Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
白い膜の内側で、イーピンは胸の前に掲げた掌を見つめた。幼い頃の記憶より指が伸び、掌には厚みがある。肘を返せば肩から腰まで動き、膝を沈めると靴底に受けた重さが次の踏み込みへ移った。十年先まで積み重ねた稽古が筋肉の奥へ刻まれ、意識より先に身体が応じる。
それでも、呼吸だけが少し遅れる。掌を返す距離も、肘を畳む深さも知っている。肩を入れる時機も、蹴りを戻した後に腰を置く位置も分かる。使えるはずの動作が一つ繋がるたび、今の手足を自分が動かしている感覚だけが薄くずれた。
掌へ嵐の死ぬ気の炎を薄く通す。炎は指の付け根から手首へ沿い、幼い身体では保てなかった密度にも今の筋肉は耐えた。火を増やそうとした瞬間、肩へ余計な力が入り、吸った息が浅くなる。
イーピンは一度だけ背後を見た。風が、小さな身体のまま立っている。師の視線が掌から肘、膝、肩へ移り、最後に呼吸へ戻った。それだけで、指先に集まっていた力が僅かに抜けた。
袖口で風の指が一度だけ浮く。腕のアルコバレーノウォッチが淡く光ると、その手は袖の内側へ戻った。代理人の戦いへ、風自身は手を出せない。
風は目の前にいる。けれど、今ここで拳を出すのは自分だった。視線を正面へ戻すと、ラル・ミルチが長い銃を肩へ収めていた。その隣には、工事現場にいそうなおじさん――沢田家光。さらにバジルが小太刀へ指を添えている。
自分の横ではランチアが鉄球の鎖を握り、背後から雲雀恭弥のトンファーが低い金属音を返した。誰も構えを誇示していない。それでも、ラルの銃口、ランチアの肩、家光の腰、雲雀の立ち位置を見るだけで、十年先の身体に染みついた感覚が警鐘を返す。
自分が風の下で積んできたものを疑う気はなかった。そのうえで、目の前に立つ者たちは、今のイーピンがまだ触れたことのない実戦を何度も潜っている。呼吸がまた浅くなる。風は少し待ってから、静かに口を開いた。
「突然身体が大きくなって、戸惑うのも無理はありません。身体だけが十年先へ進み、今の自分の感覚がそこへ追いついていないように感じているのでしょう」
イーピンは俯かなかった。風の声を聞きながら、開いた掌を腰の前へ下げる。
「目の前にいる人たちが、自分よりずっと先にいるようにも見える。ですが、その身体にあるものは、貴方が積み重ねてきたものです。――大丈夫です、イーピン。今日まで身につけたものを、目の前の相手へぶつけてきなさい」
返事の代わりに、イーピンは膝を沈めた。肩を落とし、掌を開く。風の下で何度も戻された呼吸を一つ入れると、十年先の身体がようやく自分の意思と同じ時機で前を向いた。ランチアが鉄球の鎖を握り直す。
「いい師だな」
「群れるなら、まとめて咬み殺すよ」
雲雀の返しにランチアは笑わず、鉄球の回転を僅かに上げた。低い唸りがイーピンの横を抜け、白い膜へ触れる前にまた戻る。
その音を受けたラルは、自分の肩へ収まる銃床を押し直した。ラル・ミルチは、本来なら雨のおしゃぶりを受けるはずだった
十年後の世界で彼女を蝕んでいた負荷は、今の身体にはない。白い膜は、軍人として鍛え上げた成人の肉体を戦場へ戻していた。
ラルは一度だけ深く息を吸い、膝を沈めた。関節は遅れず、遠くを見れば照準器の縁が自然に収まる。幼い身体へ閉じ込められてから何度も思い出した感覚が、肩にも指にも戻っていた。
左手が胸元へ上がる。おしゃぶりは消えていない。首元から伝わる圧も、身体の奥へ染みついた呪いの重さも変わらなかった。ラルの指が、おしゃぶりから離れる。
「あれほど元に戻りたいと願っていたが、これは呪いが解けたわけじゃないようだな……誰だか知らんが、随分と舐めた真似をしてくれるじゃないか……!」
銃床を受ける肩が沈み、照準器の奥でイーピンの掌が小さく揺れた。
「そんな顔はお前には似合わないぜ、コラ」
横からコロネロの声が入る。ラルは目だけを向けた。コロネロはいつもの調子を崩していない。けれど、肩へ当てた銃床に添えた指が革へ深く食い込み、引き金へ向かうはずの指はそこで動かない。
「オレを心配そうなツラで見るんじゃない」
「してねえよ、コラ」
「している」
「してねえって言ってんだろ、コラ」
軽口の奥で、コロネロの指だけが白くなる。虹の呪いが降りる直前、ラルの前へ入ったのはコロネロだった。候補外だった彼が、ラルの代わりに青のおしゃぶりと呪いを受けた。
戻った肩幅と長い手足を見れば、前線で隣に立っていた頃の姿が蘇る。だが、その胸元にはまだおしゃぶりがある。コロネロの呼吸が緩んだのは、ほんの一瞬だった。
自分たちで取り戻すはずだった身体を、正体の知れない何者かが戦わせるために引き上げた。コロネロは笑わず、銃を握ったまま動かなかった。
バジルは二人を一度見て、小太刀の柄を押さえた。問いは差し込まず、家光へ顔を向ける。家光が肩を軽く回し、その隣へ並んだ。
「バジルよ」
「背中、任せたぞ」
家光の声を受け、バジルの指が一度止まってから小太刀の柄へ深く掛かった。
「承知しました、親方様」
胸の奥へ熱が上がる。嬉しさに浸る余裕はなかった。ランチアの鉄球は低く回り、雲雀のトンファーは家光から目を外さない。正面ではイーピンが膝を沈め、ラルの銃口がその掌へ寄っている。
バジルは腰の匣兵器へ指先を触れ、雨イルカ型のアルフィンへ通す雨の死ぬ気の炎を確かめた。小太刀、匣兵器、呼吸。使えるものを頭へ置いた瞬間、ウォッチが鋭く鳴った。
ラルの銃声が最初に白い膜を叩いた。
雨の死ぬ気の炎を帯びた弾丸がイーピンの右掌へ走る。その軌道へ、横から鉄球が飛び込んだ。
弾丸と鉄がぶつかり、火花が散る。
ランチアは鎖を引き寄せながら前へ出た。戻ってきた鉄球を肩越しに回し、続く二発も弾いてラルとの距離を詰める。
「バジル、家光!」
ラルの声に、バジルが小太刀を抜く。家光も腰を落とし、ラルの側へ踏み出した。
ランチアの背後から、イーピンが飛び込んだ。
鉄球に射線を乱されたラルが銃口を戻す。そこへイーピンの右掌が届いた。嵐の死ぬ気の炎が掌底から噴き、長銃の中央を強く打つ。
金属が軋み、照準器が跳ねた。銃身の中央が折れ曲がり、長銃がラルの手から外れる。
ラルは壊れた長銃を放し、腰の短銃へ右手を走らせた。
ランチアの鉄球が、今度はラルの側頭部へ迫る。
その前へバジルの小太刀が入った。
刃の腹へ雨の死ぬ気の炎が走り、鉄球の軌道が外へ逸れる。重さに押されたバジルの両腕が沈んだが、小太刀は離れない。
ランチアが鎖を引く。バジルは押し込まれた刃を立て直し、そのまま鉄球を追って身体を向けた。二人の距離がラルたちから離れていく。
家光はラルの側へ入ろうとした。
雲の死ぬ気の炎を帯びたトンファーが、その横顔へ伸びる。
家光は前腕で金属を受け、身体を捻った。雲雀は止まらず、もう一本を脇腹へ返す。家光はラルへの進路を切り、雲雀へ向き直った。
バジルとランチアの金属音が右手へ離れていく。家光と雲雀も反対へ移り、互いに間合いを詰め直した。
中央に残ったイーピンの前で、ラルが短銃を上げる。
* * *
短銃の銃声が白い膜へ響いた。
雨の死ぬ気の炎を帯びた弾丸が、イーピンの右手首を掠める。腕を引いたところへ二発目が肘の内側へ入り、肩を捻って逃れた先へ三発目が来た。
イーピンはもう一度、掌を開く。
ラルの目が動いた。右手首、肘の内側、肩の入り。イーピンが動くより先に、銃口がわずかにずれる。
「……どうして、そこまで先に……!」
ラルの反応は、掌が飛び出す前から始まっていた。肩が固まる瞬間、肘を畳む前、踏み込むために息を吸う直前。そこから次の動きを拾い、その場で最も効く一手へ変える。射撃も格闘も、その判断を実行するための手段だった。
「三度で十分だ。肩、肘、踏み込む前の呼吸――そこまで見せて、まだ通ると思ってるのか」
イーピンは唇を結び、指先の火を消した。見抜かれた箇所を意識するほど肩へ力が集まりそうになる。息を吐いて上体を沈め、肩を狙って走った弾丸の下へ潜る。二発目が髪を揺らし、三発目が左腕を浅く掠めた。
それでも前へ出た。
イーピンの掌底が短銃へ迫る。ラルは銃口を内へ引き、銃身の側面で手首を弾いた。空いた左手が肘の内側へ入り、伸びた腕を身体の外へ送る。
「くっ……!」
イーピンは外へ流された肘を戻さず、その勢いで右膝を上げた。
ラルの靴先が支える脚へ触れる。腰の回転が鈍り、膝が届く前に銃把が肋へ沈んだ。
「ぅっ……!」
短く漏れた息を追うように発砲が肩を叩く。布地と嵐の死ぬ気の炎の上で弾丸が潰れ、衝撃だけが肩から背へ抜けた。
それでもイーピンは退かない。
次の肘は銃身で外され、追った掌は手首を取られた。脚を差し込めば腿へ膝が返り、腰が止まった時には短銃の銃口が肩口へ戻っている。
技を繋ごうとするほど、ラルの接触がその起点へ先回りした。
十年先の身体に刻まれた動きが、出すたびに先を取られる。初めて拳を交える相手なのに、ラルが自分の稽古をずっと横で見てきたように思えた。
肩を押され、イーピンの身体が横へ流れる。靴底を滑らせながら踏み止まると、胸の奥で呼吸が暴れた。
短銃の銃口がまた上がる。
イーピンは荒い息を飲み込み、両掌を構え直した。
* * *
小太刀と鉄球がぶつかり、火花が白い膜へ散った。
バジルの両腕が胸元まで押し戻される。ランチアは鎖を緩めず、鉄球を引き寄せながら次の踏み込みへ入っていた。
鉄球が腰の高さを横へ走る。
バジルは上体を反らした。鎖が制服の前を擦り、髪の先を散らす。
避けた直後、肩越しから鉄の重さが戻ってきた。
ランチアの手首が返り、鎖に引かれた鉄球が弧を描く。バジルは小太刀を立て、触れた瞬間だけ刃を滑らせた。鉄球を外へ逸らしても、張った鎖が進みたい側を横切る。
鉄球をかわしても、張った鎖が次の進路を塞いだ。
バジルは一度息を吐き、最初の接触で痺れた指を開閉した。力で受け続ければ、小太刀を握る手から先に潰される。
次の鉄球が迫る。
小太刀を胸元へ畳み、鉄球が横を抜ける瞬間だけ刃の腹を当てた。重さが腕へ沈み切る前に刃を外し、鎖が張るより早く身体を内側へ送る。
ランチアの目が細くなった。
鉄球の周囲へ雲の死ぬ気の炎が増える。大きく放る軌道から、身体の近くを巡る狭い円へ変わった。バジルが小太刀を差し込める距離が削られ、鉄球の向きだけが次々と変わる。
肩を狙う一撃を避け、脇を抜ける鎖へ刃を触れさせる。
届かない。
バジルは鉄球から視線を外し、ランチアの肩と手首を見る。鎖へ力が伝わる直前、右肩が締まり、握った手首が僅かに沈む。
そこへ小太刀を早く出した。
刃の腹が鎖へ触れ、雨の死ぬ気の炎が青く走る。引きがわずかに緩んだ間に左へ入り込む。
ランチアは鎖を短く持ち替え、鉄球を肘の近くで回した。
狭い円が小太刀を横から叩く。柄を握る指へ衝撃が入り、刃先が落ちた。
ランチアが距離を詰める。
バジルは落ちた小太刀を引き上げるより先に肩を入れ、鉄球と鎖の内側へ身体を滑らせた。
近づいた。
直後、ランチアの左腕が鎖を巻き取る。短くなった鉄球が背後から肩へ迫り、バジルは小太刀を返して間に差し込んだ。
金属音が耳の近くで弾ける。
手が痺れた。バジルは息を吐き、自分から距離を開ける。
指が腰の匣兵器へ伸びた。
「アルフィン!」
雨の死ぬ気の炎が開き、アルフィンがバジルの肩を越えた。
アルフィンは鉄球へ正面からぶつからず、鎖が強く張る位置へ雨の死ぬ気の炎を散らす。炎に触れ、鎖の引きがわずかに鈍った。
バジルはそこへ踏み込む。
小太刀が黒い袖を浅く裂いた。
「……!」
ランチアは傷へ目を落とさず、手首へ鎖を巻きつけた。遅れた鉄球を腕の近くへ引き戻し、アルフィンとバジルの間へ落とす。
雨の死ぬ気の炎が広がり、落下の勢いを鎮める。それでも鉄球の重さは残り、小太刀が押し込まれた。
バジルの靴底が路面を擦る。
袖には一筋の裂け目が残った。それでもランチアの鉄球は止まらず、次の軌道へ持ち上がっている。
バジルは小太刀を握り直し、アルフィンを自分の横へ呼び戻した。
* * *
家光は右前腕で雲雀のトンファーを受けた。接触した金属の縁で、大空の死ぬ気の炎が弾ける。
受けたまま、家光は左拳を懐へ押し込む。雲雀は身体を捻り、その拳をトンファーの内側へ滑らせた。
「君、小動物に少し似てるね」
もう一方のトンファーが家光の頬へ走る。
「俺の息子のことなら、もうちょい褒めてやってくれよ」
家光は笑いながら肩を差し込んだ。
金属が頬の外へ滑り、衝撃が前腕へ落ちる。大空の死ぬ気の炎を薄く纏わせ、肩から腰へ力を逃がすと、そのまま右拳を返した。
雲雀はもう一方のトンファーで拳を弾く。
開いた脇腹へ金属が入り、家光の息が短く漏れた。
家光は足を止めず、前腕をトンファーへ沿わせる。金属を外へ流しながら懐へ入り、左手で雲雀の胸元を押した。
雲雀の靴が路面を擦る。
押された勢いのまま身体を回し、もう一本のトンファーが家光の側頭部へ返った。
家光は首を傾けてかわす。金属が髪を散らし、その下から雲雀の肘が胸へ来た。
大空の死ぬ気の炎を纏った前腕が肘を受ける。
家光の足が沈み、肩がわずかに下がった。
「手加減ってやつを知らないのか、君は」
「君が退けば終わるよ」
「そいつは無理だな」
家光が退けば、雲雀の前にはイーピンたちへ続く通りが空く。右拳へ大空の死ぬ気の炎が集まった。
真正面から振るった拳を、雲雀はトンファーの内側へ滑らせた。拳が外へ流れた瞬間に膝が腹へ入り、続く一撃が肩を打つ。
家光の身体が沈む。
それでも膝は折れない。
肩を回し、雲雀の次打へ内側から入る。拳を振る距離が消えたところで肩をぶつけ、空いた側へ左拳をねじ込んだ。
雲雀が縦に立てたトンファーへ大空の死ぬ気の炎が弾ける。
大空の死ぬ気の炎に押され、雲雀の靴が路面を滑った。
その口元が上がる。
トンファーの鎖が鳴り、展開した突起が家光の袖を裂いた。
「こりゃ、楽させちゃくれねぇな」
家光が笑みを引っ込め、腰を落とす。
雲雀も踏み込んだ。
右肩へ落ちたトンファーを前腕で受け、家光はその腕へ身体を寄せる。雲雀は押された側へ回り、自由な一本を肩甲骨へ返した。
家光の背が沈む。
腹へ続いた打撃を腰の捻りで浅くし、反対の拳を雲雀の肩へ入れる。大空の死ぬ気の炎が弾け、雲雀の身体が外へ滑った。
数歩の距離が開く。
家光は裂けた袖を一度見て、拳を握り直した。
雲雀はトンファーを下げない。
二人の間に残った距離へ、大空と雲の死ぬ気の炎が揺れた。
* * *
ラルの短銃が、イーピンの右肩をもう一度叩いた。
「く……っ!」
腕の戻りが鈍る。
イーピンは掌を返したが、肘の内側へラルの左手が入った。腕を外へ送られ、空いた肋へ銃把が沈む。
息が詰まる。
膝を落としたところへ左手が肩へ触れ、身体が斜めへ送られた。背中が路面を打ち、肺から空気が抜ける。
起き上がろうとする。
短い銃声。
肩へ衝撃が入り、腕の戻りがさらに鈍った。そこへラルの肘が胸骨の下へ沈む。
「か、はっ……!」
吸いかけた息が途切れ、胸がすぐには膨らまない。
膝が路面へ触れる。
背後で、風の指が袖口まで上がった。ウォッチの光が視界へ入り、その手はそこで止まる。
掌へ冷たさが返り、白い膜の光が視界の端で滲んだ。
その冷たさが、水鉢の縁と重なった。
* * *
あれは、まだイーピンが幼く、風の道場で基礎の稽古を繰り返していた頃のことだった。
その日の組手で、イーピンは同じ掌底を三度止められていた。外されるたびに腕の力で押し戻そうとし、三度目には肩が固まり、次の蹴りまで遅れていた。
風は組手を切り上げると、道場の端から水を張った鉢を運んできた。
「今日は、これを押してください」
「水を、ですか?」
「ええ。まずはいつも通りに」
イーピンは言われた通り、掌を水面へ沈めた。
水が左右へ流れる。
もう一度。今度は強く押した。水はさらに大きく横へ流れ、袖口まで濡らした。
「師匠、うまく押せません。力を入れるほど、水が横へ流れてしまいます」
「先ほどの組手でも、同じことをしていました」
イーピンが顔を上げる。
「あなたは打つと決めれば、最後まで力を出せます。それは大切な長所です。けれど、外された後も最初に狙ったところへ腕だけで追いかけています。肩が固まり、次の動きが遅れます」
風は水鉢へ掌を沈めた。
押された水が横へ流れる。風はその水を腕だけで追わず、肘を畳み、腰を回した。肩が続き、反対の掌が回ってきた水へ静かに触れる。
イーピンは目を見開いた。
「押した場所じゃなくて、流れた先へ……?」
「流れた力を、次の動きへ渡しています。掌が外れたなら肘へ。肘を避けられたなら腰を回し、膝へ。そこで止められた力も、肩から次の掌へ渡せます」
「……失敗しても、続けるのですか?」
「ええ。外された場所で立ち止まらず、流れた力の行き先を使うのです」
イーピンはもう一度、水へ掌を沈めた。
今度は横へ流れた水を手だけで追わない。肘を畳み、腰を回す。ぎこちなく動いた反対の掌へ、回ってきた水が触れた。
風は何も足さず、その動きを見ていた。
* * *
白い膜の内側。
ラルの短銃は、まだイーピンの肩へ向いていた。
外へ流された掌の勢い。肘に残る回転。止められた膝の力。
風の下で組手を重ねるうちに、水鉢で教わった原理は身体へ染み込んでいた。外された力を次の打点へ渡し、そこへ嵐の死ぬ気の炎を短く重ねる。
幼い意識には、その十年分の稽古がない。それでも筋肉と呼吸は、続きを知っていた。
イーピンの指が路面を離れる。
左掌を出した。
発砲。
弾丸に押された手首が外へ流れる。
――そのまま。
イーピンは肩を回した。
外へ流れた力が肘へ移る。薄く纏った嵐の死ぬ気の炎が短く噴き、肘がラルの顎下へ返った。
ラルが首を引く。
肘が頬を掠める間に、イーピンの腰は回り続けていた。右膝へ嵐の死ぬ気の炎が走り、その回転を上段蹴りへ送る。
ラルの左腕が脛を受けた。
雨の死ぬ気の炎が接触点へ集まり、蹴りの勢いを鎮める。
イーピンは脚を落としながら肩を回した。
ラルが内側へ入り、腿を膝で止める。
受けた衝撃まで腰へ渡した瞬間、十年先の身体に呼び名が浮かんだ。
「
掌底が走る。
ラルの左手が掌を外へ弾く。弾かれた腕から肘が返り、止められた膝の力が肩へ回る。嵐の死ぬ気の炎が打点から打点へ渡った。
肘がラルの頬を浅く裂いた。
黒い髪が数本飛び、イーピンの呼吸が戻る。
ラルの短銃が脇へ流れた。
イーピンはその隙へ左掌を差し込む。手首を取られる前に肘へ火を送り、掌を囮にして内側へ入った。
左肘がラルの肩を叩く。
布の上で嵐の死ぬ気の炎が弾けた。
風が、そこで初めて息を吐いた。
コロネロも銃床を握ったまま目を細める。引き金へ指は移らない。
イーピンは踏み込む。
ラルは頬の傷を拭わず、視線だけをイーピンの掌から肘、腰、膝へ移した。
次に上がった銃口は手首を追わず、連撃が繋がる途中へ寄った。
右掌を出す前に手刀が肘の内側へ入った。腕の戻りが遅れ、膝へ繋ごうとした時には靴先が膝裏へ触れている。
腰が沈む。
肩へ回す。
銃把が鎖骨の下へ入った。
「く……っ!」
呼吸と回転が崩れる。
イーピンは身体ごと押し込んだ。ラルの掌が肩へ触れ、斜めへ送る。雨の死ぬ気の炎が触れたところで赤い噴出がわずかに遅れ、肩は空を切った。
ラルの口元が僅かに動く。
イーピンは左肩を落とし、次の掌を右から出した。
ラルの手は掌へ向かわず、肘の付け根へ先に入る。膝へ炎を送れば軸脚を崩され、肩へ回せば銃把と雨の死ぬ気の炎がその継ぎ目を潰した。
流れを繋ぐたび、今度は繋がる場所を切られる。
呼吸が荒れ、腕も脚も痛む。それでもイーピンはラルから目を外さなかった。
ラルの掌が額へ迫る。
イーピンは身体を傾けながら手を伸ばした。
指先がラルの裂けた袖を掠め、嵐の死ぬ気の炎が一筋走る。
その炎を、ラルの目が追った。短銃の引き金へ指がかかる。
その直前、白い膜の向こうで鎖が鳴った。
ランチアの鉄球の鎖は、まだ彼の手元で張っている。ラルの照準が止まり、膜の向こうで暗い炎が揺れた。