Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
目を開けると、自分の部屋の天井があった。
カーテン越しに朝の光が入っている。机の上には、開いたままの教科書。枕元のスマートフォンは、鳴り終えたアラームの画面をそのまま残していた。どこにでもある、何でもない朝だった。
窓の外では、通学時間のざわめきが始まっている。遠くで車が走り、近所の家のドアが閉まり、誰かが階段を下りていく。その音の一つひとつが、ここが自分の日常なのだと告げていた。
「……夢」
呟いてから、藤丸立香は少しだけ黙った。
夢にしては、感触が残りすぎている。白い廊下。遠くの扉。窓の向こうにいた誰か。最後に届いた女性の声。思い出そうとすると、指の隙間から水が零れるように、言葉より先に温度だけが抜け落ちていく。
上体を起こし、額に手を当てる。汗はかいていない。息も乱れていない。けれど、胸の奥だけが、置き場所のない小さな痛みを抱えたままだった。
平和な朝のはずだった。
学校に行って、授業を受けて、友達と話して、家に帰る。昨日もそうだったし、今日もたぶんそうなる。そう思っても、不自然なほど簡単に信じられた。
何かを忘れている。
その感覚は、前からあった。眠りから覚めた直後、見ていた夢の内容をすぐに忘れてしまう時の、あの薄い引っかかりに似ている。困るほどではない。不便でもない。だから、日常はそのまま進んでいく。
進んでいく、はずだった。
ベッドから降りようとして、足先が床に触れた瞬間、藤丸は動きを止めた。
冷たい。
フローリングの硬さではなかった。もっと平らで、もっと無機質で、体温を返してこない冷たさだった。
「え……?」
見下ろす。
そこにあったのは、自分の部屋の床ではなかった。
白い床。
瞬きをした次の瞬間、机も、教科書も、カーテンも消えていた。さっきまで窓の外で鳴っていた朝の音もない。代わりに、目の前には知っているはずの部屋があった。
カルデアの自室。
その認識が浮かんだ瞬間、何かが一気に決壊した。焼けるような熱を伴って、記憶が流れ込んでくる。
特異点。
レイシフト。
人理修復。
終局特異点。
失ったもの。
守れたもの。
異聞帯。
空想樹。
白紙化した世界。
カルデアで交わした無数の言葉。
別れ。
決断。
最後に見た空。
そして何より――誰よりも先に浮かんだのは、盾を抱いた少女の姿だった。
息を呑む。
胸の奥を、強い熱が貫いた。
「……マシュ」
名前が、零れた。
それが合図だったみたいに、膝が折れかける。壁に手をついた。息がうまく吸えない。心臓だけが、信じられないほど強く脈を打っている。
自分は何を忘れていたのか。何を置き去りにして、平穏な朝を当然みたいに受け取っていたのか。
――思い出した。
しばらく、そのまま動けなかった。
胸の奥で、ばらばらの頁が一斉に開いた。
戻ってきた記憶は、綺麗に並んだ記録ではなかった。管制室のざわめき。食堂の匂い。廊下ですれ違った時の何気ない挨拶。無茶をした時に、本気で怒ってくれた声。誰かに背中を押された感触と、誰かの背中を見送った時の息苦しさが、区別もつかないまま胸の奥へ流れ込んでくる。
肩を並べて進んだ時間があった。示された道筋があった。最後まで残された問いがあった。怒鳴り声の奥に、隠しきれない優しさがあった。短い返事ひとつで、そこにいてくれると分かる相手もいた。
笑顔も、別れも、勝利も、後悔も、全部が一度に戻ってきた。
そして、通信越しに何度も聞いた、もう返ってこない、少し頼りない声まで思い出してしまった。
胸が痛い。けれど、泣くところまで心が追いつかない。藤丸は壁に手をついたまま、ただ息をすることだけを続けた。
端末の着信音が鳴った。
短く、鋭い音だった。藤丸は肩を震わせ、それから反射的に端末へ目を向けた。
『藤丸くん。聞こえるかい』
声を聞いた瞬間、喉が詰まった。
「……ダ・ヴィンチちゃん」
『うん。よかった。ちゃんと反応してる』
いつもの調子に近い声だった。けれど、ほんの少しだけ早口だった。向こうも落ち着いているわけではないのだと、藤丸には分かった。
『状況説明は管制室でやる。まずは来てほしい。歩ける?』
「歩ける。ありがとう。……マシュは?」
名前を出すだけで、喉の奥がまた詰まりかけた。
『いる。無事だよ。君より少し早く目を覚まして、今は管制室にいる』
藤丸は目を閉じた。息を吐いたつもりだったが、うまく吐けなかった。
「そっか……よかった」
『直接会って話すといい。……ただし、今は施設全体が変な状態だ。廊下に出たら、外部確認用の観測パネルを一枚開く。管制室へ来る前に、少しだけ確認しておいてくれ』
「変な状態って、何が起きてるの?」
『霧だ。カルデアの外が、全部白い霧で覆われている。詳しくは管制室で説明する。急いでほしいけど、焦らなくていい。今の君は、目を覚ましたばかりで、記憶も一度に戻った直後だからね。足元だけは気をつけて』
「分かった。すぐ行く」
『あと、藤丸くん』
「どうしたの?」
『おかえり。これは、管制室で言うと泣く人が増えそうだから、先に言っておく』
藤丸は少しだけ笑った。
「……ただいま」
扉が開く。廊下の白い誘導灯が、管制室の方向へ点滅していた。
藤丸は誘導灯を追って、廊下へ出た。数歩進んだところで、壁際の外部確認用パネルが低い音を立てて開く。
白い。
外にあるはずの山も空も見えなかった。強化ガラスの向こうは、奥行きが分からなくなるほど白く、施設の外壁のすぐ先で景色が途切れているようだった。
藤丸は立ち止まりかけた。怖かったわけではない。ただ、その白さが、あの廊下の色と重なって胸の奥をざわつかせた。
けれど、長く立っている余裕はない。マシュは管制室にいる。ダ・ヴィンチちゃんも、きっとそこで待っている。
藤丸は一度だけ息を整え、管制室へ向かった。