Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest   作:白瀬 綴

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掟の鎖

公園を出るとき、誰もすぐには声を出さなかった。

 

 さっきまで砂場の脇に集まり、藤丸の首元にある空の器や、リボーンたちのおしゃぶり、ボンゴレギア、そして遠くで歪んでいる別種の反応について言葉を重ねていたはずなのに、いざ足を動かし始めると、整理した情報のひとつひとつが喉の奥へ重く戻ってくる。分かったことは増えた。だが、それは安心へ繋がる種類のものではなかった。むしろ、何も分からない状態よりも、見えない輪郭の大きさだけがはっきりしたぶん、町の静けさがいっそう冷たく感じられた。

 

 藤丸は綱吉の腕の中で、ゆっくりと息を吐く。小さくなった身体は、まだ自分のものとして噛み合いきっていない。手を動かそうとすれば思ったよりも短く、体勢を変えようとすれば重心がすぐにずれる。首元の器は外れない。手で触れるたび、そこには空っぽの硬さがあり、けれどその奥へ自分から奪われたものの痕跡だけが細く繋がっている。気持ち悪い。そう思うのに、今はそれを完全に否定することもできなかった。あの器がなければ、この身体がもっと早く崩れていたかもしれない。そういう嫌な可能性だけが、説明もなく残っている。

 

 綱吉はその小さな身体を抱え直した。腕にかかる重さは軽い。軽いはずなのに、抱えているものの意味が重かった。目の前で助けた赤ん坊は、ただの赤ん坊ではない。背後には、赤い外套の男、黒衣の女、無骨な剣を持つ男がいる。彼らは藤丸を守ろうとしている。だが、彼ら自身もこの町へまともに立てていない。自分の炎の近くにいると輪郭がわずかに濃くなることも、もう何度か見ていた。

 

 それが何なのか、綱吉にはまだ説明できない。

 

 けれど、分かることもある。

 

 ここで藤丸を置いていく選択肢はない。町に残された異常も、消えた京子やハルや母さんのことも、外側を囲う白い幕も、黒い炎の化け物も、全部がどこかで繋がっている。そう感じる。だから進むしかない。

 

 少し離れたところで、リボーンが振り返った。

 

「ヴェルデの通信は切れたか」

 

 その声に、クロームが小さく肩を震わせる。さっきまで、彼女の霧と藤丸を中心にした細い通信の揺らぎが、カルデアとヴェルデの声をかろうじて同じ場所へ引っかけていた。だが、それは安定した回線ではない。道と呼ぶには細すぎる。耳を澄ませば聞こえるというより、偶然ひび割れた隙間から向こう側の声が漏れていただけに近い。

 

 藤丸は首元へ指を添えた。

 

「……今は、ダ・ヴィンチちゃんたちの声も少し遠い。ヴェルデさんの声は、もうほとんど聞こえない」

 

 言い終わる前に、通信の奥でざり、とノイズが揺れた。

 

『藤丸くん、こちらでも確認している。さっきの割り込み経路は、もう維持できていない。そちらの霧属性の干渉と、君の周囲にある接続の揺らぎが偶然噛み合っていたんだろうね』

 

 ダ・ヴィンチちゃんの声は、まだ細い。けれど、完全には途切れていない。藤丸はその声があるだけで、胸の奥が少しだけ落ち着くのを感じた。

 

 獄寺は不満そうに眉を寄せる。

 

「要するに、あの赤ん坊眼鏡はもう口出しできねえってことか」

 

「口出しって言い方はどうかと思うけど……」

 

 綱吉が苦く返す。

 

 リボーンは帽子のつばをわずかに下げた。

 

「ヴェルデは、自分の陣営の連中とも合流する必要がある。いつまでもこっちの通信にぶら下がってるほど暇じゃねえだろうな」

 

 獄寺は舌打ちを飲み込んだ。ヴェルデを信用したわけではない。だが、解析できる人間が減るのは痛い。それも分かっているから、文句が続かない。

 

 山本は周囲を見回した。

 

「じゃあ、今は俺たちだけで動くしかないってことだな」

 

 軽く言っているようで、その声には余計な緩みがなかった。

 

 了平は眠ったままのランボを背負い直し、空いた片手で拳を握った。

 

「極限に進むしかないな!」

 

「了平さん、声が大きいです……」

 

 クロームが小さく言う。その声はいつもより細かった。

 

 綱吉が気づいて振り返る。

 

「クローム、大丈夫?」

 

「……はい」

 

 返事はあった。だが、顔色はよくない。元々白い肌がさらに薄く見える。彼女は何も言わないが、さっき公園で霧を通して通信の輪郭を支え、境界の揺らぎを見続けた負担が残っているのだろう。藤丸の目にも、その不安定さは分かった。魔術師としての観測ではない。ただ、人が無理をして立っているときの息の浅さは、何度も見てきた。

 

 クロームは槍を握るように指を丸めかけて、途中でやめた。今はまだ、何かを隠すように腹部へ意識が寄っている。誰もそれを深く問い詰めない。だがリボーンだけは、ちらりと彼女の様子を見ていた。

 

 クローム自身も、まだ言葉にできない。だが、さっきからずっと、いつもなら当然そこにあるはずの支えが遠い。完全に切れているわけではない。けれど、手を伸ばしても届くのに時間がかかる。そんな感覚が、彼女の内側に残っていた。

 

 藤丸は何か言いかけて、やめた。

 

 今の自分にできることは少ない。むしろ、彼らに抱えられている側だ。それでも、クロームが立っていようとしていることだけは分かる。だから軽い励ましを投げるより、綱吉の腕の中で黙って見ていた。

 

 公園から商店街へ向かう道は、見慣れた並盛の道であるはずだった。住宅が並び、低い塀が続き、古い自動販売機が角に立っている。けれど、人の気配はない。店先のシャッターが下りたままの場所もあれば、開いているのに誰もいない場所もある。植木鉢は倒れていない。郵便受けもそのままだ。なのに、今この瞬間だけが町から抜かれている。

 

 クロームがふと足を止めた。

 

「……膜」

 

 その一言で、全員が動きを止める。

 

 目に見える壁があったわけではない。けれど、前方の空気の密度が変わった。道路の先、商店街へ続く緩い曲がり角の手前で、景色が一枚だけ薄く重なっている。蜃気楼のようで、もっと硬い。風景が揺れるのではなく、空間そのものの表面がわずかに張っているように見えた。

 

 獄寺がすぐに前へ出る。

 

「十代目、下がってください」

 

 綱吉は藤丸を抱えたまま、半歩だけ足を引いた。山本が隣へ出る。了平はランボを守るように後方へ立ち、クロームは息を整えながら前方の膜を見つめた。

 

 エミヤの手元に弓が形を取る。先ほどより輪郭は濃いが、まだ完全ではない。矢を番える動作の端が一瞬だけ透ける。それでも彼は、狙いを外さなかった。

 

「戦闘領域か、あるいはそれに近いものか」

 

 ジャンヌ・オルタが鼻を鳴らす。

 

「名前なんかどうでもいいわよ。要するに、また閉じ込める気でしょ」

 

 マンドリカルドは剣の柄を握り直し、綱吉の近くへ寄る。

 

「ツナさん、マスターをあんまり前に出さないでください。今のマスター、揺れるだけでもきつそうなんで」

 

 藤丸は小さく頷くしかない。

 

 その呼び方が、少しだけ胸の奥を落ち着かせた。

 

 その直後、膜の向こう側で黒い影が立ち上がった。

 

 一体。

 

 いや、二体。

 

 さらに奥から、もう一体。

 

 影炎体。

 

 ヴェルデがそう名づけた黒い炎の化け物が、商店街へ続く道を塞ぐように現れる。だが、さっきまでの個体とは動きが少し違った。単に近づいてくるのではない。構えている。しかも、その構えには見覚えがあった。

 

 山本の目が細くなる。

 

「……俺?」

 

 影炎体のうち一体が、手に黒い棒状のものを作った。刀ではない。だが、刀の形を真似ている。肩の落とし方、足の運び、間合いの取り方。完全ではない。人間の身体の芯を理解しているわけではない。けれど、表面だけなら、確かに山本の動きをなぞっていた。

 

 綱吉の胸が冷える。

 

「さっきの戦いを、覚えてる……?」

 

 山本は軽く笑おうとして、途中でやめた。

 

「真似されるほど、ちゃんと見せた覚えはねーんだけどな」

 

 獄寺が歯を鳴らす。

 

「ふざけやがって……!」

 

 影炎体が動いた。

 

 黒い刀もどきが、山本の間合いへ踏み込む。山本は本物の時雨金時へ手をかけ、紙一重で受け流した。金属音はしない。黒い炎と刀身が触れ合った瞬間、音ではなく、空気の密度だけがぎしりと軋む。影炎体の動きは荒い。だが、山本の攻めに合わせて角度を変えてくる。

 

 獄寺が横から爆薬を投げる。だが、別の影炎体が間へ割り込み、黒い身体を盾にするように爆風を受けた。砕ける。砕けたはずなのに、黒い粒子が細く流れて奥へ引かれていく。

 

 それを見た藤丸の喉がひゅっと鳴った。

 

 やはり消えていない。

 

 倒したものが、何かへ戻っている。

 

 エミヤも同じものを見ていた。眉間に皺が寄る。

 

「破壊ではなく、ほどけた先をどこかへ持っていかれているな」

 

「それ、今言われると最高に気分悪いんだけど」

 

 ジャンヌ・オルタが炎を滲ませる。完全な出力ではない。だが、黒い影炎体を牽制するには十分だった。彼女の炎が床を舐めるように走り、影炎体の進路を削る。

 

 それでも膜の内側は狭い。

 

 全員で動けば、互いの位置が重なる。藤丸を抱えた綱吉は迂闊に前へ出られない。了平はランボを守っている。クロームは青ざめた顔で膜の縁を見ていた。

 

 膜の外側、つまり商店街へ続くはずの空間が、少しずつ閉じようとしている。

 

「……このままだと、分けられます」

 

 クロームの声は小さい。だが、確かだった。

 

 綱吉が振り返る。

 

「分けられる?」

 

「膜が、閉じるみたいに……この中と外を、別にしようとしてる。たぶん、全員で同じ方向へ抜けるのが難しくなる」

 

 獄寺が叫ぶ。

 

「だったら壊せばいい!」

 

「待って、獄寺くん!」

 

 綱吉が止める。理由は分からない。だが、ただ壊せばいいものではないと直感が告げていた。膜そのものへ無理に力をぶつければ、中にいる誰かが弾かれる。そんな嫌な予感がある。

 

 山本が影炎体の黒い刀を流し、低く言う。

 

「クローム、何かできるか?」

 

 クロームは一瞬だけ目を伏せた。

 

 できるか、ではない。

 

 やるしかない。

 

 彼女は小さく息を吸う。いつもなら自然に身体を支えてくれているものが、今日は薄い。腹部の奥がひやりとする。けれど、ここで何もしなければ、ランボも、藤丸も、皆も、この膜の中で分断される。

 

 クロームの手が震えた。

 

 それでも、前へ出る。

 

「……少しだけなら」

 

 紫の靄が、彼女の周囲へ滲んだ。

 

 幻術というには、まだ弱い。だが、膜の境界に触れるには十分だった。クロームの霧は、目の前の膜を壊すのではなく、輪郭だけをぼかしていく。ここからここまでが内側で、ここから先が外側だと決めようとしている線を、彼女は薄く曖昧にした。

 

 その瞬間、膜の縁が揺れる。

 

 商店街へ続く曲がり角が、わずかに開いた。

 

「今!」

 

 クロームが叫ぶ。

 

 獄寺と山本が同時に動いた。山本が影炎体の刀を弾き、獄寺の爆風が足元を削る。ジャンヌ・オルタが炎で牽制し、エミヤの矢が黒い影を貫く。マンドリカルドは綱吉たちの横へつき、抜け道へ飛び込む隙を作った。

 

 了平がランボを抱えたまま走る。

 

「極限に急ぐぞ!」

 

 綱吉も藤丸を抱え直し、開いた境界へ向かう。通り抜ける瞬間、空気が皮膚を撫でた。冷たい。水の膜を通ったような感触ではない。名前を呼ばれる前に名札だけ剥がされそうな、気持ち悪い冷たさだった。

 

 最後にクロームが抜ける。

 

 その瞬間、彼女の膝が落ちた。

 

「クローム!」

 

 綱吉が振り返るより早く、山本が支えた。クロームは何とか立っている。だが、顔色はさらに悪くなっていた。唇から血の気が引いている。

 

「……大丈夫、です」

 

 そう言った声が、大丈夫ではないことを示していた。

 

 リボーンが短く言う。

 

「無理はするな。今のお前が倒れたら、ランボも守れなくなる」

 

 その言葉に、クロームは小さく目を伏せる。責められたのではない。むしろ、守るべきものを見失うなと言われたのだと分かった。

 

 ランボは了平の背で眠ったままだ。頬に残る涙の跡が、揺れるたびに少しだけ光る。クロームはそれを見て、弱く頷いた。

 

「……はい」

 

 膜の向こうで、影炎体が蠢いている。だが、すぐには追ってこない。境界をぼかされたことで、こちらの位置を掴み直しているようだった。

 

 商店街へ入ると、空気がまた変わった。

 

 住宅街よりも、さらに空白が目立つ。店の看板はある。自動ドアもある。開きかけのシャッターもある。けれど人だけがいない。魚屋の発泡スチロール箱は積まれたまま、八百屋の店先には値札だけが残り、文房具屋のガラスケースには色褪せたポスターが貼られている。生活が途中で止まったというより、人だけを抜かれて、物だけがその役割を続けるふりをしているようだった。

 

 藤丸は綱吉の腕の中で、商店街の奥を見た。

 

 白い幕は遠い。だが、ここにも薄い違和感がある。道の長さが安定しない。まっすぐ続いているはずのアーケードが、視線を向けるたびに少しずつ長くなったり短くなったりする。

 

『藤丸くん、聞こえるかい』

 

 ノイズの奥からダ・ヴィンチちゃんの声が届いた。さっきよりも途切れがちだ。

 

「聞こえる……でも、少し遠い」

 

『こちらから見ると、君たちの位置情報が一瞬ずつズレている。今の膜のようなものを抜けた影響だろうね。無理な移動は避けたいところだが、そうも言っていられないか』

 

 ムニエルの声が奥で小さく混ざる。

 

『いや、マジでなんなんだよこの町……座標が酔っぱらってるみたいに揺れてんだけど』

 

『ムニエル、例えはともかく現象としては近い。空間の番地が一定していない』

 

 オルガマリーの声も入る。苛立ちを抑えているが、焦りは隠せていない。

 

『それより、さっきの黒い個体。動きが変わっていたわ。模倣している可能性があるなら、同じ戦い方を続けるのは危険よ』

 

「……やっぱり、見えてたんだ」

 

 藤丸が小さく呟く。

 

『完全には見えていない。けれど反応は拾えた。黒い炎が、接触した戦闘情報を保持しているように見える。断言はまだしないけど、倒して終わりの敵ではないわ』

 

 綱吉たちはその声を直接すべて理解できるわけではないが、藤丸の表情と通信越しの緊張だけで、楽観できないことは伝わった。

 

 リボーンが商店街の奥を見た。

 

「このまま抜けるぞ。長居するな」

 

 その時だった。

 

 商店街の照明が、一斉にちらついた。

 

 電気が通っているのかどうかも分からないはずなのに、古びた蛍光灯が瞬き、看板の影が伸びる。

 

 その影の中に、何かが立っていた。

 

 黒い外套を纏った人影だった。

 

 顔は見えない。銀色のフルフェイスマスクが、蛍光灯のちらつきを鈍く反射している。身体の輪郭は人間に近い。だが、気配が薄い。いるのに、そこに立っている実感だけが妙に遅れてくる。影炎体のような黒い炎の塊ではない。明らかに別物だった。

 

 何も語らない。

 

 ただそこにいるだけで、商店街の空気が重く沈んだ。

 

 その沈黙は、ただの無口ではなかった。こちらを殺しに来たというより、何かを見定めるような冷たさがある。黒い外套。顔を隠す銀色のマスク。何を考えているのか読ませない立ち方。強者だけが持つ、力を誇示する必要すらない圧。

 

 綱吉の背筋に、嫌な記憶が蘇った。

 

 シモンとの戦いの終わり。

 

 D・スペードの件。

 

 マフィアの世界の奥底から現れた、沈黙の掟を破った者を裁く存在。

 

 あの時の記憶が、目の前の黒衣の輪郭に重なった。こちらの理屈や感情など関係なく、裁定だけを下す側にいるような不気味さが、どうしようもなく同じ場所から迫ってくる。

 

「……まさか」

 

 獄寺が低く呟く。

 

 山本も刀の柄を握ったまま、表情を硬くする。

 

 リボーンの黒い瞳が、いつもよりわずかに細くなった。

 

「あいつは、まさか――」

 

 その言葉の続きを待つより早く、黒衣の奥から低い声が落ちた。

 

「――復讐者」

 

 乾いた声だった。

 

 高くも低くもない。感情の温度が抜け落ちた声が、商店街の空気だけを冷たく変える。銀色の面は微動だにしない。けれど、その一語が落ちた瞬間、獄寺の肩がわずかに強張り、山本の手が柄へ深く沈み、了平の背で眠るランボを支える腕にも力が入った。

 

 黒衣の男は、鎖を鳴らした。

 

「掟に背く者に、裁きを――」

 

 その言葉に、藤丸が反応した。

 

「復讐者……?」

 

 知らない言葉だった。

 

 カルデアで聞いた英霊のクラスとしての復讐者とは、明らかに文脈が違う。少なくとも、今この場でその名を聞いた綱吉たちの反応は、ただの単語に向けるものではなかった。

 

 通信の奥で、ムニエルも困惑した声を漏らす。

 

『復讐者? いや、アヴェンジャーって意味じゃなくて、その世界にそういう連中がいるってことか?』

 

 オルガマリーが小さく息を呑む。

 

『ヴィンディチェ……イタリア語で“復讐者”という意味ね。けれど、単なる呼び名ではなさそうだわ』

 

 リボーンは黒衣を見据えたまま、短く答える。

 

「マフィアの世界で、沈黙の掟を破った者を裁く連中だ。普通のマフィアが相手にするような存在じゃねえ」

 

 ダ・ヴィンチちゃんの声が低くなる。

 

『つまり、その世界の裏社会における裁定者、あるいは処刑機構に近い存在か』

 

 その説明を聞いた藤丸は、喉の奥が乾くのを感じた。

 

 復讐者。

 

 掟に背く者へ裁きを下す存在。

 

 その名を自ら告げた黒衣の男が、今、目の前に立っている。綱吉たちの表情が硬いのも当然だった。彼らはその名の重さを知っている。藤丸にはまだ実感がない。だからこそ、彼らの反応からその危険を測るしかなかった。

 

 リボーンは黒衣へ向けて、低く問いかけた。

 

「俺たちはマフィアの掟を破っちゃいねーぞ。それとも、シモンやD・スペードの件で何かあるってのか」

 

 黒衣は答えない。

 

 沈黙だけが返る。

 

 その沈黙が、かえって復讐者を思わせた。

 

 黒衣の人影は、何も言わないまま、腕をわずかに上げる。

 

 そこで初めて、外套の下から鎖が垂れた。

 

 鎖には、ごく薄く死ぬ気の炎のようなものが纏っている。けれど、綱吉が知っている大空の七属性とも、シモンとの戦いで見た大地側の気配とも、ぴたりとは合わない。黒でもない。紺でもない。色だけで呼べない。炎と呼ぶにはあまりにも静かで、ただ鎖の輪郭へ不自然な重みを与えていた。

 

 次の瞬間、鎖が走る。

 

 狙いは綱吉の首元ではない。

 

 藤丸を抱える腕の外側。

 

 殺す軌道ではなかった。

 

 奪う、絡め取る、引き剥がす。

 

 そういう動きだった。

 

 山本が割って入る。刀で鎖を弾く。鈍い音がした。金属同士の音に似ているが、響きが濁っている。山本の手首に震えが残った。

 

「っ……重いな」

 

 獄寺が爆薬を投げる。鎖はそれを絡め取るように弾き、爆風の中心だけをずらした。エミヤの矢が飛ぶ。黒衣の人影は身を翻すでもなく、鎖の輪だけで矢の軌道を折る。ジャンヌ・オルタの炎が床を走ると、相手は初めて半歩下がった。

 

「チッ、喋ったと思ったら裁きだの掟だの、趣味悪いわね!」

 

 黒衣は答えない。

 

 マンドリカルドが前へ出ようとする。だが、藤丸を守る位置を離れきれない。綱吉も同じだった。抱えている藤丸を下ろすわけにはいかない。小さな身体は、少し揺れただけでも息が乱れる。

 

 鎖が二本に分かれる。

 

 一本は山本へ。もう一本は、了平の背にいるランボへ向いた。

 

「ランボ!」

 

 クロームが反射的に霧を出す。さっき膜をぼかした負担が残っている。それでも、彼女は迷わなかった。紫の靄が鎖の前に薄い壁を作る。完全に止めることはできない。けれど、軌道を少しだけずらす。

 

 了平がその隙に横へ跳び、拳で鎖を弾いた。

 

「極限に危ないだろうが!」

 

 腕に衝撃が走る。了平の表情が一瞬だけ歪んだ。それでもランボは守られている。

 

 リボーンが短く叫んだ。

 

「深追いするな!」

 

 黒衣の人影は、その声にだけわずかに反応したように見えた。銀色のマスクが、ほんの少しだけリボーンの方へ向く。

 

 空気が張る。

 

 黒衣は答えないまま、鎖を引いた。

 

 次の瞬間、商店街の床に黒い粒子が集まり、さっきの影炎体が三体、足元から立ち上がる。黒衣の人影が鎖を引いた直後に現れたその配置は、偶然と呼ぶにはあまりにも整いすぎていた。

 

 黒衣の人影は、その奥で鎖を構え直した。だが、攻め込んでこない。まるで、この場の反応を見たかっただけのように、マスクの奥から無言で全員を観察している。

 

 獄寺が怒鳴る。

 

「てめえ、何者だ!」

 

 返事はない。

 

 鎖が床を叩く。

 

 その音と同時に、影炎体が一斉に前へ出る。山本が一体を受け、獄寺が二体目の足を止め、ジャンヌ・オルタが三体目の進路を燃やす。エミヤの矢が黒い肩を貫き、マンドリカルドが藤丸たちの前へ壁になる。

 

 綱吉は藤丸を抱えたまま、奥の黒衣を見た。

 

 額に炎を灯すべきか、一瞬だけ迷う。

 

 だが、今ここで死ぬ気丸を使い続ければ負担が大きい。しかも相手は、こちらを殺すより観察している。戦うべきなのか、逃げるべきなのか、その判断が難しい。

 

 リボーンが言う。

 

「ツナ、ここは抜けろ。相手の狙いが分からねえうちは、藤丸を抱えたまま受けるな」

 

「でも……!」

 

「守るために退く場面だ」

 

 その言葉で、綱吉は歯を食いしばる。

 

 逃げるのは怖い。だが、ここで意地を張って藤丸を奪われれば終わりだ。

 

「みんな、抜ける!」

 

 山本がすぐに反応した。

 

「了解!」

 

 獄寺はまだ黒衣を睨んでいたが、綱吉の指示に逆らわない。

 

「十代目の道を開ける!」

 

 爆風が商店街の床を走る。影炎体が散る。散った黒は、また粒子になってどこかへ流れていく。何度見ても気持ち悪い。だが、今は追えない。

 

 クロームはもう一度だけ霧を出した。今度は膜をぼかすためではなく、黒衣の視界をわずかにずらすためだった。負担は小さくない。けれど、彼女はランボと藤丸を見て、唇を噛んだまま踏みとどまる。

 

 黒衣のマスクが、クロームへ向いた。

 

 その瞬間、クロームの身体が小さく揺れた。

 

 内側の支えが、ふっと遠のく。

 

 息が詰まり、彼女は一瞬だけ腹部を押さえた。誰かに攻撃されたわけではない。けれど、霧を使った反動が、身体の奥へ直接響いたようだった。

 

「クローム!」

 

 綱吉が気づく。

 

 クロームは顔を上げようとして、膝をつきかけた。それでも槍を握る手だけは離さない。

 

「……大丈夫、です」

 

「大丈夫じゃないだろ!」

 

 綱吉が踏み出しかける。だが、腕の中には藤丸がいる。背後には影炎体もいる。今すぐ駆け寄ることができない。その迷いを見て、クロームは首を振った。

 

「でも……私も、役に立ちたいんです」

 

 細い声だった。

 

 それでも、逃げるための言葉ではなかった。

 

 リボーンが低く言う。

 

「無理をするな。倒れたら、守れるものも守れなくなるぞ」

 

 クロームは一瞬だけ目を伏せた。

 

 ランボは了平の背で眠ったままだ。藤丸も、綱吉の腕の中で苦しそうに息を整えている。自分だけが守られる側でいいとは、もう思えなかった。

 

「……はい。でも、少しだけなら」

 

 クロームはもう一度、薄い霧を広げた。

 

 綱吉たちは商店街の脇道へ飛び込む。了平がランボを抱えて続き、エミヤとジャンヌ・オルタが後方を牽制し、マンドリカルドが藤丸の側を離れない。山本と獄寺が最後に入る。

 

 黒衣は追ってこなかった。

 

 ただ、銀色のマスクだけが、遠ざかる彼らを見ていた。

 

 脇道へ入った瞬間、空気が変わる。さっきの商店街ほどの圧はない。だが、全員の息は荒い。

 

 獄寺が壁を殴りそうな勢いで拳を握った。

 

「クソッ、何なんだよあいつは……!」

 

 山本は刀を下ろしながらも、表情を緩めない。

 

「リボーン、さっきのヴィンディチェってやつ……」

 

 山本は言葉を一度切った。軽く流せる相手ではないことを、刀を合わせた手首の重さがまだ覚えていた。

 

 リボーンは帽子のつばをわずかに下げる。

 

「あの異質な雰囲気、黒い外套、顔を隠した姿、何も語らねえ圧。しかも、自分から復讐者を名乗った。次に同じような奴が出たら、絶対に油断するな」

 

 藤丸は小さな身体で、必死に息を整えていた。綱吉の腕の中で揺らされただけなのに、体力が削られている。情けないと思う暇もない。今の自分は、まともに走ることすらできないのだ。

 

 通信の奥で、ダ・ヴィンチちゃんが低く言った。

 

『藤丸くん、こちらでも今の個体の反応は記録している。黒い外套、顔を隠した装備、沈黙、拘束に近い攻撃、そして自ら名乗った“復讐者”という言葉。どれも軽く扱える材料じゃない。敵性反応として最優先でログを残す』

 

 ムニエルが困惑した声を漏らす。

 

『影炎体と一緒に現れたってことは、アイツが裏で糸を引いてるのか?』

 

『出現の仕方は見逃せないね』ダ・ヴィンチちゃんが答える。『あの黒衣の反応、影炎体の反応、戦闘領域の膜の反応、全部ログに残す。次に遭遇した時、少しでも比較できるように』

 

 オルガマリーの声が続く。

 

『それより重要なのは、藤丸と同行サーヴァントの状態よ。三騎は現地で喚ばれたわけじゃない。カルデアから一緒に送り出した霊基が、霧の中で削られている。ツナくんの大空の死ぬ気の炎に近づいた時だけ、その輪郭が安定している。これでは移動も戦闘も、彼に依存しすぎる』

 

『分かってる』ダ・ヴィンチちゃんの声が低くなる。『今の戦闘で、炎の反応を少し拾えた。断定はできないが、少なくとも魔力の代替ではない。けれど、霊基の不安定さを一時的に抑え、現界状態を補助しているように見える。完全再現は無理でも、藤丸くんの擬似おしゃぶりとカルデア側の通信を噛ませれば、簡易的な補助式を組めるかもしれない』

 

 藤丸は小さく息を呑んだ。

 

「ツナが近くにいなくても、みんなが動けるように?」

 

『可能性の話だよ。今すぐ完成するものじゃない。ただ、ずっとツナくんに抱えられたまま、三騎も彼の炎の近くでしか戦えない状態は危険すぎる。次に通信が安定したら、こちらで補助の形を組む』

 

 オルガマリーが続ける。

 

『それと、さっきの戦闘領域らしき膜。あれは明らかに、あなたたちを分断しようとしていた。次はもっと強く来る可能性があるわ』

 

 ムニエルが小さく呻く。

 

『つまり、町は閉じてるし、黒い化け物は学習するし、ヴィンディチェを名乗る謎の敵まで出てきたってことかよ……』

 

 誰も笑わなかった。

 

 綱吉は藤丸を抱えたまま、商店街の奥を振り返る。

 

 黒衣はもう見えない。鎖の音も消えている。だが、消えたから安心できる相手ではなかった。むしろ、何も明かさず、こちらの反応だけを持ち帰ったように見える。

 

 リボーンは帽子のつばを下げる。

 

「進むぞ。今ので分かった。敵はこっちを殺し切るより、見てる。試してる。なら、次に来る時はもっと面倒になる」

 

 綱吉は頷いた。

 

 腕の中で、藤丸が首元の器を握る。空っぽの器は、冷たいままだ。だが、その奥の細い接続だけが、また微かに疼いた。

 

 商店街の先には、まだ白い町が続いている。

 

 影炎体。

 

 戦闘領域。

 

 黒衣の復讐者。

 

 分かったことは増えた。

 

 けれど、真相にはまだ届かない。

 

 それでも、立ち止まることはできなかった。

 

 この町に残されたものも、消えた人たちも、藤丸の身体も、全部がどこかで繋がっているなら、その線を辿るしかない。

 

 綱吉は藤丸を抱え直し、白い町の奥へ向かって歩き出した。

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