Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
脇道へ逃げ込んだ後も、誰もすぐには足を止められなかった。
商店街の表通りから一本外れた細い道には、古びた室外機と色褪せたポスター、積まれたままの酒瓶ケースが残っている。店の裏口から人の声や調理の匂いが漏れてきてもおかしくない場所だった。今は靴音だけが壁へ当たり、遅れて返ってくる。
綱吉は藤丸を抱えたまま建物の陰へ入り、ようやく速度を落とした。腕にかかる重さは軽い。それでも指先の強張りが抜けない。黒い外套、銀色の面、音もなく伸びた鎖。藤丸を奪おうとした一撃が、脇道へ入った今も背中を追ってくる気がした。
腕の中で、藤丸が何度か浅い息を繰り返す。走ったのは綱吉たちだ。それなのに、小さくなった身体は揺られただけで胸を詰まらせ、首元の空の器が脈に重なるような疼きを返していた。
「……ごめん、ツナ。ずっと抱えてもらって」
「いいよ。藤丸のせいじゃないし」
綱吉はすぐに答えた。声の末尾に混じった息切れを聞き、藤丸の小さな手が服の裾を握る。
獄寺が横から身を寄せた。
「十代目、俺が代わります」
「いや、獄寺くんは周りを見てて。今また襲われたら、すぐ動ける人が必要だから」
「ですが――」
「頼む」
獄寺の眉間に皺が寄る。それでも食い下がらず、握っていた爆薬を持ち直して脇道の入口へ目を向けた。
「……ツナは、こういうのに慣れてる?」
「こんなのに慣れてたまるか!?」
思ったより強い返事が返り、山本が吹き出した。
「十代目を何だと思ってんだ、お前は」
「よかった。俺も小さくされるのは初めてだから」
「そこ基準なの!?」
「知らない場所で逃げ道を探すのは、初めてじゃないけどね」
綱吉は返す声を失い、山本の笑いだけが短く残った。藤丸もつられて笑う。数秒だけ、白い町へ来る前の会話みたいだった。
反対側では、山本が時雨金時を手にしたまま手首を回している。黒い刃を受けた側だ。指を開き、握り、刃を返す動きを確かめてから口を開いた。
「やっぱ、あの影みたいなやつ、途中から動きが変わってたな」
普段の軽さは声に残っている。目は笑っていなかった。
「俺の動き、真似してたってことだよな」
「完全な模倣には届いていない」
エミヤが答えた。
「完全な真似じゃない。だが、一度見せた手が次も通るとは思わない方がいい」
「倒した後の黒い粒も、どこかへ流れてた」
藤丸の声に、ジャンヌ・オルタが鼻を鳴らす。
「燃やした分まで持って帰られるなんて、気分悪いにもほどがあるわ」
指先で揺れる炎は細い。鋭さを取り戻しかけては、輪郭の端が崩れる。エミヤの赤い外套にも薄い揺らぎが残り、マンドリカルドは剣を握る指へ何度も力を込め直していた。
三騎の視線が藤丸へ集まる。
マンドリカルドは綱吉のすぐ横にいた。藤丸へ手を伸ばしかけ、剣を握る自分の右手を見て止める。今の霊基で抱えたまま戦えるのか。その迷いが顔へ出るより先に、リボーンが帽子のつばをわずかに下げた。
リボーンの視線が、綱吉の腕の中にいる藤丸へ落ちた。
「藤丸。首は」
「触られてない。大丈夫」
ジャンヌ・オルタが剣を握り直す。
「次は、あの鎖を近づけさせないわ」
綱吉は鎖が走った自分の前腕へ目を落とした。
「……あいつ、俺たちの話を聞く気なかったよね」
「追うな」
リボーンは脇道の入口へ背を向けた。
「次に出たら、あの鎖だけは通すな」
短い沈黙のあと、通信の向こうでダ・ヴィンチちゃんが息を吸った。
『それと藤丸くんたちのこと。さっきから見てたけど、三騎はツナくんの近くにいる時だけ少し楽になってる』
藤丸が顔を上げる。
「補助式、できそう?」
『できる、とはまだ言わない。仮組みだ。しかもかなり危ない橋になる』
『藤丸』
オルガマリーが割って入る。
『カルデア側で仮組みした霊基安定補助を使う。首元の器には触れないわ。藤丸、見るのは三騎との魔力のパスだけ。痛みや急な引きつれが出たら、すぐ言いなさい。我慢は許可しない』
「分かった」
藤丸は頷いた。首元の器は冷たいままだ。そこへ何かが触れる気配はない。意識を向ける先は、胸の奥から三騎へ伸びる魔力のパスだけだった。
エミヤが通信へ問いかけた。
「具体的な処置は」
『ツナくんの大空の死ぬ気の炎を魔力へ変換する処置は行わない。死ぬ気の炎と魔力は別系統だ。無理に混ぜれば、藤丸くんの身体か君たちの霊基へ、こちらで予測できない負荷が出る』
ダ・ヴィンチちゃんの声から、いつもの軽さが消えている。
『さっき三騎が少し落ち着いた、その状態へ寄せるだけだ。新しい魔力は足さない。少しでもおかしかったら、こっちで切る』
「少しはマシに動けるかもしれない、って話ね」
ジャンヌ・オルタが指先の炎を睨んだ。
『言い方は荒いが、期待している効果は近い』
「なら早くしなさいよ。いつまでも他人の炎の近くでしか満足に動けないなんて、腹が立つわ」
炎が一度だけ大きく揺れ、すぐに細くなる。
藤丸は何も返さなかった。ジャンヌ・オルタの目は綱吉の炎へ向かず、自分の指先だけを睨んでいた。
マンドリカルドも黙って藤丸を見ていた。
エミヤがその視線を捉える。
「補助が成立しても、藤丸を一人で歩かせるのは危険だ。今の身体では転倒一つで戦列全体が止まる」
「言い方」
藤丸が小さく抗議した。
「事実だ」
「それは……うん」
「運ぶ役が要る」
マンドリカルドの肩が跳ねた。 エミヤは構わず続ける。
「私は後方から射線を取る。ジャンヌ・オルタは前へ出た方が火力を活かせる。藤丸の近くで動き、片腕を塞がれても剣を扱えるのは君だ、マンドリカルド」
「……いや、ちょ、待ってください。俺っすか。嫌とかじゃなくて、その、マスター運ぶって責任がめちゃくちゃ重いっていうか、胃が」
「君がやれ」
「今、すげえ雑に押しつけませんでした?」
「君は藤丸のサーヴァントだろう」
マンドリカルドの口が止まった。
剣を握る手へ視線を落とす。エミヤほど遠くを射抜けない。ジャンヌ・オルタのように炎で一帯を焼くこともできない。それでも、藤丸を運ぶ役が要ると告げられ、その役を自分へ渡された。
「……分かりました」
マンドリカルドは顔を上げた。
「補助が組めたら、俺がマスターを運びます。ツナさんに預けっぱなしってわけにもいかないっすから」
「マンドリカルド」
「やめてください。その顔、重いっす」
「ありがとう」
「そういうのが一番重いんすよ、マスター……!」
山本が小さく笑う。獄寺は脇道の入口を見たままだが、反対はしなかった。了平はランボを背負い直し、「極限に任されたな!」と声を上げかけてリボーンに睨まれ、喉の奥へ引っ込める。
クロームも僅かに息を吐いた。霧の死ぬ気の炎を使った負荷が腹部の奥へ残っている。それでも槍を握る指へ力を戻し、脇道の出口へ視線を据えた。
『藤丸くん、始めるよ』
ダ・ヴィンチちゃんの声に、場の空気が締まる。
『藤丸くん、首元の器は見なくていい。三騎との魔力のパスの感触だけを教えてくれ』
「了解」
藤丸は目を閉じた。首元の器は冷たいまま、そこへ何かが触れる感覚もない。胸の奥から三騎へ伸びる魔力のパスへ意識を移すと、細い三本の感触が不揃いに揺れていた。小型中継機の向こうで、ざり、と通信が重なる。
皮膚の外から触れられているはずなのに、感覚は胸の内側へ近い。背筋が粟立つ。あの白い層で受けた接触が蘇り、藤丸の指が綱吉の服を強く掴んだ。
『補助式を入れるよ。藤丸くん、三騎との魔力のパスだけ見てて』
ダ・ヴィンチちゃんの声がノイズへ沈む。
『通すよ』
首元の器は冷えたままだった。藤丸自身の息苦しさも消えない。それでも、胸の奥で三騎へ伸びる魔力のパスの揺れだけが、僅かに小さくなる。
新しい力が増えた感覚はない。三本のうち大きく外れかけていた揺れが、崩れきる手前で揃っただけだ。藤丸は目を閉じたまま、それぞれの感触がまだ残っていることを確かめた。
エミヤの肩口で揺れていた輪郭が収まる。ジャンヌ・オルタの炎は細さを保ったまま、先端のぶれを失った。マンドリカルドが剣を握り直すと、柄を包む指が今度は滑らない。
「完全とは程遠いが、行動範囲は広がった」
エミヤが自分の腕を確かめる。
「まだ足りないけど、さっきよりはマシね」
ジャンヌ・オルタが続いた。
マンドリカルドは手を開閉し、藤丸へ顔を向ける。
「マスター、どうです?」
「ちょっと気持ち悪い。でも、さっきより自分の手がどこにあるか分かる」
綱吉の肩から力が抜けた。
「よかった」
「なら、役割を移す。マンドリカルド」
エミヤの声は早い。
「今っすか」
「今だ。補助が保たれている間に移動方法を変える。綱吉の両腕を塞ぎ続ければ、襲撃への初動が遅れる」
マンドリカルドは口を開き、閉じた。
「……マスター、こっち来てください。俺が運びます」
藤丸は綱吉の腕の中からマンドリカルドの肩を見る。
「肩、大丈夫?」
「大丈夫じゃなくてもやる場面ってあるじゃないスか」
「それ、大丈夫じゃないって言ってるよ」
「そこは聞き流してください」
綱吉が慎重に藤丸を渡す。 マンドリカルドは剣を持つ右腕を空け、左腕で藤丸の背と腰を支えた。受け取る直前まで固かった肩が、重みを預かった途端に下がる。藤丸の身体を脇へ寄せ、自分の胸と左腕の間へ固定する。 藤丸は肩口の布を掴んだ。
視界が少し高くなり、呼吸のたびにマンドリカルドの胸が動く。
「重くない?」
「マスター、今のサイズでその質問は逆に心に来るんでやめてください」
「ごめん」
「謝られるのもキツいっす……!」
「落としたら燃やすわよ」
ジャンヌ・オルタが横目で告げる。
「そういうプレッシャー追加しないでください!」
山本の口元が緩み、藤丸も小さく笑った。
その時、綱吉の手首でウォッチが震えた。
「え……?」
淡い光が文字盤の奥へ走る。
獄寺と山本の手首でも、ほぼ同時に振動が起きた。リボーンのアルコバレーノウォッチが短く鳴り、マンドリカルドのボスウォッチ、エミヤとジャンヌ・オルタのバトラーウォッチへ同じ光が移る。 表示が切り替わる。
残り時間を示す数字が、一斉に減り始めた。
商店街の奥で、硬い破裂音が鳴った。 一つ。
続いて右手の通りから、さらに二つ。
白い膜が建物の間を走り、遠くの景色を縦に断つ。最初の膜が閉じきる前に、別の通りでも白い光が立ち上がった。 クロームが息を呑む。
「……閉じていく。あっちも、その先も」
リボーンが脇道から表通りを覗く。
「戦闘領域か」
『空間反応が同時に増えた!』
ダ・ヴィンチちゃんの声が跳ねる。
『一地点だけが広がっている反応じゃない。複数の膜が、それぞれ別の範囲を閉じている!』
『待て、こっちの反応表示も散ったぞ!』
ムニエルの声へ、オルガマリーが重なる。
『全員、互いの位置を見失わないで! 膜の間へ入れば――』
脇道の出口に銀光が走った。山本が時雨金時を抜く。
振り下ろされた長剣と刃が噛み合い、甲高い金属音が狭い道を突き抜けた。山本の右肘が沈み、靴底が路面を擦る。押し込まれる寸前、左肩を引いて受け流すと、長剣の切っ先が壁のポスターを縦に裂いた。
「う゛おおおおおい!」
肩を越えて流れる銀白の長髪。大柄な剣士は左腕の義手に固定した長剣を押し込み、刃越しに山本だけを睨んでいた。
「スクアーロ……!」
「てめぇと斬り合う機会が来たんだ。逃げんじゃねぇぞぉ、山本武!」
スクアーロが長剣を引く。刃が離れた瞬間、上から軽い笑い声が降った。
「ししっ。こっちは王子がもらうね」
屋根の縁に、金髪の少年がしゃがんでいた。長い前髪が目元を隠し、その上には小さな王冠。開いた指の間で銀のナイフが揺れ、柄から伸びる細いワイヤーが街灯の光を拾う。
一本目が獄寺の肩へ落ち、二本目は退いた先の壁へ走った。獄寺は爆薬を投げる。爆風が最初の刃を押し流し、壁へ刺さるはずだった二本目をワイヤーごと弾いた。
「ベル……!」
「久しぶり。まだ怒るだけの雑魚だったら、王子すぐ飽きちゃうよ」
「てめぇ……!」
獄寺のこめかみに筋が浮く。それでも右手の爆薬は投げず、ベルの指先と壁へ残ったワイヤーを交互に追った。
重い銃声が鳴った。綱吉の頬を熱い空気が叩き、直前まで立っていた壁際が抉れる。
硝煙の向こうに、顔から首へ古い傷を走らせた黒髪の男が立っていた。黒いコートの両手には大ぶりの二丁拳銃。その片方が、綱吉の胸を真っ直ぐ捉えている。
「ようやく面見せやがったか、沢田綱吉」
「
綱吉の喉が詰まる。XANXUSの背後には、フードで顔を隠した赤ん坊が宙に浮いていた。その視線だけが、リボーンの手首へ向く。
「報酬が本物か確かめるなら、勝つのが早い。呪いを解く権利があるなら、僕は取りに行くよ」
「マーモン、お前」
リボーンが睨む。
「ただ働きはしない主義なんだ。君なら知ってるだろ」
スクアーロは山本へ長剣を向け、ベルは壁へ残ったワイヤーを指先で弾く。XANXUSだけが綱吉から目を外さない。
綱吉は藤丸の方へ顔を向けかけた。
その手首でウォッチが強く震え、白い膜が脇道を横切った。
「藤丸!」
「ツナ!」
マンドリカルドが藤丸を胸へ引き寄せて後退する。エミヤが二人の前へ入り、ジャンヌ・オルタの炎が膜へ走った。黒い炎は白い表面へ触れた途端、横へ滑って壁を焼く。
膜の向こうで綱吉の姿が白く滲む。
「ツナ! そっちはそっちで耐えろ!」
リボーンの声が飛ぶ。
「藤丸たちは離脱を優先しろ!」
「でも!」
「迷うな!」
綱吉の歯が鳴る。
硝煙の向こうで、銃口が再び上がった。
「余所見してんじゃねぇぞ、カス」
XANXUSが引き金を引く。
綱吉は身体を捻り、炎弾の射線から肩を外した。熱が制服の袖を掠める。右手はもう死ぬ気丸へ伸びていた。
白い膜の向こうで、藤丸たちの周囲にも別の光が走る。
一本の膜が綱吉たちとの間を閉じ、もう一本がエミヤの背後で建物を横切る。マンドリカルドが開いている通りへ走ると、左側の路地で白い光が立ち上がった。
『藤丸くん、補助式を維持する! マンドリカルド、藤丸くんを落とさないで!』
「言われなくてもっす!」
声は裏返りかけた。それでも左腕は藤丸の背を支え、右手の剣は前へ向いている。
藤丸は肩口の布を掴み、閉じていく白い膜の隙間から綱吉を見た。
銃声が一発。すぐに金属音が続く。
さらに、獄寺の爆薬が弾けた。
白い膜が閉じ、三つの音が遠くなる。
* * *
白い膜が、別の狭い通りを両側から狭めていた。
炎真の隣にはアーデルハイトと紅葉。スカルはおしゃぶりを両手で押さえ、炎真の背へ身体を寄せている。
残った隙間からマンドリカルドが走り込んだ。左腕には小さな藤丸。後ろには弓を構えたエミヤと、剣先へ黒い炎を灯すジャンヌ・オルタが続く。
スカルの顔が引きつった。
「また物騒なの来たぁ!」