Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
石段の下から迫ってくる黒い炎の化け物たちは、さっき町中で見たものよりも数が多かった。
人の形をしている。けれど、人ではない。腕らしきものも、脚らしきものもあるのに、関節の動きがどこか足りない。歩いているのではなく、炎の揺れがたまたま人型の移動に見えているようで、足裏が石段を踏むたびに、乾いた擦過音だけが境内へ這い上がってくる。熱はない。煤の匂いもない。それなのに、近づかれるほど喉の奥がざらつく。火に焼かれる感覚ではなく、自分の中にある熱を外側から削られていくような、不快な冷たさがあった。
綱吉は藤丸を抱えたまま、一歩だけ後ろへ下がる。
逃げたのではない。前へ出る獄寺と山本の位置、後方にいるクロームと了平、眠っているランボ、そして境内中央にいるリボーンたちとの距離を、一瞬で測り直しただけだった。腕の中の藤丸は軽い。だが、その軽さに反して、周囲に立つ三騎の存在が綱吉の近くへ寄るたび、空気の密度だけが変わる。赤い外套の男――エミヤが半歩前へ出て、黒い炎の群れを見る。ジャンヌ・オルタは口元を歪め、マンドリカルドはまだ手首の太い時計を気にしながらも、剣の柄へ指をかけていた。
リボーンの声が飛ぶ。
「ツナ、そいつを落とすな。そいつが崩れれば、後ろの三人も崩れる」
短い指示だった。だが、言われた瞬間、綱吉の腕に力が入る。理由を全部聞かなくても分かる。藤丸を抱えている自分の周囲だけ、エミヤたちの輪郭が保たれている。藤丸がいて、綱吉の死ぬ気の炎が届く距離にいて、初めて三騎はこの世界で“立っていられる”。その感覚が、説明より先に皮膚へ張り付いていた。
獄寺が前へ出る。細いバトラーウォッチが手首で鈍く光り、その奥でボンゴレギアの炎が揺れた。
「十代目、右は俺が潰します!」
言い終えるより早く、獄寺の指が動く。ダイナマイトが指の間へ現れ、嵐の死ぬ気の炎を帯びた火線が石段へ走る。黒い炎の化け物の一体へ炸裂した瞬間、爆風は確かに形を崩した。だが手応えが浅い。砕けたはずの黒い輪郭は、霧の粒子のように散りながら、一拍遅れてまた人型へ戻ろうとする。
獄寺の眉が跳ねる。
「チッ、ただ燃やすだけじゃ足りねえのかよ……!」
山本が左から踏み込んだ。雨の死ぬ気の炎を纏った刀が、黒い腕を斜めに切り落とす。切断された部分は落ちない。代わりに、空中でほどけるように薄くなり、次の瞬間、山本の脇腹を狙って別の黒い炎が伸びる。
山本は身体を捻ってかわし、踏み込み直す。刃が二度、三度と走り、黒い炎の身体を細かく刻んだ。雨の死ぬ気の炎が触れた箇所だけは、再生が一瞬だけ遅れる。
「雨は効く。けど、止めるだけだな」
山本の声は落ち着いていたが、視線は笑っていない。効くには効く。だが倒しきれていない。その事実だけが、戦闘の温度を一段下げた。
エミヤが赤い外套を翻す。手元に弓の輪郭が立ち上がり、次の瞬間には、もう弦が引かれていた。
放たれた矢は黒い炎の胸を貫き、そのまま背後の一体までまとめて射抜く。普通なら致命傷に見える軌道だった。だが、相手は血を流さない。肉も骨もない。貫かれた穴だけがしばらく黒いまま残り、そこへ周囲の炎がゆっくり流れ込んで埋めようとする。
エミヤの目が細くなった。
「核がない。いや、あるとしても、こちらから見える場所に置いていないな」
ジャンヌ・オルタが舌打ちする。
「面倒くさいわね。形だけ人間みたいにして、中身は空っぽってこと?」
彼女の炎が膨れ上がる。黒い炎の化け物へ向けて放たれたそれは、熱と怒りを帯びて真正面からぶつかった。黒い炎の輪郭が一瞬で焼け落ちる。今度は再生が遅い。だが完全には消えない。燃えたはずの場所から、煤ではなく薄い霧のような粒子が立ち上り、そこへ別の黒が吸い寄せられていく。
マンドリカルドが喉を鳴らした。
「……倒した感触が、軽すぎるっすね」
その言葉に、藤丸の指先がわずかに震えた。
軽すぎる。まさにそれだった。戦っているのに、相手を倒している実感がない。まるで、こちらがどんな攻撃をするかを測るためだけに、壊れてもいい人型を次々と差し出されているような気持ち悪さがある。
その違和感を、境内の中央で見ていた理屈の匂いを纏う赤ん坊――ヴェルデが、低く言葉にした。
「観測端末だな」
誰もすぐには返さない。ヴェルデは、戦闘そのものよりも、崩れていく黒い炎の粒子の流れを見ていた。攻撃を受けた瞬間、黒い炎は消えているのではない。薄くなり、ほどけ、どこかへ流れているように見える。残ったものは再構成されるが、ほどけた一部の行き先だけが、どうにも見えない。
「こいつらは倒されることも計算に入れて作られている。少なくとも、戦闘を成立させ、炎の出力や攻撃の性質を測るための端末に見える。厄介なのは、消滅が終わりではないように見える点だな」
獄寺が噛みつくように振り返る。
「だったら、こいつらは何なんだよ!」
ヴェルデは眼鏡の奥で、黒い炎を見た。
「黒い炎の形をした採取端末。便宜上、名前が必要なら――影炎体、とでも呼べばいい」
その言葉が、境内へ落ちた。
影炎体。
呼び名がついた瞬間、黒い化け物たちの不気味さが一段別の形を取る。名付けたことで正体が分かったわけではない。だが、ただの化け物ではなく、誰かが目的を持って作ったものだという事実が、全員の胸へ重く沈んだ。
リボーンが短く言う。
「なら、長引かせるな。こいつらに好きなだけ見せる必要はねえ」
その一言で、全員の動きが変わった。
獄寺は爆破範囲を広げるのではなく、嵐の死ぬ気の炎を一点へ集中させる。黒い炎の外殻を分解するように削り、その再生が始まる前に山本の雨が切り込む。山本の刀が相手の動きを鈍らせた瞬間、ジャンヌ・オルタの炎が叩き込まれ、エミヤの矢が逃げる粒子の流れを縫い止める。
倒す。相手に余計な材料を渡さない。ほどけた粒子を逃がさない。その意思が、戦いの形を少しずつ変えていく。
だが、影炎体は減らない。
むしろ、境内を囲うように広がっていた黒い炎の群れが、こちらの対応を見て配置を変え始める。単純に近づいてくるだけではない。獄寺の爆風が届きにくい角度へ散り、山本の踏み込みを誘う位置へ腕を伸ばし、藤丸を抱えた綱吉の退路へ薄く回り込む。
藤丸の背中に、冷たいものが走った。
狙いが変わった。
いや、最初からそうだったのかもしれない。影炎体の視線はない。顔もない。だが、動きの向きだけが、明らかに藤丸へ寄っている。
綱吉も気づく。
抱えた藤丸を左腕で支え直し、右手を前へ出した。その動作へ反応するように、額の奥で熱が揺れる。死ぬ気丸を飲んだ時のような切り替わりではない。けれど、守るために前へ出る意思が、身体の芯へ火を灯す。
黒い炎の腕が、斜め後ろから伸びた。
綱吉は振り返るより先に、足を引いた。抱えている藤丸の重みで身体の軸がずれ、いつもより動きが鈍る。それでも、黒い腕の軌道は超直感が先に示していた。回避は間に合う。だが、避ければ後ろのクロームへ流れる。
避けられない。
綱吉の右手に橙色の死ぬ気の炎が灯る。
掌底を打ち込んだ瞬間、黒い炎が弾けた。炎と炎がぶつかったはずなのに、爆発はしない。大空の死ぬ気の炎に触れた箇所だけ、黒い輪郭が乱れ、違う形へ馴染まされるように崩れる。
藤丸の胸が、どくんと鳴った。
ツナの死ぬ気の炎は、壊しているだけじゃない。
この世界に合わないものを、無理やり同じ場へ置けるように整えている。
その感覚が一瞬だけ浮かぶ。言葉にはならない。けれど、藤丸の中で、エミヤたちの輪郭がツナの近くで保たれている理由と、今の黒い炎が崩れた理由が、ほんの少しだけ同じ形をして見えた。
リボーンも、その一撃を見逃さなかった。
だが、考察を口にする暇はない。
石段の下から、さらに大きな黒い塊が上がってきた。
これまでの影炎体よりも輪郭が濃い。人型ではあるが、肩が異様に広く、腕が長い。歩くたびに、石段の表面を削るような音が鳴る。中身のない黒い炎であることは同じなのに、そこに混ざる圧だけが違った。
獄寺が前へ出ようとする。
その瞬間、黒い塊の腕が伸びた。
速い。
獄寺が反応するより早く、山本の刀が間に入る。雨の死ぬ気の炎が散り、黒い腕の速度をわずかに落とす。だが止まらない。山本の身体が押し込まれ、足裏が砂利を削る。
「山本!」
獄寺が叫び、嵐の死ぬ気の炎を撃ち込む。黒い腕の側面が削れ、ようやく山本が抜けた。そのわずかな隙を、エミヤの矢が射抜く。ジャンヌ・オルタの炎が追撃し、マンドリカルドが踏み込んで剣を振るった。
剣は黒い炎の肩口を裂いた。
だが、浅い。
マンドリカルドの腕へ鈍い衝撃が返り、身体が一歩ぶん後ろへ弾かれる。剣を振ったはずなのに、切った感触ではなく、固い水面を叩いたような反発だけがあった。
「っ、重……!」
黒い塊が、マンドリカルドへ腕を振り下ろす。
その手首に太いボスウォッチがあることを、影炎体が理解しているかは分からない。けれど、攻撃は明らかにそこへ向かっていた。
エミヤが動く。
ジャンヌが炎を上げる。
綱吉も藤丸を抱えたまま踏み出そうとする。
だが、その全員より先に、マンドリカルド自身が歯を食いしばった。
逃げるのが一番早い。そう身体は理解している。けれど、逃げたら藤丸の前が空く。剣を握る指が震え、腕が重くなり、息が浅くなる。それでも、マンドリカルドは下がりきらなかった。
「……いや、ここで下がったら、ダメなやつっすよね!」
剣を斜めに構える。
受け止めるには弱い。押し返すには足りない。だが、真正面から諦めない構えだった。黒い腕が振り下ろされる寸前、綱吉の死ぬ気の炎がその背後から届く。橙色の熱がマンドリカルドの肩口をかすめるように流れ、剣の表面へ薄くまとわりついた。
マンドリカルドの目が見開かれる。
死ぬ気の炎が自分のものになったわけではない。けれど、剣を握る手の震えだけが、ほんの少しだけ整う。恐怖が消えたのではない。怖いまま、腕が動く形へ整えられた。
黒い腕と剣がぶつかった。
今度は、弾かれない。
衝撃が足裏まで突き抜け、膝が折れかける。それでも、マンドリカルドは一拍だけ耐えた。その一拍で十分だった。エミヤの矢が黒い塊の胸を貫き、ジャンヌの炎が肩口を焼き、獄寺の嵐が外殻を砕き、山本の雨が再生を止める。
最後に綱吉の死ぬ気の炎が、乱れた黒い塊の中心を撃ち抜いた。
影炎体は、今度こそ形を保てなかった。黒い炎が崩れ、粒子のように境内へ散る。その一部がどこかへ流れようとした瞬間、エミヤが矢を放ち、ジャンヌの炎が残りを焼いた。
完全に消えた、とは言い切れない。
だが、さっきよりは確実に流れ出るものを減らせた。
マンドリカルドは剣を下ろし、肩で息をする。
「……今の、何なんすか」
自分の手を見る。震えはまだある。だが、さっきまでとは違う。恐怖が消えたわけじゃないのに、剣を振るう形だけが残っている。
綱吉も自分の手を見る。
今の死ぬ気の炎は、攻撃のためだけに出したものではなかった。マンドリカルドの中にある恐怖と、この世界に立てていない異物の存在を、無理やり同じ戦場へ馴染ませた。その感覚だけが、指先に残っている。
ヴェルデの目が、鋭く光った。
「興味深いな。大空の死ぬ気の炎は単なる炎の属性ではない。異物の存在状態を、この場の条件へ一時的に合わせている」
リボーンが横目で見る。
「後でまとめろ。今は退くぞ」
その判断は正しかった。
影炎体は倒した。だが、境内の外周にはまだ黒い揺らぎが残っている。今ここで全部潰しに行けば、こちらの手の内をさらに晒すことになる。しかも、ウォッチを装着したばかりで、誰もルールを完全には掴めていない。
リボーンは短く指示を飛ばす。
「ツナたちは石段側を抜ける。コロネロ、フォン、ユニを連れて別方向へ出ろ。ヴェルデ、てめえはそのケースと時計の情報を覚えてるだけ吐けるようにしとけ。スカルとマーモンは勝手に死ぬな」
スカルが何か言い返そうとしたが、コロネロの一瞥で口を閉じる。黒いフードの赤ん坊は小さく笑っただけで、何も言わない。ユニは周囲を見回し、それから綱吉と藤丸の方へ視線を向けた。
「……また、すぐに繋がると思います」
その言葉が、未来のことなのか、場所のことなのか、通信のことなのか、綱吉には分からない。けれどユニの声には、完全には見えていなくても、ここで別れることが終わりではないという確かさがあった。
綱吉は頷く。
「うん。気をつけて」
それだけ言って、石段側へ向き直る。
藤丸は腕の中で、まだ息を整えていた。身体は小さいままで、胸の奥には嫌な重さが残っている。けれど、さっきまでより一つだけ分かったことがある。
影炎体はただ襲ってくる敵ではない。
削り、測り、どこかへ流れていくものだ。
そして、自分はその中でも特に狙われている。
理由はまだ分からない。
だが、身体の奥にある空白が、答えの一部を知っているように疼いていた。