Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest   作:白瀬 綴

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第5話 炎なき影の足音

 石段の下から迫ってくる黒い炎の輪郭は、さっき町中で見たものよりも数が多かった。

 

 人型に近い。腕に似た突起があり、脚に似た黒い揺らぎもある。だが、関節は途中で途切れ、歩幅も揃わない。炎の揺れが人間の動きを真似ているだけで、足裏にあたる部分が石段を擦るたび、乾いた音が境内へ這い上がってくる。熱はない。煤の匂いもない。それでも、近づかれるほど喉の奥がざらついた。火に焼かれる痛みより先に、身体の内側から熱だけを削られるような冷たさがあった。

 

 綱吉は藤丸を抱えたまま、靴先を石畳へ滑らせた。

 

 前へ出る獄寺と山本、後方に残るクロームと了平、眠っているランボ、境内中央にいるリボーンたち。その間へ自分が立つ幅を、腕の重みごと測り直す。腕の中の藤丸は軽い。けれど、その軽さに反して、近くへ寄った三騎の輪郭が空気の密度を変えていた。赤い外套の男――エミヤが綱吉の肩越しに弓を構え、ジャンヌ・オルタは口元を歪める。マンドリカルドはまだ手首の太い時計を気にしながらも、剣の柄へ指をかけていた。

 

 リボーンの声が飛ぶ。

 

「ツナ、そいつを落とすな。そいつが崩れれば、後ろの三人も崩れる」

 

 短い指示で、綱吉の腕に力が入った。藤丸を抱えている自分の周囲だけ、エミヤたちの輪郭が保たれている。藤丸がここにいて、綱吉の死ぬ気の炎が届く距離にいて、そこでようやく三騎はこの世界へ踏みとどまれる。細かい理屈より先に、その危うさが藤丸の軽さと一緒に腕へ伝わっていた。

 

 獄寺が前へ出る。細いバトラーウォッチが手首で鈍く光り、その奥でボンゴレギアの炎が揺れた。

 

「十代目、右は俺が潰します!」

 

 言い終えるより早く、獄寺の指が動く。ダイナマイトが指の間へ現れ、嵐の死ぬ気の炎を帯びた火線が石段へ走った。黒い炎の輪郭へ炸裂した瞬間、爆風は確かに外殻を崩す。だが、手応えが浅い。砕けた黒は薄い粒子になって散り、一拍遅れて同じ輪郭へ戻ろうとした。

 

 獄寺の眉が跳ねる。

 

「チッ、燃やしても戻りやがるのかよ……!」

 

 山本が左から踏み込んだ。雨の死ぬ気の炎をまとった刀が、黒い腕を斜めに切り落とす。切断された部分は落ちず、空中でほどけた。次の瞬間、山本の脇腹を狙って別の黒い腕が伸びる。

 

 山本は身体を捻り、切っ先を下から返した。刃が二度、三度と走り、黒い炎の胴を細かく刻む。雨の死ぬ気の炎が触れた箇所だけ、戻る動きが一瞬遅れた。

 

「雨は効く。けど、止めるところまでだな」

 

 山本の声は落ち着いていたが、視線は笑っていない。効くには効く。刃が通るたび、黒い輪郭は遅れる。それでも、倒した重さが返ってこない。戦闘の温度だけが一段冷えた。

 

 エミヤが赤い外套を翻す。手元に弓の輪郭が立ち上がり、次の呼吸にはもう弦が引かれていた。

 

 放たれた矢は黒い炎の胸を貫き、背後の一体までまとめて射抜く。普通なら致命傷に届く軌道だった。だが、相手は血を流さない。肉も骨もない。貫かれた穴だけがしばらく黒く残り、周囲の揺らぎがゆっくり流れ込んで埋めていく。

 

 エミヤの目が細くなった。

 

「核が外に出ていない。貫いたところで、崩れる部分が軽すぎる」

 

 ジャンヌ・オルタが舌打ちする。

 

「面倒くさいわね。人間の真似だけして、中身は空っぽってこと?」

 

 彼女の炎が膨れ上がる。黒い炎の輪郭へ向けて放たれた熱と怒りは、真正面からぶつかり、上半身の揺らぎを一息で焼いた。今度は戻りが遅い。焼けた場所から煤は出ず、膜の残光に似た細かい粒子が立ち上る。そこへ別の黒が吸い寄せられ、焼けた穴を塞ごうとした。

 

 マンドリカルドが喉を鳴らした。

 

「……倒した感触が、軽すぎるっすね」

 

 その声に、藤丸の指先がわずかに震えた。

 

 軽すぎる。まさにそれだった。戦っているのに、相手を倒している実感が腕へ返ってこない。こちらがどんな攻撃をするか測るため、壊れても構わない人型を次々と差し出されているような気持ち悪さがある。

 

 その違和感を、境内の中央にいた白衣の赤ん坊――ヴェルデが、低く口にした。

 

「観測端末だな」

 

 誰もすぐには返さない。ヴェルデは、戦闘そのものよりも、崩れていく黒い炎の粒子の流れを追っていた。攻撃を受けた黒い炎は、薄くなり、ほどけ、細い流れとなって境内の外へ引かれていく。残った揺らぎは再び人型へ戻るが、ほどけた一部だけが、こちらの視線から外れる。

 

「こいつらは、倒される瞬間まで含めて組まれている。炎の出力、武器の性質、攻撃後に残る粒子の量。そういうものを拾う端末だ。厄介なのは、崩した後にも流れが残る点だな」

 

 獄寺が噛みつくように振り返り、ヴェルデは眼鏡の奥で黒い炎を睨んだ。

 

「だったら、こいつらは何なんだよ!」

 

「黒い炎で作られた採取端末だ。便宜上――影炎体、と呼ぶ」

 

 その呼称が落ちた瞬間、境内の空気がわずかに重くなる。正体の輪郭はまだ遠い。けれど、石段を擦る黒い群れには、作った者の目的がある。倒しても軽い理由、ほどけた粒子がどこかへ引かれる理由、その全部が境内の冷えた空気へ沈んだ。

 

 リボーンが短く言う。

 

「なら、長引かせるな。こいつらに材料をくれてやる必要はねえ」

 

 その一言で、全員の動きが変わった。

 

 獄寺は爆破範囲を絞り、嵐の死ぬ気の炎を一点へ集める。黒い炎の外殻を削り、戻る前に山本の雨が切り込む。山本の刀が相手の動きを鈍らせた瞬間、ジャンヌ・オルタの炎が叩き込まれ、エミヤの矢が逃げる粒子の流れを縫い止めた。

 

 相手に余計な材料を渡さない。ほどけた粒子を逃がさない。その意思が、攻撃の組み方を変えていく。

 

 だが、影炎体は減らない。

 

 境内を囲っていた黒い群れが、こちらの対応に合わせて散り始めた。獄寺の爆風が届きにくい石灯籠の陰へ潜り、山本の踏み込みを誘う位置へ腕を伸ばし、藤丸を抱えた綱吉の退路へ薄く回り込む。

 

 藤丸の背中に、冷たいものが走った。

 

 狙いが寄っている。

 

 影炎体に顔はない。視線もない。それでも、動きの向きだけが、明らかに藤丸へ集まっていた。

 

 綱吉も気づく。抱えた藤丸を左腕で支え直し、右手を前へ出した。その動作へ反応するように、額の奥で熱が揺れる。死ぬ気丸を飲んだ時のような急な切り替わりは来ない。守るために前へ出る意思が、身体の芯へ細い火を灯した。

 

 黒い炎の腕が、斜め後ろから伸びた。

 

 綱吉は振り返るより先に、踵を引いた。抱えている藤丸の重みで身体の軸がずれ、いつもより動きが鈍る。それでも、黒い腕の軌道は身体が先に拾っていた。回避は間に合う。けれど、避ければ後ろのクロームへ流れる。

 

 ここで流せば、クロームの胸元へ届く。

 

 綱吉の右手に橙色の死ぬ気の炎が灯る。

 

 掌底を打ち込んだ瞬間、黒い炎が弾けた。炎と炎がぶつかったのに、爆発は起きない。大空の死ぬ気の炎に触れた箇所だけ、黒い輪郭が乱れ、違う場へ馴染まされるように崩れていく。

 

 藤丸の胸が、どくんと鳴った。

 

 ツナの死ぬ気の炎は、壊すためだけに働いていない。

 

 この世界に合わないものを、無理やり同じ場へ置けるように整えている。

 

 その感覚が一瞬だけ浮かぶ。口には出せない。けれど、藤丸の中で、エミヤたちの輪郭がツナの近くで保たれている理由と、今の黒い炎が崩れた理由が、同じ働きの端へ触れた。

 

 リボーンは、その一撃から目を離さない。その横でヴェルデの指が小さく動いたが、考察へ移る前に石段の下から黒い圧が膨らんだ。

 

 これまでの影炎体よりも輪郭が濃い。人型の胴は肩だけが異様に広く、腕が長い。歩くたびに、石段の表面を削る音が鳴る。中身のない黒い炎であることは同じなのに、そこに混ざる圧だけが違った。

 

 獄寺が前へ出ようとした瞬間、黒い塊の腕が伸びた。黒い軌道は石段の空気を裂き、獄寺の胸元へ届く前に、山本の刀が間へ入る。雨の死ぬ気の炎が散り、腕の速度をわずかに落とした。だが止まらない。山本の身体が押し込まれ、靴底が砂利を削る。

 

「山本!」

 

 獄寺が叫び、嵐の死ぬ気の炎を撃ち込む。黒い腕の側面が削れ、ようやく山本が抜けた。その隙へ、エミヤの矢が刺さる。ジャンヌ・オルタの炎が追い、マンドリカルドが踏み込んで剣を振るった。

 

 剣は黒い炎の肩口を裂く。

 

 だが、浅い。

 

 マンドリカルドの腕へ鈍い衝撃が返り、身体が一歩ぶん後ろへ弾かれる。刃は入ったのに、肉を切る手応えがない。固い水面を叩いたような反発だけが、柄から肘へ跳ね返った。

 

「っ、重……!」

 

 黒い塊が、マンドリカルドへ腕を振り下ろす。

 

 影炎体に意思があるか、綱吉には掴めない。けれど、攻撃は明らかに太いボスウォッチへ向かっていた。

 

 エミヤが矢を番え、ジャンヌ・オルタの炎が膨らみ、綱吉も藤丸を抱えたまま前へ踏み出そうとする。三つの動きが重なる寸前、マンドリカルド自身が歯を食いしばった。

 

 逃げるのが一番早い。身体はその道を選びかけていた。けれど、逃げれば藤丸の前が空く。剣を握る指が震え、腕が重くなり、息が浅くなる。それでも、マンドリカルドは下がりきらなかった。

 

「……いや、ここで下がったら、ダメなやつっすよね!」

 

 剣を斜めに構える。

 

 受け止めるには弱い。押し返すには足りない。だが、真正面から諦めない構えだった。黒い腕が振り下ろされる寸前、綱吉の死ぬ気の炎がその背後から届く。橙色の熱がマンドリカルドの肩口をかすめるように流れ、剣の表面へ薄くまとわりついた。

 

 マンドリカルドの目が見開かれる。

 

 死ぬ気の炎は、マンドリカルド自身の炎へ変わらない。けれど、剣を握る手の震えだけが、ほんの少し整う。恐怖は胸に残ったまま、腕が動く角度だけが戻ってきた。

 

 黒い腕と剣がぶつかった。

 

 今度は、弾かれない。

 

 衝撃が足裏まで突き抜け、膝が折れかける。それでも、マンドリカルドは一拍だけ耐えた。その一拍で十分だった。エミヤの矢が黒い塊の胸を貫き、ジャンヌ・オルタの炎が肩口を焼き、獄寺の嵐の死ぬ気の炎が外殻を砕き、山本の雨の死ぬ気の炎が戻る動きを遅らせる。

 

 最後に綱吉の死ぬ気の炎が、乱れた黒い塊の中心を撃ち抜いた。

 

 影炎体は、今度こそ輪郭を保てなかった。黒い炎が崩れ、粒子のように境内へ散る。その一部がどこかへ流れようとした瞬間、エミヤが矢を放ち、ジャンヌ・オルタの炎が残りを焼いた。

 

 流れ出る粒子は、さっきより少ない。

 

 マンドリカルドは剣を下ろし、肩で息をする。

 

「……今の、何なんすか」

 

 自分の手を見る。震えはまだある。だが、さっきまでとは違う。恐怖が消えていないのに、剣を振るう角度だけが残っている。

 

 綱吉も自分の手を見る。

 

 今の死ぬ気の炎は、攻撃のために伸びた熱と少し違った。マンドリカルドの中にある恐怖と、この世界に立てていない異物の輪郭を、無理やり同じ戦場へ馴染ませた。そんな手応えだけが、指先に残っている。

 

 ヴェルデの目が鋭く光った。

 

「興味深いな。大空の死ぬ気の炎は、異物の存在状態をこの場の条件へ一時的に合わせている。炎と呼ぶより、適合の足場に近い」

 

 リボーンが横目で見る。

 

「後でまとめろ。今は退くぞ」

 

 影炎体は倒した。だが、境内の外周にはまだ黒い揺らぎが残っている。今ここで全部潰しに行けば、こちらの手の内をさらに晒すことになる。ウォッチを装着したばかりで、誰もルールを身体へ落とし込めていない。

 

 リボーンは短く指示を飛ばす。

 

「ツナたちは石段側を抜ける。コロネロ、風、ユニを連れて別方向へ出ろ。ヴェルデ、てめえはそのケースと時計から拾った情報を、覚えてるだけ吐けるようにしとけ。スカルとマーモンは勝手に死ぬな」

 

 スカルが何か言い返そうとしたが、コロネロの一瞥で口を閉じる。黒いフードの赤ん坊は小さく笑っただけで、何も言わない。ユニは周囲を見回し、それから綱吉と藤丸の方へ視線を向けた。

 

「……また、すぐに繋がると思います」

 

 それが未来のことなのか、場所のことなのか、通信のことなのか、綱吉には掴めない。けれどユニの声には、ここで別れても道そのものは切れないという細い確かさがあった。

 

 綱吉は頷く。

 

「うん。気をつけて」

 

 それだけ言って、石段側へ向き直る。

 

 藤丸は腕の中で、まだ息を整えていた。身体は小さいままで、胸の奥には嫌な重さが残っている。影炎体は、襲うだけの敵として動いていない。削り、測り、ほどけた粒子をどこかへ流していく。しかも、その動きは藤丸へ寄っていた。

 

 胸の奥にある空白が、答えの端を知っているように疼く。

 

 その疼きに重なるように、藤丸の首元の器から、細い雑音が鳴った。

 

 白い包囲層の向こう側で、誰かが必死にこちらを呼んでいた。

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