【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第26話 母の茶会

雨の日の初出荷と父への報告書から数日後、グレイヴェル館の客間には、磨いた銀器と焼き菓子と、冬の終わりの湿った花の匂いが並んでいた。

 

南向きの窓から入る光はまだ弱い。けれど、暖炉の火で温められた部屋には、温室から切った小さな葉ものと、白い皿に落とした赤いジャムが、妙に春らしい顔で置かれている。

 

母セシリアの茶会である。

 

俺は壁際の小さな椅子に座らされ、膝の上に手を置いていた。逃げ道はない。

 

「アーサー、その顔はおやめなさい」

 

母が言った。

 

「どの顔でしょう」

 

「茶会を、ただ菓子を食べて話すだけの場だと思っている顔です」

 

ばれている。

 

卓の上には、母が父の報告書から抜いた紙が三枚置かれていた。

 

一枚目は外へ出す言葉。

二枚目は領地勘定。

三枚目は家内の失敗記録。

 

父の書斎で分けられた紙は、母の手にかかるとさらに細く、やわらかく、そして逃げ場のない言葉へ変わっていた。

 

俺が書きかけた「発熱が減った気がする」は、母の紙では「教会と医師の記録を続けております」になっている。

 

ロウリーは茶卓の横で、皿の位置を少しずつ直していた。小さな焼き菓子、薄く切ったパン、香草を混ぜた柔らかなバター、温室の葉を添えた魚の冷製、それから赤いジャムをほんの少し落とした菓子。

 

ジャムは山盛りではない。

 

白い皿の縁に、小さな宝石みたいに置かれている。傷ありリンゴと少量の苺、残りベリーをハロルド料理長が煮詰めたものだ。砂糖と蜂蜜は貴重なので、口いっぱいに甘いというより、果物の酸味が舌の上できゅっと明るくなる。

美味しいけど、少ない。

 

この少なさに、母は価値を見ている。

 

「ハロルド」

 

母が呼ぶと、料理長は控えめに頭を下げた。

 

「今日の菓子は、どこまで出せますか」

 

「外へお出しできる瓶は確認済みでございます。ですが、多くはございません」

 

「よろしい。客人に惜しいと思わせる量で止めましょう」

 

料理長は一瞬だけ目を伏せた。

 

たぶん、もっと食べさせたいのだ。

料理人としては、うまいものはたっぷり出したいだろう。

だが、母は違う。

 

茶会は満腹にする場所ではない。

覚えて帰らせる場所である。

 

俺の胃は、食べ足りない。

 

 

客人は三人だった。

 

マーロウ夫人。

ウェザビー夫人。

それから、ルディオンから来た年配の夫人。

 

名は聞いた。聞いたはずだ。だが、母が「アスターフェル侯爵家に近い方」と事前に言ったせいで、俺の頭はそこだけ拾って名前は聞こえなかった。

 

侯爵家に近い。

その言葉だけで、茶の湯気が少し胃に悪い。

 

母は、いつもの穏やかな顔で三人を迎えた。

 

「先日は、雨の中の小さな品をお受け取りくださって、ありがとうございました」

 

マーロウ夫人は笑った。

 

「こちらこそ、あの赤いジャムには驚きましたわ。瓶も布も可愛らしくて。あれほど小さいのに、棚で目を引きました」

 

「小さいものほど、包みを整えませんと」

 

母はそう言いながら、ロウリーへ目だけで合図を送る。

 

ロウリーが皿を進めた。

 

焼き菓子は、外がさくりと軽く、中に薄くジャムが挟まっている。温かい茶の香り、バターの甘い匂い、果物の酸味が、客間の空気を少し柔らかくした。

 

ウェザビー夫人が菓子を半分に割り、目を細める。

 

「まあ。甘いだけではありませんのね」

 

「料理長が、果物の酸味を残してくれました」

 

母が言う。

 

ハロルド料理長は部屋の端に控えていたが、その肩がほんの少しだけ固くなった。

 

俺は黙っていた。ここで俺が「実は赤い甘いものが食べたくて」などと言えば、結果は想像するより恐ろしい。

 

ルディオンからの夫人は、温室の葉を添えた魚の冷製を見た。

 

「この時期に、青い葉があるのは楽しいことですわ」

 

「庭師が温室の奥で、小さな春を作ってくれましたの」

 

母はさらりと言った。

 

温室の奥で、小さな春。

 

俺の「温室って食べられるのでは」という雑な思いつきは、母の口を通るとたいへん上品になる。

 

「食卓まで飾れるのは、庭師の手がよろしいのでしょう」

 

夫人が言うと、扉の近くに控えていた庭師頭が深く頭を下げた。

 

顔は真面目だ。

だが、耳のあたりが少し赤い。

 

「雨の日の荷は、大変でしたでしょう」

 

マーロウ夫人が、茶を置きながら言った。

 

来た。

 

俺の背筋が少し伸びた。

濡れた札に読みにくい字で起こしかけた配送事故。

 

母は、まったく動じなかった。

 

「ええ。最初の品でしたから、数を欲張らず、届くものだけにいたしました」

 

「それで、瓶が少なかったのね」

 

「はい。途中で無理をすれば、相手のお手元へ届く前に贈り物ではなくなってしまいますもの」

 

母は、割れた瓶とは言わなかった。

だが、届くものだけを選んだことは伝えた。

 

ウェザビー夫人がうなずく。

 

「近ごろは鉄道が便利になりましたけれど、駅までの道はまだ馬と車輪ですものね」

 

「ええ。荷札も、雨の日には少し工夫が要ります。控え札と紐を改めました」

 

「まあ、そこまで」

 

そこまで。

 

客人の声には、少しだけ驚きが混ざっていた。

 

ただのジャムの話ではない。

瓶、布、荷札、道、駅。

母は、食べ物の話から、いつの間にかグレイヴェル家が何を見ているかの話へ移している。

 

俺は、茶会を少し見直した。

おしゃべりだけではない。

 

 

話題は、井戸周りへ移った。

移ったというより、母が移動させた。

 

「冬の共同鍋のあと、村では教会と一緒に水場を清める日を設けましたの」

 

「井戸まで?」

 

ルディオンからの夫人が、興味深そうに首を傾ける。

 

「ええ。ジャムのためではございません。村の共同の水ですから」

 

母は、ここで一度だけ俺を見た。

 

分かっている。

病気が減ったとは言わない。

 

マーロウ夫人が言った。

 

「それで、村の熱は減りましたの?」

 

俺は膝の上で手を握った。

 

言いたい。

少なく見える、と言いたい。

冬スープも、井戸周りも、側溝も、意味があったのだと胸を張りたい。

 

母は微笑んだ。

 

「まだ、そうとは申せませんわ」

 

部屋が少し静かになった。

 

母は続ける。

 

「医師と牧師に記録を続けてもらっています。寒さ、雨、欠席、往診、教会へ来られなかった家。そうしたものを、もう少し季節を重ねて見ませんと」

 

「慎重ですのね」

 

ウェザビー夫人が言った。

 

「白い皿に赤いジャムを置くより、そちらの方がよほど難しそう」

 

母は笑った。

 

「ええ。赤いジャムは見えますけれど、熱は見えませんから」

 

ルディオンからの夫人は、茶を口に運ぶ前に、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「グレイヴェル家では、料理の皿から井戸の記録までつながりますのね」

 

母は扇を閉じた。

 

「つながってしまうことを、アーサーがよく見つけます」

 

俺の名前をあまり出さないでほしい。

俺は心の中で言った。

 

母は続けた。

 

「ただし、それを形にするのは料理長、執事、土地差配人、庭師、教会、医師、村の人々です。思いつきだけでは、茶卓へも井戸へも届きません」

 

今度は、少しほっとした。

 

俺だけの奇行として出荷されるところだったが、母はきちんと荷札を貼り直してくれた。

 

 

茶会が終わるころ、客人たちはそれぞれ違うものを持って帰った。

 

マーロウ夫人は、小さなジャム瓶と控え札の話を。

ウェザビー夫人は、温室の葉と料理長の菓子を。

ルディオンからの夫人は、井戸の記録と荷札の工夫を。

 

同じ卓に座っていても、持ち帰る噂は同じではない。

 

これも母の計算なのだろう。

 

客人の馬車が去ったあと、客間には茶の香りと、焼き菓子の欠片と、少しだけ緊張の抜けた空気が残った。

 

ロウリーが皿を下げ、ハロルド料理長が菓子の残りを確認する。庭師頭は温室の葉がしおれていないか気にしている。廊下の向こうでは、侍女たちが小さく笑いながら布を片づけていた。

 

「よく働いてくれました」

 

母が言うと、ロウリーは深く頭を下げた。

 

「皆に伝えます」

 

ハロルド料理長は、皿を見たまま言った。

 

「菓子は、もう少し酸味を抑えられます」

 

「いいえ、今日はあの酸味でよかったわ」

 

母が答える。

 

「甘すぎると、覚えていただけませんもの」

 

料理長は、少し考えてからうなずいた。

 

リディアが客間へ顔を出した。

 

「お母様、お客様は楽しそうでした」

 

「ええ」

 

「お兄様の変わったことも、少し広まりそうですね」

 

妹よ。

俺は振り向いた。

 

「少しでは困ることもある」

 

「でも、泥に落ちたり、蜂に刺されたり、匂いを流したりしたことは、もう村で知られていますもの」

 

「それは領内です」

 

「社交界でも、きっと楽しいです」

 

楽しくない。

いや、聞く側は楽しいかもしれない。だが、話題の中心にいる人間は、あまり楽しくない。

 

母は笑わずに、俺を見た。

 

「アーサー。料理が褒められると、家そのものが褒められます」

 

以前、鴨とガレットの皿が少し褒められたころにも聞いた言葉だ。

あの時は、鴨とガレットの皿が少し褒められただけだった。

今は、ジャム、温室、道、荷札、井戸、記録が混ざっている。

 

「そして、家が褒められると」

 

母は続けた。

 

「家へ期待が集まります」

 

そこへ、ベネット土地差配人が帳面を持って入ってきた。

茶会の間は外で馬車や荷の控えを見ていたらしい。靴に少し泥がついている。

 

「奥様、控えの品は無事に渡りました」

 

「ありがとう、ベネット」

 

ベネットは俺の方を見た。

 

「若様」

 

「はい」

 

「噂が広がると、期待も広がります」

 

母と同じことを、より胃に悪い言い方で刺してきた。

 

「今日の茶会は、平和な名声アップでは」

 

「名声は、仕事の依頼状にもなります」

 

俺は黙った。

 

とても嫌な正論だった。

 

 

その夜、ロウリーが小さな盆に手紙を載せてきた。

 

茶会の礼ではない。まだ早い。

マーロウ夫人の馬車に同乗していたルディオンの夫人から、母へ添えられた短い控えである。

 

母はそれを読み、扇を閉じた。

 

父エドマンドは、書斎の椅子で顔を上げる。

 

「何か」

 

「アスターフェル侯爵家のお耳にも、いずれ届きそうです」

 

部屋の空気が静かに締まった。

 

アスターフェル侯爵家。

 

格上。

ルディオン。

見る人は見る。

 

俺自身も、社交界へ向けて、ゆっくり荷造りされている気がした。

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