【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第7話 料理長の城へ侵入する

俺は執事ロウリーに止められていた。

 

「厨房は、若様のお散歩先ではございません」

 

その言葉だけは柔らかい。

 

「少しだけ」

 

「旦那様のお許しは、料理長へ失礼なくお尋ねになるためのお許しでございます。厨房へ勝手にお入りになる許可ではございません」

 

正論である。

 

俺は廊下の奥を見た。

厨房の扉の向こうでは、水が桶へ落ちる音、金属をこする音、短い返事、誰かが薪を動かす低い音が続いている。

晩餐は終わった。

だが厨房の仕事は終わっていない。

 

「ロウリー」

 

「はい」

 

「料理長に、聞いてください」

 

「何をでございますか」

 

「お肉の汁のことです」

 

ロウリーは一度だけ目を伏せた。

笑ったのか、困ったのか、判断しにくい顔だった。

 

「承知いたしました。こちらでお待ちください」

 

ロウリーが扉の方へ進む。

俺は一歩だけついていきかけ、すぐに止まった。

廊下の石床に足をそろえる。

待つ。

四歳児にとって、待つという行為は大仕事である。

退屈は大敵だ。

 

扉が少し開いた。

中から、熱い空気が押し出される。

脂と湯気と焦げた肉の端の匂い。

それから石鹸の匂い。

鍋底をこすった金属の匂い。

 

ロウリーが中で何かを告げる声がした。

すぐに、低い声が返った。

 

「今ですか」

 

たぶんハロルド料理長だ。

声だけで、眉が太そうだとわかる。

いや、前に見たことはある。

眉は実際に太い。

 

扉が大きく開いた。

 

ハロルド料理長は、白い前掛けの上に腕を組んで立っていた。

背は父ほど高くないが、肩が広い。

袖をまくった腕には、人間の厚みがある。

その後ろでは、料理人たちが皿を運び、鍋を洗い、明日のために肉を包んでいる。

銅鍋が壁に並び、火床には赤い炭が残り、作業台の上には布巾、皮をむいた根菜、束ねた香草、油の壺が置かれていた。

 

「アーサー様」

 

ハロルドは深く頭を下げた。

礼は正しい。

だが顔は、今すぐお帰りくださいと言っている。

 

「こんばんは」

 

「夜分に厨房までお運びいただく場所ではございません」

 

第一声から防壁が高い。

 

ロウリーが静かに言った。

 

「旦那様より、失礼なく尋ねるならば話を聞いてよいとのお言葉です」

 

「話を聞く場所なら、明日の昼にでも小部屋を用意いたします」

 

ハロルドの返事は速かった。

現場を乱されたくない人間の、正しい反応である。

 

「今がいいです」

 

俺は言った。

言ってから、少し子供らしすぎるわがままに聞こえたと気づいた。

でも、明日の小部屋で話したら、それは料理の話ではなく、お行儀の良い面談になってしまう。

肉汁の匂いも、鍋の熱も、洗い場の音もない場所で、料理の話はしにくい。

 

ハロルドの眉が動いた。

 

「厨房は若様の遊び場ではございません」

 

「知っています」

 

「火がございます。刃物がございます。湯も脂もございます。床には水が落ちます。大人でも怪我をする場所でございます」

 

まったくその通りだった。

ここで転ぶ四歳児(貴族の長男)など、現場からすれば悪夢だ。

 

「触りません」

 

「それでも、お入りになるだけで皆が若様を気にいたします。手順が乱れます」

 

ハロルドは俺ではなく、厨房全体を見ている。

皿を運ぶ料理人、湯を替える下働き、油の壺を片づける少年。

この人は父の好みだけでなく、この城の人間も守っている。

 

俺は少し頭を下げた。

 

「邪魔しません。聞きたいだけです」

 

「何をでございますか」

 

「お肉の汁を、逃がさないこと」

 

ハロルドの眉が、もう一度動いた。

 

「肉汁でございますか」

 

「はい。あと、すっぱい味。脂。こげたところ。うまいところ」

 

四歳児の口から出せる言葉は短い。

だが、俺の頭の中では皿が勝手に組み立っていた。

焼いた肉の底に残る汁。

脂の甘さ。

焦げ目の香り。

そこに少し酸味があれば、重さが切れて、肉がもう一口ほしくなる。

根菜の甘みも、水の向こうへ逃げずに皿の上へ戻せるかもしれない。

 

「うまいところ、でございますか」

 

ハロルドは低く繰り返した。

料理人の顔になった。

追い返す顔ではなく、言葉の中身を測る顔だ。

 

「お肉はおいしいです」

 

「恐れ入ります」

 

「でも、汁が皿にさみしいです」

 

厨房の奥で、誰かが鍋をこする手を止めた。

ハロルドがそちらを一瞥する。

音がまた始まる。

 

「旦那様は、澄んだ味をお好みです」

 

「はい」

 

「グレイヴェル家の晩餐は、古く誠実な皿をよしとしてまいりました」

 

「はい」

 

「それを若様の思いつきで変えろと」

 

「少しだけ」

 

我ながら便利な言葉だ。

だが、この世界で俺ができることはだいたい少しだけである。

大発明で世界をひっくり返すのは、駅で黒い機関車に轢かれて死んだ。

 

ハロルドは俺を見下ろした。

 

「若様は、どこでそのようなことを」

 

きた。

答えにくい質問第一位である。

 

「本で読みました」

 

雑。

自分でも雑すぎると思う。

 

ハロルドの目が細くなった。

 

「どの本でございますか」

 

「古い本です」

 

「古い本には、肉汁をさみしいとは書いておりますまい」

 

「たぶん」

 

「たぶん」

 

ハロルドが繰り返す。

ロウリーが横で、ごくわずかに息を整えた。

笑いをこらえたのかもしれない。

 

俺は厨房の中を見た。

作業台の端に、皮をむいたじゃがいもがいくつか置かれている。

明日の仕込みだろうか。

薄い黄色の肌が、灯火の下で少し湿って光っていた。

 

「一つだけ」

 

「何をでございますか」

 

「小さいものを作ってみたいです」

 

ハロルドの顔が、完全に険しくなった。

 

「若様」

 

声が少し大きい。

俺は慌てて唇の前に指を立てた。

 

「しーっ」

 

ハロルドの目が丸くなった。

俺はさらに慌てた。

 

「みんなに言うと、食いしん坊って言われます」

 

ロウリーが俺の肩の後ろで、静かに咳払いをした。

厨房の奥で誰かが鍋を落としかけた音がした。

 

ハロルドはしばらく俺を見ていた。

それから、深く息を吐いた。

 

「若様が食いしん坊かどうかは、厨房では重要ではございません」

 

「重要です」

 

「重要ではございません」

 

小声の言い合いになった。

料理長の城に入る最初の戦いが、食いしん坊認定をめぐる攻防になるとは思わなかった。

人生は計画通りにいかない。

 

ハロルドは腕を組み直した。

 

「一度だけでございます」

 

俺は顔を上げた。

 

「いいのですか」

 

「ただし、若様は火にも刃物にも近づかない。触るものは私が決めます。料理人の手を止めることはいたしません。試すものは晩餐へ出しません。旦那様へ隠し事にもいたしません」

 

条件が多い。

しかし現場の条件とは、たいてい命綱である。

 

「はい」

 

「ロウリー殿」

 

「ここに」

 

「若様が一歩でも火床へ近づかれたら、お連れ戻しください」

 

「承知いたしました」

 

俺の自由は始まる前から見張り付きだった。

貴族長男、厨房でも自由がない。

 

ハロルドは作業台の端へ俺を案内した。

床には水が散っている場所と乾いた場所があり、料理人たちはそこを無意識に避けて動いている。

薪の火は赤く、油の入った小鍋はまだ使われていない。

壁の刃物は磨かれていて、灯りを細く返していた。

 

「それで、何を作るおつもりで」

 

「じゃがいもを、薄く切って」

 

「はい」

 

「脂で、かりっと」

 

「揚げるのですか」

 

「はい」

 

ハロルドは少し考えた。

 

「珍しいことではございません。芋を脂で焼くことはあります」

 

「もっと薄く」

 

「どれほど」

 

俺は指で幅を示そうとした。

四歳児の指は小さい。

説得力がない。

 

「紙みたいに」

 

「紙」

 

ハロルドはじゃがいもを一つ取り、まな板へ置いた。

 

「若様、ご自分でどのようにお切りになるおつもりですか」

 

俺は固まった。

前世で見た動画では、じゃがいもは当然のように薄く切られていた。

包丁かスライサーか、何かしらの道具で、さくさくと。

しかしここにはスライサーがない。

俺には包丁の技術もない。

そもそも四歳児に大きな刃物を握らせる料理長がいたら、その料理長の方が危険である。

 

「ええと」

 

ハロルドは俺を見た。

厳しいが、勝ち誇った顔ではない。

できることとできないことを確認する顔だ。

 

「小さな食事用のナイフをお持ちします。刃は弱いものです。ロウリー殿、近くに」

 

ロウリーが俺の横に立った。

ハロルドはじゃがいもを半分に切り、平らな面を下にして、小さなナイフを俺の手元へ置いた。

 

「押さえる手を出しすぎない。ゆっくり。切れなければ、そこでおしまいです」

 

俺はうなずいた。

そして挑戦した。

 

結果は、見事な芋の欠片だった。

 

薄切りではない。

欠片である。

一つは厚すぎ、一つは斜めに割れ、一つは皮だけが妙に残った。

紙どころか、小さな板だ。

 

「……むずかしいです」

 

「でしょうな」

 

ハロルドは当たり前のように言った。

その言い方に嫌味はなかった。

ただ、厨房の仕事を知っている人間の事実だった。

 

「お願いします」

 

俺はナイフを置いた。

 

「偉そうに言いました」

 

「お気づきで何よりでございます」

 

ロウリーがまた咳払いをした。

たぶん今度は本当に笑いを隠している。

 

ハロルドは大きな包丁を手に取った。

その瞬間、空気が変わった。

先ほどまで俺の相手をしていた頑固な料理長ではなく、仕事中の職人になる。

じゃがいもが左手の下で安定し、刃が落ちる。

とん、とん、とん。

音は速すぎず、迷いがない。

薄い切り身がまな板の上へ重なっていく。

 

俺の知識は「薄く切る」だった。

ハロルドの手は、それを本当に薄くした。

 

「それを水にさらして、そのあと水気を拭いてください」

 

「それはなぜ?」

 

「えーっと本では、そのほうが軽くおいしくなると...」

 

言っていてだいぶ怪しいが、ハロルドはその通りにしてくれた。

ハロルドは薄い芋を水へ落とし、白く濁った水を替え、布の上へ広げた。

料理人の一人がちらちら見ている。

ハロルドが視線だけで追い払い、その料理人は慌てて鍋洗いへ戻った。

 

小鍋に脂が入る。

羊の脂だけでは重いと判断したのか、ハロルドは別の壺から軽い油を少し足した。

火床の上に置き、しばらく待つ。

 

ハロルドは芋を一枚だけ脂へ落とした。

小さな泡が立つ。

じゅ、と音がした。

俺の腹が、夕食後なのに反応した。

 

「近づかない」

 

ハロルドとロウリーが同時に言った。

 

「はい」

 

俺は半歩下がった。

 

薄い芋が、脂の中で少しずつ色を変える。

白っぽかった端が、淡い金色になる。

泡が細かくなり、音が軽くなる。

ハロルドは木の匙でそっと返した。

 

「まだです」

 

俺は何も言っていない。

だが、俺の顔が言っていたらしい。

 

やがてハロルドは芋を引き上げ、布の上へ置いた。

 

「塩をほんの少し振ってください」

 

「冷めるまで少し待ちます」

 

待つ。

また待つ。

料理とは、待つことが多い。

四歳児にも中身の成人男性にもつらい。

 

ハロルドは芋の端をつまみ、皿に置いた。

 

「一枚だけでございます」

 

俺は指先で取った。

まだ温かい。

口へ入れる。

 

かりっ。

 

音がした。

 

じゃがいもの香りが、脂と塩で急に立ち上がった。

薄い。

軽い。

外側は砕けるのに、中にほんの少し芋の甘さが残っている。

夕食の根菜は水の向こうへ甘みが逃げていた。

これは逆だ。

薄い一枚の中へ、甘みが閉じ込められている。

 

「……おいしい」

 

俺は小さく言った。

小さく言ったのに、声が跳ねた。

 

ハロルドも一枚つまんだ。

最初は料理長らしく、確かめるように噛む。

次に、眉が少し上がった。

 

「これは」

 

「かりかりです」

 

「それは聞けばわかります」

 

ハロルドはもう一枚を見た。

彼はすぐ食べなかった。

塩の量、色、厚み、脂の切れ方を目で追っている。

 

「厚さが揃えば、もっとよくなります。脂は重すぎるとくどい。揚げたあとに置く布も乾いたものが必要です」

 

「はい」

 

「ただ、これは晩餐の皿ではございません」

 

「だめですか」

 

「伯爵家の晩餐に、芋の薄揚げだけを並べるわけにはまいりません」

 

それはそうだ。

いきなり父の前にこれを山盛りで出したら、家の伝統どころか食卓の品位が危ない。

俺の胃袋は喜ぶが、母の社交界センサーが警報を鳴らす。

 

ハロルドは少し考え、棚から硬いチーズを取った。

小さな刃で、ごく薄く削る。

それを温かい芋の上へ、雪のように落とした。

 

「香りを見るだけでございます」

 

もう一枚。

俺は口に入れた。

 

今度は、塩と脂の上に、チーズの香りが乗った。

少しだけ強い。

だが芋の軽さがそれを受け止める。

噛むと薄い破片が舌の上で砕け、あとから乳のうまみが残る。

 

俺は思わず、その場で小さく跳ねた。

 

「若様」

 

ロウリーが注意する。

 

「すみません」

 

でもこれは跳ねる。

四歳児の体は、うまいものを食べると正直に動く。

 

ハロルドも食べた。

彼は跳ねなかった。

料理長だからである。

だが目だけが、ほんの少しだけ楽しそうになった。

 

「……悪くございません」

 

「悪くない、ですか」

 

「悪くございません」

 

料理人の「悪くない」は、たぶんかなり良い。

少なくとも俺はそう信じたい。

 

「これならば、旦那様と客人の晩酌にお出しできる」

 

ハロルドはそう言い、残りの芋を見た。

それから、作業台の上にあった小さな帳面を開いた。

厨房の仕込みや数を記す帳面だろう。

彼は短く書きつけた。

 

「芋、薄切り。水洗い。布でよく拭く。軽い油を混ぜる。火は強すぎぬこと。塩は揚げたあと」

 

俺はその手元を見た。

 

「書くのですか」

 

「同じものを作れなければ、ただの偶然でございます」

 

胸の奥で、何かがすとんと落ちた。

知識を言うのは俺でも、料理にするのはハロルドだ。

そして、もう一度作れるようにするのもハロルドだ。

俺の頭の中の雑な未来記憶より、この帳面の短い一行の方が、厨房ではずっと強い。

 

「料理長」

 

「はい」

 

「すごいです」

 

ハロルドは一瞬、変な顔をした。

褒められ慣れていないのではなく、四歳児から真正面に言われるのに慣れていない顔だった。

 

「若様のご発想も、少々妙でございます」

 

「少々ですか」

 

「かなり、でございます」

 

訂正が速い。

 

俺は小さく笑った。

ハロルドの口元も、ほんの少し動いた。

 

「これは、何とお呼びに」

 

「チップス」

 

俺は即答した。

本来だとクリスプスのほうがいいのかもしれないが、

口なじみのいいチップスが出た。

 

「チップス」

 

ハロルドは帳面にその名を書いた。

字は太く、まっすぐだった。

 

「試作名として残します」

 

試作名。

その響きだけで、俺の心は少し浮いた。

駅で死んだ現代技術チートの墓前に、小さな芋の花が供えられた気分である。

いや、墓前に芋はどうか。

でもうまい。

 

ハロルドは帳面を閉じた。

 

「若様」

 

「はい」

 

「本日のことは、旦那様へは私からもご報告いたします。厨房で何を試し、何を食べたか、隠すことはいたしません」

 

「はい」

 

「そして次からは、必ず事前にお知らせください。厨房は城でございます。城には門があり、門番がおります」

 

「料理長が王様ですか」

 

「いいえ」

 

ハロルドは真顔で答えた。

 

「私は料理長です。王より忙しいことはございますが」

 

ロウリーが今度こそ小さく笑った。

 

ハロルドは気づかないふりをして、火床の炭を整えた。

赤い光が少し沈み、油の小鍋は横へ下げられる。

厨房の者たちは片づけを続けている。

俺が来る前と同じように、しかしどこか空気が少しだけ違う。

作業台の端には、金色の薄い芋が数枚だけ残っている。

 

「肉汁の話は」

 

俺は尋ねた。

 

ハロルドは俺を見る。

 

「明日ではございません」

 

「あさって?」

 

「まず、若様が厨房の約束を守れるかを見ます」

 

厳しい。

だが、理不尽ではない。

 

「それから、肉汁と酸味の話を聞きましょう。聞くだけでございます。作るかどうかは、私が決めます」

 

「はい」

 

俺はうなずいた。

 

ここからだ。

俺の知っていることは、まだふわふわした記憶でしかない。

酸味、脂、焦げ目、甘み、うまいところ。

それを皿にするには、ハロルドの手と、厨房の段取りと、火の音が必要になる。

 

ロウリーが俺の背後に立った。

 

「アーサー様、そろそろお戻りを」

 

「はい」

 

俺は扉の前で、もう一度厨房を見た。

火。

湯気。

刃物。

帳面。

洗われた皿。

そして、まだ誰にも出されていない、小さなチップス。

 

料理長の城へ侵入した俺は、城を落としたわけではない。

門のところで、一枚だけ芋を食べさせてもらっただけだ。

 

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