【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第9話 ガレット、鉄鍋に敗北する

ベリーと葡萄酒のソースが食堂で褒められてから二日後の昼下がり、俺はまた厨房の扉の前に立っていた。

 

厨房の向こうでは、昼食の皿が洗われ、夕食用の肉が吊るされ、根菜の皮が木桶へ落ちる音がしていた。

 

ロウリーが中へ入って、すぐ戻ってきた。

 

「アーサー様、料理長が作業台の端でなら聞くとのことです」

 

「はい」

 

聞く。

また聞くだけである。

俺の厨房における権限は、伯爵家長男とは思えないほど小さい。

 

作業台の端には、じゃがいもが六つ置かれていた。

その隣に、粗い布、塩壺、小さな油壺、重そうな鉄鍋が一つ。

鉄鍋は黒く、底が厚く、いかにも「若様の思いつきぐらい受け止めてやる」と言いたげだった。

 

このあと、その鉄鍋に完敗するとは思っていなかった。

 

「それで、付け合わせで何か作りたいものはありますか?」

 

ハロルドは腕を組んで言った。

顔は前より少し柔らかい。

だが、厨房の者たちは相変わらずちらちらこちらを見る。

若様がまた何か始めた、という顔である。

 

「じゃがいもを、細くして、平たく焼きます」

 

「芋を焼くのは珍しくございません」

 

「外をかりっと。中は、ほくっと」

 

ハロルドの眉が動いた。

料理人の眉である。

 

「作ったチップスとは違うのですか」

 

「違います。これは、かたまりです」

 

俺は両手で丸い形を作った。

本当は前世の料理動画で見た、じゃがいものガレットのつもりだった。

細切りか千切りのじゃがいもを円く押し固め、油かバターでじっくり焼く。

外はかりかり、中はほくほく。

簡単そうだった。

 

「若様、その細くする役は」

 

「料理長に、お願いします」

 

「初めからでございますか」

 

「はい」

 

俺は素直にうなずいた。

チップスの時、俺はじゃがいもを紙のように薄く切ろうとして、ただの欠片を作った。

人間、敗北から学ぶことが大切だ。

同じ包丁の失敗を二度繰り返すほど、俺は愚かではない。

 

「少し賢くなられましたな」

 

ロウリーが後ろで静かに咳払いをした。

 

ハロルドは包丁を取った。

じゃがいもを半分に切り、平らな面を下にして、細く刻む。

とん、とん、とん、と木のまな板に刃が落ちる。

薄切りではなく、細い棒のような芋が重なっていく。

ところどころに白い汁気がにじみ、布へ湿りを移した。

 

「水へさらしますか」

 

ハロルドが聞いた。

チップスの時は、薄い芋を水へさらし、よく拭いた。

白い濁りを流して、軽く揚げるためだった。

 

俺は迷った。

前世の記憶では、ガレットは洗いすぎるとまとまりにくかった気もする。

いや、動画では水にさらしていただろうか。

細切りのじゃがいもを布でぎゅっと絞っていた気がする。

気がする、ばかりである。

 

「水は、少しだけ。あと、しぼる」

 

「少しだけ」

 

ハロルドは俺の顔を見た。

 

「若様の少しだけは、前回も二度ほど負けました」

 

ハロルドは細切りの芋を軽く水へ通し、すぐ布へ広げた。

布で包み、ぎゅっと押す。

水気がにじむ。

白く濁った汁が少し出た。

それから塩をほんの少し混ぜ、鉄鍋へ油を引いた。

 

油が温まり、かすかな匂いが立つ。

ハロルドは芋を丸く置き、木のへらで押さえた。

じゅう、と音がした。

いい音だった。

俺の期待は一気に上がった。

 

「火は強めでお願いします」

 

外をかりっとさせるなら強い火だ。

 

芋の端が、すぐ茶色くなった。

香りは悪くない。

むしろ良い。

焼けた芋と油の匂いが、昼下がりの厨房に立ち上がる。

 

「そろそろ、返してください」

 

俺が言うと、ハロルドはへらを差し込んだ。

 

差し込もうとした。

 

動かなかった。

 

へらの先が鉄鍋の底で止まる。

ハロルドが少し角度を変える。

芋の端だけがめくれ、真ん中は鍋に貼り付いている。

さらに押すと、丸かったはずの芋が、べり、と嫌な音を立てて裂けた。

 

焦げた匂いが来た。

 

若い料理人の一人が、洗い場で手を止めた。

別の下働きが、目だけでこちらを見る。

ロウリーは静かに立っている。

俺は鉄鍋を見た。

 

黒い底に、茶色い芋の皮のようなものが広がっていた。

丸い料理ではない。

何か、薄い焦げた布のようなものだった。

 

ハロルドはしばらく黙った。

それから冷静に言った。

 

「若様、これは焦げた敷物です」

 

厨房の奥で、誰かが小さく吹き出しかけた。

すぐ咳に変わった。

 

俺はうつむいた。

 

……動画では簡単そうでした

 

もちろん、声には出さない。

この世界に動画はない。

外へ出せる言葉は、もっと短い。

 

「むずかしいです」

 

「でしょうな」

 

ハロルドは焦げた敷物を鉄鍋からこそげ落とした。

かりかりというより、がりがりだった。

皿に置かれたそれは、食べ物というより、失敗の標本である。

 

「原因は何ですか」

 

俺は小さく聞いた。

 

ハロルドは鉄鍋の底を見た。

焦げ、油、水の跡、崩れた芋の細さ。

料理長の目が、皿ではなく条件を見ている。

 

「水気が多い。火が強い。押しつけてすぐ動かそうとした。油も足りぬかもしれません」

 

「いっぱいです」

 

「敗因が、ですか」

 

「はい」

 

認めるしかなかった。

一回目、鉄鍋の勝ちである。

 

ハロルドは厨房帳面を開いた。

 

「芋、細切り。水気多し。火強し。早く触ると貼り付く。結果、焦げた敷物」

 

「そこも書くのですか」

 

「名作でございますから」

 

若い料理人が今度こそ肩を震わせた。

ハロルドが一瞥すると、彼は慌てて桶を持ち上げた。

だが、空気は少し柔らかくなっていた。

若様の思いつきは、うまいものを出すだけではない。

鉄鍋に負けることもある。

その事実は、厨房の者たちにとって少し親しみやすかったらしい。

 

俺としては、親しみより勝利がほしい。

 

二回目は、水に通さず、布で強く絞った。

白い濁りを全部逃がさず、芋の表面に少し粘りを残す。

火は弱め。

油は一回目より少し多い。

ハロルドは鉄鍋を拭き直し、油をなじませ、芋を置いた。

 

じゅう、ではなく、ちりちり、という音になった。

さっきよりおとなしい。

俺は不安になった。

 

「弱くないですか」

 

「焦げた敷物がお好みなら強くいたします」

 

「弱くていいです」

 

即答した。

 

今度は、待った。

だが、ハロルドは触らない。

木のへらを持ったまま、芋の端だけを見る。

端の白さが少し透け、やがて金色に変わり、油の泡が細かくなる。

 

「今ですか」

 

「まだでございます」

 

「もう少し?」

 

「若様」

 

「はい」

 

俺は口を閉じた。

 

さらに待つ。

火床で薪が小さく割れた。

洗い場の水音が続く。

芋の匂いが、さっきの焦げ臭さではなく、甘い香ばしさに変わっていく。

 

ハロルドは広いへらを差し込んだ。

今度は少し持ち上がった。

おお、と俺は心の中で声を上げた。

 

しかし、返す途中で真ん中が割れた。

半月と欠片になる。

 

二回目、少し負け。

 

「外側は焼け、中心はまだ柔らかい。押しが足りず、しかし押しすぎると水が出る」

 

難しい。

動画では、なぜあんなに簡単そうだったのか。

たぶん簡単そうに見せるぐらい腕があったんだろう。

 

ハロルドは二回目の欠片に塩を少し振った。

 

「食べられますか」

 

「形は悪いですが、一口なら」

 

俺は小さな端をもらった。

 

外側は少しかりっとしている。

中はほくっとして、じゃがいもの甘みがある。

焦げた敷物ではない。

ちゃんと食べ物だ。

ただ、皿に出すには崩れすぎている。

 

「おいしいです」

 

「では、負けではございません」

 

ハロルドはそう言ってから、帳面に書き足した。

 

「水にさらしすぎぬこと。布でよく絞る。火は中ほど。油は鍋底へ薄く広げる。置いたら触らず待つ。厚さを揃える」

 

三回目、ハロルドは芋の量を減らした。

大きく作ろうとせず、小さめの円にする。

中心を厚くしない。

木のへらで軽く押し、端を整える。

油は足しすぎず、しかし鉄鍋の底に乾いた場所を作らない。

 

「若様」

 

「はい」

 

「口も、少しだけ閉じておいてください」

 

厨房の者たちが、また少し笑った気配がした。

どうも口がぼーっと空いていたらしい。

 

俺は真面目に待った。

四歳児としては苦行である。

 

芋の端が金色になる。

ハロルドは触らない。

少し煙が立つ前に、鉄鍋を火床の端へずらす。

音が弱くなる。

それから、広いへらを差し込む。

 

今度は、丸いまま持ち上がった。

 

ハロルドは息を止めるようにして、手首だけで返した。

かさ、と軽い音がして、焼けた面が上になる。

 

金色だった。

ところどころ濃い茶色。

端は細かく立ち、真ん中はしっとりまとまっている。

焦げた敷物ではない。

ちゃんと、皿に乗せられる円だった。

 

裏面も焼けるまで、また待つ。

待つことには少し慣れてきた。

いや、慣れたふりをしているだけかもしれない。

だが、芋の香りが変わるのを聞くように待つと、ただの退屈ではなくなった。

 

ハロルドは焼き上がったガレットを布の上へ置いた。

油がわずかに染みる。

塩をほんの少し。

それから、温かいうちに小さく切った。

 

「一口だけでございます」

 

俺は受け取った。

 

外側が、かりっと砕けた。

チップスの軽い破片とは違う。

こちらは薄い殻の下に、ほくっとした芋がいる。

焼けた端は香ばしく、中心は甘い。

油は重すぎず、塩がじゃがいもの味を前へ押す。

肉の脇にあれば、皿の汁を少し受け止めるだろう。

ベリーと葡萄酒のソースがかかっても、負けない気がする。

 

「おいしい」

 

今度の声は、まっすぐ出た。

 

ハロルドも一切れ食べた。

長く噛む。

やはり彼は跳ねない。

だが、目元が少しだけ緩んだ。

 

「悪くございません」

 

「かなり?」

 

「かなり、悪くございません」

 

それはもう聞きなれてきた勝利宣言だ。

小さな勝利だが、鉄鍋から取り戻した勝利である。

 

「名前は」

 

ハロルドが帳面を開いた。

 

「ガレット」

 

「リュセーヌ風の名でございますか」

 

「たぶん」

 

「また古い本でございますか」

 

「たぶん」

 

ハロルドは少しだけ鼻で息を抜いた。

笑った、というほどではない。

だが、たぶん笑った。

 

帳面に太い字が刻まれる。

 

「ガレット。芋細切り。水へ逃がしすぎぬ。布で絞る。小さく円く。鉄鍋に油をなじませる。中火。触らず待つ。端が金色になれば返す」

 

俺はその文字を見た。

チップスの行。

ベリーと葡萄酒のソースの行。

そして、ガレットの行。

 

俺のふわふわした記憶が、厨房の帳面の中で、少しずつ現実の手順になっていく。

ただし、その途中には焦げた敷物が挟まっている。

 

「料理長」

 

「はい」

 

「焦げた敷物のメモは、消しますか」

 

「残します」

 

「残すのですか」

 

「同じものを二度作らぬためでございます」

 

俺の失敗は、厨房帳面に正式採用されてしまった。

 

ハロルドは焼けたガレットの残りを、厨房の者たちへ小さく分けた。

もちろん、手の空いた者だけである。

作業中の手順を乱さない。

城には城の秩序がある。

 

若い料理人が一口食べ、目を丸くした。

下働きの少年は、熱かったのか少し息を吸ってから、笑った。

 

「若様、これは敷物ではございませんね」

 

誰かが小声で言った。

俺は胸を張った。

 

「三回目でございますな」

 

ハロルドが淡々と追認した。

一回目、二回目の失敗を忘れてくれない。

 

 

ロウリーが俺の後ろに来た。

 

「アーサー様、そろそろお戻りを」

 

「はい」

 

俺は名残惜しく鉄鍋を見た。

黒い底は、もう焦げた敷物を抱えていない。

油で鈍く光り、次の試作を待っているようだった。

 

ハロルドは帳面を閉じた。

 

「若様」

 

「はい」

 

「これは、付け合わせとして使えるかもしれません」

 

「本当ですか」

 

「ただし、晩餐に出すには大きさ、厚さ、焼く時刻を揃える必要がございます。肉の脇で冷めて油じみては、ただの芋でございます」

 

ただの芋。

厳しい言葉だ。

だが、今はそれが嬉しかった。

ただの芋で終わらせないための条件が、もう見えている。

 

「次は、ガレットを皿にのせてみますか?」

 

俺が聞くと、ハロルドはすぐには答えなかった。

火床、鉄鍋、作業台、夕食の仕込み、そして帳面を見る。

 

「小さく試します。鴨の脇に置いた時、どう見えるか」

 

やった。

今度は厨房の門の内側へ、半歩だけ進めた気がした。

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、若様」

 

ハロルドは真顔で言った。

 

「一回目の焦げた敷物は、旦那様へはお出ししません」

 

「出さないでください」

 

俺は本気で頼んだ。

厨房の者たちが、今度は隠しきれずに笑った。

その笑いは馬鹿にするものではなく、油と芋の匂いの中に混ざる、少し温かい笑いだった。

 

俺はロウリーに連れられて厨房を出た。

背後では、また水の音、包丁の音、薪の割れる音が戻っていく。

その中に、ハロルドが帳面を棚へ戻す小さな音がした。

 

ガレットはまだ晩餐の皿には乗っていない。

だが、焦げた敷物は、次の一枚のためにちゃんと残された。

 

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