【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第8話 ベリーソース作戦

ハロルド料理長は、すぐには肉汁の話をさせてくれなかった。

 

「まず、若様が厨房の約束を守れるかを見ます」

 

そう言われてから二日、俺は厨房の扉の前で立ち止まり、勝手に入らず、ロウリーを呼び、料理長の都合を聞いてもらった。

 

四歳児としては、かなりの自制である。

中身の成人男性としても、揚げた芋(ポテチ)の記憶が残っている場所の前で待つのは難しい。

 

三日目の昼前、ようやくハロルドは作業台の端を空けた。

厨房では、昼食の片づけと夕食の仕込みが重なっている。

水の音、包丁の音、炉の奥で薪がパチパチとはぜる音がした。

壁際の小鍋には、濃い色の葡萄酒が少しだけ注がれている。

作業台の上には、小さな籠に入った黒赤いベリーと、塩、胡椒、黄色いバターの塊があった。

 

「聞くだけ、でございましたな」

 

ハロルドが言った。

 

「はい」

 

「作るかどうかは、私が決めます」

 

「はい」

 

俺はうなずいた。

ロウリーは少し後ろに立っている。

今日も、俺が火床へ一歩近づけば回収される係である。

 

「それで、肉汁と酸味とは」

 

ハロルドの声は低い。

前より追い返す気配は薄いが、まだ完全に乗っているわけではない。

料理長は、城門を開けても城を明け渡す気はない。

 

「お肉に、すっぱい甘いものを少し」

 

「果物を、肉にでございますか」

 

眉が動いた。

予想通りである。

 

「少しだけ」

 

「若様の少しだけは、なんだか事件を起こしそうですな」

 

もう信用がない。

チップス一回で、俺の扱いが少し固まってしまったらしい。

 

「鴨に、ベリーと葡萄酒」

 

俺は短く言った。

本当は、狩猟肉に酸味のあるベリーソースを合わせる料理は、前世で何度か見たことがある。

ちゃんとした店で食べた記憶はないが、動画で誰かが作っていた気がする。

脳内は完璧だ。実践はしたことがない!

 

ハロルドは、作業台の上のベリーを見た。

 

「果物は菓子か、砂糖煮か、朝のパンに添えるものでございます」

 

「はい」

 

「鴨は今夜の晩餐に使います。奥様の客人もおいでです」

 

「はい」

 

「そこへ、若様の思いつきで甘い汁をかけるわけにはまいりません」

 

正しい。

母の客人がいる晩餐で、俺の前世記憶ごちゃ混ぜソースを初投入したら、大事故が起こるだろう。

 

「試すだけ」

 

「試すだけなら、小鍋一つでございます」

 

ハロルドはそう言った。

顔は渋い。

だが、小鍋はもう用意されている。

この人は渋い顔をしながら、手は早い。ツンデレかもしれない。

 

「ベリーはどのように」

 

「つぶして、葡萄酒と、煮ます」

 

「どれほど」

 

俺は固まった。

どれほど。

料理で一番困る言葉である。

前世の俺は、動画の中の「少々」と「適量」を信じて痛い目を見たことがある。

少々とは何か。

適量とは?

 

「ええと、つやが出るくらい」

 

「つや」

 

ハロルドは、あまり信じていない顔でベリーを数粒つぶした。

小鍋に入れる。

赤い汁が底に広がる。

葡萄酒を少し注ぐと、果実の酸っぱい匂いに、酒の重い匂いが混ざった。

火床の端へ置く。

 

すぐに小さな泡が立った。

じゅうじゅうではない。

くつ、くつ、と静かな音だ。

赤い汁が鍋肌で濃くなっていく。

 

「砂糖は」

 

「まず、なしで」

 

俺は言った。

酸味で脂を切る。

そういう言葉だけは頭にある。

 

ハロルドは木の匙で小さくすくい、冷ましてから俺の前へ出した。

 

「一口だけでございます」

 

俺はなめた。

 

 

……………顔が、口が、勝手に縮んだ。

 

 

酸っぱい。

かなり酸っぱい。

ベリーの青い酸味と、葡萄酒の渋みが手を組んで、四歳児の舌を正面から攻めてくる。

肉の脂を切るどころではない。

脂が来る前に、舌が降伏する。

 

「……すっぱいです」

 

「そのようで」

 

ハロルドも少しなめた。

眉が寄る。

彼は料理長なので顔を縮めない。

だが、目が正直だった。

 

「これは鴨に勝ちすぎます」

 

「はい」

 

一回目、敗北。

 

ハロルドは帳面を開いた。

 

「ベリー多し。葡萄酒の渋み強し。甘みなし。肉へ合わせるには酸が立ちすぎる」

 

短い。

だが、負けてもくじけない。

試作の失敗は、上手くいかないことが一つ分かっただけだ。

帳面に残ると、次の一手になる。

 

「では、甘く」

 

俺は言った。

 

「どれほど」

 

また来た。

 

「少し」

 

ハロルドの目が細くなった。

 

「若様」

 

「ほんの少し」

 

「ほんの少しとは」

 

俺は小さな匙を見た。

砂糖壺を見た。

ベリーを見た。

 

「その匙で、一つ」

 

「それは多い」

 

即答だった。

 

「半分」

 

「試しましょう」

 

ハロルドは新しい小鍋にベリーを入れ、葡萄酒を控えめにし、砂糖を匙半分だけ足した。

さっきより匂いが柔らかい。

甘い湯気が立ち、ベリーの角が丸くなっていく。

俺は期待した。

人間は一度失敗すると、反対側へ走る。

酸っぱすぎたなら甘くすればいい。

とてもわかりやすい。

わかりやすい道は、だいたい落とし穴がある。

 

二回目のソースは、見た目だけなら一回目よりずっと良かった。

赤く、つやがあり、匙からゆっくり落ちる。

ハロルドは冷まして、今度は俺だけでなくロウリーにも見せた。

 

「これは若様の味見だけでは判断できません」

 

「私でございますか」

 

ロウリーは静かに聞き返した。

 

「大人の舌は後ほど私が見ます。子供、つまりリディア様がどう感じるかも知りたい」

 

なぜかリディアが呼ばれた。

正確には、昼の裁縫練習を終えて廊下を通ったところを、ロウリーが母へ確認し、ほんの少しだけ厨房の前の小部屋へ案内した。

厨房そのものには入れない。

ハロルドの城門は、妹にも厳しい。

 

「お兄様、食いしん坊のご用ですの?」

 

リディアは小声で言った。

 

「家のためです」

 

「お兄様がそう言う時は、少し食いしん坊です」

 

妹の観察眼はあまりに鋭く、将来が怖い。

 

ハロルドは小皿に、冷ましたソースをほんの少しだけ置いた。

パンの端でなめる程度である。

 

「お嬢様、甘いか、酸っぱいかだけお聞かせください」

 

リディアは真剣にうなずいた。

パンの端をちょんとつける。

口へ入れる。

 

目が少し明るくなった。

 

「お菓子みたい」

 

ハロルドが俺を見た。

俺は目をそらした。

 

「お肉に、合いそうですか」

 

ハロルドが尋ねる。

 

リディアは少し考えた。

 

「パンがいいです」

 

二回目、敗北。

 

甘いソースとしては勝った。

肉のソースとしては負けた。

 

リディアは母の侍女に連れられて戻っていった。

去り際に「お兄様、今度は本当にお菓子を作ってくださいね」と言った。

妹よ。

兄は今、肉の皿で苦戦している。

戦線を増やさないでほしい。

 

ハロルドは二回目の結果も帳面に書いた。

 

「砂糖、強し。ベリーは菓子寄り。鴨には軽すぎる。パンには可」

 

「パンには可」

 

俺はつぶやいた。

 

「記録は悪いことばかり書くものではございません」

 

ハロルドは言った。

 

それから彼は、作業台の奥に置いてあった小皿を手元へ寄せた。

そこには、試し焼きした鴨の端と、皿の底にたまった濃い肉汁があった。

脂が少し浮き、焦げた皮の香りがする。

 

「若様の話には、足りないものがございます」

 

「何ですか」

 

「肉でございます」

 

言われてみれば、その通りだった。

俺はベリーと葡萄酒のことばかり考えていた。

 

ハロルドは鴨の皿から肉汁を小鍋へ移した。

焦げた茶色いところを、木の匙でこそげる。

そこへ葡萄酒をほんの少し。

立った湯気が、さっきより深い匂いを持っていた。

渋みが肉の脂に当たり、丸くなる。

 

「ベリーは全部つぶさない」

 

ハロルドは言った。

 

「はい」

 

「粒のまま多く入れると菓子になります。色と香りだけを先に取り、実は少なく」

 

小鍋へ、つぶしたベリーを少し。

さっきの甘いソースも、匙の先にほんのわずか。

塩。

胡椒。

そして、火から外したところでバターを小さく削る。

 

黄色い塊が赤い汁の中で溶けた。

ソースの表面が、急に光った。

油っぽいのではない。

薄い膜のようなつやが出て、鍋底の赤茶色がなめらかにつながった。

 

木の匙が鍋の底をなでる。

ゆっくり。

急がない。

泡は大きく立たない。

ベリーの赤が肉汁の茶色へ沈み、葡萄酒の匂いがきつさを失っていく。

 

俺は何も言えなかった。

俺の記憶は、ベリーソースという名前だった。

ハロルドの手は、その名前を皿にできる形へ変えている。

 

「一枚だけでございます」

 

ハロルドは、鴨の端を小さく切った。

そこへソースを少しだけ落とす。

俺の前へ置く。

 

これは盗み試食である。

いや、料理長が出したのだから盗みではない。

しかし晩餐より先に、厨房の端で小さな鴨を食べるこの感じは、どう考えても共犯の味がする。

 

俺は食べた。

 

皮の香ばしさ。

脂の甘さ。

そのあとに、ベリーの酸味がほんの少し来る。

さっきの酸っぱさとは違う。

舌を叩かない。

肉の重さを横から持ち上げ、もう一口食べたくさせる。

葡萄酒の渋みは奥に残り、バターが全体をつないでいる。

 

「……おいしい」

 

声が小さく跳ねた。

 

ハロルドも一切れ食べた。

彼はやはり跳ねない。

だが、長く黙った。

 

「悪くございません」

 

「かなり?」

 

「かなり、悪くございません」

 

それはもう褒め言葉だ。

俺はその場で両手を握った。

飛び跳ねるのは我慢した。

ロウリーが見ている。

 

「料理長、すごいです」

 

「若様は、酸味を持ち込まれました」

 

「でも、作ったのは料理長です」

 

ハロルドは帳面を開いた。

今度は少し長く書く。

 

「鴨の焼き汁。焦げをこそげる。葡萄酒少量。ベリー少量。甘みは控える。火から外してバター。塩は最後に見る」

 

俺はその文字を見た。

胸の奥が、少し温かくなる。

俺の頭の中のふわふわした記憶より、ハロルドの帳面の方が強い。

そして、今日の帳面は俺の言葉だけではなく、失敗二つの上に立っている。

 

一回目は酸っぱすぎた。

二回目は甘すぎた。

そのどちらも、消えずに残る。

だから三回目が少し上品になる。

 

「今夜、出しますか」

 

俺は小さく聞いた。

 

ハロルドはすぐには答えなかった。

厨房の奥を見た。

仕込みの進み、料理人の手、母の客人、父の好み、鴨の数、給仕の順。

たぶん、その全部を考えている。

 

「肉へかけきらず、脇に。旦那様が好まれなければ、次から控えます」

 

「はい」

 

「若様のお名前は出しません」

 

「どうしてですか」

 

「晩餐は厨房の成果でございます。若様の遊びではございません」

 

厳しい。

だが、正しい。

 

「はい」

 

俺はうなずいた。

 

「ただし」

 

ハロルドは帳面を閉じた。

 

「奥様か旦那様に尋ねられれば、若様が酸味の話をされたとは申し上げます。隠し事にはいたしません」

 

「はい」

 

この線を引ける料理長は、やはり一国一城の城主である。

 

 

その夜、食堂には鴨の香りが満ちた。

雨上がりの空気が窓の外に残り、燭台の火が銀器へ細く映っている。

母の客人であるウェザビー夫人は、淡い灰色の服に真珠をつけた老婦人で、母が若い時に世話になった茶会仲間らしい。

彼女は食卓へ座った時から、皿の置き方と給仕の間合いを静かに見ていた。

つまり、母が言っていた「晩餐は家の印象になる」を実際にやる人である。

 

俺は子供用の席で、なるべく普通の顔をした。

普通の四歳児の顔。

食いしん坊でも、厨房の作戦関係者でもない顔。

たぶん無理だった。

リディアが隣で、ちらちら俺を見ている。

 

やがて、鴨のローストが運ばれてきた。

皮はパリっと張っており、切り口から淡い湯気が立つ。

皿の脇には、赤茶色のソースが細く添えられていた。

山盛りではない。

主役の肉を隠さず、銀の皿の上で控えめに光っている。

ベリーの粒はほんの少しだけ。

色は華やかだが、菓子のような甘さを主張していない。

 

俺は心の中でハロルドに拍手した。

実際に拍手したらロウリーに止められるので、心の中だけにした。

 

父エドマンドは皿を見て、少し眉を上げた。

母セシリアは何も言わない。

ただ、ソースの位置を見て、口元に小さな笑みを置いた。

ウェザビー夫人は、香りを確かめるように、ほんの少しだけ顔を傾けた。

 

「まあ」

 

彼女が言った。

 

「ベリーでございますのね」

 

母は穏やかに微笑んだ。

 

「今夜は料理長が少し工夫を」

 

その声は誇らしげだった。

派手に褒めるのではない。

うちの料理長はこのくらいできます、という女主人の微笑みだ。

 

父は鴨を切り、ソースをほんの少しつけて食べた。

一口。

少しだけ沈黙。

 

俺の胃が縮む。

俺が作ったわけではない。

だが、酸味の話を持ち込んだのは俺だ。

もし父が渋い顔をしたら、俺の野望は砕け散る。

 

父はもう一度皿を見た。

 

「我が家の料理長は、いつの間にリュセーヌ*1帰りになった」

 

食卓の空気が柔らかくなった。

母が笑みを深くする。

ウェザビー夫人も楽しそうに目を細めた。

 

「リュセーヌの宮廷料理ほど気取ってはおりませんわ。でも、鴨が軽くなりますこと」

 

父はうなずいた。

 

「軽い。だが、肉の味が薄くならん」

 

よし。

俺は小さく拳を握った。

膝の上で。

見えないところで。

 

リディアが小声でささやいた。

 

「お兄様、お菓子ではありませんわね」

 

「違うよ」

 

「少しだけ、お菓子みたい」

 

「少しだけなら、いいんだ」

 

俺たちは小声で言い合った。

ロウリーが後ろで咳払いをする。

俺はすぐに背筋を伸ばした。

 

自分の皿にも、小さく切られた鴨と、ほんの少しのソースが来た。

昼に食べた時より、温度も香りも整っている。

ハロルドは晩餐用に、さらに薄く、きれいに仕上げたのだろう。

鴨の脂が舌に広がり、ベリーの酸味がその後を追う。

塩が締める。

バターの丸さが残る。

 

うまい。

 

蒸気機関は無理だった。

鉄道で一番乗りするのも無理だった。

ボイラーの中身は見えないし、駅ではすでに黒い機関車が走っていた。

 

だが、ソースなら。

いや、ソースも一人では無理だった。

俺の記憶は酸っぱすぎて、甘すぎた。

ハロルドの手が、肉汁とバターで皿へ戻した。

 

それでも、少しだけ勝てた気がした。

世界を変えたわけではない。

伯爵家の晩餐の、鴨の脇に赤い線が一本増えただけだ。

だが、その一本で母の客人が驚き、父が笑い、料理長の帳面に新しい行が増えた。

 

今の俺には、それで十分大きい。

 

食後、廊下の向こうでハロルドがロウリーに何かを渡しているのが見えた。

小さな紙片だ。

ロウリーはそれを受け取り、ちらりと俺を見た。

 

「アーサー様」

 

「はい」

 

「料理長より、次に厨房の約束を守れたなら、付け合わせの話を聞くだけならよい、とのことです」

 

聞くだけ。

また聞くだけである。

 

俺はうなずいた。

厨房の方から、洗われた皿の音がした。

その奥で、ハロルドの帳面に、赤いソースの行がまだ乾かずに残っている気がした。

 

*1
海を隔てた対岸の国、宮廷料理文化が盛んらしい

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