Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
すぐに緑へ戻る。ほとんど同時に、左の路地を塞ぐ白い膜が内側へ撓み、ユニの胸元で大空のおしゃぶりが震えた。指を添えると、冷たさが胸の奥へ刺さる。
住宅街は白い膜に囲まれていた。低い塀と電柱、閉じた門扉、玄関脇の植木鉢。道は正面で右へ折れ、左には細い路地が伸びている。どちらの先も白に塞がれ、ウォッチの赤い表示が減るたび、右側の膜が民家の塀を少しずつ呑み込んでいた。
ユニは瞼を閉じる。
大空のおしゃぶりを受け継いでこの町へ落とされてから、以前なら不意に訪れていた未来の光景は、一度も現れていない。
目を開く。
白く閉ざされた道路の前に、γの背中があった。
「姫。どこか痛むか」
γはユニへ背を向け、ビリヤードキューを右手に構えている。左足を塀側へ寄せ、道路中央へ右足を残し、その間にユニが路地へ抜けられる幅を空けていた。見慣れた守り方だった。
「大丈夫です。γは?」
「俺のことはいい」
「よくありません」
γの肩が僅かに強張る。返事の代わりに左足をさらに外へずらし、退路を広げた。
「……動ける。姫は俺の左から離れるな。下がる時は、そのまま路地へ入れ」
「はい」
背後から、場違いなほど軽い声が近づいてきた。
「γクン。そのリング、ちょっと見せてよ」
「お前と話すことはねぇ」
γは振り返らない。
「相変わらず冷たいなぁ♪」
白蘭は気にした様子もなく笑った。
γは雷のマーレリングへ炎を通す。未来で白蘭から渡された模造品は、炎を流すたび粗く膨らみ、腕へ噛みつくような反発を返した。今、指にあるリングは違う。緑の炎は細い雷へ整い、手首から肘まで引っ掛かりなく走った。
「……違う。あの偽物みてぇに、流した炎が暴れねぇ」
中指を曲げる。リングは指の根元に収まったまま、炎だけを素直に通した。
「これが、本物かよ」
白蘭の笑みが僅かに薄くなる。自分のリングを親指でなぞった。
「僕も知らないなあ。今の僕の指にこれが嵌まるなんて、どの未来でも見た覚えがないよ」
「白蘭様」
桔梗が一歩前へ出る。白蘭のリングを確かめ、周囲の膜へ目を向けた。
「ハハン。私のものも、未来で使ったマーレリングと同じ反応です」
「本物だろうが何だろうが、姫には近づくな」
「承知しています」
γのキューが持ち上がる。桔梗はそこで止まった。
未来で、桔梗は白蘭の側に立ち、ユニを追い詰めた。けれど今、彼はキューを向けられた位置で止まっている。白蘭も距離を詰めず、薄い笑みを浮かべたままだった。
γの右肩が固くなる。
ユニはその袖を掴んだ。
「待って、γ」
キューの先が止まる。
「……私は、もう少し二人を見たいです」
γが横目を向けた。
「γも、もう少しだけ待ってください」
袖を掴む指へγの視線が落ちる。白い膜が民家の塀をまた削った。
「そばにいてください」
γは奥歯を噛み、白蘭へ向けていたキューを道路の奥へ戻した。
「……俺の前から出るな」
「はい」
ユニが袖を離す。γは左の路地を塞がず、白蘭も桔梗も距離を詰めない。
その静けさを、三叉槍の石突が叩き割った。
紫の霧の死ぬ気の炎がアスファルトの亀裂へ走る。
「クフフ。再会を喜ぶには、少々騒がしいところですね」
「やあ、骸クン。君もこっちなんだ♪」
「貴方に会いに来たつもりはありませんよ。ですが、目の前にいる以上、槍を下ろす理由もありません」
三叉槍の穂先が白蘭の喉へ向く。桔梗が踏み出しかけたところで、白蘭が左手を上げた。
「骸クンは僕が相手するよ。桔梗ちゃんはユニちゃんの方へ」
「しかし」
「大丈夫。彼、僕のこと嫌いだからね♪」
「嫌悪を向けられるだけの振る舞いを、貴方が積み重ねた結果でしょう」
骸の耳元で霧のボンゴレギアが紫に灯る。三叉槍を握る両手の手袋にも火が走り、フランの右手も紫に染まった。ヴェルデは一歩下がった位置で小型観測器を開く。
「科学者さんは自分で殴らないから楽でいいですねー」
「生憎、僕は殴り合いより確かめたいことがある。有幻覚装置は渡した。さっさと始めたまえ」
「つまりミーとパイナップル師匠が働いて、博士は見てるだけですかー」
「誰がパイナップルですか」
「口を動かす暇があるなら始めたまえ」
フランの指先から紫の火花が散った。
右へ折れるはずの道が、白蘭たちの方へ滑ってくる。十数メートル先にあった曲がり角が三歩先まで迫り、反対に左の路地は引き伸ばされた。路肩の植木鉢が倒れる。割れた陶片は何もないはずの場所で跳ね、アスファルトを擦って止まった。
通常の幻覚は知覚を欺く。有幻覚は、そこから先へ踏み込む。
ヴェルデ製の手袋型装置が、骸とフランの霧で組み上げた虚像へ重さと衝撃を与える。存在しない道路が足を取る。幻の刃でも肉を裂く。生物の姿を取らせれば、その牙や爪も現実へ触れる。
強く複雑なものほど、維持には炎と集中を食う。それでも、正体を見破っただけでは消えない。避けるか、壊すしかない。
ヴェルデの観測器では、陶片が跳ねた瞬間とフランの出力上昇が重なった。
骸の三叉槍が白蘭の左脇から突き上がる。ほぼ同時に、窓ガラスの奥からもう一本の穂先が伸びた。
白蘭は刃を追わない。左の人差し指を窓枠の右上へ向けた。
「
白い閃光が窓枠を貫く。実体を得た槍が根元から紫の粒へ崩れ、本物の三叉槍だけが白蘭の肩先を掠めて抜けた。
石突が鳴る。白蘭の右足側へ亀裂が走るより早く、白指が根元を穿った。刃は地上へ出る前に散る。
骸の右手が柄を滑る。返るはずの軌道には、白蘭の左掌がもう差し込まれていた。大空の炎が弾け、槍が止まる。
「クフフ。こちらが出す前から潰しますか」
白蘭は笑うだけだった。
骸が踏み込む。
その足が路面へ着く前に、白蘭は右へ身体を流した。まだ何も起きていない場所を避けるように。
遅れて、路面が沈む。
沈んだのは、白蘭が逃げ込んだ先だった。
フランの手袋から紫の火花が跳ねた。有幻覚が、それまでと違う時機で重さを持つ。足を取られた白蘭へ、骸本人が逆側から入った。
三叉槍の穂先が左肩を裂く。
白い上着へ赤が散った。
「白蘭様――」
桔梗が動く。
白蘭は骸を見たまま左手を上げた。桔梗は踏み止まり、ユニの右へ残る。γもキューを握り直したが、先端は白蘭へ向かなかった。
ヴェルデは動かない。跳ねた波形を保存し、フランの手袋へ目を移す。
「まだ、未来の僕を見ていますか」
骸の声は穏やかだった。
白蘭の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
弾かれたガラス片が道路中央へ散る。その一枚をγがキューで払った直後、千種の円盤が低く左へ回り込んだ。
γは糸をキューの先で弾き、正面の亀裂へ雷球を落とす。緑の火花が路面を這い、ユニの足元まで伸びてきた紫を押し返した。
右側で桔梗の匣が開く。
雲の死ぬ気の炎を纏った
千種は糸を引き、獣の前脚へ円盤を絡める。着地が鈍った隙にフランが塀の陰へ滑り込み、獣が糸を噛み切る。跳ね返った円盤が千種の手の甲を浅く裂いた。
「柿ピー、正面きつそうですねー」
「めんどい。分かってるから、早く」
二枚の円盤が交差した。一枚がγのキューを外へ弾き、もう一枚が路面を削る。白い粉塵が跳ねた。右ではヴェロキラプトルの爪が塀を抉り、砕けたモルタルとガラス片まで舞い上がる。
そこへフランの霧が重なった。
左の路地が消えた。
「姫、左だ。そこから動くな!」
返事がない。
γはキューを正面へ残したまま、粉塵と霧の向こうへ目を凝らした。
右で、小さな咳がした。
「姫?」
粉塵の奥から、小さな影がよろめき出る。胸元では大空のおしゃぶりが揺れていた。
「γ……」
γの左手が、伸ばされた小さな手へ動きかけた。
路面すれすれを、銀色の円盤が滑った。
「γ!」
今度は左から、ユニの声が飛んだ。
γは左手首を反射的に返した。円盤の刃が掌を裂き、バトラーウォッチの外縁を削った。掴んだ糸へ雷の死ぬ気の炎を流す。緑の放電が霧を裂き、千種まで走った。
同時に、桔梗のヴェロキラプトルが右の影へ飛びかかった。
牙が肩を捉えた瞬間、ユニの輪郭が紫の霧へ崩れる。
その奥で、リンゴ帽子が跳ねた。
「あと少しだったんですけどねー」
フランは身を沈めて獣の爪をかわし、塀の陰へ滑り込んだ。
γの左掌から血が落ちる。
「γ、その手……」
「後だ。今止めたら、あの路面が姫の足元まで来る」
右手はキューから離せない。γは裂けた左掌を柄の根元へ添え、石突を本来の道路と有幻覚の境へ押し込んだ。血が木肌へ広がり、せり上がっていた路面が僅かに押し返される。
ユニの手が、その左掌へ伸びた。
「無茶をしないでください」
γは顔を動かさず、目だけをユニへ向ける。
「……姫も同じだろうが」
伸びた指が止まった。
ユニは胸元のおしゃぶりを握り直し、小さく頷いた。
γがキューの根元で路面を叩く。
三つの雷球が跳ねた。一つは沈んだアスファルトを砕き、一つは塀に残った糸を焼く。最後の一つが道路中央の亀裂へ収まり、緑色の電磁防壁を立ち上げた。
糸を焼いた雷球は、塀際でまだ火花を散らしていた。
左掌へ反動が返る。γは漏れた雷を路面へ逃がし、防壁だけを残す。
桔梗のヴェロキラプトルがユニの右へ戻った。
γは塀際に残った雷球をキューの先で道路中央へ弾き出す。
「右は任せる。姫に一発でも届かせてみろ。次はお前を撃つ」
「ハハン。承知しました」
桔梗は獣をユニの右へ据えた。
γはすぐには正面を向かなかった。ヴェロキラプトルの牙がフランへ向いたのを確かめてから、キューを前へ戻す。
ユニは唇を結んだ。
道路中央で雷球が緑に明滅する。その向こうで、γの左手から血が一滴ずつ落ちていた。
右から伸びた霧を、ヴェロキラプトルの尾が弾く。γの上体がそちらへ引かれかけても、キューの先は正面から逸れない。
ヴェルデの観測器では、中央へ移った雷球に合わせて針が振れた。少し遅れて、白い膜を示す波形も揺れる。
ヴェルデは保存キーだけを押した。
道路中央の雷球が、緑に明滅する。
その向こうで、骸の耳元の霧のボンゴレギアが強く灯った。紫の炎が三叉槍へ流れ込み、柄から嘴を思わせる刃が幾重にも開く。三本の穂先を持つ錫杖状の武装へ変わった。
「
骸が踏み込む。錫杖が白蘭の脇腹へ走った。
白蘭が上体を逃がした瞬間、骸は錫杖を横へ返す。実物の塀を削る刃の陰から、有幻覚の路面に別の穂先がせり上がった。
避けきれない。
別の穂先が脇腹を打ち、白蘭の身体が塀へ叩きつけられた。
「白蘭様!」
桔梗が踏み出す。
白蘭は左手だけを上げた。
桔梗は歯を噛み、足を戻す。ユニの右では、ヴェロキラプトルの爪が路面へ深く食い込んだ。
骸は間を与えない。右眼の数字が四へ変わる。
知っている骸なら、ここで左へ退く。
白蘭の右足が反射的に下がりかける。
止めた。
骸の右肩が沈む。左肘が内へ絞られる。
白蘭は外へ身を逃がした。遅い。錫杖の穂先が頬を裂き、血が顎へ流れた。
次の踏み込みでは、白蘭の目が軸足へ落ちた。
骸が左足を置く。その直前、白指がアスファルトを弾いた。踏み場を失った骸が腰を捻り、錫杖の軌道が外へ膨らむ。
窓へ霧が走る。
白蘭は窓を見なかった。骸の左肩が沈んだ方へ身体を寄せる。窓の陰から出た錫杖が空を切り、白指がその足元を抜いた。
「クフフ。ようやく、目の前の僕を見る気になりましたか。随分と不愉快でしたよ」
白蘭は頬の血を親指で拭った。
「今の骸クンの方が、ずっと楽しいしね♪」
「それは結構。――では、ここからですよ」
霧が窓へ重なる。
骸の左肩が沈む。
白蘭は窓を捨てて右へずれた。錫杖がその影から空を切る。
次は路面が沈む。その前に、骸の腰が右へ入った。
白指が反対側の舗装を穿ち、有幻覚の穂先が形を失う。
幻の形は変わる。それでも、本命を通す直前だけ、骸の身体には小さな偏りが残った。
踏み込みを一つ潰す。窓の支点を抜く。続く白指が骸の左肩を掠めた。
骸の右肩が沈む。
白蘭の左指は、もうその踏み込み先へ向いていた。
骸は動かない。
紫の火花は、フランの右手から散った。
白蘭の足元だけが沈む。同時に、別の窓から実体を持った破片が二枚走った。
白指は骸が来るはずだった場所を撃ち抜く。
一枚を焼く。
もう一枚が右肩へ入った。
白蘭の右腕が落ちる。白い袖へ赤が広がった。
「そっか。そこは君が動かすんだ♪」
「今さら気づいたんですかー」
骸は返さない。錫杖の切っ先だけを白蘭へ向け直す。
白蘭が一度だけ道路中央を見る。
ユニの正面には電磁防壁。右には桔梗のヴェロキラプトル。その内側で、ユニは立っている。
「そこ、ちゃんと守っててね♪」
「誰に言ってやがる」
γがキューを押し込み、桔梗は無言で獣の爪を深く食い込ませた。
骸とフランが違う時機で動かした三枚の破片が、白蘭の首、胸、左腿へ閉じてくる。
白蘭は左手を胸の前へ運び、傷ついた右腕も持ち上げた。
掌が触れる寸前、右肩の傷が開く。腕が落ちた。
歯を食いしばり、もう一度持ち上げる。
「
掌が鳴った。
大空の炎が円状に弾ける。窓ガラスがまとめて砕け、有幻覚の槍も段差も紫の粒へ押し戻された。余波はγの電磁防壁まで届き、緑の壁を大きく撓ませる。
骸は錫杖を路面へ刺して踏み止まった。
傾いていた看板の支柱が折れる。
骸へ倒れ込む看板へ、千種が円盤の糸を巻きつけた。横へ引く。看板は道路中央を擦り、γが置いた雷球を押した。
緑の球は浅い溝へ落ち、白蘭と骸の間で止まる。
フランは看板の陰へ飛び込み、折れたリンゴ帽子の葉を片手で押さえた。
「白蘭さん、ミーまで入ってるんですけどー」
白蘭は痺れる両手を離し、左指だけをひらりと振る。
「そこは頑張って避けてよ♪」
「雑ですねー」
返事が終わる前に、白蘭の右腕がまた落ちた。
道路中央まで届いた余波が、ユニの胸元を打つ。
大空のおしゃぶりが強く震えた。冷たさが胸の奥へ走り、膝から力が抜ける。
「姫!」
γが振り返りかけた。
ユニは片膝で踏み止まった。胸元を押さえ、浅い息を整えながら顔を上げる。
「γ」
その声で、γの肩が止まる。
ユニは首を横に振った。それから、キューの根元を赤く染めるγの左手へ目を落とした。
「私も、今度はちゃんとγに話します」
γの左掌から血が落ちた。
ユニは膝を伸ばす。γも背後の呼吸を聞いたまま、正面へ顔を戻した。
「……今の約束、忘れんなよ。姫」
「はい」
キューの石突が路面へ沈み、撓んでいた電磁防壁が厚みを取り戻す。
桔梗の声が飛んだ。
「白蘭様、こちらはお任せを」
ヴェロキラプトルの尾が飛んできた破片を弾く。γは振り返らない。
白蘭が返すより先に、薄くなった霧の向こうで骸が錫杖を持ち上げた。残った炎を穂先と白蘭の足元へ絞る。フランの手袋にも、紫の火が細く残っている。
白蘭は傷んだ右腕を下げたまま、左の人差し指へ大空の炎を集める。
二人の間で、さっき転がった雷球が緑に明滅している。
骸が踏み込む。
白蘭も退かない。
左指から白い閃光が走った。
低く伸びた光が雷球の表面を掠め、緑の火花を弾く。
同時に、紫の霧を纏った錫杖の穂先が正面から突き込まれた。
白指に凝縮された大空の炎、雷球の雷、錫杖を覆う霧が同じ一点へ噛み合う。
白い膜の全周が、低く軋んだ。
狭まり続けていた境界が止まる。
ウォッチの表示が一斉に明滅した。
ヴェルデの観測器では針が端まで跳ねる。端末を胸元へ引き寄せ、親指で保存キーを押した。振り切れた波形が画面に残る。
膜の表面へ細い亀裂が走った。
その奥で、銀色の仮面が動く。
ユニのおしゃぶりが、今までで最も強く震えた。冷たさが胸元から広がり、息が詰まる。
銀色の仮面。黒い外套。
白い境界の向こうから、何かがこちらを見ている。
γのキューがユニの前へ入り、桔梗のヴェロキラプトルが首を上げる。フランは霧を引き寄せ、千種の指が残った糸へ触れた。ヴェルデも観測器から顔を上げた。白蘭の笑みが消え、骸の右眼も亀裂の奥へ向く。
遅れて、硬いものを地面へ引きずる音が届く。
鎖の音が、聞こえた。