2014年編#1-1
2010年。
その夜。世界は突如として「静止」した。
深夜の都市を、ねっとりとした不可視の重圧が支配する。降り始めた雨は空中で真珠の粒のように留まり、行き交う車のヘッドライトは光の帯となって空間に固定された。
「重加速」——後にそう呼ばれる事象が、人類の時間を奪ったのだ。
静寂を引き裂き、アスファルトを叩き割る金属音が響く。
人の姿を模しながらも、その肉体は無機質な歯車と回路で構成された金属生命体が、動けぬ人々を蹂躙し始めていた。
廃墟と化したビルの屋上、赤く光る眼を持つ4体の影が、地上の混沌を見下ろしていた。
「始めようか。我々の理想の世界を」
リーダー格の男が冷酷に呟いたその時、重加速の結界を破り、何かが猛烈な速度で接近してきた。
「……待たせたな」
闇の向こうから現れた一人の異形なる影。その影の頭部には、鋭く、そして気高く輝く緑の眼光が宿っていた。
時が止まった世界で、ただ一人だけが未来へ向かって加速する。
2010年、語られることのなかった「始まりの夜」の戦いが、今幕を開けた。
2014年。
その日は、まるで世界中の輝きを一点に凝縮したかのような、残酷なまでに美しい五月の午後だった。
大学のキャンパスを彩るケヤキ並木は、若草色の光を透過させ、石畳の上に細やかな木漏れ日の刺繍を編み上げている。講義棟から離れた裏庭。手入れの行き届いた柔らかな芝生の上に、一人の青年が寝転んでいた。
鷹宮紫苑、20歳。
彼は、顔の上に広げたままの文庫本を日除け代わりにして、初夏の微風に身を任せていた。文庫本の紙の匂いと、刈り取られたばかりの芝の香りが混ざり合い、意識を心地よい微睡みの底へと誘う。紫苑にとって、この静寂は日常の中の唯一の贅沢だった。
ふいに、顔を覆っていた視界の「屋根」が、悪戯っぽく持ち上げられた。
「あ……」
不意打ちの眩しさに、紫苑は眉を寄せて目を細める。網膜に焼き付いた真っ白な光がゆっくりと像を結ぶと、そこには逆光を背負い、花が咲いたような笑顔を浮かべた少女が立っていた。
「紫苑くん、見ーつけた! さっきの講義いなかったよね? またサボって寝てたんでしょ」
同期の西城ちひろだ。彼女のポニーテールが、弾むような声に合わせて揺れる。
紫苑は重い瞼をこすりながら、上体を起こした。
「……ちひろか。サボったんじゃなくて、少し、考え事をしてたんだ」
「それを世間ではお昼寝って言うんだよ?」
ちひろの背後からは、聞き慣れた賑やかな足音が近づいてくる。東美穂、影山悠真、そして神崎朔也。彼ら5人は、性格がバラバラでありながら、いつしか「5人でいることが当たり前」になっていた、学内でも有名な親友グループだった。
「おい紫苑、なに読んでんだ? これ……」
悠真が、ちひろの手から奪い取るようにして文庫本をひょいと持ち上げた。運動部特有の大きな掌で、繊細な紙の端が少し折れる。悠真は表紙を凝視し、一文字ずつ丁寧に読み上げようとした。
「ドエス……ド、S……? 」
「いや、ドストエフスキーな」
隣にいた朔也が、冷静かつ即座に訂正を入れた。
そのあまりに無機質で完璧なタイミングのツッコミに、一瞬の静寂の後、どっと爆発的な笑いが起きた。
「ドSって! 悠真、お前バカすぎるだろ!」
「うるせえ! 漢字以外は全部同じに見えるんだよ!」
赤くなって反論する悠真を、美穂がクスクスと笑いながら宥める。
紫苑もつられて、いつもの穏やかな、どこか浮世離れした笑みを浮かべた。心の奥底が、温泉に浸かっているかのようにじんわりと温かくなるのを感じる。
「これから学外のカフェにお昼に行くんだ。紫苑もどう? 限定のオムライスがあるんだって」
美穂が小首をかしげて、気遣わしげに紫苑を誘った。彼女の優しさは、いつもグループの潤滑油になっていた。
「ああ、行くよ。お腹も空いてきたしね」
紫苑はそう答え、服についた芝生を手で払いながら、軽やかに立ち上がった。
キャンパスを歩く5人の影は、長く、美しく地面に伸びている。
いつも天真爛漫な笑顔で周りを明るく照らし、太陽のように振る舞うちひろ。
大雑把で直情的だが、誰よりも仲間思いで、今は単位取得に四苦八苦している悠真。
一歩引いて俯瞰し、論理的な言葉で皆の暴走を止める守護者、朔也。
そして、誰よりも繊細に仲間の心の機微を察し、寄り添い続ける美穂。
紫苑は、彼らと過ごすこの時間を「黄金」だと確信していた。
法学部で学ぶ自分たちが、数年後にどのような職業に就き、どのような大人になるのか。それはまだ霧の向こう側にある未来だったが、この5人の絆だけは、永遠に変わることなく続いていくのだと信じて疑わなかった。
しかし。
彼らはまだ知らない。
この温かな光の先に、奈落のような深い闇が待ち構えていることを。
一人、また一人と「欠けていく」ことで、黄金の時間が砂のように崩れ去っていくことを。
「ねえ、紫苑くん。何ボーッとしてるの? 置いてっちゃうよ!」
少し先を歩くちひろが振り返り、大きく手を振る。
「……今行くよ」
紫苑は一度だけ、真っ青な空を仰いだ。
太陽は眩しく、風はあくまでも優しかった。
運命の歯車が軋む音は、まだ、誰の耳にも届いてはいなかった。
(続)