Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
第1話 白霧に落ちる星
落ちる、と悟った瞬間には、落下という感覚そのものが半分ほど崩れていた。
上から下へ向かっているはずの身体が、途中で見えない膜に引っかかったように鈍く軋む。重力だけが先に別の方向へ滑り、胃の奥がわずかに持ち上がった。喉の奥へ酸っぱいものが込み上げる。不快感だけがはっきりしているのに、頭と足のどちらが下を向いているのか、その単純な感覚まで白い層の中でほどけていく。
視界は白い。
ただの濁りとは質が違った。手を伸ばせば届きそうな近さにあるのに、焦点を合わせた瞬間だけ、一枚ぶん、二枚ぶんと奥へ逃げる。薄い膜が幾重にも重なり、その隙間へ自分が押し込まれていく。白の中に奥行きがある。そのこと自体が、ひどく気持ち悪かった。
息がうまく吸えない。喉を通る感触はある。胸も動いている。なのに、吸った手応えだけが途中で途切れる。肺の奥まで届くはずの空気が、どこかで削られているみたいに薄い。残るのは空白だけだった。
耳の奥で、鼓動だけが大きく響いていた。一拍抜け、遅れて、取り返すように跳ねる。その不安定な振動だけが、ここにある唯一の現実みたいだった。
――これは、移動とも落下とも違う。
身体が先に拒んだ。カルデアの技術でどこかへ降りる時の感覚と、根から違う。送られる手応えも、目的地へ向かう足場もない。世界の綻びへ、自分ごと引っかけられている。背骨の内側へ、そうとしか受け取れない冷たさが貼りついてくる。
その直後だった。
触れられた。
皮膚の表面を撫でる接触とは別物だった。冷たさも熱も伴わず、痛みよりずっと直接的に、自分の内側へ指を差し込まれたような感覚が走る。骨でも血でも届かない、もっと深いところ。自分を自分として動かしている芯のような場所へ、静かに何かが触れていた。
壊すより先に、測っている。
その嫌な確信に、藤丸は反射的に身を竦めた。入り込んだものは、逃れようとする意識より早く、身体の奥を巡っていた流れへ触れている。熱に似たもの。身体の奥を支えていたもの。呼び方を探す余裕もないまま、それが自分を動かす前提の一部だったことだけが、触れられた瞬間に胸へ落ちた。
剥がされる。
薄くなる手応えは、少しずつ来た。そこにあるはずだった重さだけが、確実に削られていく。血が抜ける感覚とも、筋力が落ちる感覚とも違う。もっと根本的な、存在の重さそのものを削られていくような不快感だった。
誰かが、自分を測っている。
測った結果を使って、自分に手を入れている。
その認識へ追いついた瞬間、背筋が冷えた。姿は見えない。声もない。だが、その触れ方だけで分かる。こちらの都合など見ていない。藤丸立香という人間を、必要な輪郭へ削るための材料として扱っている。その扱われ方が、余計に気味悪かった。
やめろ、と言おうとした。
声は出なかった。白い層の中で喉だけが動き、音になる前の息が薄くほどける。その隙間へ、さらに何かが入り込んだ。首元。胸の奥。自分の中心から、細い糸を引き出されるような感覚。奪われたものが、別の器へ無理やり結び直されていく。
嫌だ。
そう思った時には、もう世界が来ていた。
灰色が視界へ流れ込む。電柱。住宅の壁。アスファルト。角を曲がる道路。町の輪郭が、一息に目の前へ押し寄せた。
着地の手応えまでおかしかった。途中で勢いだけを削がれ、柔らかく押し返されるように減速し、そのままアスファルトへ落ちる。衝撃が薄いことが、かえって異常だった。
それでも身体は上手く動かない。受け身を取ろうとして伸ばした腕が、思ったより短い。体重を支えきれずに崩れ、肩から転がった。背中を打ち、遅れて肘と膝へ鈍い痛みが走る。肺の中の空気が押し出され、喉の奥で潰れた息が跳ねた。
冷たい路面に手をつく。
ざらりとしたアスファルトの感触が、遅れて現実を連れ戻した。
その瞬間、違和感が来る。
近い。
何もかもが、思っていたより近すぎる。路面が顔に近い。道路脇の縁石も低すぎる。起き上がろうとして腕へ力を込めた瞬間、その距離感のズレが一気に表面化した。届くはずの位置へ手が届かない。踏み出したつもりの一歩が短い。身体の軸が、前提から狂っている。
「……え」
漏れた声が、自分の耳に違うものとして届いた。少し高い。喉を震わせた時の響き方も、自分の知っているものと噛み合わない。
視線を落とす。
手が小さい。指が短い。掌の厚みも違う。腕も細い。
遅れて、認識が追いついた。
――縮んでいる。
幼く、なっている。
認識が固まるより先に、服が目に入った。カルデアで着ていたはずの服だ。だが、余りがない。今のこの身体へ、不自然なほどぴたりと合っている。着替えた覚えも、裂けた感触もない。ただ、自分の身体と同じ流れで、服の寸法まで変えられていた。
白い層の中で触れられた感覚が、指の先まで蘇った。
身体だけが変わったのでは済まない。自分に属していたものごと、まとめて手を入れられている。
胃の奥が、ぎゅっと縮んだ。
首元に、硬い感触がある。
藤丸は小さくなった指先で、そこに触れた。丸い。小さな器のような輪郭をしている。けれど、何なのか分からない。首にかけられた飾りとは違う。外から付けられた品なら、指先で触れた瞬間にそう分かるはずだった。
皮膚の上にあるのに、もっと深いところへ糸を伸ばされている。さっき白い層の中で剥がされた手応えの一部が、そこへ無理やり結び直されている。そう思った瞬間、指先が冷たくなる。
外れない。
力を込めても、首元のそれは動かなかった。装飾品という軽さがない。身体の変化と一緒に、自分という存在へ縫い込まれている。
その異物感に気を取られかけて、藤丸はようやく気づいた。
静かすぎる。
町全体より先に、自分の周りが静かだった。
「……エミヤ?」
呼んでも、返事はない。慌てて視線を巡らせる。赤い外套も、黒い衣も、無骨な剣を携えた姿も見えない。霊体化しているだけなら、気配くらいは分かる。すぐそばにいるのなら、胸の奥で繋がりが揺れる。けれど今は、その手応えが薄い。細い糸だけが胸の奥に残っている。どこかにいる。いるはずなのに、白い層の向こう側へ置き去りにされたみたいに遠かった。
「ジャンヌ・オルタ……マンドリカルド……!」
声は出た。だが、届いた感触がない。自分の身体だけでなく、連れてきたはずの三騎の輪郭まで、あの白い層の中でほどけかけている。
その認識が、遅れて藤丸の背中を冷たく撫でた。
耳が妙に静かだった。風はある。だが、音が少ない。車の音も、人の話し声も、テレビの漏れる生活音も聞こえない。なのに、町そのものは死んでいない。二階建ての住宅が並び、塀の内側には植木鉢が置かれ、窓の内側にはカーテンの揺れ残りのようなものだけがある。
生活の気配だけが残って、今この瞬間の人だけが綺麗に抜き取られていた。
住宅街だった。日本のどこにでもありそうな、狭い道路と低い塀に囲まれた街区。だが、見れば見るほど落ち着かない。目の前の家と、その隣の家との距離が妙に近い。瞬きをすると、今度は少し離れて見える。視線を動かすたび、建物同士の位置関係がわずかにズレる。崩れても、壊れてもいない。ただ、最初からそこにあったはずの配置だけが、少しずつ噛み合わなくなっている。
遠くに見えた看板も、次に見た時には角度が違っていた。覚えている景色と、今見ている景色が、同じなのに一致しない。
その時、視界の端で電柱のプレートが引っかかった。古びた金属板。かすれた表示。並盛町。
読み取った瞬間、その地名だけが妙に重く頭へ残った。知らないはずの町なのに、どこかで一度触れたような既視感がある。けれど、その違和感を掴みきる前に、別の気配が首筋を撫でた。
何かがいる。
振り向く。
道路の向こう、電柱の影がわずかに揺れていた。
黒い。
人の輪郭に近い。腕の長さが合っていない。脚の位置がずれている。何かを真似しようとして、途中で止まったような姿だ。しかも表面は炎に似て揺れているのに、熱がない。光もない。ただ黒だけが、人の影を思い出しかけたみたいに揺れていた。
さらに、数が増える。左の塀の向こう。屋根の縁。細い路地の奥。視線をやるたび、同じような黒い輪郭が、いつの間にかそこへ立っている。
不気味なやつだ、と思った。
次の瞬間、そのうちの一体がこちらへ踏み出した。
走る。
考えるより先に身体を動かす。だが、一歩目でつまずいた。足が上がらない。路面との距離感が合わない。立て直す前に、背後から気配が迫る。
近い。さっきまで数メートルあったはずなのに、もう手の届く位置にいる。思考が追いつく前に、黒い腕が迫った。
間に合わない。
その瞬間――
空気が、爆ぜた。
視界の外から何かが通った。音より先に、圧だけが頬を打つ。次の瞬間、目の前へ迫っていた黒い炎の化け物が、横から叩き潰されていた。黒い輪郭が崩れる。燃え尽きる感触はなく、身体を維持する力だけが切れたみたいにほどけ、音もなく消えていく。
だが、その消え方は完全な消滅に見えなかった。砕けた黒い炎の欠片は、粒子のようにほどけ、細い流れになってどこかへ引かれていく。藤丸には、その意味が分からない。ただ、倒したものがどこかへ戻っていったような嫌な感覚だけが残った。
その中心に、一人立っていた。
少年だった。
橙色の炎が額に灯り、身体の周囲を静かに揺れている。派手な威圧感は薄い。燃えているのに、落ち着いている。その静かな炎の中に、迷いのなさだけが一本通っていた。
呼吸が詰まる。速いとか、強いとか、そういう感想より先に、助かった、という事実だけが胸へ落ちてきた。
少年は振り返る。
視線が合った。
その目は冷たくない。だが甘くもない。状況を一瞬で把握したうえで、次に何をするかをもう決めている目だった。
声が落ちる。
「……赤ん坊?」
確認するみたいな、短い響き。だが、少年の視線はそこで止まらなかった。藤丸の身体を見て、その背後へ流れる。カルデアから一緒に落ちたはずなのに、白い層の中で気配ごと薄れていた三つの輪郭へ。
空気が揺れた。最初に来たのは違和感だった。次に、空間の歪み。そして、輪郭。
何もないはずの場所へ、細い線が走る。ひび割れにも似たその歪みは、少年の橙色の炎が藤丸へ触れたタイミングと重なって広がり、白い層の中でほどけかけていた繋がりを、一瞬だけ結び直した。
最初に輪郭を取り戻したのは、赤い外套を羽織り、戦場を見極めるような目をした男だった。次に、黒を基調とした衣装をまとい、燃えるような気配を宿した女。最後に、無骨な剣を携え、頼りなさと誠実さを同じ場所に抱えた男。
肩口は薄く、輪郭も少し揺れている。だが、さっきまで声も気配も届かなかったことを思えば、今は見えると言えるところまで戻っている。少年の炎が近くにあるだけで、三騎の輪郭が少しずつ現実へ寄ってくる。
藤丸は、それを身体の奥で感じ取った。力を与えられた感覚とも、傷を癒やされた感覚とも違う。もっと手前の、この場へ繋ぎ止められる最低限の足場だけを、辛うじて整えられたような感覚だった。
少年の目が、わずかに見開かれる。何もない場所に、三つの人影が浮かび上がった。見える者からすれば、突然現れたようにしか見えない。
けれど、藤丸には分かる。三人はずっと、そばにいた。カルデアから一緒に来て、白い層の中でほどけかけ、声も、気配も、指先から抜け落ちるように遠ざかっていた三人が、少年の橙色の炎に触れたことで、ようやく輪郭を取り戻しただけだ。
藤丸の胸の奥で、張り詰めていたものが少しだけ揺れた。けれど、安堵にはまだ届かない。ここがどこなのかも、この少年が誰なのかも、首元に縫い込まれた硬い異物が何なのかも分からない。
それでも、少年の視線は、三騎の姿を順に追い、最後に藤丸へ戻ってきた。警戒はある。驚きもある。けれど、そこに敵意はなかった。少なくとも、今すぐ切り捨てる目をしていなかった。
そのことが分かった瞬間、藤丸はようやく、自分が息を止めていたことに気づいた。浅く、細く、息を吸う。
少年の額で揺れる橙色の炎は、荒々しく燃えているのに、不思議と怖くなかった。目の前に倒れているものを見捨てないために、迷いを燃やして立っている。そんなふうに見えた。
この世界に落ちて、最初に見た背中がこの少年だったことを。
藤丸は、まだ何も知らないまま、ほんの少しだけ救いだと思った。
ただ、白い層に切り離されたこの町で、カルデアから連れてきた三騎の輪郭を繋ぎ止めたものが、目の前の橙色の炎だったことだけは分かった。
そして、その炎を見た瞬間、首元の硬い異物が、ほんのかすかに震えた。