【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
ハロルド料理長は、すぐには肉汁の話をさせてくれなかった。
「まず、若様が厨房の約束を守れるかを見ます」
そう言われてから二日、俺は厨房の扉の前で立ち止まり、勝手に入らず、ロウリーを呼び、料理長の都合を聞いてもらった。
四歳児としては、かなりの自制である。
中身の成人男性としても、
三日目の昼前、ようやくハロルドは作業台の端を空けた。
厨房では、昼食の片づけと夕食の仕込みが重なっている。
水の音、包丁の音、炉の奥で薪がパチパチとはぜる音がした。
壁際の小鍋には、濃い色の葡萄酒が少しだけ注がれている。
作業台の上には、小さな籠に入った黒赤いベリーと、塩、胡椒、黄色いバターの塊があった。
「聞くだけ、でございましたな」
ハロルドが言った。
「はい」
「作るかどうかは、私が決めます」
「はい」
俺はうなずいた。
ロウリーは少し後ろに立っている。
今日も、俺が火床へ一歩近づけば回収される係である。
「それで、肉汁と酸味とは」
ハロルドの声は低い。
前より追い返す気配は薄いが、まだ完全に乗っているわけではない。
料理長は、城門を開けても城を明け渡す気はない。
「お肉に、すっぱい甘いものを少し」
「果物を、肉にでございますか」
眉が動いた。
予想通りである。
「少しだけ」
「若様の少しだけは、なんだか事件を起こしそうですな」
もう信用がない。
チップス一回で、俺の扱いが少し固まってしまったらしい。
「鴨に、ベリーと葡萄酒」
俺は短く言った。
本当は、狩猟肉に酸味のあるベリーソースを合わせる料理は、前世で何度か見たことがある。
ちゃんとした店で食べた記憶はないが、動画で誰かが作っていた気がする。
脳内は完璧だ。実践はしたことがない!
ハロルドは、作業台の上のベリーを見た。
「果物は菓子か、砂糖煮か、朝のパンに添えるものでございます」
「はい」
「鴨は今夜の晩餐に使います。奥様の客人もおいでです」
「はい」
「そこへ、若様の思いつきで甘い汁をかけるわけにはまいりません」
正しい。
母の客人がいる晩餐で、俺の前世記憶ごちゃ混ぜソースを初投入したら、大事故が起こるだろう。
「試すだけ」
「試すだけなら、小鍋一つでございます」
ハロルドはそう言った。
顔は渋い。
だが、小鍋はもう用意されている。
この人は渋い顔をしながら、手は早い。ツンデレかもしれない。
「ベリーはどのように」
「つぶして、葡萄酒と、煮ます」
「どれほど」
俺は固まった。
どれほど。
料理で一番困る言葉である。
前世の俺は、動画の中の「少々」と「適量」を信じて痛い目を見たことがある。
少々とは何か。
適量とは?
「ええと、つやが出るくらい」
「つや」
ハロルドは、あまり信じていない顔でベリーを数粒つぶした。
小鍋に入れる。
赤い汁が底に広がる。
葡萄酒を少し注ぐと、果実の酸っぱい匂いに、酒の重い匂いが混ざった。
火床の端へ置く。
すぐに小さな泡が立った。
じゅうじゅうではない。
くつ、くつ、と静かな音だ。
赤い汁が鍋肌で濃くなっていく。
「砂糖は」
「まず、なしで」
俺は言った。
酸味で脂を切る。
そういう言葉だけは頭にある。
ハロルドは木の匙で小さくすくい、冷ましてから俺の前へ出した。
「一口だけでございます」
俺はなめた。
……………顔が、口が、勝手に縮んだ。
酸っぱい。
かなり酸っぱい。
ベリーの青い酸味と、葡萄酒の渋みが手を組んで、四歳児の舌を正面から攻めてくる。
肉の脂を切るどころではない。
脂が来る前に、舌が降伏する。
「……すっぱいです」
「そのようで」
ハロルドも少しなめた。
眉が寄る。
彼は料理長なので顔を縮めない。
だが、目が正直だった。
「これは鴨に勝ちすぎます」
「はい」
一回目、敗北。
ハロルドは帳面を開いた。
「ベリー多し。葡萄酒の渋み強し。甘みなし。肉へ合わせるには酸が立ちすぎる」
短い。
だが、負けてもくじけない。
試作の失敗は、上手くいかないことが一つ分かっただけだ。
帳面に残ると、次の一手になる。
「では、甘く」
俺は言った。
「どれほど」
また来た。
「少し」
ハロルドの目が細くなった。
「若様」
「ほんの少し」
「ほんの少しとは」
俺は小さな匙を見た。
砂糖壺を見た。
ベリーを見た。
「その匙で、一つ」
「それは多い」
即答だった。
「半分」
「試しましょう」
ハロルドは新しい小鍋にベリーを入れ、葡萄酒を控えめにし、砂糖を匙半分だけ足した。
さっきより匂いが柔らかい。
甘い湯気が立ち、ベリーの角が丸くなっていく。
俺は期待した。
人間は一度失敗すると、反対側へ走る。
酸っぱすぎたなら甘くすればいい。
とてもわかりやすい。
わかりやすい道は、だいたい落とし穴がある。
二回目のソースは、見た目だけなら一回目よりずっと良かった。
赤く、つやがあり、匙からゆっくり落ちる。
ハロルドは冷まして、今度は俺だけでなくロウリーにも見せた。
「これは若様の味見だけでは判断できません」
「私でございますか」
ロウリーは静かに聞き返した。
「大人の舌は後ほど私が見ます。子供、つまりリディア様がどう感じるかも知りたい」
なぜかリディアが呼ばれた。
正確には、昼の裁縫練習を終えて廊下を通ったところを、ロウリーが母へ確認し、ほんの少しだけ厨房の前の小部屋へ案内した。
厨房そのものには入れない。
ハロルドの城門は、妹にも厳しい。
「お兄様、食いしん坊のご用ですの?」
リディアは小声で言った。
「家のためです」
「お兄様がそう言う時は、少し食いしん坊です」
妹の観察眼はあまりに鋭く、将来が怖い。
ハロルドは小皿に、冷ましたソースをほんの少しだけ置いた。
パンの端でなめる程度である。
「お嬢様、甘いか、酸っぱいかだけお聞かせください」
リディアは真剣にうなずいた。
パンの端をちょんとつける。
口へ入れる。
目が少し明るくなった。
「お菓子みたい」
ハロルドが俺を見た。
俺は目をそらした。
「お肉に、合いそうですか」
ハロルドが尋ねる。
リディアは少し考えた。
「パンがいいです」
二回目、敗北。
甘いソースとしては勝った。
肉のソースとしては負けた。
リディアは母の侍女に連れられて戻っていった。
去り際に「お兄様、今度は本当にお菓子を作ってくださいね」と言った。
妹よ。
兄は今、肉の皿で苦戦している。
戦線を増やさないでほしい。
ハロルドは二回目の結果も帳面に書いた。
「砂糖、強し。ベリーは菓子寄り。鴨には軽すぎる。パンには可」
「パンには可」
俺はつぶやいた。
「記録は悪いことばかり書くものではございません」
ハロルドは言った。
それから彼は、作業台の奥に置いてあった小皿を手元へ寄せた。
そこには、試し焼きした鴨の端と、皿の底にたまった濃い肉汁があった。
脂が少し浮き、焦げた皮の香りがする。
「若様の話には、足りないものがございます」
「何ですか」
「肉でございます」
言われてみれば、その通りだった。
俺はベリーと葡萄酒のことばかり考えていた。
ハロルドは鴨の皿から肉汁を小鍋へ移した。
焦げた茶色いところを、木の匙でこそげる。
そこへ葡萄酒をほんの少し。
立った湯気が、さっきより深い匂いを持っていた。
渋みが肉の脂に当たり、丸くなる。
「ベリーは全部つぶさない」
ハロルドは言った。
「はい」
「粒のまま多く入れると菓子になります。色と香りだけを先に取り、実は少なく」
小鍋へ、つぶしたベリーを少し。
さっきの甘いソースも、匙の先にほんのわずか。
塩。
胡椒。
そして、火から外したところでバターを小さく削る。
黄色い塊が赤い汁の中で溶けた。
ソースの表面が、急に光った。
油っぽいのではない。
薄い膜のようなつやが出て、鍋底の赤茶色がなめらかにつながった。
木の匙が鍋の底をなでる。
ゆっくり。
急がない。
泡は大きく立たない。
ベリーの赤が肉汁の茶色へ沈み、葡萄酒の匂いがきつさを失っていく。
俺は何も言えなかった。
俺の記憶は、ベリーソースという名前だった。
ハロルドの手は、その名前を皿にできる形へ変えている。
「一枚だけでございます」
ハロルドは、鴨の端を小さく切った。
そこへソースを少しだけ落とす。
俺の前へ置く。
これは盗み試食である。
いや、料理長が出したのだから盗みではない。
しかし晩餐より先に、厨房の端で小さな鴨を食べるこの感じは、どう考えても共犯の味がする。
俺は食べた。
皮の香ばしさ。
脂の甘さ。
そのあとに、ベリーの酸味がほんの少し来る。
さっきの酸っぱさとは違う。
舌を叩かない。
肉の重さを横から持ち上げ、もう一口食べたくさせる。
葡萄酒の渋みは奥に残り、バターが全体をつないでいる。
「……おいしい」
声が小さく跳ねた。
ハロルドも一切れ食べた。
彼はやはり跳ねない。
だが、長く黙った。
「悪くございません」
「かなり?」
「かなり、悪くございません」
それはもう褒め言葉だ。
俺はその場で両手を握った。
飛び跳ねるのは我慢した。
ロウリーが見ている。
「料理長、すごいです」
「若様は、酸味を持ち込まれました」
「でも、作ったのは料理長です」
ハロルドは帳面を開いた。
今度は少し長く書く。
「鴨の焼き汁。焦げをこそげる。葡萄酒少量。ベリー少量。甘みは控える。火から外してバター。塩は最後に見る」
俺はその文字を見た。
胸の奥が、少し温かくなる。
俺の頭の中のふわふわした記憶より、ハロルドの帳面の方が強い。
そして、今日の帳面は俺の言葉だけではなく、失敗二つの上に立っている。
一回目は酸っぱすぎた。
二回目は甘すぎた。
そのどちらも、消えずに残る。
だから三回目が少し上品になる。
「今夜、出しますか」
俺は小さく聞いた。
ハロルドはすぐには答えなかった。
厨房の奥を見た。
仕込みの進み、料理人の手、母の客人、父の好み、鴨の数、給仕の順。
たぶん、その全部を考えている。
「肉へかけきらず、脇に。旦那様が好まれなければ、次から控えます」
「はい」
「若様のお名前は出しません」
「どうしてですか」
「晩餐は厨房の成果でございます。若様の遊びではございません」
厳しい。
だが、正しい。
「はい」
俺はうなずいた。
「ただし」
ハロルドは帳面を閉じた。
「奥様か旦那様に尋ねられれば、若様が酸味の話をされたとは申し上げます。隠し事にはいたしません」
「はい」
この線を引ける料理長は、やはり一国一城の城主である。
◇
その夜、食堂には鴨の香りが満ちた。
雨上がりの空気が窓の外に残り、燭台の火が銀器へ細く映っている。
母の客人であるウェザビー夫人は、淡い灰色の服に真珠をつけた老婦人で、母が若い時に世話になった茶会仲間らしい。
彼女は食卓へ座った時から、皿の置き方と給仕の間合いを静かに見ていた。
つまり、母が言っていた「晩餐は家の印象になる」を実際にやる人である。
俺は子供用の席で、なるべく普通の顔をした。
普通の四歳児の顔。
食いしん坊でも、厨房の作戦関係者でもない顔。
たぶん無理だった。
リディアが隣で、ちらちら俺を見ている。
やがて、鴨のローストが運ばれてきた。
皮はパリっと張っており、切り口から淡い湯気が立つ。
皿の脇には、赤茶色のソースが細く添えられていた。
山盛りではない。
主役の肉を隠さず、銀の皿の上で控えめに光っている。
ベリーの粒はほんの少しだけ。
色は華やかだが、菓子のような甘さを主張していない。
俺は心の中でハロルドに拍手した。
実際に拍手したらロウリーに止められるので、心の中だけにした。
父エドマンドは皿を見て、少し眉を上げた。
母セシリアは何も言わない。
ただ、ソースの位置を見て、口元に小さな笑みを置いた。
ウェザビー夫人は、香りを確かめるように、ほんの少しだけ顔を傾けた。
「まあ」
彼女が言った。
「ベリーでございますのね」
母は穏やかに微笑んだ。
「今夜は料理長が少し工夫を」
その声は誇らしげだった。
派手に褒めるのではない。
うちの料理長はこのくらいできます、という女主人の微笑みだ。
父は鴨を切り、ソースをほんの少しつけて食べた。
一口。
少しだけ沈黙。
俺の胃が縮む。
俺が作ったわけではない。
だが、酸味の話を持ち込んだのは俺だ。
もし父が渋い顔をしたら、俺の野望は砕け散る。
父はもう一度皿を見た。
「我が家の料理長は、いつの間にリュセーヌ*1帰りになった」
食卓の空気が柔らかくなった。
母が笑みを深くする。
ウェザビー夫人も楽しそうに目を細めた。
「リュセーヌの宮廷料理ほど気取ってはおりませんわ。でも、鴨が軽くなりますこと」
父はうなずいた。
「軽い。だが、肉の味が薄くならん」
よし。
俺は小さく拳を握った。
膝の上で。
見えないところで。
リディアが小声でささやいた。
「お兄様、お菓子ではありませんわね」
「違うよ」
「少しだけ、お菓子みたい」
「少しだけなら、いいんだ」
俺たちは小声で言い合った。
ロウリーが後ろで咳払いをする。
俺はすぐに背筋を伸ばした。
自分の皿にも、小さく切られた鴨と、ほんの少しのソースが来た。
昼に食べた時より、温度も香りも整っている。
ハロルドは晩餐用に、さらに薄く、きれいに仕上げたのだろう。
鴨の脂が舌に広がり、ベリーの酸味がその後を追う。
塩が締める。
バターの丸さが残る。
うまい。
蒸気機関は無理だった。
鉄道で一番乗りするのも無理だった。
ボイラーの中身は見えないし、駅ではすでに黒い機関車が走っていた。
だが、ソースなら。
いや、ソースも一人では無理だった。
俺の記憶は酸っぱすぎて、甘すぎた。
ハロルドの手が、肉汁とバターで皿へ戻した。
それでも、少しだけ勝てた気がした。
世界を変えたわけではない。
伯爵家の晩餐の、鴨の脇に赤い線が一本増えただけだ。
だが、その一本で母の客人が驚き、父が笑い、料理長の帳面に新しい行が増えた。
今の俺には、それで十分大きい。
食後、廊下の向こうでハロルドがロウリーに何かを渡しているのが見えた。
小さな紙片だ。
ロウリーはそれを受け取り、ちらりと俺を見た。
「アーサー様」
「はい」
「料理長より、次に厨房の約束を守れたなら、付け合わせの話を聞くだけならよい、とのことです」
聞くだけ。
また聞くだけである。
俺はうなずいた。
厨房の方から、洗われた皿の音がした。
その奥で、ハロルドの帳面に、赤いソースの行がまだ乾かずに残っている気がした。