Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
第0話 白い廊下
気づけば、白い廊下に立っていた。
壁も床も天井も、同じ白で塗り潰されている。汚れも傷も、貼り紙一枚さえ見当たらない。病院の廊下にも研究棟にも似ていた。けれど、どちらにしても静かすぎる。
藤丸立香は息を止め、耳を澄ませた。
空調の唸りはない。靴を引きずる音も、遠くで扉が閉まる音も聞こえない。自分がここへ来る前に誰かが歩いた痕跡さえ、白い床には残っていなかった。
両手を開いて指を曲げる。掌へ爪が触れ、息を吸えば胸が膨らむ。靴底には硬い床の冷たさが返ってくる。夢と片づけるには、身体の感覚が鮮明すぎた。
廊下の奥に、白の濃いところがある。
最初は壁に落ちた影かと思った。目を凝らすと細長い窓が見え、その下で金属が小さく光った。取っ手だ。そこまで見て、ようやく一枚の扉が白の中から浮かび上がる。
藤丸は扉へ向かって歩き出した。
靴底が床を叩く。乾いた足音は一度だけ耳へ届き、壁にも天井にも返らず消えた。
二歩、三歩と進む。脚を動かした感触もある。それなのに窓は大きくならず、取っ手の光も同じ高さにあった。十数歩もあれば届きそうな距離を歩き続け、ふくらはぎには張りまで残っている。
身体だけが、進んだ時間を覚えていた。
「ここ、どこだろう……」
声は喉を震わせたのに、扉へ届く前に薄れて消えた。
明るいのに朝とも昼とも分からない。天井には照明らしい器具さえ見えず、白い光だけが同じ強さで廊下を満たしている。
その時、細い窓の向こうで光が揺れた。
藤丸の肩が強張る。
顔も髪も服も判別できない。ただ、誰かが立っている。白い光を挟んだ影がこちらへ向き直り、息を呑む音だけが耳のすぐそばへ届いた。
扉は遠い。それなのに、吐息だけが近い。
「来たのね」
女性の声だった。
藤丸は返事を忘れた。
喜びとも拒絶とも取れない静かな声の底で、呼吸だけがわずかに揺れている。待っていた相手を確かめ、そこで初めて息を思い出したような揺れだった。
「ここは、どこなんですか?」
「今は、まだ言えない」
「どうしてですか?」
返事までに、短い間があった。
「今それを告げれば、あなたは答えを知らないまま、あの扉まで来ようとするでしょう。でも、今のあなたが行くところはここじゃない。ここは、戻る前に一度だけ通るところだから」
戻る。
その響きが胸へ触れる。どこへ戻るのか。誰のところへ戻るのか。問いは浮かぶのに、その先へ続く景色が出てこない。
藤丸は胸元の服を掴んだ。指へ布の皺が食い込み、息が浅くなる。
「俺は、あなたと会ったことがあるんですか?」
影の動きが止まった。
「……会ったことがある、とは言えない」
「じゃあ、初めてなんですか?」
「それも違う」
返事はあるのに、聞きたいところへ届かない。嘘をつかれている感覚とも違った。女性は答えを避けるたびに沈黙を置き、その沈黙には、彼女自身も何かを呑み込んでいるような揺れが混じった。
「じゃあ、俺はどうすればいいんですか」
今度の沈黙は長かった。
窓の向こうで、影がわずかに沈む。
「その答えなら、もうあなたの中にあるはずよ」
こめかみの奥で痛みが弾けた。
藤丸は額を押さえる。指へ力を込めても痛みは逃げず、頭の内側から白い光が滲む。
床と壁を分けていた境目が薄れた。足先の影が白へ溶け、扉の縁も取っ手の金属も、順に光へ呑まれていく。
「待って。まだ聞きたいことが──」
靴底から硬さが消えた。踏ん張ろうとした脚は床を捉えず、身体が白の中へ沈む。
女性の声が、もう一度だけ届いた。
「次に会う時、私はあなたに答えを示す。けれど、あなたと私は、同じ結論には辿り着かないでしょう。……そう読んでいる。あなたは、そういう人だから」
藤丸は顔を上げた。
自分の返事を求める声ではなかった。窓の向こうで何度も何かを読み、その果てに得た確信だけを置かれたように、胸の奥へ残る。
視界が白くなる。
壁が消え、床が消え、藤丸は最後まで残っていた影へ手を伸ばした。
指先は何にも触れなかった。
* * *
目を開けると、自分の部屋の天井があった。
カーテン越しに朝の光が差し、机の上では開いたままの教科書が照らされている。枕元のスマートフォンには鳴り終えたアラームが残り、窓の外を車が走った。誰かが階段を下り、通学時間のざわめきが壁一枚を隔てた先でいつもの朝を始めている。
「……夢?」
白い廊下。遠くの扉。窓の向こうにいた誰か。
思い返そうとするほど、白い床の冷たさばかりが指先へ蘇る。
学校に行く。授業を受ける。友達と話し、家へ帰る。昨日もそうして過ごしたはずだった。ところが、昨日の教室で最初に誰と話したのか、帰宅してから何を食べたのか、教科書をどこまで開いていたのかを辿ろうとすると、細部だけが朝の光へ溶けていく。
困るほどではない。
そう思おうとした自分の声だけが、妙に薄かった。
藤丸は息を吐き、ベッドから降りた。
足先が床へ触れた瞬間、踵まで冷たさが走る。
「え……?」
木の硬さがない。
俯くと、白い床があった。
机の端が視界から消える。カーテンも朝日も、窓の外を走っていた車の音も消え、代わりに壁際の端末、簡素な収納、見慣れているはずの室内灯が飛び込んだ。
カルデアの自室。
そう認識した途端、頭の奥で何かが決壊した。
特異点、レイシフト、人理修復。終局特異点、届かなかった手。異聞帯、空想樹、白紙化した世界。カルデアで交わした無数の声、見送った背中、それでも選んだ道、最後に見た空。
その奔流を押し退けるように、盾を抱いた少女の姿が浮かんだ。
「マシュ……」
喉から零れた声に、胸が強く跳ねる。
廊下を並んで歩いた時間も、食堂で向かいに座った顔も、戦場で盾の向こうから振り返った眼差しも覚えている。忘れていた時間がどれほど続いたのかは分からない。ただ、自分が何を置き去りにしていたのかだけは、もう誤魔化せなかった。
壁へ手をついたまま、藤丸は何度も呼吸を繰り返す。
涙は出なかった。胸へ戻ってきたものが多すぎて、そのどれか一つへ感情を預ける余裕がない。
端末の着信音が鳴った。
『藤丸くん。聞こえるかい』
「……ダ・ヴィンチちゃん」
『うん。よかった。ちゃんと反応してる。詳しい話は管制室でする。歩ける?』
「歩ける。マシュは?」
通信の向こうで、短く息を吐く気配がした。
『いる。無事だよ。君より少し早く目を覚まして、今は管制室にいる』
藤丸は目を閉じた。
ただ、いる。
その事実だけが胸へ落ち、詰まっていた息がようやく外へ抜ける。
「そっか……よかった」
『ただ、今は施設全体がおかしい。廊下へ出たら外部確認用の観測パネルを見てくれ。カルデアの外が、白い霧で覆われている』
藤丸は自室の扉へ目を向けた。
『急いでほしい。でも走らなくていい。君は目を覚ましたばかりだ。転んで運ばれてきたら、僕が先に怒る』
「分かった。すぐ行く」
『ああ。管制室で待ってるよ』
通信が切れ、扉が開く。
誘導灯に従って数歩進むと、壁際の観測パネルが作動した。覆いが滑り、強化ガラスの向こう側が露わになる。
藤丸の足が止まった。
山も空もない。
外壁の先は白い霧に塞がれ、数歩先から景色そのものが途切れていた。奥を見ようとしても距離を掴めず、白い廊下の冷たさが足裏へ蘇る。
遠くにあった扉。近づかなかった窓。あの声。
端末を握る指へ力が入る。
管制室にはマシュがいる。ダ・ヴィンチちゃんも待っている。
藤丸は白い霧から視線を外し、誘導灯の先へ歩いた。
* * *
自動扉が開いた瞬間、警告音と打鍵音が押し寄せてくる。大型モニターは白く染まり、スタッフたちは端末から手を離さないまま、藤丸へ視線だけを向けた。
一人が目を見開く。別の一人は入力欄を飛ばしかけ、すぐ指を戻した。
ムニエルだけは端末を胸の前へ抱えたまま固まっている。
「……マジでいる」
「現実を受け入れたら、ムニエル。ログは後で必要になるから、手は止めないで」
セレシェイラの指は動き続けていた。それでも、声は普段より少しだけ速い。
「受け入れてるって。いや、受け入れてるけど、これは止まるだろ普通」
「止まるのは口だけにして」
「結局しゃべるなってことじゃないか?」
「理解が早くて助かるわ」
管制卓の端で、シルビアが短く息を吐いた。
「ムニエル、端末は抱えるものじゃなくて操作するものよ」
「してるって!」
「ならいい。泣くなら、ログを保存してからにして」
「だから泣いてない!」
近くの席から笑いが漏れた。その奥で、ダストンだけは転送系統の警告灯を睨み続けている。
「笑えるうちに笑っとけ。装置の方は、まったく笑えん」
緩みかけた空気が赤い警告灯へ戻る。
その時、背後から声が届いた。
「先輩」
藤丸が振り向く。
白い制服姿のマシュが立っていた。盾も戦闘装備もない。両手を身体の前で重ね、指先へ少しだけ力が入っている。背筋は伸びていた。けれど、藤丸を見つめる紫の瞳だけが揺れていた。
戻ったばかりの記憶が、一人の姿へ集まってくる。
廊下を並んで歩いた時間。食堂で向かいに座った顔。戦場で盾の向こうから振り返った眼差し。
互いに数歩も離れていない。
声を出せば届く。手を伸ばせば、今度は距離が遠ざからない。
藤丸は床を踏みしめた。
マシュが一歩近づく。
「おかえりなさい、先輩」
声の最初が震えた。それでも最後まで途切れない。
藤丸は息を吸った。
「ただいま、マシュ」
返した途端、肩から力が抜けた。
マシュの指がほどける。何かを言おうとして、けれど今は飲み込んだらしい。
「本当は、もっと色々聞きたいです」
「俺も。聞きたいことが多すぎる」
「なら、その続きは後にしなさい」
管制室の奥から飛んだ声に、藤丸の呼吸が止まった。
「今は状況確認が先よ。感動している暇があるなら、そこの白い霧をどうにかする案を出しなさい」
中央卓の脇で、オルガマリー・アニムスフィアが腕を組んでいた。
記憶の中では、もう触れられないところにいた人が。
今は、自分の足でそこに立っていた。