【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
グレイヴェル館の子供部屋には、湿った庭の匂いと乾いた革表紙の匂いが同時に満ちていた。
窓の外では、若葉に残った水滴が光っている。
机の上では、昨日ホイットリー先生が持ち込んだ古典ヴァル語の本が、こちらを威圧するように積まれていた。
本というものは、本来すばらしい。
知らないことを知るための道具だ。
しかし、分厚い革表紙が三冊、薄い注釈冊子が五冊、
さらにロウリーが平然と運んできた箱の中身まで本だった場合....
少なくとも四歳児の机に置くものではない。
「まずは短い祈りの一節から参りましょう」
ホイットリー先生は穏やかに言った。
声は穏やかだ。
内容は穏やかではない。
先生は黒板代わりの小さな板に、古めかしい文字を書いた。
今使われているヴァルティア語とは形が違う。
同じ単語のはずなのに場所によって姿を変える。
なんで単語に女性、男性、中性があり、それぞれ単語が変わるのか。それがわからない。
「こちらは主語の形です。こちらは所有を示します。こちらは祈りの文でよく用いられる古い形です」
「同じ言葉なのですか」
「同じ言葉です」
「同じ顔をしておりません」
先生は微笑んだ。
「古い友人にも、正装と普段着がございます」
うまいことを言われた。
しかし俺は、その古い友人とまだ友人になっていない。
羽根ペンを持つ。
紙に写す。
インクが乾くまで待つ。
待ちきれずに左手の端で触れ、黒い影を作る。
「アーサー様」
「申し訳ありません」
ロウリーが無言で新しい紙を差し出した。
その動きがあまりに滑らかで、俺が失敗することを先に読んでいたように見える。
有能な執事はありがたい。
ありがたいが、失敗予定表に入れられている気分になる。
◇◇◇
一方、俺は計算では困らなかった。
銀貨を何枚、銅貨を何枚、穀物の袋がいくつ、馬一頭の飼葉が一日どれだけ。
そういう問題は、むしろ心が落ち着く。算数万歳。
「十七袋を三台の荷車で運びます。一台に五袋ずつ積むと、残りは」
「二袋です」
「では、同じ重さに近づけるには」
「二台に六袋、一台に五袋です。ぬかるみなら、軽いほうが楽です」
言ってから、しまったと思った。
ホイットリー先生が少しだけ目を細めたからだ。
「道のぬかるみを考えましたか」
「ええと、馬が大変ですので」
それ以上は言えない。
前世で荷重だの運搬効率だのを見ていたから、とは言えない。
幼児がそんなことを言い出したら、魔法がない世界でも別の意味でおとぎ話になる。
先生は板に印をつけた。
「数字はよくおわかりになる。しかも、紙の上だけで終わらせない。大変よろしい」
褒められた。
俺は少し胸を張った。
「では、その荷車が通る道が、モードリー家の森を避けねばならない場合は」
胸が戻った。
「なぜ避けるのですか」
「先々代の時代、グレイヴェル家とモードリー家は境界の溝をめぐって争いました。現在は和解しておりますが、狩猟期の森を通る許可を求めるには、季節の挨拶と先代への敬意を先に書く必要があります」
「荷車を通すだけでは」
「荷車を通すだけで済ませると、相手は『グレイヴェルは森をただの道と見ている』と受け取るかもしれません」
ただの道ではないのか。
道は道だろう。
「身分ある方は、数字だけでなく、人の関係も大事です」
先生は、穏やかに言った。
「荷車より重いですね」
「ええ。ですから、軽く扱ってはいけません」
軽く皮肉を返したつもりだったのに、まじめな答えが返ってきた。
貴族教育、油断ならない。
◇◇◇
昼食は、子供用の小さな食堂で取った。
薄く焼いたパン、温めた乳、煮た麦、柔らかい根菜。
根菜は匙で押すとほろりと崩れ、湯気の中に土の甘さがあった。
麦は少し粘る。
今の食卓は、派手ではない。
だが、朝から古典ヴァル語に殴られた体には、温かいものがありがたい。
リディアは向かいに座り、小さな匙をきちんと持っていた。
彼女は俺より幼いのに、食べ方が妙に上品である。
兄としては誇らしい。
少しだけ悔しい。
「お兄様、今日は何をお勉強なさったの」
「古典ヴァル語だよ」
「古いご本?」
「そう。古くて、重くて、同じ言葉が何度も着替える」
リディアは首をかしげた。
「お言葉が着替えるの?」
「お兄様にもよくわからない」
正直に言うと、ネルが小さく笑った。
◇◇◇
食後、ホイットリー先生は子供部屋の卓に家系図の札を並べた。
リディアも一緒に学んでいる。
俺はその線を見て、またかと思い、頭が少し痛くなった。
「この方は、グレイヴェル家の遠縁でいらっしゃいます」
先生が札を指す。
「遠縁ですか」
「母方の叔母君のご婚家の、先代夫人の姉君の嫁ぎ先です」
遠い。
遠すぎる。
そこまで行くならもう他人でよくないか。
「では、この方にお会いしたときは」
「ええと、はじめまして」
先生の表情が一瞬だけ止まった。
リディアが、隣でぱっと顔を上げた。
「お兄様、それは違いますわ」
「違うのか」
「母上のお茶で聞きました」
リディアは札を指した。
「屋敷の絵の前で昔、父上にご挨拶した方です」
それから、少し考えて言った。
「だから、はじめまして、ではないと思います」
ホイットリー先生が、満足そうにうなずいた。
「リディア様、たいへんよく覚えておいでです」
リディアは嬉しそうに笑った。
俺は家系図の札を見た。
妹に負けた。
いや、妹が優秀なのは良いことだ。
兄として喜ぶべきである。
「お兄様」
リディアが心配そうに俺を見る。
「大丈夫ですか」
「大丈夫だよ」
「お顔が、古いご本みたいです」
どんな顔だ。
◇◇◇
夕方、父エドマンドが子供部屋に顔を出した。
窓の外では日が傾き、庭師の影が長く伸びている。
机の上には家系図の札がまだ広がっていた。
父は札を見て、少し笑った。
「今日は家系図か」
「はい、父上」
「どうだ」
どうだ、と聞かれても困る。
俺は正直に答えた。
「数字より難しいです」
父は声を立てずに笑った。
「お前は数字より人間を覚えねばならん」
「人間を、ですか」
「ああ。数字は間違いを直せる。だが、人の誇りを踏めば、直すのに何年もかかることがある」
父は札の一枚を取った。
古い侯爵家の名が書かれている。
「この家を褒めるとき、言い方を誤れば、別の家を暗に下げることになる。ある家の古さを褒めれば、新しく爵位を得た家は笑われたと感じるかもしれない。ある家の豊かさを褒めれば、古いが苦しい家には嫌味になる」
「何も褒められないのでは」
「だから学ぶのだ」
父はあっさり言った。
逃げ道がない。
ホイットリー先生は穏やかに補足した。
「古典の引用も同じです。よい引用は敬意になります。誤った引用は、相手に教養の不足を示すだけでなく、家の教育を疑わせます」
古典ヴァル語が盾になる、と先生は昨日言った。
どうやら盾は、持ち方を間違えると自分の足に落ちるらしい。
父は俺の机の上を見た。
インクで少し汚れた紙。
計算の板。
家系図の札。
古典ヴァル語の写し。
「よく学んでいる」
「まだ入口ばかりです」
「入口を粗末にすると、奥へ入ったとき迷う」
父は俺の頭に軽く手を置いた。
その手は温かく、重くはない。
だが、言葉のほうが重かった。
「今日はここまでにしなさい。夕食前に少し歩くといい」
ありがたい。
俺は椅子から立った。
リディアはまだ札を見ている。
「リディア、終わらないのか」
「あと少しだけ。こちらのお家とこちらのお家、名前が似ていて間違えそうなの」
妹よ。
頼もしい。
そして兄を置いていかないでほしい。
◇◇◇
その翌日から、俺の勉強は少し性質を変えた。
古典ヴァル語を読む。
聖書の短い一節を写す。
詩の決まった節を暗唱する。
その詩がどの家の晩餐で好まれ、どの家の前では避けたほうがいいかを聞く。
食事の前の祈りに出てくる言葉が、古典ヴァル語の形でなぜそうなるのか。
紋章の獅子が右を向くか左を向くかで、どの婚姻の影響があるのか。
情報量が多すぎる。
しかも、どれも「知らなくても生きていけるが、知らないと恥をかく」類のものだった。
だが貴族は、恥でもかなり痛むらしい。
俺は計算の時間だけが心の休憩になった。
銀貨が十二枚。
銅貨が四十八枚。
麦袋が二十。
馬車が四台。
美しい。
数字は親切だ。
少なくとも、銀貨十二枚は昨日の叔母君の嫁ぎ先の機嫌で十三枚にはならない。
いや、機嫌しだいで十三枚必要になるかもしれない...。
ある午後、授業が早く終わった。
ホイットリー先生は父に呼ばれ、ロウリーも来客の準備で廊下の向こうへ消えた。
クララはリディアの部屋へ行き、ネルは洗い立ての布を運んでいる。
子供部屋の扉が、ほんの少し開いたままだった。
俺は机の上の古典ヴァル語を見た。
本は静かにしている。
静かにしているが、開けば襲ってくる。
少しだけ休憩しよう。
散歩である。
逃亡ではない。
貴族的には、屋敷内の移動には理由が必要らしいので、理由は「歩くと頭が働く」でいいだろう。
俺は廊下を静かに歩いた。
早足ではない。
ロウリーの眉を動かさない速度である。
グレイヴェル館の廊下の壁には、先祖の肖像画が並んでいる。
窓から入る光が、赤い絨毯の模様を細く照らす。
遠くで銀器を磨く音がした。
厨房のほうからは、夕食の下ごしらえらしい匂いが流れてきた。
腹が鳴りそうになった。
いけない。
俺は目的地を変えた。
厨房に向かうと危険である。
廊下の角を曲がると、父の書斎の扉が見えた。
扉は少し開いていた。
中から声はしない。
父は来客の応接室へ行っているのだろう。
書斎。
紙。
本。
父の仕事。
俺は立ち止まった。
入ってはいけない、とまでは言われていない。
子供というものには好奇心がある、ということにしよう。
少しだけ。
見るだけ。
触らない。
俺は扉を押した。
書斎は、昼の光の中でも落ち着いた匂いがした。
革表紙、乾いた紙、封蝋、古い木の机。
窓辺には父の大きな机があり、その上に手紙の束と封筒、羽根ペン、砂入れが置かれている。
壁には本が並び、下段には大きな帳面が何冊も横に積まれていた。
帳面。
俺は吸い寄せられた。
古典ヴァル語の本より、はるかに現実的な匂いがする。
背表紙には、年号と月、そして「館費」「厩」「衣装」「ルディオン滞在」「給金」といった言葉が書かれていた。
給金。
馬。
服。
滞在費。
俺は息を止めた。
これは家の数字だ。
一冊を開いた。
触らないという約束は、一瞬で解雇された。
紙面には、整った文字で支出が並んでいた。
使用人の給金。
厨房の食材。
薪。
石炭。
馬の飼葉。
鞍や車輪の修理。
屋根の補修。
銀器の手入れ。
母の茶会に使う菓子と花。
ルディオンでの滞在費。
仕立屋への支払い。
父の封蝋と紙。
家庭教師への謝礼。
俺は目を通した。
数字は読める。
意味も、だいたいわかる。
そして、数字が多い。
伯爵家。
金持ち。
豪華な屋敷。
俺はそう思っていた。
いや、間違ってはいない。
屋敷は広い。
食事は出る。
服は良い。
銀器は光っている。
だが、それらは全部、維持費を食う。
何もしなくても、金が出ていく。
息をしているだけで固定費が走る。
固定費。
グレイヴェル家は、豪華な家ではなく、巨大な固定費を抱えた家だった。
俺は次のページをめくった。
領地からの収入。
小作料。
羊毛。
穀物。
林の権利。
駅までの運搬費。
収入はある。
あるが、思ったより伸びていない。
天候の悪い年には減る。
道が傷めば運ぶ費用が増える。
王都ルディオンでの社交季が長くなれば、滞在費が増える。
貴族なら働かなくても食える。
その考えは、幼児の俺には甘い夢だった。
現実は違う。
この家は働いている。
父も母も、ロウリーも、料理人も、馬丁も、庭師も、洗濯係も、誰もが動いている。
それでも帳簿の数字は、静かに圧をかけてくる。
「アーサー」
背後から父の声がした。
俺は帳面を閉じかけて、失敗した。
紙がぱさりと鳴る。
完全に見つかった。
父エドマンドは扉のところに立っていた。
怒鳴らなかった。
それが逆に怖い。
「父上」
「それは、授業の本ではないな」
「はい」
俺は姿勢を正した。
逃げる方法を考えた。
ない。
妹が言った通り、将来どころか今も逃げられない。
「申し訳ありません。勝手に入りました」
父はゆっくり机へ近づいた。
俺の前にある帳面を見た。
それから、俺を見た。
「どこまで読んだ」
「給金、厩、ルディオン滞在費、領地収入のところまでです」
「四歳児の答えではないな」
まずい。
「数字だけ、見ました」
父は椅子に座り、しばらく黙った。
怒られると思った。
だが父は、帳面を俺のほうへ少し押した。
「どう見えた」
どう見えた。
俺は慎重に言葉を選んだ。
古典ヴァル語の引用より難しい。
「屋敷は、立っているだけでお金がかかります」
父の口元が、ほんの少し動いた。
「続けなさい」
「人が、たくさんいます」
父は少し首を傾けた。
「人?」
「はい。お給金があって、馬にもお金が要ります。服も、ルディオンも、お茶も」
俺は帳面の端を指した。
言葉にすると、ひどく頼りない。
頭の中では、毎月止まらない費用の列が見えている。
だが、四歳児の口で「固定費です」と言うわけにはいかない。
「でも、領地のお金は、雨が多いと変わります」
言えたのは、そのくらいだった。
しかし父は、怒らなかった。
むしろ、少し困ったように笑った。
「ホイットリー先生が、お前は数字がよく見えると言っていた。どうやら、帳面の端も少し見えたらしい」
「申し訳ありません」
「勝手に入ったことは、よくない」
「はい」
「だが、見たものを忘れろとは言わない」
父は帳面のページを開いた。
そこには、母の茶会に関する支出が並んでいる。
花、菓子、紅茶、招待状、馬車の手配。
「これは無駄に見えるか」
俺は数字を見た。
金額だけ見れば、少なくない。
菓子と花でこれだけかかるのか、と思う。
だが、これまでに母から学んだことがある。
貴族社会では、手紙の一文も、菓子の皿も、家名の一部だ。
「いらない、とは言えません」
父は少し眉を上げた。
「なぜだ」
「母上のお茶は、ご挨拶のためです」
「菓子と花もか」
「はい。きれいにしないと、失礼になります」
「そうだ」
父の声は穏やかだった。
「伝統や礼儀は、金を使う。だが、使わねば失うものもある。評判、信用、縁、安心。帳簿には数字だけが載るが、数字の外にあるものも家を支えている」
数字の外。
俺は帳面を見た。
節約は正義、というほど単純ではない。
まだ、わからない。
ただ、わかったことが一つある。
俺の「楽に暮らす」は、俺一人の問題ではない。
この家には、人が多い。
そして帳簿の中にも、その人たちの暮らしがある。
「父上」
「何だ」
「少しだけ、楽にできますか」
父は俺を見た。
その目は、少し驚いていた。
それから、やわらかく細められた。
「何をだ」
「この家のお金です。みんなが困らないように」
「できることもある。できないこともある。急いで変えれば、家はきしむ」
「はい」
「お前は、まず学びなさい。数字だけでなく、人間を。古典を。礼儀を。帳簿を読むなら、帳簿に載らないものも読む必要がある」
結局、勉強が増えた。
俺は内心で天を仰いだ。
神よ。
魔法はないのに、課題は無限に増える。
◇◇◇
その日の夕食は、焼いた鶏と根菜、麦の付け合わせだった。
鶏の皮はところどころ香ばしく、肉は少しぱさつくが、肉自体がうまい。
俺は皿を見た。
料理が出る。
それは当たり前ではない。
厨房で誰かが火を見て、誰かが肉を切り、誰かが皿を温め、誰かが運ぶ。
そしてその人たちの給金は、あの帳面の中にある。
食後、子供部屋へ戻ると、机の上に古典ヴァル語の本が置かれていた。
逃げ場はない。
しかも父は、帰り際に新しい紙束を一つ置いていった。
「古い帳簿の写しだ。数字の読み方の練習に使いなさい」
ホイットリー先生は、それを見て満足そうにうなずいた。
「数字と古典を交互に学べば、頭も疲れにくいでしょう」
リディアは家系図の札を抱え、にこにこしている。
「お兄様、明日はご一緒に覚えましょうね」
かわいい。
かわいいが、負け戦の予感がする。
俺は椅子に座った。
机には、古典ヴァル語の本。
家系図の札。
帳簿の写し。
羽根ペン。
インク壺。
貴族教育の入口は、また一つ増えた。
少しずつ。
父はそう言った。
少しずつなら、たぶん何とかなる。
根拠は薄い。
だが、根拠がない楽天性は、今のところ俺の数少ない持ち物である。
俺は羽根ペンを持ち、古典ヴァル語の一行を写した。
インクが乾くまで、今度はちゃんと待った。