Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
管制室の自動扉が開いた瞬間、音が押し寄せてきた。
警告音とスタッフの声が重なっていた。正面の大型モニターには、白い霧に覆われた外部映像が映っている。端末を叩く音は途切れず、誰もが自分の席で動き続けていた。怒鳴り声はない。けれど、ひとつでも手順を間違えれば、この場所ごと霧に飲まれるのではないかと思わせる緊張があった。
藤丸が入口で足を止めると、何人かがこちらを見た。すぐに作業へ戻る者もいた。目元だけで笑って、何も言わずに端末へ向き直る者もいた。
ムニエルだけが、端末を抱えたまま固まっていた。
「……マジでいる」
「ムニエル。手が止まってるわ」
セレシェイラが横から言った。声はいつも通りに聞こえたが、目元は少し赤い。
「止まるだろ普通! いや、止まってない。動かしてる。今、めちゃくちゃ動かしてる」
「口だけ動いてるわ」
「痛いところを正確に突くな!」
誰かが小さく笑った。数秒だけ、管制室の空気が緩む。藤丸も笑いそうになった。けれど、その前に名前を呼ばれた。
「先輩」
藤丸は、声のした方へ向き直った。
マシュがいた。
マシュは白い制服姿で立っていた。盾も戦闘装備もない。けれど、藤丸の中に真っ先に浮かんだ、あの盾を抱いた少女と同じように、背筋はまっすぐ伸びている。カルデアでの旅を、始まりから共に戦い抜いてきた相手。思い出の中で何度も名前を呼んだ、大切な存在。その人が、いま目の前にいる。目が合った瞬間、マシュの表情が少しだけ揺れた。泣き出しそうになるのをこらえているのだと分かって、藤丸は胸の奥が強く詰まった。
藤丸も、すぐには言葉が出なかった。会えてよかった。無事でよかった。それだけでいいはずなのに、胸の中には言葉にならないものがいくつも渦巻いていた。けれど、最初に伝えるべきことだけは分かっていた。
マシュが一歩近づく。
「おかえりなさい、先輩」
声は震えていた。けれど、最後まで崩れなかった。
藤丸は息を吸った。
「ただいま、マシュ」
言えた途端に、胸の奥が少しだけ楽になった。マシュは小さく頷く。それだけで、二人の間にあった長い時間が、ほんの少し今に戻ったような気がした。
「本当は、もっと色々聞きたいです」
「俺も。マシュがいつ目を覚ましたのかとか、ここがどうなってるのかとか、聞きたいことが多すぎる」
「はい。でも、今は先に状況確認です。……その、ダ・ヴィンチちゃんに止められました」
「ああ。僕が止めた」
中央卓の向こうで、ダ・ヴィンチちゃんが片手を上げた。笑ってはいる。けれど、目はモニターから離れていない。
「感動の再会は大歓迎だよ。だけど、今はカルデアが丸ごと霧の中だ。泣くのはあとにしよう。僕もたぶん泣くから」
「ダ・ヴィンチちゃんがそう言うと、逆に心配になるんだけど」
「心配してくれて嬉しいけど、今だけはその心配を仕事に回そう。こっちも、君の顔を見て安心してる場合じゃない」
その時、管制室の奥から別の声がした。
「余裕がないなら、もっと簡潔に話しなさい。あなたたち、再会のたびに会話が長いのよ」
藤丸は目を見開いた。ほんの一瞬、警告音も端末の打鍵音も遠のいた。
オルガマリー・アニムスフィアがいた。カルデアの最初の所長。失われたはずの名前。けれど彼女は、記憶の中の姿ではなく、いまこの管制室の奥で腕を組み、こちらを睨んでいた。堂々と立っているのに、藤丸と目が合った一瞬だけ、その視線がかすかに揺れる。
「所長……?」
「ええ。そう呼びなさい。少なくとも今、この場で指揮権を取れる人間が必要でしょう」
「でも、どうしてここに」
「知らないわ」
返事は早かった。強い声だった。けれど、突き放すための言い方ではなかった。分からないことを、分からないまま認めるしかない声だった。
「……私が一番知りたいわ。自分がどういう状態なのかも、なぜここにいるのかも、まだ説明できない。でも、ここにいる以上、仕事はする。それだけよ」
藤丸は言葉に詰まった。
オルガマリーは、少しだけ目を伏せた。
「……何よ。その顔。化け物でも見るみたいに見られるよりは、ずっとましだけど」
「違います。そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、何」
「また会えて、驚いて……それと、少し安心しました」
オルガマリーは一瞬黙った。頬がわずかに強張る。
「……そう。なら、その驚きはあとで処理しなさい。今は報告を聞く時間よ」
ムニエルが小声で「所長、照れてない?」と言い、セレシェイラが無言で肘を入れた。ムニエルは短く呻き、それ以上は何も言わなかった。
ダ・ヴィンチちゃんが咳払いをする。
「さて。本題に入ろう。まず外部だ。見ての通り、カルデアの周囲は白い霧に包まれている。成分だけを見れば、霧に近い。でも、通信も、観測も、座標固定も、ある箇所を除いて、外へ伸ばした途端に乱れる。今のカルデアは、白いものに覆われているだけじゃない。外界と断絶されている」
「ある箇所、ですか?」
マシュがすぐに聞き返した。
藤丸も、同じところで引っかかっていた。全部が乱れるのなら、外の様子を語ることさえできない。けれど、ダ・ヴィンチちゃんは今、たしかに例外があると言った。
ムニエルが端末を覗き込みながら、小さく顔をしかめる。
「こういう時の“除いて”って、だいたい良い意味じゃないんだよな……」
「ムニエル。手、止まってるわ」
セレシェイラが、視線を端末から外さずに言った。
「いや、これ私語じゃなくて経験則っていうか」
「経験則でも、手は動かして」
「はい」
短いやり取りの間にも、ダ・ヴィンチちゃんの指は止まっていなかった。白く塗り潰された外部映像の上に、四つの淡い光点が重なる。
「完全に何も拾えないなら、まだ話は単純だった。外へ向けた観測線の大半は途中で沈む。通信も座標固定も、まともに届かない。けれど、霧の中に四つだけ、反応が残る場所がある」
「そこが、外へ出る道なんですか?」
藤丸が聞くと、ダ・ヴィンチちゃんは首を横に振った。
「残念だけど、出口とは呼べない。見えているというより、引っかかっているに近い。こちらが外を読めているわけじゃない。霧の中で、そこだけが観測線に影を落としている」
オルガマリーが腕を組み、モニターを睨む。
「つまり、閉じ込められているうえに、変な目印だけは残されているわけね。趣味が悪いわ」
「同感だよ。今分かっているのは、トリスメギストスが通常の待機状態から外れて、非常時演算に入っていること。霧の中に四つの局所異常を検出したこと。それから、外へ向けた観測線のほとんどが途中で力を失うことだ」
ダ・ヴィンチちゃんが別の投影図を開いた。白い霧の輪郭へ向かって伸びた観測線が、外へ抜ける直前で淡く沈んでいる。何かが返事をしているようには見えない。ただ、境界へ触れる前に、線そのものが力を失っていた。
藤丸は画面を見つめた。白い線が消えていくたびに、胸の奥がざわつく。さっきまでいた白い廊下の色が、強化ガラスの向こうに広がる霧と重なって見えた。
「藤丸くん?」
ダ・ヴィンチちゃんが気づいて、こちらを見る。
「……目が覚める前に、白い廊下にいたんだ。奥に扉があって、その向こうに誰かがいた」
マシュが小さく息を呑んだ。ダ・ヴィンチちゃんの指が、端末の上で止まる。管制室の音が消えたわけではない。けれど、その場にいる何人かが、同じ言葉に引っかかったのが分かった。
「誰か、というのは?」
ダ・ヴィンチちゃんが尋ねる。問い方は穏やかだったが、声の底には緊張があった。
「顔も名前も分からない。姿も、扉の向こうの影みたいにしか見えなかった。ただ、声は聞こえた。俺を待っていたみたいに、“来たのね”って」
「先輩を、知っている方だったのでしょうか」
「分からない。会ったことがあるのか聞いたら、会ったことがあるとは言えない、でも初めてでもないって言われた」
ムニエルが思わず顔をしかめる。
「なにそれ、怖っ……いや、ごめん。今のは普通に怖かった」
「率直な感想としては分かるけれど、今は黙って入力」
セレシェイラに言われ、ムニエルは慌てて端末へ向き直った。藤丸は、そこで一度息を整える。白い廊下の静けさと、扉の向こうの声が、まだ耳の奥に残っていた。
「あの場所と、この霧が同じものだとは言えない。でも、別々のものとして片づけるのも違う気がする。あの白さを見た時、同じ場所じゃないのに、同じものに触れたような感じがした」
ダ・ヴィンチちゃんは短く頷き、端末へ記録を入れた。
「了解。藤丸くんの体験として記録する。カルデアに戻る前に見たものなら、ただの夢として切り捨てるには早い。霧と同一視もしない。ただ、関係ないと決めつけるのも危険だ。今は、白い廊下に関する未確定証言として並べておくよ」
「うん。ありがとう」
ダ・ヴィンチちゃんは画面を切り替えた。
「次に、霊基グラフの異常について話す」
表示された霊基グラフには、カルデア側が現時点で比較的安定して確認できる三つの霊基反応が並んでいた。エミヤ。マンドリカルド。そして、ジャンヌ・オルタ。最初の二騎は通常反応に近い。けれど、ジャンヌ・オルタの名前だけが、通常霊基に近い値を示しているにもかかわらず、別枠の赤い警告と重なって点滅していた。
「通常霊基……?」
その表示を見た瞬間、藤丸は息を止めた。
それは、ただ懐かしい名前が戻ってきたというだけの表示ではなかった。ジャンヌ・オルタとは、あの時、新宿で――そしてイドで、確かに向き合ったはずだった。彼女は、カルデアが果たすべきだった清算を、自分の意思で引き受けてくれた。その決断があったからこそ、今、何事もなかったように通常霊基に近い反応を返していること自体が怖かった。戻ってきた、と思っていいのか。それとも、戻されたのか。胸に灯った熱が、すぐに痛みに変わる。
マシュも画面を見て、表情を引き締めた。
「通常の復帰ではありません」
「マシュは、先に聞いてた?」
「はい。一次説明は受けました。でも、説明を聞いたからといって、簡単に受け入れられるものではありませんでした」
ダ・ヴィンチちゃんが静かに続けた。「問題はそこだ。彼女は、カルデアが向き合うべきだった清算を、自分の意思で引き受けてくれた。その縁が、何事もなかったように通常霊基に近い形で反応を返している。霧の影響かどうかはまだ断定できないけれど、通常接続に戻ったわけじゃない。閉じたはずの縁が、こちらの霊基グラフに通常のものとして扱われていること自体が異常なんだ」
ダ・ヴィンチちゃんの声は、いつもより低かった。怒鳴ってはいない。けれど、画面を見つめる横顔には、はっきりと怒りがあった。
「録音の再生でも、影でもない。向こうの意思は確かに反応している。けれど、霊基パターンの輪郭に対して、グラフ上の接続だけが不自然に整いすぎている。本人が望んで戻ったのか、誰かが通常接続の形へ無理に押し込んだのかは、まだ分からない」
「……誰かの意思があって、通常の霊基に戻されている可能性があるんだね」
藤丸の声は、自分で思ったよりも低かった。ダ・ヴィンチちゃんは頷く。
「分かるかい、藤丸くん。彼女たちは、それぞれの意思で、背負うものを背負って別れや区切りを選んだ。もし、その決断まで誰かが勝手にこちら側へ戻しているのだとしたら、それは再会じゃない。背負ってきた時間に、土足で踏み込むのと同じだ」
藤丸は画面の名前を見つめた。会いたい。それは間違いない。声を聞きたいと思ってしまう自分もいる。けれど、その気持ちを理由に、彼女たちが選んだ別れをなかったことにはできなかった。
「会いたい。会いたいけど……みんなが選んだ決断まで、こっちの都合でなかったことにはしたくない」
「そう。まず確かめるべきなのは、相手の意思だ」
オルガマリーが腕を組んだまま言う。
「感傷を捨てろとは言わないわ。嬉しいなら嬉しいでいい。けれど、その嬉しさで判断を急がないこと。相手の決断まで、自分たちのために使わない。まず確かめるべきなのは、戻ってきたという事実じゃなく、その意思よ」
「はい。嬉しい気持ちはあります。だからこそ、そのまま受け取らない。まず、本人の声を聞きます」
オルガマリーはそれ以上言わなかった。少しだけ視線を緩め、ダ・ヴィンチちゃんへ顎を向ける。
「それで、この三騎は第一の局所異常へ向かう候補、という理解でいいのね?」
「うん。霧内座標へ接続した場合の同調負荷、藤丸くんとの相性、現時点での霊基安定率を合わせると、この三騎が一番ましだ。ただし、赤い異常表示を示しているのはジャンヌ・オルタだけだ」
藤丸の息が止まった。
「……今、確認できる?」
「危険はある。けれど、第一の局所異常へ向かうなら、同行戦力は必要だ。こちらの都合で呼びつけるんじゃない。声が届くか、まず確かめる。応えてくれたなら、その時に判断する」
数秒後、管制室の一角に霊基の輪郭が浮かんだ。完全に実体化しているわけではない。けれど、声は届いた。
『状況は聞こえている。マスター、まずは呼吸を整えろ』
落ち着いた声だった。藤丸は、胸に溜まっていた息をゆっくり吐いた。
「エミヤ」
『ああ。君がまた妙な場所に巻き込まれていることだけは分かった』
「そこは……否定できないかな」
『それと、管制室にいる誰かが“食堂も安心だ”と言ったのも聞こえた』
ムニエルが目を逸らした。
「いや、だってさ。エミヤがいると、なんか全体的に安心感があるっていうか」
エミヤは少しだけ目を細めたように見えた。
『任務前に食堂の話をする余裕があるなら、まだ最悪の状況ではないらしいな』
「来てくれて助かった。すごく頼りにしてる」
『了解した。状況が不確かならなおさら、こちらも油断はしない』
その言葉に、藤丸の背筋が少し伸びた。笑って終わらせていい状況ではない。けれど、声を聞けたことまで否定しなくていい。そう思えた。
次に、少し遠慮がちな声が入る。
『えっと……俺も、聞こえてます。なんか、その、こういう時に出てきていいのか分かんないんすけど』
「マンドリカルド」
『はい。……いや、はいって返事も変か。お久しぶり、でいいんすかね』
「いいと思う。来てくれてありがとう、マイフレンド」
『うわっ』
マンドリカルドの声がひっくり返った。
『いや、嬉しいんすけど! 嬉しいんすけど、管制室でそれ言われると、俺の霊基安定率が別の意味で不安定になるっていうか!』
セレシェイラが端末を見て、真顔で言った。
「実際、少し揺れました」
「え、今ので揺れたの?」
「たぶん感情反応です」
藤丸は今度こそ少し笑った。マンドリカルドも困ったように笑う。張り詰めていた空気の端に、人の声が戻ってくる。
そして、最後の声が来た。
『……なに笑ってんのよ』
藤丸の表情が止まった。
聞き慣れた、刺々しい声。怒っているようで、そうではない。怒っている形を取らないと、うまく話せない時の声だった。
「……ジャンヌ・オルタ」
『何よ、その顔』
「少し、言葉を探してた」
『探すほどのことじゃないでしょ。私は見ての通り、ここにいる。完全な状態じゃないけど、声は届いてる。それで十分よ』
藤丸はすぐに返事ができなかった。嬉しいだけではなかった。痛みも、戸惑いも、胸の奥で同時に動いた。
「来てくれて、ありがとう。今は、それだけ言わせて」
『礼を言うのは早いわよ。私はあんたの都合で都合よく呼ばれたわけじゃない。こんな雑な繋ぎ方をされたから、黙っていられないだけ』
「うん。分かったつもりで済ませないようにする」
『だったら顔を上げなさい。暗い顔でこっちを見るくらいなら、いつも通り指示を出しなさいよ、マスター』
藤丸は深く息を吸った。嬉しい。痛い。怖い。全部あった。それでも、今は前を向ける。
「三人とも、よろしく」
エミヤが頷く。マンドリカルドが小さく返事をする。ジャンヌ・オルタはそっぽを向いたように見えた。
『足を引っ張ったら燃やすわよ』
「それ、味方に言う台詞かな?」
『味方だから言ってんのよ』
管制室に、短い笑いが戻った。