【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
グレイヴェル館の子供部屋に、春の雨の匂いが薄く入り込んでいた。
窓の外では若葉が濡れ、芝生の端を庭師が静かに歩いている。
部屋の中央には子供用の机が置かれ、その上に昨日より少し厚い本と、羽根ペンと、インク壷があった。
正式な読み書きが始まる。
ホイットリー先生は昨日、そう穏やかに言った。
現実逃避がてら、あることを試すことにする。
俺は椅子に座る前に、机の横で両手をそっと前へ出した。
誰も見ていない。
クララは暖炉脇の布を整えている。ネルは窓の開き具合を確認している。マーサはリディアの部屋へ行っている。ロウリーは廊下の向こうだ。
今しかない。
異世界。
貴族。
幼少期。
この三つがそろったなら、普通は何かあるのではないか。
魔力を感じるとか、内なる炎が巡るとか、手のひらに光が集まるとか。
前世で読んだ物語では、だいたい幼少期に秘密の訓練をしていた。
大体気絶するまで魔力を使って、超回復してチートになるのだ。
俺は小さく息を吸った。
光れ。
手のひらは、ただの手のひらだった。
四歳児らしく丸く、爪はきれいに整えられ、朝の身支度で薄く香油を塗られている。
もう一度。
光れ。
何も起きない。
机の上の羽根ペンすら揺れない。
窓の外の雨粒のほうがよほど劇的に動いていた。
俺は両手を下ろし、深刻な顔をした。
まずい、俺に魔法チートの才能がない可能性がある。
いや、俺の才能がまだ眠っているだけかもしれない。
希望は大事だ。
その日の午後、俺は母セシリアの茶の時間に呼ばれた。
窓際の小さなテーブルには、蜂蜜色の紅茶と、薄く切った焼き菓子が置かれている。
焼き菓子は表面が淡く焦げ、バターとナッツの匂いがした。きちんとした匂いだが、どこか控えめだった。
俺は菓子を見た。母は俺を見た。
「アーサー」
「はい、母上」
「質問がある顔をしていますね。菓子の枚数についてでなければ聞きましょう」
見抜かれている。
俺は姿勢を直した。
「母上。魔力というものは、ございますか」
母の指が、茶器の取っ手で止まった。
ほんの一瞬だけ、部屋が静かになった。
やはり禁忌か。
秘密の血筋か。
グレイヴェル家に眠る古い力か。
母は、ふっと笑った。
「おとぎ話を読んだのね」
終わった。
「騎士が竜を倒し、湖の乙女が王へ剣を授け、聖者が病を払う。とても美しい話です。けれど、手紙の返事は魔力で書けませんし、晩餐会の席次も魔法では決まりません」
母は菓子を一枚、俺の皿へ置いた。
慰めだ。
礼儀正しい慰めだ。
「ですから、まずは文字と礼儀を覚えましょう」
俺は菓子を見つめた。
外側はさくりと軽く、中はほろりとして、噛むとナッツと蜂蜜の気配が口の奥で控えめに残る。
魔法はなかった。
しかし菓子は、魔法ほどではないが慰めにはなった。
◇◇◇
魔力訓練が失敗した代わりに、現実の訓練は順調に増えた。
朝は祈りの言葉から始まる。
聖書の短い節を読み、決まった文を唱え、姿勢を保ち、声を大きくしすぎず小さくしすぎず、最後の言葉で頭を下げる。頭を下げる角度にも種類がある。
次に朝食。
パンをちぎる大きさ、匙の置き方、温めた乳を飲む速さ、使用人へ礼を言う声の高さ。
それから読み書き。
ホイットリー先生は、穏やかな声で容赦なく線を引かせた。
「アーサー様、文字はご本人の姿勢を映します」
映さないでほしい。
俺の姿勢は四歳児である。
羽根ペンの先は思ったより柔らかく、力を入れるとすぐ紙に引っかかる。インクは乾くまで待たなければならない。待たずに触ると、指が黒くなり、紙の上に悲惨な影が広がる。
前世のボールペンは偉大だった。
あれは、世界を変えた発明の一つだと思う。俺は作れないが。
昼前には紋章の札と家系図の巻物が出てくる。
グレイヴェル家の紋章。親族の紋章。縁のある家の紋章。昔争った家、今は仲がいい家、表向き仲がいい家、仲がいいことにしておくべき家。
最後の分類が多すぎる。
「こちらのお家へお手紙を出すときは、季節の挨拶を少し長く」
ホイットリー先生は札を並べながら言う。
「なぜですか」
「先代同士の和解が、まだ浅いからです」
俺が生まれる前どころか、父が生まれる前の話らしい。
それでも手紙の一文が変わる。
貴族社会、記憶力が良すぎる。
午後は礼儀。
椅子から立つ。礼をする。部屋へ入る。部屋から出る。父に呼ばれたとき、母の客人に会ったとき、親族の夫人に菓子を勧められたとき。
菓子を勧められたときの作法は、とくに重要だ。
俺の心がそう言っている。
ロウリーは部屋の端で静かに見守り、俺の足の位置が半歩ずれると、何も言わず床を指す。
何も言わないのが逆に怖い。
「若様。お辞儀は、相手に敬意を示すものです」
「はい」
俺は顔を上げた。
首の後ろが疲れる。貴族の礼儀は、体幹に厳しい。
さらに週に何度かは厩へ連れて行かれた。
乗馬である。
厩の中は、乾いた藁と革と馬の体温の匂いで満ちていた。
外では蹄が石畳を叩き、馬丁が短く声をかけている。
小さな俺のために選ばれたポニーは、丸い目でこちらを見て、まったく感動していない顔をした。
俺は台を使って鞍に乗せられた。視界が高くなる。背中の下で生き物が息をする。
「背を伸ばして」
馬丁が言う。
「手綱を引きすぎず」
引きすぎれば嫌がる。緩めすぎれば草を食べようとするらしい。
俺は庭の周回路をゆっくり回った。
風は気持ちいい。
石壁の向こうから厨房の匂いが流れてくる。
昼食の肉を煮ているのだろう。
腹が減った。
その瞬間、小馬が道端の草へ首を伸ばした。
「若様、前を」
すみません。
俺も昼食を見ていました。
◇◇◇
二年ほど過ぎると、俺の一日はかなり整ってきた。
整ってきた、というのは良い意味だけではない。
朝起きる時刻が決まっている。
着る服が決まっている。
誰に先に挨拶するかが決まっている。
勉強の順番が決まっている。
散歩できる場所が決まっている。
疲れた顔をしていい相手と、してはいけない相手が決まっている。
前世の一人暮らしでは、休日の朝にいつ起きてもよかった。
昼に起きても、誰にも家名は傷つけられなかった。
冷蔵庫の前で立ったまま豆腐を食べても、先祖に申し訳ない気持ちは少ししかなかった。
こちらでは、階段の降り方ひとつでロウリーの眉が動く。
眉が動くだけなのに、なぜか俺の背筋も伸びる。
ある朝、俺は廊下を少し早足で歩いた。
本当に少しだけだ。走ってはいない。走っていないつもりだった。
曲がり角の向こうで、侍女ネルが洗い立ての布を持っていた。俺は慌てて止まり、何も起きなかった。
布も落ちない。俺も転ばない。完全勝利である。
ロウリーが背後で静かに言った。
「若様」
「屋敷の中で急ぐ方は、急がねばならないと周囲へ示します」
急いだだけで理由が要るのか。
「グレイヴェル家の長男が理由なく急げば、使用人は何か不手際があったかと案じます」
俺は振り返った。
ネルが実際に少し青ざめていた。
「申し訳ありません」
俺が言うと、ネルは慌てて首を振った。
「若様がご無事でしたら」
無事です。
ただ、自由が少しずつ死んでいます。
その日の昼食は、根菜のスープ、薄く切った肉、濃い色のソース、それに小さなパンと温めた乳までついていた。
皿数は多い。スープの根菜はよく煮えているが、味は湯の向こうに少し逃げている。肉は少し硬く、ソースは色のわりに塩と胡椒が前に出るだけだった。
料理に文句を言うほど、俺はまだ贅沢ではない。
ただ、前世の記憶が舌の奥で何かをささやく。
もう少し酸味があれば。
もう少し香りに厚みがあれば。
いや、今はそれどころではない。
俺は匙を正しい角度で置くことに集中した。
食後、子供部屋でリディアが人形を並べていた。
彼女は俺よりずっと小さいのに、最近は言葉がよく出る。出すぎる。
人形たちは、なぜか家族と使用人に見立てられ、椅子の位置まで決められていた。
「お兄様、そこは父上のお席です」
「はい」
ままごとに付き合いながら、俺は小さな椅子をずらした。
リディアは満足そうにうなずく。
「お兄様は、将来逃げられませんものね」
人形の頭を整えながら、彼女は無邪気に言った。
刺さった。
どこで覚えた、その言い方。
たぶん母か侍女たちの会話だ。鋭い。
「リディア」
「はい」
「逃げるという言葉は、あまり上品ではない」
「では、避けられません?」
より正確になった。
俺は妹の教育の早さに少し震えた。
「そうだね。お兄様は、避けられないらしい」
「大変ですわ」
リディアは心から同情した顔をした。
そのあと、俺に人形の一つを渡した。
「でも、お兄様ならできます」
かわいい。
そして無邪気な期待が重い。
◇◇◇
夕方、父に書斎へ呼ばれた。
書斎は、紙と革表紙と乾いたインクの匂いがする部屋だった。
壁には本が並び、窓の外には暮れかけた庭と馬車道が見える。
机の上には手紙の束と、封蝋と、グレイヴェル家の紋章が彫られた印章が置かれていた。
父エドマンドは、その印章を指先で軽く触れていた。
「アーサー。近ごろ、授業はどうだ」
「難しいです、父上」
正直に言った。
父は少し笑った。
「難しいとわかるなら、進んでいる」
父は立ち上がり、窓のそばへ俺を呼んだ。
外では、使用人棟の灯りが一つずつ入り始めている。
厩のほうでは馬丁が扉を閉め、厨房の煙突から薄い煙が上がっていた。
庭師、洗濯係、料理人、馬丁、侍女、執事、家庭教師。
俺が普段名前を呼ぶ人も、まだ知らない人も、この屋敷で働いている。
「お前は、いずれこの家を見る」
また来た。
家を見る。
言葉は短いが、中身が広すぎる。
「屋敷の壁や銀器だけではない。ここで働く者、領地の村、古くからの借地人、親族、王都での評判。すべては少しずつつながっている」
父の声は低く、穏やかだった。
「お前が礼を欠けば、グレイヴェル家が礼を欠いたことになる。お前が軽く約束すれば、家が約束したことになる。お前がよく学べば、皆が安心する」
俺は窓の外を見た。
厨房の煙が夕暮れに混ざっていく。
あの煙の下では誰かが夕食を作り、別の誰かが皿を磨き、また別の誰かが火の番をしている。
俺が何もしなくても食事が出る。
それは、何もしなくても世界が優しいという意味ではない。
誰かがしているから出るのだ。
貴族は、単なる金持ちではない。
少なくとも、グレイヴェル家の長男は、豪華な椅子に座って菓子を食べていれば済む役ではないらしい。
固定費という言葉が頭をよぎったが、まだ父の帳簿を見たわけではない。
今の俺にわかるのは、もっと単純なことだった。
この家には、人が多い。
その人たちが、俺を見る。
そして、俺は逃げられない。
「わかるか?」
父が問う。
俺は少し考えた。
本当に実感しているかは怪しい。
だが、わかっていないと答えれば、たぶんありがたいお話が増える。
説明が増えると夕食が遠くなる。
「少しだけ、わかります」
父は満足そうにうなずいた。
「少しでよい。少しずつでよいのだ」
それはありがたい。
大きな革命ではなく、毎日ちょっと面倒なものを少しましにする。
まあ、相手が棚ではなく伯爵家なのは、規模を間違えている気がするが。
それでも、何とかなるだろう。
根拠はない。
◇◇◇
翌朝、雨は上がっていた。
子供部屋の窓から入る光は明るく、机の上のインク壺を黒く光らせている。
俺はいつものように椅子へ座り、羽根ペンを持った。
今日は、昨日より少しはましに線が引けるかもしれない。
姿勢も少しは保てるかもしれない。
礼儀も、紋章も、乗馬も、祈りの言葉も、全部少しずつなら何とかなる。
そう思ったところへ、扉が開いた。
ホイットリー先生が入ってきた。
その腕には本があった。
昨日の本より厚いものが三冊。
さらに、革紐でまとめられた薄い冊子が五冊。
ロウリーが後ろから、平然と追加の箱を運んでくる。
箱の中にも本があった。
「アーサー様」
先生はいつもどおり丁寧に一礼した。
「本日から、古典ヴァル語の読みを少し始めましょう。ヴァルティアの貴族にとって、古典の引用は礼儀であり、教養であり、時に身を守る盾でもあります」
俺は本の山を見た。
表紙には、昨日見た文字よりさらに古めかしい文字が並んでいる。
先生はにこやかに言った。
「まずは入口です」
入口。
この家には、入口ばかりある。
俺は小さく息を吸った。
魔法はなかった。
逃げ道もなかった。
そして古典ヴァル語は、あった。