Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
綱吉たちが足を止めたのは、住宅街の奥にある小さな公園だった。
低い鉄棒。古びた滑り台。砂場の端に転がったままの赤いバケツ。朝なら子どもの声が混じる場所に、今は靴音ひとつ返ってこない。ブランコの鎖は垂れたまま動かず、風の抜けるはずの隙間まで、薄い膜に押さえられている。町の外周を囲う白い包囲層はここから見えない。それでも、空気の奥に一枚だけ冷えたものが挟まっていた。
綱吉はベンチの近くで藤丸を抱え直した。腕の中の藤丸は、浅い息を繰り返している。目は開いている。けれど、指を握る力は弱く、肩も自分で支えきれない。軽すぎる身体の重みが、綱吉の腕へかえって強く残った。
獄寺は公園の入口側に立ち、山本は反対側の路地へ目を向けている。了平は泣き疲れて眠ったランボを背負い直し、クロームは少し離れた場所で、霧の死ぬ気の炎を細く保っていた。彼女の指先が震えるたび、通信のノイズがかすかに揺れる。誰も急かさなかった。
リボーンは、フェンスの上にいた。
神社から離れたあと、綱吉たちより少し先へ出て、屋根や塀の上から周囲を拾っていた。影炎体の足音、ほかの赤ん坊たちの反応、町の異常が次にどこへ滲み出すか。小さな身体のまま、当たり前のように全体を押さえている。
通信は、まだ繋がっていた。
ノイズ混じりの向こうで、ダ・ヴィンチちゃんの声が続く。
『通信状態は不安定だけど、さっきより少し拾えている。ツナくん、君の近くにある装備と、リボーンくんたちの首元にある器。それから、藤丸くんの首元にある小さな器。少なくとも、その三つに強い反応がある』
綱吉は自分の手へ視線を落とした。
ボンゴレギア。
大空のリングから変化した、今の自分の武器。指輪だった頃の感触も覚えている。ボンゴレリングとして受け継いだ時の重さも、シモンとの戦いを経てボンゴレギアになった時の変化も、身体の奥に残っていた。それでも、カルデア側から強い反応と呼ばれると、胸の内側に別の重さが増える。
「俺のこれと、リボーンたちのおしゃぶりってこと?」
『まずはその線で見ている。反応の根は近い。君の装備は、君自身の死ぬ気の炎に合わせて姿を変え、出力を支えている。リボーンくんたちの首元の器は、もっと深い場所で動いている。持ち主の存在と結びついた、小型の維持装置に近い』
ムニエルの声が混ざる。
『維持装置? あんな小さいのに?』
『小さいから弱い、という話にはならない。あの器は出力密度がおかしい。小型の聖杯に似た反応を返しているけど、願いを叶える器とは挙動が違う。もっと、何かを保つために動いている』
フェンスの上のリボーンが口を開いた。
「いい線いってるな」
綱吉は顔を上げた。
「リボーン……」
「ツナ、聞かれたからには少し話すぞ。全部は広げねえ。今、余計なところまで触ると混乱する」
「う、うん」
獄寺がすぐに身を乗り出す。
「リボーンさん、そのおしゃぶりって、やっぱり今回の件と関係があるんですか」
「関係はある。今回の仕掛けの核と見ていいかは、まだ別だ」
リボーンの声は短い。必要以上に説明を足さない。けれど、隠して誤魔化す響きもない。
「俺たちの持っているおしゃぶり、ツナたちのボンゴレのリング、そしてマーレリング。この三つは、まとめてトゥリニセッテと呼ばれる」
その響きが落ちた瞬間、公園の空気が少しだけ締まった。
藤丸は、聞いたばかりの語を胸の奥で受け止めた。
トゥリニセッテ。
カルデアの知識にも、魔術協会の資料にも、サーヴァントに関わる術語にも重ならない。それでも、リボーンの声と綱吉たちの反応だけで、それがこの世界の奥へ深く刺さったものだと伝わってくる。
綱吉は眉を寄せる。
「トゥリニセッテって……未来で聞いた、あれだよね。ボンゴレリングと、マーレリングと、アルコバレーノのおしゃぶり」
「ああ。お前らも聞いてるはずだ」
リボーンはフェンスの上から、藤丸の首元へ視線を落とした。
「だが、問題はそこだけじゃねえ」
藤丸も、自分の首元へ手をやった。
小さな身体になった時から、そこには見慣れないものがあった。首から下がる、小さな器。輪郭だけなら、リボーンたちが身に着けているおしゃぶりに似ている。だが色は薄く、指先に返る反応も軽い。中へ何かが満ちている感触がない。空の器だけを首へ縫いつけられたようで、触れるたびに胃の奥が冷える。
綱吉が気づく。
「藤丸にも……ついてる」
獄寺の顔が険しくなる。
「でも、あれはリボーンさんたちのおしゃぶりと反応が違いますよね?」
リボーンは即答しなかった。
その沈黙だけで、公園の空気はまた重くなる。
「俺たちの持っているおしゃぶりと同じ反応は返してねえ。だが、似せてある。問題は、誰が、何のために似せたかだ」
「何のために……」
綱吉の喉が止まる。
ヴェルデが通信の向こうで低く言った。
『器の輪郭には用途が宿る。飾りなら、対象の身体状態とここまで結びつかない。その赤ん坊の縮小、首元の器、三騎の不安定な実体化。並べれば、それは対象をアルコバレーノに近い扱いで町の仕組みへ押し込む変換器に見える』
藤丸の背筋が冷えた。
「変換器……?」
『中身は空に近い。だからこそ、別のものを仮置きできる。君から抜き取られた何か、君と三騎を繋いでいた痕跡、そのどちらか、あるいは両方だ。町の仕組みが扱いやすい器へ収め直されたと見れば、今起きている現象と噛み合う』
ダ・ヴィンチちゃんの声も低くなる。
『藤丸くんの身体縮小、三騎との契約の不安定化、首元の空の器。別々の事故として扱うには、発生点が近すぎる。君はこの町のルールへ通すために、身体と接続の両方へ手を入れられている可能性が高い』
オルガマリーが息を呑む。
『弱体化より悪いわ。藤丸を、この町の側で扱える役割へ押し込んでいる』
『そこまで見た方がいい』
ジャンヌ・オルタが、低く吐き捨てる。
「悪趣味ね。人を勝手に作り替えて、空っぽの器までぶら下げるなんて」
エミヤは藤丸の首元を見たまま、静かに言った。
「痕跡があるなら、辿れる可能性も残る」
藤丸が顔を上げる。
「辿れる?」
「奪われたものには、奪った側との接点が残る。今は危険な異物だ。だが、いずれ道になるかもしれん」
藤丸は、首元の空の器を握った。
気持ち悪い。
指先から内側へ、細い糸を引かれるような感覚がある。それでも、その糸がどこかへ続いているなら、いつか自分を戻す手がかりになるかもしれない。
ダ・ヴィンチちゃんも、すぐに声を整えた。
『話を戻そう。トゥリニセッテと呼ばれる三種の七つ組。アルコバレーノのおしゃぶり、ボンゴレリング、マーレリング。そして、藤丸くんの首元にあるのは、そのおしゃぶりに似せた空の器。彼の状態と深く結びついている』
ムニエルが息を呑む。
『三種の七つ組……合計二十一。しかも、その一部が世界の仕組みに関わってるっぽいってことか?』
リボーンが短く返す。
「世界の仕組み、か。まあ、外れてはいねえ」
ダ・ヴィンチちゃんも続けた。
『この反応は、武装体系より深い。ツナくんのボンゴレギアは本人の死ぬ気の炎を引き出し、姿を変える。おしゃぶりは、持ち主の存在そのものに近い場所で動いている。どちらも、単に力を出す道具としては収まらない』
オルガマリーの声が鋭くなる。
『七つが三種類。そんな高密度の反応が複数あるなら、この町で起きている異常も、ただの局所事故として扱えないわ』
「だから面倒なんだよ」
リボーンは淡々と返す。
綱吉は、自分の手に視線を落としたまま訊いた。
「ボンゴレリングと、マーレリングと、リボーンたちのおしゃぶり……それがトゥリニセッテなのは、俺たちも聞いたことがある。でも、じゃあこの時計は何なんだ? トゥリニセッテと関係あるの?」
リボーンはフェンスの上で、綱吉の手首と藤丸の手首を順に見た。
「俺たちのおしゃぶりや、お前らのボンゴレギアとは反応が違う。死ぬ気の炎を宿す器じゃねえ。力の源じゃなく、役目を押しつける札だ。誰が中心に立ち、誰が支えるか。そういう立ち位置だけを、勝手に刻んでやがる」
ダ・ヴィンチちゃんも続ける。
『こちらの観測でも、ウォッチは首元の器やツナくんの装備と別の反応として拾えている。エネルギー源より、参加者を区別する識別票に近いね』
獄寺が顔をしかめた。
「戦う力をくれる道具じゃなくて、戦わせるための首輪みてえなもんかよ」
『かなり乱暴に言えば、そうなる』
マンドリカルドが自分のボスウォッチを見下ろし、ひきつった笑みを浮かべた。
「いや、ボスって言われても困るんすけど……これ、外せないんすよね?」
エミヤが短く答えた。
「外せるなら、最初に試している」
「ですよね……」
エミヤはそのまま、静かに時計を見ていた。
「役割を強制する端末か。こちらをこの戦いへ縛る鎖であり、同時に立場を固定する札でもある。都合よく使われているな」
『君たちはウォッチによって、この町の戦闘ルールに登録されている。トゥリニセッテとは別系統の拘束だ』
藤丸は手首を見る。
自分にも、おしゃぶり型に近い特殊な時計が装着されている。首元の空の器とは別に、手首にはルールを押しつける時計がある。二つは似ていない。役割も違う。それでも、どちらも自分をこの町へ縛っている。
それが、気持ち悪かった。
この世界の住人として生まれた覚えはない。アルコバレーノの呪いを背負った覚えもない。それなのに、町の仕組みは藤丸の身体を小さくし、首へ空の器を縫いつけ、手首へ役割を巻きつけた。
獄寺が腕を組む。
「藤丸の首についてるやつは、リボーンさんたちのおしゃぶりに似せたものってことですね」
『現時点では、そう見ている』ダ・ヴィンチちゃんが答える。『ただし、本物と反応は違う。藤丸くんの身体変化や、三騎との繋がりに深く関わっている』
ヴェルデが淡々と続けた。
『空の器だ。中身は薄いが、対象の状態を変える印として機能している。厄介なのは、それを本物に似せた理由がまだ見えない点だ』
その言い方は冷たいが、妙に分かりやすかった。
藤丸は首元の小さな器を握った。
状態を変えるもの。
自分を、この町の中で別の扱いへ押し込む印。
気持ち悪い。けれど、そこに痕跡が残っているなら、いつか辿れるかもしれない。
山本が静かに言う。
「でも、相手がそういう仕組みを使ってるなら、こっちも利用できるかもしれないってことだろ?」
ダ・ヴィンチちゃんの声に、わずかな熱が戻った。
『いい考え方だ。無理やり押しつけられたルールでも、仕組みがあるなら利用できる。藤丸くんたちの霊基安定も、その一つだ』
ムニエルが続ける。
『でもさ、その首元の器ってやつ、下手に触ったらまずくないか?』
『危険だね』ダ・ヴィンチちゃんはあっさり言った。『だから今は触らない。情報共有だけで十分だ』
リボーンが短く笑う。
「賢明だな。そいつに下手な手を出したら、ただじゃ済まねえ」
藤丸はリボーンのおしゃぶりを見た。小さな赤ん坊の首に下がる、晴の色を宿した器。それが持ち主の存在や世界の仕組みにまで関わるものだとしたら、軽々しく扱えるはずがない。
その時、ベンチの方でランボが小さく呻いた。
「……ママン……」
眠ったままの声だった。
了平が背負い直しながら、顔を曇らせる。
「極限に疲れている。まだ眠らせておくぞ」
綱吉の表情も沈む。
「母さんも消えたから……ランボ、ずっと泣いてたんだ」
藤丸はその声を聞いて、胸が痛くなった。町の人たちが消えた。その中には、綱吉の家族もいる。ランボにとって母親のような存在もいる。彼らはその重さを抱えたまま、戦いの話を続けている。
ダ・ヴィンチちゃんが慎重に言う。
『その子にも、装備の反応はあるのかな』
獄寺が少し複雑そうに答える。
「雷のボンゴレギアがあります。でも、今のこいつを戦場に立たせるなんて無理です」
山本も頷く。
「ランボはまだ小さいからな」
リボーンがフェンスの上で、静かにランボを見る。
「だが、雷の守護者であることに変わりはねえ。こいつが残された意味も、いずれ考える必要がある」
ムニエルがぼそりと言う。
『子どもまで巻き込まれてるのかよ……』
オルガマリーの声も硬い。
『今は保護対象として扱いなさい。戦力の話は後よ』
「分かってるよ」
綱吉は即座に答えた。
ランボを戦わせるつもりはない。けれど、この町のルールはそんな感情を拾わない。雷のボンゴレギアを持つ者としてランボがここに残されているなら、いずれ選択を迫られる時が来るのかもしれない。
藤丸は、眠るランボを見た。
小さな子ども。戦場に立たせてはいけない相手。それでも、ルールに巻き込まれた者。
自分も小さくされているからこそ、その理不尽さが余計に胸へ刺さった。
その時、ダ・ヴィンチちゃんの声がわずかに揺れた。
『……待って。もう一つ、遠くに似た反応がある』
全員の空気が変わる。
綱吉が身構えた。
「また影炎体?」
『黒い炎とは別の反応だ。おしゃぶりやボンゴレギアに近い系統として拾えている。ただし、ツナくんの装備ほど安定していない。距離の問題より、反応そのものが歪んでいる。ノイズが多くて、位置も掴みづらい』
リボーンが黙る。
ヴェルデもすぐには口を挟まない。
藤丸は、その沈黙が気になった。二人の反応は、未知のものへ向ける沈黙と少し違う。今ここで触れる範囲を測っているように聞こえた。
ダ・ヴィンチちゃんが慎重に続ける。
『おしゃぶり、ツナくんの装備、そしてこの不安定な反応。三つとも同じ系統で拾えている。ただし、最後のものだけは、こちらの観測でもかなり乱れている』
獄寺が低く言う。
「マーレリング……ってことですか」
綱吉の顔色が変わった。
未来で聞いた名。白蘭。ミルフィオーレ。あの戦いの記憶。今ここに直接姿がなくても、その系統の反応があるだけで、胸の奥に嫌な重さが落ちる。
「じゃあ、白蘭たちもこの町にいるの?」
リボーンは答えを急がなかった。
「可能性はある」
「可能性って……」
「断定はできねえ。だが、ユニが来た。大空のおしゃぶりもある。なら、マーレリングの反応があってもおかしくねえ」
ユニ。
綱吉は、神社で現れた白い帽子の少女を思い出す。彼女は「代理戦争」という響きだけが頭から離れないと言っていた。未来の断片を拾えるはずの少女でさえ、今回は景色が切れているとも言っていた。そして、白蘭とγの名を口にした。
獄寺の手が強く握られる。
だが、白蘭の名を続けて呼びはしなかった。
「……今度は、敵か味方かも分からねえってことか」
山本が横目で見る。
「獄寺」
「分かってる。今は、それを考える時じゃねえ」
声には、抑えた熱があった。未来での戦いは終わった。共に戦った相手もいる。けれど、マーレリングを所持していたミルフィオーレファミリーに結びつく記憶は、簡単に喉を通ってくれない。
ダ・ヴィンチちゃんは、その名に込められた重さまでは知らない。だが、公園の空気が変わったことは拾っていた。
『その反応については、今は追わない方がいい。位置が歪んでいるし、通信も不安定だ。何より、君たちの状態が悪すぎる』
オルガマリーが強く言う。
『同意見よ。未知の反応を追って分断されたら最悪だわ。まずは合流と安全確保。情報整理はその後』
リボーンも短く言った。
「ツナ、動くぞ。ここで長居はできねえ」
綱吉は頷く。
「うん」
藤丸は綱吉の腕の中で、胸の奥の繋がりを確かめる。
エミヤ。ジャンヌ・オルタ。マンドリカルド。
通信が繋がり、死ぬ気の炎の仮説ができ、トゥリニセッテという呼称に触れた。情報は増えた。けれど、そのたびに別の影が輪郭を持つ。
おしゃぶり。ボンゴレギア。マーレリングと思われる歪んだ反応。ウォッチ。影炎体。首元の空虚な器。そして、自分から抜き取られた何か。
それぞれの糸が、公園の空気の奥で絡み合っている。中心はまだ掴めない。
公園の外で、風もないのに砂場の赤いバケツがわずかに揺れた。
山本が刀へ手をかける。獄寺も即座に構える。クロームの霧の死ぬ気の炎が一瞬だけ濃くなり、了平がランボを背負ったまま前へ出た。
黒い炎はまだ見えない。
だが、町のどこかで何かが動いている。
ダ・ヴィンチちゃんの声が最後に響いた。
『藤丸くん、ツナくん。次に時間が取れたら、そちらの装備と器について、もう少し詳しく教えてほしい。そこに、この町のルールへ食い込む手がかりがある』
リボーンが返す。
「必要な分だけな」
『十分だよ。秘密主義の相手には慣れている』
ヴェルデが鼻で笑った。
『なら、私との会話にも耐えられるだろう』
『それは楽しみだ』
ダ・ヴィンチちゃんの返事に、ムニエルが小さく「楽しみなのかよ」と呟く。
その声を最後に、通信が少し遠くなった。まだ細く繋がっている。だが、ノイズはまた増え始めている。
綱吉は藤丸を抱え直し、公園の出口へ向かった。
今は、立ち止まれない。
白い包囲層に囲まれた並盛町の中で、七つの反応が静かに脈を打っている。
誰がそれを使っているのか。
何のために戦わせているのか。
まだ掴めない。
けれど、ただ押し流されるだけの時間は終わりつつあった。
綱吉の大空の死ぬ気の炎が、藤丸と三騎の存在をわずかに支える。藤丸の胸の奥で、細い契約の感覚が消えずに残る。
そして遠くで、まだ見ぬ反応が、白い町のどこかで不安定に揺れていた。
その反応の近くで、金属が擦れるような音がした。
白い包囲層の向こうで、銀色の鎖が、姿の分からない誰かの手から静かに伸びていた。