【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第5話 現代技術チート、駅で死ぬ

翌朝のグレイヴェル館の子供部屋には、乾いた紙と少し古いインクの匂いがあった。

机の上には、古典ヴァル語の本、家系図の札、そして父から渡された古い帳簿の写しが並んでいる。

 

俺は羽根ペンを持ち、写しの一行を眺めた。

麦の収入。

羊毛の売上。

馬の飼葉。

車輪の修理。

駅までの運搬費。

 

数字は読める。

 

この家の金を増やしたい。いっぱい増やしたい。

そう思ったとき、俺の頭に最初に浮かんだのは、かなり雑な発想だった。

 

蒸気機関である。

 

異世界。

貴族。

古い屋敷。

馬車。

羽根ペン。

暖炉。

古典語。

 

これだけそろえば前世で読んだ物語なら、そろそろ主人公が何かを作って世界を驚かせるころだ。

魔法はなかった。

では技術だ。

 

水を熱する。

湯気が出る。

圧力でピストンを押す。

押されたものが棒を動かし、棒が車輪を回す。

産業革命によって飛躍的に人類を進歩させた動力源だ。

 

とても簡単に言えば、蒸気機関はそんな仕組みだ。

前世で見た図や写真の外側なら、俺にも描ける。

 

ただ少し問題があり、外側だけ知っていても機械は動かないことだ。

 

俺は羽根ペンの先で紙の端に、横長の筒を描いた。

上に煙突。

下に火を入れる場所。

横に大きな車輪。

車輪へつながる棒。

 

悪くない。

外から見える蒸気機関らしきものにはなっている。

 

しかし、

ボイラー。

圧力。

弁。

ピストン。

外から見えない具体的な作り方がわからない。

どれくらいの厚さの金属が必要なのか。

どこをどう密閉するのか。

圧力が逃げる道をどう作れば、便利な力と爆発の境目を越えずに済むのか。

 

そこが白紙だった。

 

前世の俺は、技術系の会社員だった。

だが、蒸気機関の設計者ではない。

 

それでも、まぁ何とかなるだろう。

 

外側と大まかな仕組みはわかる。

内側はわからない。

なら、小さく作り、失敗し、直し、また試せばいい。

 

鍛冶師や職人に相談し、父に頼んで少しずつ試す。

最初から大きな機械を作らなければ、何とかなるのではないか。

 

根拠は薄い。

だが、この屋敷と馬車と羽根ペンの世界で、

俺より先にそんなことを思いつく人間がいるとも思っていなかった。

 

蒸気の力なら、水車には勝つはずだ。

水車は川が要る。

雨や季節や水量に縛られる。

だが蒸気なら、水と燃やすものがあれば、場所を選ばず動かせる。

 

すばらしい。

革命である。

いや、急に革命すると父の眉が動きそうなので、伯爵家長男としては「穏やかな改善」と呼ぶべきだろう。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

小さく始める。

試して直す。

それなら、たぶん一番先に作れる。

 

そのときの俺は、本気でそう思っていた。

 

「アーサー様」

 

ロウリーの声がした。

 

俺は反射的に紙を伏せた。

遅い。

ロウリーの目は、すでに紙の端を見ていた。

 

「本日のご予定でございます」

 

彼は何も言わず、きれいな声で続けた。

有能な執事は、若様の小さな煙突つきの絵を見ても顔を変えない。

それは優しさなのか、訓練なのか。

 

「午前はホイットリー先生の授業。午後は旦那様が、若様を駅までお連れになるとのことです」

 

「駅ですか」

 

俺は顔を上げた。

 

帳簿にあった言葉だ。

駅までの運搬費。

 

前世の感覚では駅といえば鉄道だが、この屋敷の空気を見ていると、街道沿いの馬車駅か、荷の積み替え場のようなものに思える。

馬を替え、人を休ませ、荷を置く場所。

それなら、運搬費がかかるのもわかる。

 

「父上と」

 

「はい。領地から届いた羊毛の荷について、旦那様が駅の帳場へ確認に行かれます」

 

帳場。

荷。

駅。

 

これは現場である。

 

俺は少しだけ胸が鳴った。

古典ヴァル語と家系図から離れ、実物を見る機会だ。

紙の上の数字が、道と荷車と人の動きになる。

 

「行きます」

 

「ご支度は授業後でございます」

 

古典ヴァル語からの逃げ道はないらしい。

 

◇◇◇

 

午前の授業は、いつもより長く感じた。

 

古典ヴァル語の一節を写し、詩の引用を読み、家系図の札を並べる。

ホイットリー先生は、俺の視線が何度か窓へ逃げたことに気づいていた。

 

「本日はお出かけがあるそうですね」

 

「はい」

 

「では、外で見るものも授業の一部です」

 

先生は穏やかに言った。

良いことを言っている。

 

午後、俺は外出用の服を着せられた。

柔らかい上着、磨かれた小さな靴、首元の布。

ロウリーは襟の位置を整え、ネルは袖のしわを直した。

 

「駅では、旦那様のおそばを離れませんように」

 

「はい」

 

「荷車、人足、馬が多うございます」

 

「危ないのですね」

 

「はい。にぎやかでございます」

 

玄関前に馬車が用意されていた。

父エドマンドはすでに立っていて、手袋をはめている。

穏やかな顔だが、外出用の上着を着ると、家の中で見る父より少しだけ伯爵らしい。

 

「アーサー、駅を見たいか」

 

「はい、父上」

 

「帳簿に載る数字は、屋敷の中だけでは動かん。道と、荷と、人を見るといい」

 

馬車が動き出すと、グレイヴェル館の石壁と庭が後ろへ流れた。

車輪が敷石を叩き、やがて土の道へ出る。

窓の外には畑と生け垣、低い石垣、遠くの林が見えた。

 

雨上がりの道はところどころ柔らかく、車輪の跡に水がたまっている。

馬の蹄が湿った音を立てた。

荷車とすれ違うたび、御者が短く声をかける。

 

荷車には麻袋が積まれ、別の荷車には木箱が並んでいた。

箱には札がついているものも、ないものもある。

札の字は遠くて読めない。

ただ、風で揺れて、今にも外れそうなものが一つ見えた。

 

「父上」

 

「何だ」

 

「札が取れたら、どうなりますか」

 

父は窓の外を見た。

 

「荷の持ち主を確かめるのに手間がかかる。間違って別の荷に混じれば、もっと手間がかかる」

 

「困ります」

 

「困るな」

 

父は短く答えた。

だが、その声には少し笑みがあった。

 

「よく見ている」

 

褒められた。

俺は少しだけ背を伸ばした。

 

◇◇◇

 

駅は、俺の想像より大きかった。

 

石造りの低い建物があり、その前に馬車と荷車が列を作っている。

人足たちが木箱を担ぎ、麻袋を肩に乗せ、駅舎の横の広い屋根つきの場所へ運び込んでいた。

馬の匂い、濡れた藁の匂い、人の汗、油。

それらが混ざって、屋敷の廊下にはない重い空気を作っている。

 

俺は馬車を降り、父のそばに立った。

ロウリーは少し後ろに控えた。

 

音が多い。

 

車輪。

蹄。

人の声。

鐘。

紙をめくる音。

木箱を床へ置く鈍い音。

 

帳簿の一行だった「駅までの運搬費」が、急に生々しくなった。

 

俺は駅舎を見た。

馬車駅にしては立派だ。

屋根の向こうに、まっすぐ伸びる鉄の線が見える。

 

鉄の線。

 

 

 

ん?俺はまばたきをした。

 

 

 

そのとき、遠くで低い音がした。

地面の下から腹に響くような音だ。

次に、甲高い汽笛が空を裂いた。

 

白い蒸気が屋根の向こうに立ちのぼる。

黒い煙がゆっくり流れる。

 

そして、鉄の線の上を、黒い塊が近づいてきた。

 

 

 

蒸気機関車だった。

 

 

 

黒い胴体。

前へ伸びる煙突。

回る大きな車輪。

油に濡れた金属。

白い蒸気。

石炭の匂い。

 

それは、堂々と走っていた。

 

機関車は速度を落とし、金属の音を響かせてホームへ入った。

車輪がきしむ。

蒸気が吹き出す。

熱い息のような白い雲が、駅の屋根の下へ広がった。

 

俺は無言になった。

 

父が横で、少し楽しそうに言った。

 

「鉄道を見るのは初めてか」

 

「……はい」

 

声が小さくなった。

四歳児として正しい反応である。

 

中身の成人男性としては、いま心の中で蒸気機関チートの葬式をしている。

 

参列者は俺一人。

香典はなし。

喪主も俺。

 

安らかに眠れ、蒸気機関チート。

お前は生まれる前から、この世界で元気に走っていた。

 

俺は機関車を見上げた。

水を熱して動く。

それは合っていた。

合っていたが、合っているだけでは何の役にも立たない。

 

目の前の機関車には、俺が知らない職人の手、技師の知識が全部乗っている。

外側を描けることと、最初に作れることは別だった。

試行錯誤すれば先に行けると思っていた俺は、かなり調子に乗っていた。

 

「父上」

 

「何だ」

 

「大きいです」

 

言えたのは、それだけだった。

 

父はうなずいた。

 

「大きいな。だが、大きいものほど、動かすには多くの人がいる」

 

父の言葉は、いつも通り短い。

そして、逃げ道がない。

 

◇◇◇

 

父は駅の帳場へ向かった。

俺はロウリーと一緒に、その近くで待つことになった。

 

帳場には木の台があり、男たちが紙束を見ながら荷の番号を読み上げている。

別の男が羽根ペンで書きつける。

人足が木箱を運ぶ。

誰かが「羊毛三箱」と叫び、別の誰かが「それは西側の屋根下だ」と返す。

 

しかし、すべてがきれいに流れているわけではなかった。

 

同じような麻袋が、二つの荷車の間で置き直される。

木箱の札が裏返っていて、係の男が箱を回して読もうとする。

別の荷は、札の紐が切れかけていた。

小さな箱の山の前で、人足がどちらを先に運ぶか言い合っている。

 

荷は多い。

人も多い。

声も多い。

 

だが、どの荷がどこへ行くのか、一目でわかるようには見えなかった。

 

「ロウリー」

 

「はい、若様」

 

「みんな、覚えているのですか」

 

「帳場の者たちは、よく覚えております」

 

俺は駅の屋根下を見た。

木箱。

麻袋。

樽。

荷札。

泥。

水たまり。

黒い石炭の粉。

 

床に線はない。

置き場所を分ける札はあるが、小さくて人の背に隠れる。

同じ大きさの箱が違う行き先に積まれている。

 

札を丈夫にする。

行き先ごとに置き場を分ける。

濡れない場所を決める。

重いものを下にする。

先に出す荷を手前に置く。

帳場の紙と荷札の番号を合わせる。

 

思いつくことは、どれも世界を変える発明ではない。

ただ、荷を探す時間は少し減るかもしれない。

間違いも少し減るかもしれない。

人が無駄に怒鳴る回数も、もしかすると少し減る。

 

少し。

父が書斎で言った言葉が、頭の中で戻ってきた。

少しずつなら、たぶん何とかなる。

 

父が帳場から戻ってきた。

手には紙が一枚ある。

 

「待たせたな」

 

「いいえ」

 

俺は駅の屋根下を見たまま答えた。

父は俺の視線を追った。

 

「機関車が気になるか」

 

「はい」

 

それは本当だ。

黒い機関車は、まだ熱を吐きながらそこにいる。

男たちが石炭を運び、別の男が車輪のあたりを確かめている。

かっこいい。

悔しいくらい、かっこいい。

 

「荷も多いです」

 

父は少し眉を上げた。

 

「荷か」

 

「札が、見えにくいです」

 

俺は短く言った。

これ以上長く話すと、四歳児の口を超える。

 

父は屋根下を見た。

しばらく黙った。

 

「確かに、混んでいるな」

 

「間違えそうです」

 

「駅とはそういうものだと思っていたが」

 

父は静かに言った。

それから、俺を見た。

 

「お前には、違って見えるか」

 

俺は少し考えた。

違う、と言えば偉そうだ。

同じ、と言えば嘘になる。

 

「少しだけ、迷子みたいです」

 

父は声を立てずに笑った。

 

「荷が迷子か」

 

「はい」

 

「よい見方だ」

 

父は紙を折りたたんだ。

 

「だが、駅はグレイヴェル家だけのものではない。勝手に変えることはできん」

 

「はい」

 

わかっている。

いや、今わかった。

でも、見ることはできる。

困っているところを覚えることはできる。

 

父は俺の頭に軽く手を置いた。

 

「まずは、よく見なさい」

 

「はい」

 

その言葉は、古典ヴァル語より少しだけわかりやすかった。

 

◇◇◇

 

帰りの馬車で、俺は窓の外を見ていた。

遠くで駅の煙がまだ空に残っている。

黒い煙は雲に溶け、やがて見えなくなった。

 

蒸気機関チートは死んだ。

これは確定である。

 

魔法もない。

蒸気機関も既にある。

鉄道も既にある。

工場も、たぶんどこかにある。

この世界は、俺が思っていたよりずっと進んでいる。

 

では、俺には何があるのか。

 

万能の設計図はない。

世界を一気に変える発明もない。

屋敷の中を勝手に変える権限も、駅を動かす力もない。

 

ただ、荷札が外れそうなことには気づけた。

袋が雨に濡れそうなことにも気づけた。

人が多いと荷が迷うことにも気づけた。

 

それは小さい。

小さいものなら、俺にも見える。

 

馬車が屋敷へ戻るころ、腹が鳴った。

駅の石炭の匂いと、荷の匂いと、人の声でいっぱいだった頭に、急に空腹が戻ってきた。

夕食は何だろう。

 

そう考えた瞬間、少し安心した。

蒸気機関を最初に作る夢は死んだ。

鉄道で一番乗りする夢も死んだ。

 

その時はっとした。

しかし、食卓なら。

皿の上なら。

今より少し楽しくする余地が、もしかするとあるかもしれない。

 

もちろん、それも簡単ではないだろう。

この家の食事にも、伝統とこだわりがあるかもしれない。

でも、もっとうまい飯で飯テロができるかもしれない。

 

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