身も、社交界へ向けて、ゆっくり荷造りされている気がした。