Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
石段を下り、神社の鳥居が背後へ遠ざかったころ、藤丸の首元で、細い雑音が鳴った。
風の音ではない。影炎体の擦過音でもない。もっと細く、もっと遠く、けれど確かに知っている音だった。砂嵐の向こうで、誰かが必死にこちらを呼んでいる。
綱吉の腕の中で、藤丸は顔を上げる。
「……待って」
綱吉が足を止める。獄寺と山本もすぐに周囲へ目を走らせた。エミヤの手元に弓の輪郭が立ち上がり、ジャンヌ・オルタは炎を抑えたまま、石段の下を睨む。マンドリカルドも遅れて剣を持ち直した。
雑音の奥で、声が近づいてくる。
ざり、ざり、とノイズが走る。途切れた声が混ざる。遠い。だが、確かに届いている。
『――こえ――るかい――藤丸くん――』
藤丸の喉が詰まった。
聞き慣れた声だった。明るくて、軽くて、それでいて本当にまずい時ほど無理に軽さを保とうとする声。
『――こちら、カルデア管制室――ダ・ヴィンチちゃんだ。聞こえるかい、藤丸くん』
胸の奥に、遅れて熱が戻る。
藤丸は小さな身体のまま、必死に声を出した。
「聞こえる……! ダ・ヴィンチちゃん、聞こえてる!」
エミヤの表情が、ほんのわずかに緩む。ジャンヌ・オルタは露骨に安堵を見せないが、炎の揺れが少しだけ落ち着いた。マンドリカルドは目を見開き、それから肩の力を抜くように息を吐く。
『よかった。いや、本当によかった。こちらの観測では、君たちは“町”の中にいるというより、閉じた箱の内側へ落ちたような状態でね。何度も呼びかけたんだが、座標が噛み合わなかった』
綱吉たちは、その声の主を知らない。だが、藤丸の反応を見れば、味方であることだけは伝わる。
獄寺が警戒を解かないまま訊く。
「誰だ」
藤丸は綱吉の腕の中で振り向いた。
「カルデアの仲間。俺たちが戻る場所で、人理を守るために動いてる組織だ。俺は、そこから来たマスターで……この三人は、サーヴァント」
「マスター? サーヴァント?」
獄寺の眉が跳ねる。警戒は解かない。けれど、その奥に、知らないものへ食いつく時の鋭さが混じった。
「つまり、そこの三人は普通の人間じゃねえってことか。昔の英雄だの伝説だのが、今ここにいるって話かよ。UMAどころじゃねえじゃねえか……!」
「ご、獄寺くん、今そこに食いつくところ!?」
「十代目の安全確認が最優先です! ただ、未知の存在を未知のまま放置するのは危険です!」
言い切り方だけは真面目だった。山本が小さく息を漏らす。
「まあ、味方ってことは分かったな。藤丸の仲間で、こっちに連絡してきた人たちなんだろ」
リボーンが、離れた位置から短く言う。
「カルデアってのは、こいつらの基地みてえなものか」
ダ・ヴィンチちゃんの声が、ノイズ越しに返ってくる。
『雑に言えば、そうだね。正式には人理保障機関カルデア。人類史に起きた異常を調査して、必要なら藤丸くんたちを現地へ送り出し、管制室から支援する組織だ』
獄寺が、藤丸の背後にいる三騎を見た。
エミヤは視線だけで周囲を警戒し、ジャンヌ・オルタは苛立ちを隠さない。マンドリカルドは、急に説明の対象にされたせいで少しだけ肩を縮めていた。
『サーヴァントは、英霊と呼ばれる存在を戦える形で現界させたものだ。藤丸くんはその契約者、つまりマスターだね。本来なら、カルデアの召喚基盤と藤丸くんの魔力回路を通じて、彼らの霊基を支える』
「魔力回路……霊基……」
獄寺は口の中で知らない単語を繰り返す。すぐ理解した顔ではない。だが、分からないから聞き流す、という顔でもなかった。
リボーンが短くまとめる。
「要するに、藤丸があの三人をここに繋ぎ止めてるってことか」
『かなり乱暴に言えば、そうなる。ただし、今はその繋がりがひどく弱っている』
ダ・ヴィンチちゃんの声から、軽さが少し消えた。
『藤丸くん、君の状態はかなり悪い。身体が縮んでいるだけじゃない。君の中にあるはずのものが、一部抜き取られている』
藤丸の指が、綱吉の服を掴む。
分かっていた。落ちた瞬間、何かに触れられた。自分の奥を撫でられ、測られ、一部を削がれた。あの感覚が、ただの錯覚ではなかったと告げられた瞬間、腹の底が冷えた。
エミヤが低く訊く。
「こちらの霊基不安定も、それが原因か」
『原因の一部だね。もっと悪いことに、この世界には――少なくとも観測上、君たちの前提となる魔力基盤がほぼ存在しない。大気中のマナも、英霊の座との通常接続も、こちらの想定通りには機能していない。君たちは今、“ここにいること”自体を無理やり成立させている』
ジャンヌ・オルタが鼻を鳴らす。
「言われなくても分かってるわよ。立ってるだけで気持ち悪いんだから」
獄寺が顔をしかめる。
「魔力ってやつが足りねえと、あの三人は消えるのか」
『最悪の場合はね。ただ、希望もある。君たちはさっき、神社で何かを装着したはずだ。こちらでも一瞬、ウォッチに何かが書き込まれたような信号を拾った。それと、藤丸くんを抱えている少年の死ぬ気の炎だ』
綱吉が、自分のことだと気づいて瞬く。
「俺?」
『そう、君だ。名前を聞いてもいいかな』
「沢田綱吉。みんなには、ツナって呼ばれてる」
『ありがとう、ツナくん。詳しい理屈はまだ組めていないが、君の死ぬ気の炎は藤丸くんと三騎の存在を、この世界の条件へ馴染ませている。魔力の代わりというより、“立っていられる足場”を整えていると考えた方が近い』
綱吉は困ったように自分の手を見下ろした。さっきマンドリカルドの剣へ炎が流れたことは覚えている。けれど、それをどうやってもう一度起こすのかまでは、本人にも掴めていないようだった。
獄寺だけが、別の意味で目を輝かせている。
「死ぬ気の炎が、魔力でもねえのにサーヴァントを支えてる……? 十代目、やっぱりすげえ……! いや、理屈はあとで聞きます。今は十代目と藤丸を守るのが先です」
「う、うん……」
綱吉は頷いたものの、褒められていい話なのかどうか、まだ判断できない顔をしていた。
その時、藤丸の足元で、小さな紫の靄が揺れた。
クロームが息を呑む。彼女の持つ霧の力が、壊れかけた通信の輪郭へ触れたのだ。声そのものではなく、声が通ってくる細い経路を、霧が一瞬だけ支えている。そこへ、別方向から細い信号が食い込んだ。
ざり、とノイズが跳ねる。
『聞こえるか。そちらの通信経路、こちらでも拾った』
知らない声ではない。境内で聞いた、冷静で刺のある声。だが、綱吉たちは反射的に身構えた。獄寺が即座に藤丸の前へ半歩出る。
「今の、誰だ!?」
少し離れた位置から、リボーンの声が飛ぶ。すでに周囲を見ていたはずなのに、こちらの反応を読んでいたような短さだった。
「ヴェルデだ。さっき神社にいた雷のおしゃぶりの持ち主だ」
藤丸は、その言葉でようやく顔と声を結びつけた。白衣の赤ん坊。影炎体という名前をつけた男。
ダ・ヴィンチちゃんの声は、明らかに警戒を帯びる。
『……割り込み通信? 君は誰だい。こちらの回線へどうやって入った』
ヴェルデは平然と答える。
『君たちの回線そのものに侵入したわけではない。そちらの音声が、この異常な場所の中で、その赤ん坊を中心に細く漏れている。そこへ霧属性の媒介と、私の端末を合わせて拾っただけだ。まともな通信とは言えないが、会話は可能だろう』
クロームが小さく肩を震わせる。自分の霧が経路の一部になっていると気づいたのだろう。獄寺はまだ不審そうにしているが、リボーンが否定しない以上、即座に切る判断はしない。
ダ・ヴィンチちゃんは一拍だけ沈黙し、それから声の温度を変えた。興味と警戒が混ざっている。
『なるほど。こちらの技術を知っていて割り込んだわけではなく、そちら側の現象を利用したのか。いいね、嫌いじゃない。私はカルデアのダ・ヴィンチちゃん。君の名前は?』
『ヴェルデだ』
その瞬間、リボーンが口元だけで笑った。
「おい、ヴェルデ。相手はダ・ヴィンチちゃんだとよ。お前、“ダ・ヴィンチの再来”なんて呼ばれてたよな」
『その二つ名を持ち出すな。僕が名乗ったわけではない』
『へえ。“再来”。そちらにも面白い肩書きの天才がいるんだね』
「本人と再来の顔合わせだな」
『通信帯域の無駄遣いだ、リボーン』
声だけで、二人の仲の悪さが伝わってくる。藤丸には事情までは分からない。ただ、リボーンがわざと茶化し、ヴェルデが本気で不機嫌になったことだけは分かった。
ダ・ヴィンチちゃんは、楽しそうな気配をすぐに引っ込めた。
『了解した、ヴェルデ君。君はさっきの黒い炎について、何か掴んでいるのかな』
『君と同じく、使い捨ての観測役に近いと考えている。ついでに言えば、神社で出現した時計は単なる拘束具ではない。誰がどの陣営に置かれ、どの立場で戦闘領域へ入るのかを決める装置だ。おしゃぶり、ボス、バトラー。その区分で、扱いが変わる』
ダ・ヴィンチちゃんが息を吸う音が、ノイズ越しに混ざる。
『そこまで分かっているなら話が早い。藤丸くん、ツナくん、今からかなり無茶な話をするよ。三騎を元の出力へ近づけるには、魔力を補うだけじゃ足りない。まず、存在そのものが崩れない足場を作らなきゃならない』
藤丸の喉が乾く。
「足場……?」
『そう。藤丸くん、君は三騎との契約を手放さないでくれ。難しく考えなくていい。エミヤ、ジャンヌ・オルタ、マンドリカルド――その三騎と自分がまだ繋がっていると意識し続ける。君の中に残っているパスの感覚を、細くてもいいから保つんだ』
藤丸は自分の胸元を押さえた。
探す必要はない。繋がりを手放さない。その言葉なら分かる。カルデアで、何度もサーヴァントたちと戦ってきた。魔力が足りない時も、距離が遠い時も、それでも完全に途切れさせてはいけない感覚があった。今は身体も小さく、奪われた空白も痛む。それでも、エミヤたちが自分のサーヴァントであるという繋がりだけは、胸の奥に残っている。
「分かった。繋がってる感覚を、離さない」
『それでいい。ツナくん、君は死ぬ気の炎を攻撃だけに使わないでほしい。藤丸くんと三騎の間にある細い繋がりが、この世界の中で潰れないように、場ごと馴染ませる意識で使うんだ』
綱吉は一瞬だけ不安そうに藤丸を見た。自分にそんなことができるのか、顔にはそう出ている。
それでも、すぐに頷く。
「分かった。やってみる」
その返事は、強い自信から出たものではない。できるかどうか分からない。けれど、やるしかない。その種類の返事だった。
ヴェルデが通信越しに鼻を鳴らす。
『魔力とやらの代替にはならない。だが、存在の成立条件を補うことはできる。要するに、燃料ではなく足場を作るわけだ』
『理解が早くて助かるよ』
『当然だ。理解できない相手と話す時間は無駄だからね』
エミヤが目を伏せる。ジャンヌ・オルタは面倒そうにしながらも、通信から目を逸らさない。マンドリカルドは自分のボスウォッチを見下ろし、さっきの一瞬を思い出しているようだった。
自分の中に死ぬ気の炎が生まれたわけではない。でも、立てた。恐怖ごと、剣を構えることができた。
ダ・ヴィンチちゃんの声が続く。
『ウォッチに刻まれた区分、藤丸くんの契約、ツナくんの死ぬ気の炎。この三つを繋げば、三騎の出力は少しずつ戻せる。ただし、無茶は禁物だ。大技を使えば、そのぶん三騎にも藤丸くんにも負荷が返る』
ジャンヌ・オルタが低く笑う。
「大技を使うな、なんて言わないだけマシね」
『使うなとは言わないよ。使うタイミングを間違えるな、と言っている』
その奥で、別の声が小さく混ざった。
『ダ・ヴィンチちゃん、今の“死ぬ気の炎”ってやつ、魔力反応とは別物だよな? でも出力としてはサーヴァントの霊基に干渉してるんだろ? どういう分類なんだよ、それ』
ムニエルの声だった。藤丸にとっては馴染みのある、少し焦った管制室の声。その声が聞こえたことで、カルデアが本当に向こう側で動いている実感がまた一つ強くなる。
『分類できないから困っているんだよ、ムニエルくん。少なくとも魔術回路から発生する魔力ではない。けれど、精神状態、生命力、意志、身体機能、その全てにまたがって出力されていると考えられる。しかもツナくんのものは、ただ燃やすのではなく、異なる存在状態を同じ場へ置く働きがあると推測できる』
『それ、もう炎って呼んでいいのか……?』
『そちらの世界では、そう呼ぶのだろうね。死ぬ気の炎。実に物騒で、実に興味深い名前だ』
炎と呼ばれていても、死ぬ気の炎は単なる熱ではない。
この世界の戦闘体系では、炎には属性ごとの性質がある。大空は調和。嵐は分解。雨は鎮静。晴は活性。雷は硬化。雲は増殖。霧は構築。色の違いではなく、攻防の結果を変える法則そのものだった。
だから、同じ炎でも役割が変わる。嵐なら外殻を削り、雨なら勢いを落とし、雷なら受けた衝撃を抱え込む。大空は、その違いをまとめて同じ場へ置く。カルデア側の魔術分類では拾い切れない部分が、そこにあった。
ヴェルデが短く挟む。
『呼称はどうでもいい。問題は再現性だ。沢田綱吉、君はその状態を任意で出せるのか』
綱吉は息を詰める。
出せる、と言い切るには、表情があまりにも頼りなかった。
「……多分、今のままだと難しい。俺がちゃんと戦う時は、死ぬ気丸を使って切り替えてるから」
ダ・ヴィンチちゃんがすぐに反応する。
『死ぬ気丸?』
獄寺が横から答える。
「十代目が死ぬ気モードに入るための錠剤です。二錠飲めば、
『なるほど。外部刺激で精神と肉体の制限を外し、死ぬ気の炎の出力状態を切り替える薬剤か。ツナくん、君の通常状態と、その“超死ぬ気モード”では、判断や性格にも差が出るのかな』
綱吉は少しだけ言葉に詰まった。
「性格っていうか……普段より、迷わなくなる。怖くないわけじゃないと思うけど、何をするべきかがはっきりする感じ」
エミヤがその説明を静かに聞いている。ジャンヌ・オルタも茶化さない。マンドリカルドは、少しだけ羨ましそうに綱吉を見た。
ダ・ヴィンチちゃんの声が、興味から理解へ変わる。
『なるほど。単なる戦闘力の上昇ではないんだね。迷いや自己抑制を取り払い、本人が本当に正しいと思う選択へ踏み込ませる。死ぬ気の炎の出力と、覚悟の向きが直結しているのかもしれない』
ヴェルデが低く言う。
『ならば無理に常時発動させるべきではないな。むしろ通常時に漏れ出た微弱な死ぬ気の炎を使い、足場を作る方が安定する。戦闘用の出力と、存在を馴染ませる出力は分けて考えるべきだ』
『同意見だ。ツナくん、君は無理にそのモードへ入らなくていい。今必要なのは火力じゃない。三騎が崩れないための支えだ』
綱吉は小さく頷いた。
「分かった」
声は不安定だった。けれど、そこに逃げる色はなかった。
エミヤが静かに頷く。
「十分だ。今はそれだけ分かればいい」
マンドリカルドは困ったように笑い、それでも剣を握り直した。
「いや、俺も頑張るっすよ。ボスとか正直まだ全然納得してないっすけど……今さら無理ですって言える空気じゃないっすし」
綱吉の腕の中で、藤丸は小さく息を吐いた。
戦いは始まったばかりだ。ルールは押しつけられ、敵は倒されてもなお不気味なほど綺麗にほどけていく。どこかへ流れるように消えた粒子の行き先はまだ分からない。だが、その消え方は、藤丸の胸の奥に嫌な記憶だけを残していた。
炎を奪われる、という言葉にできない嫌な既視感。
名前を出せるほどの確信はない。けれど、獄寺や山本の表情にも、どこか似た引っかかりがある。あの黒い炎が何をしているのか、今はまだ分からない。分からないからこそ、軽々しく断定してはいけない。
ただ、藤丸は思う。
影炎体。
少なくとも、あの黒い炎の化け物には名がついた。名がつけば、次に現れた時、それを指して警戒できる。何も分からないまま襲われるよりは、ほんの少しだけ前に進んでいる。
その時、通信の向こうでダ・ヴィンチちゃんが、少しだけ声を低くした。
『ただし、忘れないでくれ。相手は君たちの戦いを材料にしている可能性が高い。さっきの黒い炎の個体は、倒されることまで織り込み済みで動いていた可能性がある。次はもっと強くなるかもしれない』
藤丸は目を閉じない。
胸の奥にある空白が疼く。奪われたものが、まだどこかで自分を呼んでいるような気がする。
綱吉は藤丸を抱え直し、町の奥を見た。
並盛町の外周には、まだ白い霧が残っている。その内側で、押しつけられた戦いが動き始めている。けれど、もう何も分からないまま逃げるだけではなかった。
影炎体を倒した境内の空気が、遠くなっていく。そして同時に、次の戦いの足音が、白く囲まれた町のどこかで静かに鳴り始めていた。
通信の端で、ダ・ヴィンチちゃんの息が一瞬だけ止まった。
『……待ってくれ。別の反応が入った』
藤丸は首元の器を押さえる。
『七つ。君たちの近くではない。けれど、この町の中に、同じ系統の反応が散っている。そのうち一つが、ひどく不安定だ』
七つ。
その数だけで、リボーンの横顔が変わった。
『詳しく確認したい。今の経路を切らないように、少し落ち着ける場所へ移動してくれ』
クロームが小さく頷く。紫の霧は細いまま、まだ途切れていない。
綱吉は藤丸を抱え直し、住宅街の奥へ足を向けた。
通信の端に、ほんの短い途切れ目が生まれた。
その瞬間、藤丸の首元の硬い異物が、通信の途切れ目に合わせて一度だけ冷えた。
気づいたのは、藤丸本人だけだった。