Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
膜が閉じる音は、思っていたよりも静かだった。
硝子が割れるような派手さも、鉄扉が落ちるような重さもない。ただ、外側にあった町の気配が一枚ずつ遠のき、最後に耳の奥で薄く膜が張る。音も、風も、人の気配も、そこで途切れた。
綱吉は一瞬だけ、藤丸たちが消えた方向を見た。
白い膜の向こうに、もう姿は見えない。ほんの少し前まで腕の中にあった小さな身体も、マンドリカルドが胃を痛そうにしながら抱え直していた姿も、エミヤとジャンヌ・オルタが前に出た気配も、すべて別の戦場へ押し流された。
追いかけたい。
そう思った瞬間、目の前の空気が焦げた。
銃声。
綱吉は反射的に身を捻る。頬の横を炎が掠め、背後のシャッターが内側から抉れるように歪んだ。遅れて熱が来る。息を吸った喉が焼けるように熱い。
「余所見してんじゃねぇって言っただろうが」
XANXUSの声が落ちた。
低く、重く、怒りをそのまま弾丸にしたような声。
手にした銃口は、まっすぐ綱吉へ向けられている。黒いコートの裾が揺れ、周囲の空気だけが赤く歪んで見えた。
綱吉は歯を食いしばる。
藤丸を助けに行きたい。
でも、今ここで背を向ければ撃たれる。自分だけではない。獄寺も、山本も、リボーンも、この戦闘領域の中にいる。
逃げられない。
腕に付いたウォッチが、淡く光っている。
00:29:31
数字は、無情に減っていた。
獄寺のいる方角では、銀の軌跡が何本も走っていた。
ベルのナイフとワイヤーが、商店街の壁、看板、街灯の支柱を渡っている。藤丸たちが押し流された膜の向こうを追う暇などない。視線を裂いた瞬間、その細い線は獄寺の首か、手首のウォッチへ届く。
「十代目!」
それでも声だけは飛ぶ。
ベルの笑い声が、頭上のどこかから降ってきた。
「ししっ。王子の相手中に他の方見るとか、よくないよね」
「黙れ、バカ王子!」
獄寺が叫び返す。怒りはある。だが、そのまま踏み込まない。
拳を握る腕に力が入る。それでも、足だけは止めている。今の獄寺は、怒りのまま飛び込めば何を失うかを知っていた。
ベルは遊んでいるように見える。けれど、その遊びの内側では、ナイフの戻り道とワイヤーの張力が、すでに獄寺の逃げ場を削り始めていた。
山本の方では、鋼の音が重なっていた。
スクアーロの剣が振り下ろされるたび、白い膜に閉ざされた空気が震える。
時雨金時が受ける。受けた瞬間、山本の足元がわずかに滑った。
「相変わらず、重いな……!」
山本は奥歯を噛みながらも、笑みを消さない。
スクアーロの剣は、ただ力任せに押してくるものではなかった。雨の間合いを崩し、流れ出す前の水面へ石を投げ込むように、山本の受けそのものを乱してくる。
しかも、その左腕が厄介だった。
義手に備わった剣が、人間の関節ではあり得ない角度から返る。刀を合わせたと思った次の瞬間には、別の死角へ刃が滑り込む。
山本はその軌道を目で追いながら、少しだけ息を整えた。
逃げるためではない。剣士として、改めて向き合うために。
リボーンは少し離れた位置で、マーモンと向かい合っていた。
互いにすぐ仕掛けない。
それが逆に、戦闘よりも厄介な緊張を生んでいる。
マーモンは浮いたまま、フードの奥から三つの戦場を見ていた。
「君たちが乗り気じゃないのは分かってる。でも、戦わなければ負ける。負ければ、呪いを解く権利は遠のく。単純な話だよ」
「本当にその報酬を信じてるのか」
リボーンの声は静かだった。
マーモンは少しだけ沈黙する。
「可能性があるなら、買う価値はある。僕は損な賭けは嫌いだけど、何もしないまま諦める方がもっと嫌いだ」
「そのために、あいつらを前に出したか」
「彼らは彼らで理由がある。ベルは獄寺隼人を崩したい。スクアーロは山本武と斬り合いたい。XANXUSはツナを撃つ。僕は報酬が欲しい。利害が一致しただけさ」
リボーンは帽子のつばを下げた。
「相変わらず金勘定が好きなやつだ」
「呪いは高いんだよ」
マーモンの声が、少しだけ低くなった。解除できるなら、いくらでも払う。その言葉だけは、軽くなかった。
―――――
綱吉は死ぬ気丸を飲み込んだ。
喉を通った瞬間、身体の奥で何かが弾ける。額に大空の死ぬ気の炎が灯り、視界の揺れが収まった。迷いが消える。恐怖が消えるわけではない。ただ、恐怖の中で何を選ぶかが、はっきりする。
XANXUSの銃口が動いた。
綱吉は地面を蹴る。
炎が足元で爆ぜ、身体が前へ出る。XANXUSの弾丸が空気を裂く。綱吉はそれを横へ避け、手のひらに炎を集めた。
「XANXUS、なんでこんな戦いに乗るんだ!」
「あ?」
XANXUSの眉がわずかに動く。
「誰かの呪いを解くためだとしても、こんなルールで戦うのはおかしいだろ!」
銃声。
綱吉は炎で受け流す。衝撃が腕を震わせる。
XANXUSは笑わなかった。
「おかしい?」
低い声だった。
「てめぇはいつもそうだな。自分が気に入らねぇルールを前にして、綺麗事を言えば何か変わると思ってやがる」
「綺麗事じゃない!」
「だったら何だ」
XANXUSが踏み込む。
銃口が近い。綱吉は咄嗟に腕を交差する。至近距離から放たれた炎が、ガードごと身体を押し飛ばした。背中が壁に当たり、肺の空気が抜ける。
「ぐっ……!」
「守るだの、認めないだの、寝言は勝ってから言え」
XANXUSはゆっくり歩いてくる。
「負けた奴の言葉に価値はねぇ」
綱吉は膝をつきかけ、踏みとどまった。
藤丸のことが頭をよぎる。
マンドリカルドの震えた声。
エミヤの冷静な判断。
ジャンヌ・オルタの苛立ち。
そして、消えた京子、ハル、母さん。
負けられない。
だけど、勝つためにこのルールを認めることもできない。
「俺は……戦うよ」
綱吉は顔を上げた。
「守るために戦う。でも、誰かの願いを餌にして、無理やり戦わせるこのルールは認めない」
XANXUSの目が細くなる。
「ぬるい」
「それでもだ」
綱吉の額の炎が静かに揺れる。
「俺は、そういう戦い方しかできない」
XANXUSは一瞬だけ黙った。
次の瞬間、口元がわずかに歪む。
「なら見せてみろ。てめぇのぬるさで、何を守れるのか」
銃声が、また戦場を裂いた。
―――――
獄寺は壁を蹴り、ワイヤーの下を潜った。
頭上をナイフが通り過ぎる。数本が壁へ刺さり、爆ぜるように銀光を散らした。ベルはその上に立っている。細いワイヤーの上を、まるで地面のように歩いていた。
「ししっ。遅い遅い。前よりは考えてるみたいだけどさぁ、結局守るものが多すぎて動きが重いんだよね」
「うるせぇ!」
獄寺は爆薬を投げる。
ベルは笑いながらかわす。かわした先に、さらにワイヤー。自分で作った罠の上を、王子は楽しそうに飛び回っていた。
「ほら、また怒った」
ベルの声が近づく。
「怒って、爆発させて、突っ込んで、王子のナイフで終わり。前と変わってないじゃん」
獄寺の指が、爆薬を握る。
怒りはある。
ベルの言葉は癇に障る。十代目を狙い、山本を挑発し、自分を小馬鹿にする。その全部が、火薬に火をつけるには十分だった。
だが、獄寺は動かなかった。
視線だけを上げる。
「昔の俺ならな」
ベルの笑みが、ほんの少しだけ止まった。
「へえ?」
「今は違ぇ」
獄寺は地面に落ちたナイフの位置を見た。壁に刺さったナイフ。ワイヤーの角度。ベルが次に飛べる場所。自分が爆発させれば、どこへ逃げるか。
全部、見る。
十代目の右腕として。
ただ怒って突っ込むだけなら、昔と同じだ。
ベルに遊ばれて終わる。
だから、怒りは消さない。
でも、怒りに身体を渡さない。
「てめぇを倒して、十代目の道を開ける」
「ししっ。王子を倒す? 言うじゃん」
ベルがナイフを放つ。
獄寺は避けない。
爆薬を一つ、足元へ落とす。爆風が低く広がり、ナイフの軌道をわずかに浮かせた。その瞬間、獄寺は別の爆薬を壁へ投げる。狙いはベルではない。ワイヤーの支点。
爆発。
張られていた一本が切れた。
ベルの足場が、わずかに沈む。
「へえ」
ベルの目が細くなる。
「ちょっとは面白くなってきた?」
獄寺は答えない。
爆薬を握る手に、迷いはなかった。
―――――
山本は一歩下がり、スクアーロの斬撃を流した。
重い。
時雨蒼燕流は受け流す剣だ。だが、スクアーロの剣はただの力任せではない。流される先まで読んで、次の刃が来る。雨で洗い流す前に、嵐のような勢いで押し切られる。
「どうしたぁ! 十年後のてめぇは、もっとマシだったぞぉ!」
スクアーロの怒号が響く。
山本は息を吐く。
「そりゃ、そっちの俺とはまだ違うからな」
「ああ?」
「でも、負ける気はねーよ」
山本は構え直した。
スクアーロの目が鋭くなる。
「甘ぇんだよ、てめぇは。守るためだの、仲間のためだの、剣士のくせに余計なもんを背負いすぎる」
「そうかもな」
「それで刃が鈍るなら、剣を持つな」
スクアーロの剣が来る。
山本は受ける。受けて、流す。だが、完全には流しきれず、肩に浅く傷が走った。血が滲む。
痛みより先に、熱が来た。
スクアーロは止まらない。
「剣士なら斬ることだけ考えろぉ!」
山本はその言葉を聞きながら、刀を握り直した。
剣士としてなら、スクアーロの言葉は正しいのかもしれない。
余計なものを背負えば、刃は鈍る。
けれど、自分の剣はそうじゃない。
守るために振る。
仲間の血を流さないために振る。
それが甘いなら、その甘さごと研ぐしかない。
「俺は、背負ってるから振れるんだよ」
山本の声は静かだった。
スクアーロが笑う。
「なら、その甘ぇ剣で俺を超えてみろぉ!」
再び、刃がぶつかった。
―――――
マーモンは、三つの戦場を見ていた。
ベルと獄寺。
スクアーロと山本。
XANXUSとツナ。
全てが計算通り、とは言えない。
この町そのものが不安定すぎる。影炎体も、黒フードも、カルデアの連中も、想定外が多い。だが、戦いを起こすという一点では、望んだ形になった。
勝てばいい。
勝てば報酬に近づく。
呪いを解く可能性があるなら、それを取りに行く。
リボーンは、そんなマーモンを見ていた。
「お前、焦ってるな」
「焦ってないよ。合理的に動いてるだけさ」
「合理的なら、報酬の真偽を先に疑う」
「疑っているよ」
マーモンは即答した。
「疑っているから、勝って確かめる。負けたら確かめようがない」
「そのためにベルとスクアーロを失ってもか」
マーモンは沈黙した。
ほんのわずかな間。
それは迷いというには短すぎる。けれど、無視するには長かった。
「彼らは負けない」
「そうか」
リボーンはそれ以上言わなかった。
けれど、その沈黙はマーモンの胸の奥へ小さく刺さる。
ベルは遊んでいるようで、本気で獄寺を落としに行っている。
スクアーロは山本と斬り合えることに乗った。
XANXUSはツナを撃ちながら、別の何かを見ている。
それぞれが、自分のためだけに動いているわけではない。
マーモンは、その事実をまだ言葉にしなかった。
―――――
綱吉はXANXUSの弾丸を避けながら、わずかに視界の端で獄寺と山本を捉えた。
二人とも押されている。
獄寺はベルの罠を読み始めているが、まだ決定打には届かない。
山本はスクアーロと真っ向から斬り合い、少しずつ傷を増やしている。
助けに行きたい。
だが、XANXUSがそれを許さない。
「また余所見か」
銃口が向く。
綱吉は炎で受ける。衝撃が腕を痺れさせる。
「仲間を気にして死ぬなら、それまでだ」
「死なない!」
綱吉は叫ぶ。
「誰も死なせない!」
XANXUSの目が、わずかに冷える。
「なら、力で示せ」
綱吉は地面を蹴った。
炎が足元で爆ぜる。XANXUSとの距離が縮まる。右手に炎を集め、弾丸を受け流しながら前へ出る。
XANXUSの怒りの炎と、綱吉の大空の死ぬ気の炎がぶつかった。
赤と橙が、白い戦闘領域の中で激しく弾ける。
ウォッチの数字が進む。
00:24:08
00:24:07
00:24:06
まだ、終わらない。
この戦いは、始まったばかりだった。
ベルのナイフが獄寺の頬を掠める。
スクアーロの剣が山本の刀を叩く。
XANXUSの炎が綱吉を押し込む。
リボーンとマーモンは、互いの陣営の行く末を見ながら、一歩も動かない。
偽りの盤面は、確かに彼らを戦わせている。
だが、その中で何を選ぶかまでは、まだ奪われていない。
獄寺は爆薬を握り直す。
山本は時雨金時を構え直す。
綱吉は額の炎を静かに燃やす。
そして、それぞれの戦場で、次の一手が動き始めた。