【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
俺は執事ロウリーに止められていた。
「厨房は、若様のお散歩先ではございません」
その言葉だけは柔らかい。
「少しだけ」
「旦那様のお許しは、料理長へ失礼なくお尋ねになるためのお許しでございます。厨房へ勝手にお入りになる許可ではございません」
正論である。
俺は廊下の奥を見た。
厨房の扉の向こうでは、水が桶へ落ちる音、金属をこする音、短い返事、誰かが薪を動かす低い音が続いている。
晩餐は終わった。
だが厨房の仕事は終わっていない。
「ロウリー」
「はい」
「料理長に、聞いてください」
「何をでございますか」
「お肉の汁のことです」
ロウリーは一度だけ目を伏せた。
笑ったのか、困ったのか、判断しにくい顔だった。
「承知いたしました。こちらでお待ちください」
ロウリーが扉の方へ進む。
俺は一歩だけついていきかけ、すぐに止まった。
廊下の石床に足をそろえる。
待つ。
四歳児にとって、待つという行為は大仕事である。
退屈は大敵だ。
扉が少し開いた。
中から、熱い空気が押し出される。
脂と湯気と焦げた肉の端の匂い。
それから石鹸の匂い。
鍋底をこすった金属の匂い。
ロウリーが中で何かを告げる声がした。
すぐに、低い声が返った。
「今ですか」
たぶんハロルド料理長だ。
声だけで、眉が太そうだとわかる。
いや、前に見たことはある。
眉は実際に太い。
扉が大きく開いた。
ハロルド料理長は、白い前掛けの上に腕を組んで立っていた。
背は父ほど高くないが、肩が広い。
袖をまくった腕には、人間の厚みがある。
その後ろでは、料理人たちが皿を運び、鍋を洗い、明日のために肉を包んでいる。
銅鍋が壁に並び、火床には赤い炭が残り、作業台の上には布巾、皮をむいた根菜、束ねた香草、油の壺が置かれていた。
「アーサー様」
ハロルドは深く頭を下げた。
礼は正しい。
だが顔は、今すぐお帰りくださいと言っている。
「こんばんは」
「夜分に厨房までお運びいただく場所ではございません」
第一声から防壁が高い。
ロウリーが静かに言った。
「旦那様より、失礼なく尋ねるならば話を聞いてよいとのお言葉です」
「話を聞く場所なら、明日の昼にでも小部屋を用意いたします」
ハロルドの返事は速かった。
現場を乱されたくない人間の、正しい反応である。
「今がいいです」
俺は言った。
言ってから、少し子供らしすぎるわがままに聞こえたと気づいた。
でも、明日の小部屋で話したら、それは料理の話ではなく、お行儀の良い面談になってしまう。
肉汁の匂いも、鍋の熱も、洗い場の音もない場所で、料理の話はしにくい。
ハロルドの眉が動いた。
「厨房は若様の遊び場ではございません」
「知っています」
「火がございます。刃物がございます。湯も脂もございます。床には水が落ちます。大人でも怪我をする場所でございます」
まったくその通りだった。
ここで転ぶ四歳児(貴族の長男)など、現場からすれば悪夢だ。
「触りません」
「それでも、お入りになるだけで皆が若様を気にいたします。手順が乱れます」
ハロルドは俺ではなく、厨房全体を見ている。
皿を運ぶ料理人、湯を替える下働き、油の壺を片づける少年。
この人は父の好みだけでなく、この城の人間も守っている。
俺は少し頭を下げた。
「邪魔しません。聞きたいだけです」
「何をでございますか」
「お肉の汁を、逃がさないこと」
ハロルドの眉が、もう一度動いた。
「肉汁でございますか」
「はい。あと、すっぱい味。脂。こげたところ。うまいところ」
四歳児の口から出せる言葉は短い。
だが、俺の頭の中では皿が勝手に組み立っていた。
焼いた肉の底に残る汁。
脂の甘さ。
焦げ目の香り。
そこに少し酸味があれば、重さが切れて、肉がもう一口ほしくなる。
根菜の甘みも、水の向こうへ逃げずに皿の上へ戻せるかもしれない。
「うまいところ、でございますか」
ハロルドは低く繰り返した。
料理人の顔になった。
追い返す顔ではなく、言葉の中身を測る顔だ。
「お肉はおいしいです」
「恐れ入ります」
「でも、汁が皿にさみしいです」
厨房の奥で、誰かが鍋をこする手を止めた。
ハロルドがそちらを一瞥する。
音がまた始まる。
「旦那様は、澄んだ味をお好みです」
「はい」
「グレイヴェル家の晩餐は、古く誠実な皿をよしとしてまいりました」
「はい」
「それを若様の思いつきで変えろと」
「少しだけ」
我ながら便利な言葉だ。
だが、この世界で俺ができることはだいたい少しだけである。
大発明で世界をひっくり返すのは、駅で黒い機関車に轢かれて死んだ。
ハロルドは俺を見下ろした。
「若様は、どこでそのようなことを」
きた。
答えにくい質問第一位である。
「本で読みました」
雑。
自分でも雑すぎると思う。
ハロルドの目が細くなった。
「どの本でございますか」
「古い本です」
「古い本には、肉汁をさみしいとは書いておりますまい」
「たぶん」
「たぶん」
ハロルドが繰り返す。
ロウリーが横で、ごくわずかに息を整えた。
笑いをこらえたのかもしれない。
俺は厨房の中を見た。
作業台の端に、皮をむいたじゃがいもがいくつか置かれている。
明日の仕込みだろうか。
薄い黄色の肌が、灯火の下で少し湿って光っていた。
「一つだけ」
「何をでございますか」
「小さいものを作ってみたいです」
ハロルドの顔が、完全に険しくなった。
「若様」
声が少し大きい。
俺は慌てて唇の前に指を立てた。
「しーっ」
ハロルドの目が丸くなった。
俺はさらに慌てた。
「みんなに言うと、食いしん坊って言われます」
ロウリーが俺の肩の後ろで、静かに咳払いをした。
厨房の奥で誰かが鍋を落としかけた音がした。
ハロルドはしばらく俺を見ていた。
それから、深く息を吐いた。
「若様が食いしん坊かどうかは、厨房では重要ではございません」
「重要です」
「重要ではございません」
小声の言い合いになった。
料理長の城に入る最初の戦いが、食いしん坊認定をめぐる攻防になるとは思わなかった。
人生は計画通りにいかない。
ハロルドは腕を組み直した。
「一度だけでございます」
俺は顔を上げた。
「いいのですか」
「ただし、若様は火にも刃物にも近づかない。触るものは私が決めます。料理人の手を止めることはいたしません。試すものは晩餐へ出しません。旦那様へ隠し事にもいたしません」
条件が多い。
しかし現場の条件とは、たいてい命綱である。
「はい」
「ロウリー殿」
「ここに」
「若様が一歩でも火床へ近づかれたら、お連れ戻しください」
「承知いたしました」
俺の自由は始まる前から見張り付きだった。
貴族長男、厨房でも自由がない。
ハロルドは作業台の端へ俺を案内した。
床には水が散っている場所と乾いた場所があり、料理人たちはそこを無意識に避けて動いている。
薪の火は赤く、油の入った小鍋はまだ使われていない。
壁の刃物は磨かれていて、灯りを細く返していた。
「それで、何を作るおつもりで」
「じゃがいもを、薄く切って」
「はい」
「脂で、かりっと」
「揚げるのですか」
「はい」
ハロルドは少し考えた。
「珍しいことではございません。芋を脂で焼くことはあります」
「もっと薄く」
「どれほど」
俺は指で幅を示そうとした。
四歳児の指は小さい。
説得力がない。
「紙みたいに」
「紙」
ハロルドはじゃがいもを一つ取り、まな板へ置いた。
「若様、ご自分でどのようにお切りになるおつもりですか」
俺は固まった。
前世で見た動画では、じゃがいもは当然のように薄く切られていた。
包丁かスライサーか、何かしらの道具で、さくさくと。
しかしここにはスライサーがない。
俺には包丁の技術もない。
そもそも四歳児に大きな刃物を握らせる料理長がいたら、その料理長の方が危険である。
「ええと」
ハロルドは俺を見た。
厳しいが、勝ち誇った顔ではない。
できることとできないことを確認する顔だ。
「小さな食事用のナイフをお持ちします。刃は弱いものです。ロウリー殿、近くに」
ロウリーが俺の横に立った。
ハロルドはじゃがいもを半分に切り、平らな面を下にして、小さなナイフを俺の手元へ置いた。
「押さえる手を出しすぎない。ゆっくり。切れなければ、そこでおしまいです」
俺はうなずいた。
そして挑戦した。
結果は、見事な芋の欠片だった。
薄切りではない。
欠片である。
一つは厚すぎ、一つは斜めに割れ、一つは皮だけが妙に残った。
紙どころか、小さな板だ。
「……むずかしいです」
「でしょうな」
ハロルドは当たり前のように言った。
その言い方に嫌味はなかった。
ただ、厨房の仕事を知っている人間の事実だった。
「お願いします」
俺はナイフを置いた。
「偉そうに言いました」
「お気づきで何よりでございます」
ロウリーがまた咳払いをした。
たぶん今度は本当に笑いを隠している。
ハロルドは大きな包丁を手に取った。
その瞬間、空気が変わった。
先ほどまで俺の相手をしていた頑固な料理長ではなく、仕事中の職人になる。
じゃがいもが左手の下で安定し、刃が落ちる。
とん、とん、とん。
音は速すぎず、迷いがない。
薄い切り身がまな板の上へ重なっていく。
俺の知識は「薄く切る」だった。
ハロルドの手は、それを本当に薄くした。
「それを水にさらして、そのあと水気を拭いてください」
「それはなぜ?」
「えーっと本では、そのほうが軽くおいしくなると...」
言っていてだいぶ怪しいが、ハロルドはその通りにしてくれた。
ハロルドは薄い芋を水へ落とし、白く濁った水を替え、布の上へ広げた。
料理人の一人がちらちら見ている。
ハロルドが視線だけで追い払い、その料理人は慌てて鍋洗いへ戻った。
小鍋に脂が入る。
羊の脂だけでは重いと判断したのか、ハロルドは別の壺から軽い油を少し足した。
火床の上に置き、しばらく待つ。
ハロルドは芋を一枚だけ脂へ落とした。
小さな泡が立つ。
じゅ、と音がした。
俺の腹が、夕食後なのに反応した。
「近づかない」
ハロルドとロウリーが同時に言った。
「はい」
俺は半歩下がった。
薄い芋が、脂の中で少しずつ色を変える。
白っぽかった端が、淡い金色になる。
泡が細かくなり、音が軽くなる。
ハロルドは木の匙でそっと返した。
「まだです」
俺は何も言っていない。
だが、俺の顔が言っていたらしい。
やがてハロルドは芋を引き上げ、布の上へ置いた。
「塩をほんの少し振ってください」
「冷めるまで少し待ちます」
待つ。
また待つ。
料理とは、待つことが多い。
四歳児にも中身の成人男性にもつらい。
ハロルドは芋の端をつまみ、皿に置いた。
「一枚だけでございます」
俺は指先で取った。
まだ温かい。
口へ入れる。
かりっ。
音がした。
じゃがいもの香りが、脂と塩で急に立ち上がった。
薄い。
軽い。
外側は砕けるのに、中にほんの少し芋の甘さが残っている。
夕食の根菜は水の向こうへ甘みが逃げていた。
これは逆だ。
薄い一枚の中へ、甘みが閉じ込められている。
「……おいしい」
俺は小さく言った。
小さく言ったのに、声が跳ねた。
ハロルドも一枚つまんだ。
最初は料理長らしく、確かめるように噛む。
次に、眉が少し上がった。
「これは」
「かりかりです」
「それは聞けばわかります」
ハロルドはもう一枚を見た。
彼はすぐ食べなかった。
塩の量、色、厚み、脂の切れ方を目で追っている。
「厚さが揃えば、もっとよくなります。脂は重すぎるとくどい。揚げたあとに置く布も乾いたものが必要です」
「はい」
「ただ、これは晩餐の皿ではございません」
「だめですか」
「伯爵家の晩餐に、芋の薄揚げだけを並べるわけにはまいりません」
それはそうだ。
いきなり父の前にこれを山盛りで出したら、家の伝統どころか食卓の品位が危ない。
俺の胃袋は喜ぶが、母の社交界センサーが警報を鳴らす。
ハロルドは少し考え、棚から硬いチーズを取った。
小さな刃で、ごく薄く削る。
それを温かい芋の上へ、雪のように落とした。
「香りを見るだけでございます」
もう一枚。
俺は口に入れた。
今度は、塩と脂の上に、チーズの香りが乗った。
少しだけ強い。
だが芋の軽さがそれを受け止める。
噛むと薄い破片が舌の上で砕け、あとから乳のうまみが残る。
俺は思わず、その場で小さく跳ねた。
「若様」
ロウリーが注意する。
「すみません」
でもこれは跳ねる。
四歳児の体は、うまいものを食べると正直に動く。
ハロルドも食べた。
彼は跳ねなかった。
料理長だからである。
だが目だけが、ほんの少しだけ楽しそうになった。
「……悪くございません」
「悪くない、ですか」
「悪くございません」
料理人の「悪くない」は、たぶんかなり良い。
少なくとも俺はそう信じたい。
「これならば、旦那様と客人の晩酌にお出しできる」
ハロルドはそう言い、残りの芋を見た。
それから、作業台の上にあった小さな帳面を開いた。
厨房の仕込みや数を記す帳面だろう。
彼は短く書きつけた。
「芋、薄切り。水洗い。布でよく拭く。軽い油を混ぜる。火は強すぎぬこと。塩は揚げたあと」
俺はその手元を見た。
「書くのですか」
「同じものを作れなければ、ただの偶然でございます」
胸の奥で、何かがすとんと落ちた。
知識を言うのは俺でも、料理にするのはハロルドだ。
そして、もう一度作れるようにするのもハロルドだ。
俺の頭の中の雑な未来記憶より、この帳面の短い一行の方が、厨房ではずっと強い。
「料理長」
「はい」
「すごいです」
ハロルドは一瞬、変な顔をした。
褒められ慣れていないのではなく、四歳児から真正面に言われるのに慣れていない顔だった。
「若様のご発想も、少々妙でございます」
「少々ですか」
「かなり、でございます」
訂正が速い。
俺は小さく笑った。
ハロルドの口元も、ほんの少し動いた。
「これは、何とお呼びに」
「チップス」
俺は即答した。
本来だとクリスプスのほうがいいのかもしれないが、
口なじみのいいチップスが出た。
「チップス」
ハロルドは帳面にその名を書いた。
字は太く、まっすぐだった。
「試作名として残します」
試作名。
その響きだけで、俺の心は少し浮いた。
駅で死んだ現代技術チートの墓前に、小さな芋の花が供えられた気分である。
いや、墓前に芋はどうか。
でもうまい。
ハロルドは帳面を閉じた。
「若様」
「はい」
「本日のことは、旦那様へは私からもご報告いたします。厨房で何を試し、何を食べたか、隠すことはいたしません」
「はい」
「そして次からは、必ず事前にお知らせください。厨房は城でございます。城には門があり、門番がおります」
「料理長が王様ですか」
「いいえ」
ハロルドは真顔で答えた。
「私は料理長です。王より忙しいことはございますが」
ロウリーが今度こそ小さく笑った。
ハロルドは気づかないふりをして、火床の炭を整えた。
赤い光が少し沈み、油の小鍋は横へ下げられる。
厨房の者たちは片づけを続けている。
俺が来る前と同じように、しかしどこか空気が少しだけ違う。
作業台の端には、金色の薄い芋が数枚だけ残っている。
「肉汁の話は」
俺は尋ねた。
ハロルドは俺を見る。
「明日ではございません」
「あさって?」
「まず、若様が厨房の約束を守れるかを見ます」
厳しい。
だが、理不尽ではない。
「それから、肉汁と酸味の話を聞きましょう。聞くだけでございます。作るかどうかは、私が決めます」
「はい」
俺はうなずいた。
ここからだ。
俺の知っていることは、まだふわふわした記憶でしかない。
酸味、脂、焦げ目、甘み、うまいところ。
それを皿にするには、ハロルドの手と、厨房の段取りと、火の音が必要になる。
ロウリーが俺の背後に立った。
「アーサー様、そろそろお戻りを」
「はい」
俺は扉の前で、もう一度厨房を見た。
火。
湯気。
刃物。
帳面。
洗われた皿。
そして、まだ誰にも出されていない、小さなチップス。
料理長の城へ侵入した俺は、城を落としたわけではない。
門のところで、一枚だけ芋を食べさせてもらっただけだ。