【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第3話 貴族長男、自由がない

グレイヴェル館の子供部屋に、春の雨の匂いが薄く入り込んでいた。

窓の外では若葉が濡れ、芝生の端を庭師が静かに歩いている。

部屋の中央には子供用の机が置かれ、その上に昨日より少し厚い本と、羽根ペンと、インク壷があった。

 

正式な読み書きが始まる。

ホイットリー先生は昨日、そう穏やかに言った。

 

現実逃避がてら、あることを試すことにする。

俺は椅子に座る前に、机の横で両手をそっと前へ出した。

誰も見ていない。

クララは暖炉脇の布を整えている。ネルは窓の開き具合を確認している。マーサはリディアの部屋へ行っている。ロウリーは廊下の向こうだ。

 

今しかない。

 

異世界。

貴族。

幼少期。

 

この三つがそろったなら、普通は何かあるのではないか。

魔力を感じるとか、内なる炎が巡るとか、手のひらに光が集まるとか。

前世で読んだ物語では、だいたい幼少期に秘密の訓練をしていた。

大体気絶するまで魔力を使って、超回復してチートになるのだ。

 

俺は小さく息を吸った。

 

光れ。

 

手のひらは、ただの手のひらだった。

四歳児らしく丸く、爪はきれいに整えられ、朝の身支度で薄く香油を塗られている。

 

もう一度。

 

光れ。

 

何も起きない。

机の上の羽根ペンすら揺れない。

窓の外の雨粒のほうがよほど劇的に動いていた。

 

俺は両手を下ろし、深刻な顔をした。

まずい、俺に魔法チートの才能がない可能性がある。

いや、俺の才能がまだ眠っているだけかもしれない。

 

希望は大事だ。

 

その日の午後、俺は母セシリアの茶の時間に呼ばれた。

窓際の小さなテーブルには、蜂蜜色の紅茶と、薄く切った焼き菓子が置かれている。

焼き菓子は表面が淡く焦げ、バターとナッツの匂いがした。きちんとした匂いだが、どこか控えめだった。

俺は菓子を見た。母は俺を見た。

 

「アーサー」

 

「はい、母上」

 

「質問がある顔をしていますね。菓子の枚数についてでなければ聞きましょう」

 

見抜かれている。

俺は姿勢を直した。

 

「母上。魔力というものは、ございますか」

 

母の指が、茶器の取っ手で止まった。

ほんの一瞬だけ、部屋が静かになった。

 

やはり禁忌か。

秘密の血筋か。

グレイヴェル家に眠る古い力か。

 

母は、ふっと笑った。

 

「おとぎ話を読んだのね」

 

 

 

終わった。

 

 

 

「騎士が竜を倒し、湖の乙女が王へ剣を授け、聖者が病を払う。とても美しい話です。けれど、手紙の返事は魔力で書けませんし、晩餐会の席次も魔法では決まりません」

 

母は菓子を一枚、俺の皿へ置いた。

慰めだ。

礼儀正しい慰めだ。

 

「ですから、まずは文字と礼儀を覚えましょう」

 

俺は菓子を見つめた。

外側はさくりと軽く、中はほろりとして、噛むとナッツと蜂蜜の気配が口の奥で控えめに残る。

魔法はなかった。

しかし菓子は、魔法ほどではないが慰めにはなった。

 

◇◇◇

 

魔力訓練が失敗した代わりに、現実の訓練は順調に増えた。

 

朝は祈りの言葉から始まる。

聖書の短い節を読み、決まった文を唱え、姿勢を保ち、声を大きくしすぎず小さくしすぎず、最後の言葉で頭を下げる。頭を下げる角度にも種類がある。

次に朝食。

パンをちぎる大きさ、匙の置き方、温めた乳を飲む速さ、使用人へ礼を言う声の高さ。

それから読み書き。

ホイットリー先生は、穏やかな声で容赦なく線を引かせた。

 

「アーサー様、文字はご本人の姿勢を映します」

 

映さないでほしい。

俺の姿勢は四歳児である。

 

羽根ペンの先は思ったより柔らかく、力を入れるとすぐ紙に引っかかる。インクは乾くまで待たなければならない。待たずに触ると、指が黒くなり、紙の上に悲惨な影が広がる。

前世のボールペンは偉大だった。

あれは、世界を変えた発明の一つだと思う。俺は作れないが。

 

昼前には紋章の札と家系図の巻物が出てくる。

グレイヴェル家の紋章。親族の紋章。縁のある家の紋章。昔争った家、今は仲がいい家、表向き仲がいい家、仲がいいことにしておくべき家。

 

最後の分類が多すぎる。

 

「こちらのお家へお手紙を出すときは、季節の挨拶を少し長く」

 

ホイットリー先生は札を並べながら言う。

 

「なぜですか」

 

「先代同士の和解が、まだ浅いからです」

 

俺が生まれる前どころか、父が生まれる前の話らしい。

それでも手紙の一文が変わる。

貴族社会、記憶力が良すぎる。

 

午後は礼儀。

椅子から立つ。礼をする。部屋へ入る。部屋から出る。父に呼ばれたとき、母の客人に会ったとき、親族の夫人に菓子を勧められたとき。

菓子を勧められたときの作法は、とくに重要だ。

俺の心がそう言っている。

 

ロウリーは部屋の端で静かに見守り、俺の足の位置が半歩ずれると、何も言わず床を指す。

何も言わないのが逆に怖い。

 

「若様。お辞儀は、相手に敬意を示すものです」

 

「はい」

 

俺は顔を上げた。

首の後ろが疲れる。貴族の礼儀は、体幹に厳しい。

 

さらに週に何度かは厩へ連れて行かれた。

乗馬である。

 

厩の中は、乾いた藁と革と馬の体温の匂いで満ちていた。

外では蹄が石畳を叩き、馬丁が短く声をかけている。

小さな俺のために選ばれたポニーは、丸い目でこちらを見て、まったく感動していない顔をした。

 

俺は台を使って鞍に乗せられた。視界が高くなる。背中の下で生き物が息をする。

 

「背を伸ばして」

 

馬丁が言う。

 

「手綱を引きすぎず」

 

引きすぎれば嫌がる。緩めすぎれば草を食べようとするらしい。

 

俺は庭の周回路をゆっくり回った。

風は気持ちいい。

石壁の向こうから厨房の匂いが流れてくる。

昼食の肉を煮ているのだろう。

 

腹が減った。

 

その瞬間、小馬が道端の草へ首を伸ばした。

 

「若様、前を」

 

すみません。

俺も昼食を見ていました。

 

◇◇◇

 

二年ほど過ぎると、俺の一日はかなり整ってきた。

整ってきた、というのは良い意味だけではない。

 

朝起きる時刻が決まっている。

着る服が決まっている。

誰に先に挨拶するかが決まっている。

勉強の順番が決まっている。

散歩できる場所が決まっている。

疲れた顔をしていい相手と、してはいけない相手が決まっている。

 

前世の一人暮らしでは、休日の朝にいつ起きてもよかった。

昼に起きても、誰にも家名は傷つけられなかった。

冷蔵庫の前で立ったまま豆腐を食べても、先祖に申し訳ない気持ちは少ししかなかった。

 

こちらでは、階段の降り方ひとつでロウリーの眉が動く。

眉が動くだけなのに、なぜか俺の背筋も伸びる。

 

ある朝、俺は廊下を少し早足で歩いた。

本当に少しだけだ。走ってはいない。走っていないつもりだった。

 

曲がり角の向こうで、侍女ネルが洗い立ての布を持っていた。俺は慌てて止まり、何も起きなかった。

布も落ちない。俺も転ばない。完全勝利である。

 

ロウリーが背後で静かに言った。

 

「若様」

「屋敷の中で急ぐ方は、急がねばならないと周囲へ示します」

 

急いだだけで理由が要るのか。

 

「グレイヴェル家の長男が理由なく急げば、使用人は何か不手際があったかと案じます」

 

俺は振り返った。

ネルが実際に少し青ざめていた。

 

「申し訳ありません」

 

俺が言うと、ネルは慌てて首を振った。

 

「若様がご無事でしたら」

 

無事です。

ただ、自由が少しずつ死んでいます。

 

その日の昼食は、根菜のスープ、薄く切った肉、濃い色のソース、それに小さなパンと温めた乳までついていた。

皿数は多い。スープの根菜はよく煮えているが、味は湯の向こうに少し逃げている。肉は少し硬く、ソースは色のわりに塩と胡椒が前に出るだけだった。

料理に文句を言うほど、俺はまだ贅沢ではない。

ただ、前世の記憶が舌の奥で何かをささやく。

もう少し酸味があれば。

もう少し香りに厚みがあれば。

 

いや、今はそれどころではない。

俺は匙を正しい角度で置くことに集中した。

 

食後、子供部屋でリディアが人形を並べていた。

彼女は俺よりずっと小さいのに、最近は言葉がよく出る。出すぎる。

人形たちは、なぜか家族と使用人に見立てられ、椅子の位置まで決められていた。

 

「お兄様、そこは父上のお席です」

 

「はい」

 

ままごとに付き合いながら、俺は小さな椅子をずらした。

リディアは満足そうにうなずく。

 

「お兄様は、将来逃げられませんものね」

 

人形の頭を整えながら、彼女は無邪気に言った。

 

刺さった。

 

どこで覚えた、その言い方。

たぶん母か侍女たちの会話だ。鋭い。

 

「リディア」

 

「はい」

 

「逃げるという言葉は、あまり上品ではない」

 

「では、避けられません?」

 

より正確になった。

俺は妹の教育の早さに少し震えた。

 

「そうだね。お兄様は、避けられないらしい」

 

「大変ですわ」

 

リディアは心から同情した顔をした。

そのあと、俺に人形の一つを渡した。

 

「でも、お兄様ならできます」

 

かわいい。

そして無邪気な期待が重い。

 

◇◇◇

 

夕方、父に書斎へ呼ばれた。

 

書斎は、紙と革表紙と乾いたインクの匂いがする部屋だった。

壁には本が並び、窓の外には暮れかけた庭と馬車道が見える。

机の上には手紙の束と、封蝋と、グレイヴェル家の紋章が彫られた印章が置かれていた。

 

父エドマンドは、その印章を指先で軽く触れていた。

 

「アーサー。近ごろ、授業はどうだ」

 

「難しいです、父上」

 

正直に言った。

父は少し笑った。

 

「難しいとわかるなら、進んでいる」

 

父は立ち上がり、窓のそばへ俺を呼んだ。

外では、使用人棟の灯りが一つずつ入り始めている。

厩のほうでは馬丁が扉を閉め、厨房の煙突から薄い煙が上がっていた。

庭師、洗濯係、料理人、馬丁、侍女、執事、家庭教師。

俺が普段名前を呼ぶ人も、まだ知らない人も、この屋敷で働いている。

 

「お前は、いずれこの家を見る」

 

また来た。

家を見る。

言葉は短いが、中身が広すぎる。

 

「屋敷の壁や銀器だけではない。ここで働く者、領地の村、古くからの借地人、親族、王都での評判。すべては少しずつつながっている」

 

父の声は低く、穏やかだった。

 

「お前が礼を欠けば、グレイヴェル家が礼を欠いたことになる。お前が軽く約束すれば、家が約束したことになる。お前がよく学べば、皆が安心する」

 

俺は窓の外を見た。

厨房の煙が夕暮れに混ざっていく。

あの煙の下では誰かが夕食を作り、別の誰かが皿を磨き、また別の誰かが火の番をしている。

俺が何もしなくても食事が出る。

それは、何もしなくても世界が優しいという意味ではない。

誰かがしているから出るのだ。

 

貴族は、単なる金持ちではない。

少なくとも、グレイヴェル家の長男は、豪華な椅子に座って菓子を食べていれば済む役ではないらしい。

 

固定費という言葉が頭をよぎったが、まだ父の帳簿を見たわけではない。

今の俺にわかるのは、もっと単純なことだった。

 

この家には、人が多い。

その人たちが、俺を見る。

 

そして、俺は逃げられない。

 

「わかるか?」

 

父が問う。

 

俺は少し考えた。

本当に実感しているかは怪しい。

だが、わかっていないと答えれば、たぶんありがたいお話が増える。

説明が増えると夕食が遠くなる。

 

「少しだけ、わかります」

 

父は満足そうにうなずいた。

 

「少しでよい。少しずつでよいのだ」

 

それはありがたい。

大きな革命ではなく、毎日ちょっと面倒なものを少しましにする。

まあ、相手が棚ではなく伯爵家なのは、規模を間違えている気がするが。

 

それでも、何とかなるだろう。

 

根拠はない。

 

◇◇◇

 

翌朝、雨は上がっていた。

子供部屋の窓から入る光は明るく、机の上のインク壺を黒く光らせている。

俺はいつものように椅子へ座り、羽根ペンを持った。

 

今日は、昨日より少しはましに線が引けるかもしれない。

姿勢も少しは保てるかもしれない。

礼儀も、紋章も、乗馬も、祈りの言葉も、全部少しずつなら何とかなる。

 

そう思ったところへ、扉が開いた。

 

ホイットリー先生が入ってきた。

その腕には本があった。

昨日の本より厚いものが三冊。

さらに、革紐でまとめられた薄い冊子が五冊。

ロウリーが後ろから、平然と追加の箱を運んでくる。

 

箱の中にも本があった。

 

「アーサー様」

 

先生はいつもどおり丁寧に一礼した。

 

「本日から、古典ヴァル語の読みを少し始めましょう。ヴァルティアの貴族にとって、古典の引用は礼儀であり、教養であり、時に身を守る盾でもあります」

 

俺は本の山を見た。

表紙には、昨日見た文字よりさらに古めかしい文字が並んでいる。

 

先生はにこやかに言った。

 

「まずは入口です」

 

入口。

この家には、入口ばかりある。

 

俺は小さく息を吸った。

魔法はなかった。

逃げ道もなかった。

 

そして古典ヴァル語は、あった。

 

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