Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
並盛神社へ続く石段は、町の中にある道の続きでありながら、そこだけ別の場所へ口を開けているように佇んでいた。
坂を上り切ったあたりで、住宅街に残っていた揺らぎが一段だけ薄くなる。家と家の距離が噛み合わず、塀の角度と道幅がずれていた気持ち悪さは、石段の手前で急に静まった。その代わり、空気の重さだけが変わる。靴を置いた石の硬さが、ようやく身体へまっすぐ返ってきた。
綱吉は藤丸を抱えたまま、石段の手前で一度だけ足を止めた。
胸の奥が、次へ進む前に息を整えろと訴えていた。さっきまで歩いてきた住宅街の歪みが背中へ残り、ここから先へ踏み入れるだけで、町の内側へさらに深く押し込まれる感覚がある。腕の中の藤丸も同じものを受け取ったのか、肩をわずかに強張らせた。小さくなった身体はまだ本人の感覚と噛み合っていないらしく、綱吉が抱え直すたび、喉の奥で息を探すように揺れる。
綱吉のすぐ後ろで、エミヤ、ジャンヌ・オルタ、マンドリカルドの輪郭が、また一段だけ濃くなった。
エミヤは赤い外套の裾を揺らし、ゆっくりと息を吐く。
「……少しずつだが、ようやくまともに実体化ができる」
声は、さっきまでより近かった。空間の奥で反響していた響きが、今は綱吉の背後から届いている。ジャンヌ・オルタは腕を組み、不機嫌そうな顔を崩さないまま、それでも境内の奥へ視線を向けていた。
「感じ悪い場所ね。けど、ここまで来るとさすがに輪郭が消えない」
マンドリカルドも剣の柄へ軽く触れ、周囲を見回す。
「……助かるのは助かるっすけど、こういう“近くにいないと保てない”の、気分いいもんじゃないっすね」
藤丸は綱吉の腕の中で、小さく息を呑んだ。三人の声が耳へ届いた瞬間、肩に入っていた力がほんの少しだけ抜ける。安堵へ寄りかけた息は、すぐにまた硬くなる。声が戻ったことで、自分たちがこの町へ辛うじて縫い止められている現実まで、いっしょに浮き上がったのだろう。
綱吉の大空の死ぬ気の炎が近くにある時だけ、三人はこの場に踏みとどまれる。その感触は、綱吉の胸にも薄く残っていた。
だが、今はそれを確かめている時間がない。
石段の上、境内の奥に、小さな影が五つ並んでいた。
* * *
最初に目へ飛び込んできたのは、赤ん坊が五人いるという異常な光景だった。
近づくほど、ただ幼い身体が並んでいるだけの光景から遠ざかっていく。服装が違う。立ち方が違う。互いの距離の取り方も違う。五つの小さな身体は、同じ境内にいながら、それぞれ別の刃物みたいに違う方向へ尖っていた。
軍人めいた装いの赤ん坊が一人。背筋は崩れず、視線だけで石段の下から上までを測っている。
黒いフードを深く被り、口元より上をほとんど見せない赤ん坊が一人。姿を隠す布の下で、周囲の動きだけは妙に冷静に拾っていた。
フルフェイスヘルメットとライダースーツに身を包んだ赤ん坊が一人。小さな身体に似合わない騒がしさを、いっそ威嚇に変えて立っている。
白衣を思わせる装いの赤ん坊が一人。視線は人を避け、境内の空気や石畳の歪みへ向いていた。
長い三つ編みを垂らし、静かな目をした赤ん坊が一人。穏やかな表情の奥で、立っている位置だけが微動だにしない。
五人は、誰かに横一列へ並べられた兵隊のようには見えなかった。それぞれの警戒を残したまま、ここへ来るしかなかった者たちが、同じ場所で互いを測っている。綱吉の腕の中で、藤丸の指が僅かに動いた。
石段をもう一段上がる。
獄寺の視線は一気に鋭くなり、山本も笑わないまま息を潜めた。クロームはわずかに目を見開き、了平は眠るランボを抱えたまま、境内の五人と綱吉たちとの間に体を置ける位置を探していた。
「……赤ん坊が、五人」
了平の呟きは、場の異常をそのまま掴んでいた。
その直後、背後から別の気配が落ちてくる。
「遅かったな、ツナ」
短く、低い声。綱吉が振り向くより少し早く、その声の主は石段の下から歩いてきていた。黒いスーツ。鍔のある帽子。落ち着き払った視線。小さな身体に似合わないほど自然な圧を持つその赤ん坊を見た瞬間、綱吉の肩から力が少しだけ抜けた。
「リボーン……!」
安堵が喉へ上がる。けれど境内の空気は緩まない。五人の赤ん坊に加えてリボーンまで現れたことで、この異常が自分たちの知っている側にも深く食い込んでいる感覚が、腹の底へ沈んだ。
リボーンは綱吉へ歩み寄りながら、境内にいる五人を一瞥し、それから藤丸へ視線を落とした。服装、身体の小ささ、首元の硬い異物、背後に立つ三騎の不安定な輪郭まで、短い目の動きで拾っていく。
「……そいつは誰だ」
綱吉は腕の中の藤丸を抱え直した。路地で聞いたことを、後から合流したリボーンへ渡す。
「藤丸立香っていう。さっきこの町に落ちてきたらしくて、白い層みたいなところで身体を小さくされたって。首のそれも、その時につけられたらしい」
藤丸は小さく頷いた。
「誰にやられたかは分かりません。姿も見てないし、声も聞いてないです」
獄寺が続ける。
「後ろの三人は藤丸の味方です。エミヤ、ジャンヌ・オルタ、マンドリカルド。本人も三人も今のところ敵意は見せてません。ただ、十代目の近くへ寄ると三人の輪郭が安定します」
山本も肩越しに三騎を見る。
「黒い炎の化け物とは全然違うな。藤丸を守る位置から動かねえし、ツナの炎が近い時だけ姿がはっきりする」
リボーンの目が細くなった。
「ツナの近くだけ、か」
綱吉は頷く。自分の大空の死ぬ気の炎が三騎へ何をしているのか、理屈までは掴めていない。ただ、路地で助けた時から同じ現象が続いている。
「俺も仕組みは分からない。でも、藤丸たちから嫌な感じはしない」
超直感が拾っているのは、今すぐ自分たちへ向く敵意がないというところまでだった。獄寺が警戒を残していることも、綱吉には当然だと思えた。
リボーンは藤丸と三騎をもう一度見て、帽子のつばを僅かに下げた。
「そいつらの話は後だ。今は町を見ろ。まだ黒いのが残ってる」
その一方で、了平は別の方向へ意識を向けていた。軍人めいた雰囲気の赤ん坊を見つけた瞬間、目の色が変わる。
「コロネロ師匠!」
了平が一歩前へ出る。呼ばれた側の赤ん坊もすぐに目を向けた。顔つきは引き締まっているが、その反応に驚きは混じらない。修行の中で何度も顔を合わせてきた相手へ向ける、自然な視線だった。
「おう、笹川か。無事だったか、コラ!」
異常な境内の中で、そこだけ見知った者同士の声が短く交わる。綱吉の胸に、偶然とは違う重みが増した。ここへ集められた者たちには、何か共通する線がある。
その声を合図にしたように、境内の緊張が少しだけ動いた。
コロネロは了平の顔を確かめると、すぐに視線をリボーンへ移した。懐かしむ時間はない。全員が小さな身体で、同じ異常に巻き込まれている。それだけで今は十分だった。
「町の外へは?」
リボーンが短く問う。
「出られねぇ、コラ。真っ直ぐ進んだつもりでも、いつの間にか戻される。白い包囲層が外周を囲ってやがる」
コロネロの返答に、獄寺が眉を寄せる。
「こっちも同じです。外へ抜けようとしたら、景色ごと巻き戻されたみたいになりました」
山本も頷いた。
「人もいねーな。生活の跡はあるのに、今ここにいる人間だけ抜けてる感じだ」
黒いフードの赤ん坊――マーモンは、山本の声が落ちたあとで小さく息を吐いた。
「それが町全体で起きているなら、偶然じゃない。かなり高くつく仕掛けだよ」
白衣を着た赤ん坊――ヴェルデは自分の時計ではなく、境内の空気そのものを観察していた。
「高くつく、で済めばいいがね。空間の境界が意図的に歪められている。閉じ込めるだけの仕掛けなら、ここまで全員を一点へ寄せる必要は薄い」
「集める?」
綱吉が聞き返す。
ヴェルデは答えかけて、藤丸の背後に揺れる三つの輪郭へ視線を向けた。
「君たちのそれも含めて、だ。通常のマフィア抗争では説明がつかない。ここにいる全員に共通しているものがある」
リボーンが帽子のつばを下げる。
「おしゃぶりを持つ連中まで揃ってる。偶然で済ませるには出来すぎだな」
その返しに、藤丸が小さく反応した。意味は掴めない。それでも、場にいる赤ん坊たちが同じ一点を警戒したことだけは受け取れた。綱吉の腕にも、藤丸の肩の硬さが伝わる。
スカルはその空気を壊すように、ヘルメット越しに叫んだ。
「おいおいおい! だから何なんだよ! 俺様、朝から変な白いのに巻かれて、知らない町にいるんだぞ! ちゃんと説明しろよ!」
「スカル、お前の説明が一番うるさい」
リボーンの一言に、スカルは涙目で震えたが、黙りはしなかった。
「だって怖ぇんだよ! 黒い化け物もいるし、こいつらもなんか怖いし!」
スカルの視線は、藤丸の背後で揺れるジャンヌ・オルタのあたりを行ったり来たりしていた。彼女が睨むと、スカルは靴先をずらしてリボーンの影へ寄る。
了平はその横で、ランボを抱え直しながら唸った。
「極限に、全員が巻き込まれているということだな!」
「声が大きいです……」
クロームが小さく言う。その声は細いが、周囲の白い層を見ている目は揺れていない。
「でも、了平さんの言うとおりです。ここにいる人たちの気配、全部この境内へ引っかけられているみたいに感じます」
綱吉は藤丸を抱えた腕に少し力を込めた。
京子も、ハルも、ランボの家族も、この町の人たちも戻っていない。黒い炎の化け物はまだ町を歩いている。町の外周は白い包囲層で閉じられ、境内には赤ん坊の姿になったリボーンたちが揃っている。
誰かが、自分たちをここへ寄せた。
* * *
そのとき、境内の空気が変わった。
鳥居の縄が揺れたわけでも、木々の葉が鳴ったわけでもない。周囲の音だけが、ほんの一瞬、遠くへ退いた。綱吉が振り向くより先に、白い幕が社の前へ差し込んでくる。
町中を塗り潰した白とは質が違った。薄い膜の残光に近いものが、境内だけへ滑り込み、社前の空間を一度だけ撫でる。
全員が身構えた。獄寺が綱吉の前へ肩を出し、山本も握りを変える。クロームは息を止めるように視線を細め、リボーンを含めた六人の小さな身体が一斉に白の中心を見る。
白い幕が薄くほどける。
そこに、少女が立っていた。白い帽子を被り、深い青紺色の髪を背へ落としている。十代前半ほどの背丈の少女は、小さな赤ん坊たちの中へ現れたことで、かえって境内の中心へぴたりと収まった。
ユニだった。
五人の小さな赤ん坊たちとリボーンが、その姿を見た瞬間に動く。誰より先に距離を詰めたのは、三つ編みの赤ん坊だった。続いてコロネロが位置をずらし、マーモンも視線を一気に鋭くする。リボーンですら、その目の奥に一瞬だけ露骨な緊張を見せた。
「ユニ!」
複数の声が重なった。
呼ばれた少女は少しだけ目を瞬かせ、それから周囲を見回した。直前までいた場所の感覚がまだ身体に残っているのか、視線がγを探すように動き、白蘭のいたはずの隣へ一度だけ戻る。だが、そこには社前の石畳しかない。
「……ここは……並盛、ですか?」
声は静かだった。けれど問いの底に、細い震えが残っていた。
ユニを気遣う声がいくつも飛ぶ。怪我はないか、何があったか、直前にどこにいたか。問いが重なっても、ユニはすぐに答えず、身体に残っている直前の景色を確かめるように息を整えた。
「さっきまで……γや、白蘭たちと一緒にいたはずなんです。大空のおしゃぶりを受け継いで、その直後で……それなのに、気づいたらここにいて」
綱吉の表情が止まった。
白蘭、と聞いた瞬間、獄寺の肩がぴくりと強張る。了平も山本も反応した。未来で自分たちを追い詰めた男を、忘れられる者はいない。
「……γも、いたのか」
獄寺の声は低かった。敵として戦い、最後には同じ場所へ立った相手を呼ぶ響きが、境内の空気を少し沈める。
ユニはその変化を受け止め、胸元のおしゃぶりへ指を添えた。
「母は、虹の呪いを解くための戦いが近く始まると予言していました。その戦いへ向かうために、大空のおしゃぶりと役目を私へ託したんです」
リボーンが帽子のつばを僅かに下げる。
「それで、お前自身は、この町へ来る未来を見ていたのか」
「いいえ。私の予知は、望んだ時に未来を選んで見る力ではありません。時々、未来の一場面が不意に浮かぶだけです。ここへ来る光景は、一度も見ていませんでした」
「分かってるのは、呪いを解く戦いが来ることだけか」
「はい。母から託されたのは、それだけです。この白い町も、ここへ集められることも、聞いていません」
ユニはそこで口を閉じた。大空のおしゃぶりは胸元にあり、継承直後までの記憶も途切れていない。それでも、目の前の境内は、母から聞いた戦いのどこにも重ならなかった。
リボーンが目を細める。
「なら、今は見えてるものだけで判断しろ」
「はい」
藤丸が短く息を吐き、綱吉は抱える位置を少し直した。藤丸が胸元へ寄ったぶん、背後の三騎の輪郭も僅かに濃くなる。路地から続いていた変化と同じだった。
次の瞬間、何もない空間に重みが生まれた。
社前の石畳の上へ、黒いケースが音もなく現れる。六人の小さな赤ん坊たちの前にそれぞれ一つ、最後に現れたユニの前にも一つ。そして、藤丸の前にも同じケースが一つ。
一瞬前まで空だった場所へ、八つの黒が並んでいた。最初からそこに置かれていたような自然さが、かえって気味悪い。
綱吉の指がわずかに動く。獄寺と山本も、次に何が起きるか分からないまま身構える。藤丸は息を止め、エミヤたちも視線を落とした。
最初に前へ出たのは、リボーンだった。
「ユニを下げろ」
短い指示に、周囲の小さな赤ん坊たちが即応する。コロネロと三つ編みの赤ん坊がユニの前へ壁を作り、マーモンは外周へ視線を流す。ヴェルデはケースそのものより、ケースの周囲で歪む空気を読むように目を細めた。
綱吉にも指示が飛ぶ。
「お前らも警戒しろ。何が来てもいいようにしろ」
綱吉は短く頷き、藤丸を抱え直した。獄寺と山本が左右へ開く。クロームは少し後方へ下がり、了平は眠るランボを支えたまま、それでも踏み込める位置を保った。
リボーンが黒いケースへ近づく。小さな手が蓋へ触れた瞬間、全てのケースが同時に開いた。
音はなかった。だが、閉じられていたものへ一斉に役目が流し込まれた気配がある。中には四本の腕時計が収められていた。おしゃぶりを模した意匠を持つ一本と、太い一本、それに細い二本。
ケースの中から光が走った。
リボーンの前のケースから伸びた四本の光のうち、一本はリボーン自身へ飛んだ。おしゃぶりを思わせる意匠のついた時計が、その腕へ強制的にはまり込む。一本は綱吉へ、残る二本は獄寺と山本の手首へ、最初からそう決まっていたみたいな正確さで巻きついた。
獄寺が息を呑む。山本が手首を見る。
「……なんだ、これ」
「勝手に、はまったな」
藤丸の前のケースからも、同じ数の光が走る。一本は藤丸自身へ飛び、おしゃぶりを思わせる意匠を持ちながら、他のものと少しだけ違う時計となって手首へ食い込んだ。綱吉には正体までは掴めない。ただ、藤丸の首元にある硬い異物と、今手首へ巻きついた時計とが、同じ方向を向いているような嫌な感覚だけが残った。
太いバンドを持つ一本はマンドリカルドへ飛ぶ。残る二本はエミヤとジャンヌ・オルタへ向かい、今なお輪郭の薄い三騎の腕へ、光そのものが叩きつけられるみたいに食い込んだ。そこへ存在を固定されるような衝撃に、マンドリカルドが僅かに遅れて自分の手首を見下ろす。
「え、ちょ、待っ……」
混乱はそこで終わらなかった。
他の六つのケースからも、同じように四本の光が走る。境内にいる小さな赤ん坊たちには、おしゃぶり型の一本が巻きついた。残る光は境内の外、並盛町のどこかにいる相手へ向かって伸びていく。ここにいない誰かの手首にも、同じものが届いている。
光が止む。
手首へ巻きついた時計だけが残った。
その直後、頭の奥へ役目が流れ込んだ。
耳へ音は届かない。誰かの説明もない。戦うための仕組み、参加者の役割、勝った時に与えられるもの、敗れた時に奪われるものが、完成した塊のまま押し込まれてくる。
アルコバレーノウォッチ、ボスウォッチ、バトラーウォッチ。
偽りの代理戦争。
ユニの指が胸元のおしゃぶりへ触れた。母から託されたのは、虹の呪いを解くための戦いだった。だが、頭へ押し込まれた仕組みは、同じ報酬を掲げながら最初から「偽り」と名乗っている。
綱吉の喉が一瞬だけ詰まった。獄寺が歯を食いしばり、山本も笑みを消したまま自分の手首を見る。クロームは肩を小さく震わせ、了平はランボを抱える腕に力を込めた。ユニは帽子のつばの下で静かに目を伏せる。六人の小さな赤ん坊たちも、それぞれ違う反応で、その押しつけられた役目を受け止めていた。
そして、マンドリカルドだけが、少し遅れて全部を飲み込んだ。
視線は自分の手首に止まっている。太いバンド。流れ込んだ役割。喉の奥で息が引っかかり、顔色が見る見るうちに変わった。
「いや、待って待って待って! おかしいでしょこれ! なんでよりによって俺がボスなの!? 普通こういうの、もっとちゃんとしたやつがやるもんじゃないの!?」
場違いな絶叫が、境内に響いた。
その声に答えるように、境内のウォッチが淡く光る。
町の外周を囲う白い包囲層の向こうで、何かが静かに、この歪な戦いの幕を開いた。
* * *
マンドリカルドの絶叫が境内へ消えたあとも、腕の時計は外れなかった。
綱吉は、自分の左腕へ視線を落とした。太いバンドが手首へぴたりと巻きつき、皮膚の上にある重さだけを残している。爪を差し込めそうな隙間はない。金具も留め具も見当たらず、肌と時計の境目だけが妙に曖昧だった。
気持ち悪い。
重さそのものより、そこへ役目が押し込まれている感触が嫌だった。何に使うのか、どう扱えばいいのかを聞いた覚えはない。それでも頭の奥には、押しつけられた役割だけが先に沈んでいる。
綱吉の腕には太い一本。獄寺と山本には細い一本。リボーンたちの小さな手首には、おしゃぶりを模した意匠を持つ一本。藤丸の手首に巻きついた時計は似ているのに、首元へ縫い込まれた硬い異物と同じ方向へ、細い糸を伸ばしているように見えた。
境内にいた全員が、自分の腕へ目を落としていた。針を刻む道具として眺める者は一人もいない。役割を勝手に押しつけ、外れないまま従わせるための枷が、腕の熱だけを奪って残っている。
獄寺は二度、三度と自分の時計へ指をかけた。爪を差し込もうとしても継ぎ目が見つからず、乱暴に引けば手首の内側へ食い込む。舌打ちを喉の奥で潰してから、綱吉の腕を見た。
「十代目、その太いやつ……たぶん、こっちのより上の役目です」
言われる前から、綱吉の手首はその重みを知っていた。知りたくもない役割が、皮膚の奥へ先回りしている。
山本も自分の手首を返す。細いバンドは軽い。けれど、いつものように笑って受け流すには、手首の内側へ残る熱が強すぎた。
「こっちはバトラー、だったな。聞き慣れねえけど、付き添い兼戦闘って感じか」
クロームは両手を胸元で重ね、小さく呼吸を整えている。了平は眠るランボを抱き直し、前へ出るべきか、一度下がるべきか、その両方を同時に測っているようだった。
藤丸も、自分の腕に巻きついた一本を見つめていた。小さな指がバンドの縁に触れ、すぐに離れる。首元の硬い異物を確かめた時と同じ、触れたものが自分の奥へ入り込んでくる感触を嫌がるような反応だった。
その背後では、エミヤ、ジャンヌ・オルタ、マンドリカルドも、それぞれ自分へ巻きついた時計を見ている。エミヤが一番早く冷静さを取り戻した。
「登録札より、拘束具に近いな。こちらが引き受ける前に、役割だけを押しつけてくる」
ジャンヌ・オルタは露骨に顔をしかめる。
「最悪ね。了承も取らずに役割だけ押しつけてくるなんて」
マンドリカルドは、まだ完全には立て直せていない。太い時計を何度も見下ろしては、情けないくらい正直な声でぼやいた。
「いや……でもこれ、本当に重いっすよ。いきなり『お前がボスだ』って押しつけられて、『はいそうですか』ってなるやついるっすか……?」
その声に、綱吉の胸の奥が少しだけ痛んだ。
自分も、似たものを何度も押しつけられてきた。ボス。十代目。継承。どれも手の中で角が立ち、いまだに掌へ痛みを残す。だから、マンドリカルドの戸惑いを笑えなかった。
境内の中央では、小さな身体をした六人とユニが、それぞれ違う沈黙で同じ異物を受け止めている。
コロネロは短く息を吐き、自分の時計より先に境内を見渡した。誰が焦り、誰が次の動きへ移ろうとしているかを拾っている。
スカルは手首の時計を乱暴に引いた。外れない。もう一度力を込め、それでもびくともしないと分かると、不機嫌そうに腕を振る。
マーモンは時計そのものより、周囲の反応へ目を向けていた。対してヴェルデの視線は文字盤から離れない。針の動き、縁の刻印、頭へ流れ込んだ規則を一つずつ切り分けている。
風は何も言わず、自分の手首を静かに見ていた。その沈黙だけが、騒いでいる者たちとは別の重さで境内へ残った。
リボーンは、自分に何が起きたかをほとんど迷わず飲み込み、もうその先の判断へ意識を移している。ユニは帽子のつばの下で、ほんの少しだけ呼吸を浅くしていた。
綱吉は、その全員を見渡した。
腕の奥へ流れ込んだ感覚は、この境内だけで止まっていない。並盛町のどこかにいる誰かの手首にも、同じようなものが巻きついている。京子とハルが消えた町。外へ出られない町。黒い炎の化け物が徘徊する町。その全部が、誰かの仕掛けへ組み込まれた場所へ変えられていく。
喉の奥が重くなり、声を出す前に息が詰まった。
リボーンが口を開く。
「ツナ。さっき腕に入ってきたの、覚えてるな」
低い声が境内のざわつきを切る。獄寺はすぐ綱吉の側へ寄り、自分のウォッチへ一度だけ目を落とした。
獄寺が低く言った。
「十代目、一人で抱え込まないでください。俺も同じものを見てます」
綱吉は頷き、左腕へ視線を落とす。知らない響きも混じっている。けれど、黙っている間にも時計は腕へ残り続ける。
「俺たちのウォッチ、全部同じじゃない」
言いながら、綱吉は自分の腕、獄寺と山本の腕、そしてリボーンたちの小さな手首へ順に目を向けた。
・アルコバレーノウォッチ。おしゃぶりを持つ者に与えられる。
・ボスウォッチ。各陣営の中心になる代理人に与えられる。
・バトラーウォッチ。ボスを支える二人に与えられる。
獄寺が自分と山本の時計を見る。山本も、いつもの軽い笑みを浮かべきれないまま小さく頷いた。
綱吉は腕に残る別の規則を思い返した。
・指定された陣営同士は、戦闘領域の中で戦う。
・ウォッチを持たない者は、正式な参加者として扱われない。
・アルコバレーノウォッチを持つ者は、戦闘領域内の直接戦闘に入れない。観測、警告、自陣営への助言、領域規則の確認、自衛のための回避だけが許される。
・一定時間、攻防、死ぬ気の炎、武器の衝突、戦う意思のぶつかり合いが途切れた場合、領域は内側へ狭まる。
・領域が狭まれば、ウォッチに負荷がかかる。
最後の一つを口にした時、獄寺が奥歯を噛んだ。山本の目からも、普段の柔らかさが少し消える。
「戦わずに時間を稼いだら、そのぶんこっちの腕を締めてくるってわけか」
山本の声は軽く聞こえたが、笑いは乗っていなかった。
リボーンは帽子のつばを下げた。
「悪趣味だな。殴り合いを命じる代わりに、守りたい相手の腕へ負荷を食い込ませてくる」
綱吉は続ける。自分の口から出るたび、誰かが決めた線を喉の内側になぞらされているようで、息がざらついた。
「敗退の条件もある」
・ボスウォッチが壊れれば、その陣営は敗退する。
・バトラーウォッチが壊れれば、その持ち主は敗退する。ただし、陣営は残る。
・ウォッチの破壊以外でも、戦闘不能と判定されれば敗退になる。
・敗退した者は、戦闘領域から外される。
了平がランボを抱え直す。クロームも胸元で重ねた手に力を込めた。
外される、と聞いた瞬間、綱吉の腕へ巻きついた時計が少し冷えた。どこへ外されるのか。どんな状態で戻るのか。そこまでは流れ込んでこない。空いた部分だけが、かえって嫌な重さを残した。
「最後に、最後の一陣営になった側への報酬」
・アルコバレーノの呪いを解く資格。
・町の異常に関する情報。
・敗退者を解放する権利。
山本が、手首へ巻きついた時計を見下ろした。
「一回勝てば終わりじゃねえんだな。最後の一組になるまで、続けさせる気か」
そこまで口にして、綱吉は顔をしかめた。
自分の声で並べているのに、どの項目も喉へ馴染まない。願いを餌にして、必要なものだけを小出しにし、こちらが動く場所を狭めてくる。そんな冷たさが、時計の奥から滲んでいる気がした。
境内の空気は重くなる。頭の中でぼんやりしていた不快さが、人の声を通ったぶんだけ逃げ場を失った。
山本が最初に口を開く。
「呪いを解く資格と、敗退したやつを戻す権利か。断れねえ理由を、きっちり並べてくるんだな」
リボーンは返事をせず、流れ込んだ規則をもう一度なぞるように目を細めた。
「書いてあることだけを信用するな。敗退した奴がどこへ外されるかも、ウォッチそのものに何を握られてるかも書かれてねえ。親切な規則書じゃなく、俺たちを動かすための情報だと思え」
ヴェルデも否定しなかった。
「少なくとも、公開された条件と装置の実際の挙動は分けて見るべきだ。記載がないことを、安全だという根拠にはできない」
綱吉たちは、ここにいる小さな身体の者たちが背負っている事情をまだ全部知らない。それでも、おしゃぶりへ触れる指の強さや、時計を見た時の沈黙だけで、差し出された報酬が軽い餌で済むはずもないことは伝わっていた。
コロネロが短く笑った。乾いた、兵士の笑い方だった。
「気分の悪い餌だな」
了平が顔をしかめる。師匠のその声だけで、報酬の重さは十分に伝わった。
クロームは胸元の手を小さく握ったまま、ぽつりと言う。
「戦闘領域……町の中を、そのまま使うつもりなんでしょうか」
ヴェルデが、時計の縁から視線を上げた。
「町そのものへ局所的な決闘領域を重ねるのだろう。自由行動の時間が残るなら、道、建物、遮蔽物、移動経路まで使われる。厄介だね」
リボーンはその分析を受け、黙ったまま帽子のつばを指で押さえた。綱吉は、そこでようやくユニの方を見る。
「ユニ。お母さんから聞いてた戦いって、これなの?」
綱吉の問いに、ユニはすぐには頷かなかった。胸元の大空のおしゃぶりへ指を添え、手首のウォッチへ視線を落とす。
「いいえ。母から託されたのは、虹の呪いを解くための戦いが近いということだけです。この町も、このウォッチも、こんな規則も聞いていません」
帽子のつばの下で、青い瞳が僅かに揺れた。
「私の予知にも、ここへ集められる光景はありませんでした。今、頭へ入ってきた『偽りの代理戦争』という呼び方も、初めて知りました」
リボーンが自分のウォッチを見下ろす。
「なら、アリアが残した話と、こいつが勝手に掲げてる報酬を同じものだと思うな。呪いを解く資格を餌に使ってるだけかもしれねえ」
「はい」
ユニは静かに頷いた。確かな未来を示すのではなく、自分が知らない部分を知らないまま残す返事だった。
獄寺が眉を寄せたまま呟く。
「知らねえ響きなのに、頭の中には役目だけ入ってる……ほんとに気味の悪い仕組みだな」
「しかも、その響きと、おしゃぶりとユニと、この場の連中が全部つながってる」
綱吉の声は低い。押し込まれた内容と、自分の目で見てきた事実が、胸の奥で少しずつ結びつき始めていた。
白蘭という響きも、まだ胸の奥で引っかかっている。
ユニは直前までγや白蘭たちと一緒にいたと言った。並盛で起きた異常は、別の場所にいた人間まで巻き込んでいる。獄寺がわずかに歯を食いしばった。
「γまで巻き込まれてるなら、町の外で何が起きてるかなんて、もう想像もつかねえな……」
敵として戦い、最後には同じ方向を向いた相手を思い出したからこそ、その声には苛立ちと重さが混じる。
その会話の途中で、マーモンが静かに口を挟んだ。
「少なくとも一つ言えるのは、これを丁寧な説明付きの招待状と思うだけ無駄だってことだよ」
柔らかい口調なのに、内容は容赦がない。スカルも、乱暴に腕を振った。
「いきなり巻きつけて、はい戦えってんだからな! クソみてーな始め方だぜ!」
ユニは帽子のつばへそっと触れた。押し込まれた規則と、母から託された話。その二つが一致していないことだけは、もう全員の前で確かめられている。
それ以上考える時間は、ほとんど残っていなかった。
境内の外、石段の下から、乾いた擦過音のようなものがいくつも重なって聞こえる。走る足音より軽く、空洞で、地面を擦るたびに中身のなさだけが耳へ残った。さっき町中で見た黒い炎の化け物たちが移動するときの、あの不快な擦れ方だ。
エミヤが最初に顔を上げた。
「来るぞ」
その一言で、全員の空気が変わる。石段の下、鳥居の柱の影、木立の隙間、塀の向こう側で、黒い炎の化け物たちが増えていた。数体を越えた影が位置を変えながら、境内を囲うようにじわじわと距離を詰めてくる。さっきまでは町の中を徘徊していたそれらが、今は明確にこの神社を目指して集まっていた。
ジャンヌ・オルタが口元を歪める。
「最悪。考える暇もくれないわけ?」
マンドリカルドはまだ顔色が悪いままだったが、それでも剣の柄へ手をかけた。
「いや、ほんと勘弁してほしいっすけど……来たら退けるしかないっすよね……!」
リボーンの指示は早かった。
「散るぞ。ここで固まったら、まとめて飲まれる。向こうが分断する前に、こっちから動く」
コロネロが頷く。風も静かに位置を変える。ヴェルデは境内の出口と遮蔽物の位置を確かめていた。マーモンはいつの間にか鳥居の影へ寄り、スカルは文句を言いながらも構えだけは取る。
ユニは帽子のつばへ指先を添え、それから静かに顔を上げた。
「……先のことは、まだ全部は分かりません。でも、このままここへ留まるのは、よくないと思います」
綱吉は、藤丸を抱えたまま周囲を見る。
黒い炎の化け物たちが増え、境内全体へ圧をかけ始めている。腕に巻きついた役割が、もう次の行動を急かしてくるみたいだった。
綱吉は、自分の腕に巻きついたウォッチへ指をかけた。
外れない。
指へ少し力を入れただけで、時計の縁が肌へ食い込む。普通の時計ならあるはずの隙間が、どこにもなかった。金具も、留め具も、肌との境目さえ曖昧で、腕の方がそれを拒めなくなっている。
獄寺、山本、リボーンの腕には時計がある。けれど、クロームの腕にはない。了平にも、眠ったままのランボにもない。
その差を見た瞬間、綱吉の喉が詰まった。
同じ場所にいるのに、時計の有無だけで正式な参加者と、それ以外へ分けられている。その区別を、誰かが勝手に押しつけていた。
京子とハルは、まだ見つかっていない。町の人たちも戻っていない。藤丸の身体も、背後の三人も、まだ安定しているとは言い切れない。なのに、この時計だけは、何を聞いても答えないまま腕に残っている。
石段の下から、黒い炎の化け物たちが近づいてくる。乾いた音が、境内の静けさを削った。
獄寺が綱吉の横へ出る。
「十代目、どうします」
綱吉は藤丸を抱え直し、石段の下へ視線を向けた。ここで足を止めても、消えた二人も町の人たちも戻らない。
「まずは、あれを止めよう」
獄寺と山本が前へ出る。クロームは胸元で手を握り、了平は眠ったままのランボを抱え直した。藤丸の背後で、エミヤ、ジャンヌ・オルタ、マンドリカルドの輪郭が、綱吉の近くへ寄るぶんだけ濃くなる。
腕に残った時計の重さを連れて、綱吉たちは石段の下へ向かった。