2019年編#4-2
柔らかな日差しが木々の緑葉を透かし、黄金色の筋を地面に落とす昼下がり。街の中心部から少し離れた閑静な公園には、さわやかな風が吹き渡り、木々のさざめきと遠くから聞こえる子供たちの笑い声が、穏やかな調べを奏でていた。
ベンチには蒼と遥が並んで腰を下ろしていた。遥の膝の上には、布製の風呂敷で丁寧に包まれた弁当箱が置かれ、紐を解くと、温かく優しい香りが立ち上る。彩り豊かな卵焼き、きんぴらごぼう、ほうれん草のおひたし、そして鮭の塩焼き。一つひとつに遥の心遣いが込められているのが、見ただけで伝わってくる。
「はい、蒼! 今日の卵焼きは、ちょっと甘めにしておいたからね。前にちょっとだけ甘い方が好きって言ってたでしょ?」
遥がにっこりと笑顔を浮かべ、木製の箸を蒼の手のひらにそっと渡す。その笑顔には曇りがなく、まるで春の日差しのように明るく、見ているだけで心が和むようだ。
「……ああ、ありがとな、遥」
蒼は応えたものの、いつもなら真っ先に箸を取り、嬉しそうに食べ始める彼の指先が、今日はなぜか力なく空中で止まったまま動かない。瞳の奥には、晴れない暗い靄が漂い、普段の落ち着いた雰囲気には重苦しい影が差していた。
遥の屈託のない笑顔、弁当から漂う家庭的な匂い――これらは、蒼にとって何よりも貴重な時間だった。彼が身を置く別の世界は、血のにおいと硝煙の煙、金属の軋む音が絶えない戦場同然の場所。危険と緊張が常に張り詰め、一瞬の油断が命取りになるような毎日の中で、遥と過ごすこのような何気ないひとときだけが、彼が「戦士」という仮面を脱ぎ捨て、ただの「普通の青年・刈谷蒼」に戻れる、かけがえのない休息だった。
だが今、蒼の胸の内には、重く濁った澱のようなものがどろりと溜まり、心臓を締めつけるように痛み続けている。
幼い頃に別れて以来、蒼は父・刈谷義孝を案じていた。どんな人物なのか、何をしているのか、手がかりの少ない中で、いつか再会できる日を夢見、長い年月をかけて探し続けてきた。だがつい最近、蒼が得た情報は、その憧れと希望を根元から打ち砕くものだった。
父・義孝こそが、この世界に「ロイミュード」と呼ばれる未知の存在、災厄のような怪物を生み出した元凶であること。さらに、身寄りのない孤児や貧しい家庭の子供たちを秘密裏に集め、彼らをまるで物でも扱うかのように、非人道的な実験の材料として弄んでいるという事実――その残酷な現実が、蒼の信じてきた世界を一気に崩壊させたのだ。
「ねえ、蒼? お箸、ずっと止まったままだよ。顔色もなんだか冴えないし……何かあったの?」
遥が心配そうに身を乗り出し、蒼の顔をまっすぐに覗き込む。彼女の澄んだ瞳が、彼の心の奥まで見透かすように向けられ、蒼は慌てて無理に口元を緩めようとする。だが、心の重さがそれを許さず、笑おうとするたびに口角が引きつり、作り笑いすら上手く浮かべることができなかった。
「……なあ、遥。もしさ……」
蒼は手に持った箸の先をじっと見つめ、まるで自分の言葉が口から出るのを拒むかのように、低く震える声で話し始めた。
「もし、自分がずっと探し続けていて、何よりも大切だと信じていた人が……実はとんでもない悪いことを重ねていたって分かったら、どうする?」
言葉にするたび、胸の奥が針で刺されるように軋む。喉の奥が苦しく締めつけられ、続きを話すのにも力が必要だった。
「信じていたことが全部嘘で、その人が多くの人を傷つけ、苦しめ、未来を奪っていたとしたら……遥なら、それでもその人のことを理解しようと受け入れられるか? それとも……自分の中からその存在ごと切り捨ててしまうか?」
遥は蒼の予期せぬ重い問いかけに、一瞬だけ大きく目を見開き、驚きと困惑の表情を浮かべた。だがそれもほんのわずかな時間で、すぐに彼女は穏やかでありながら、どこか芯の通った力強いまなざしに戻った。彼女は自分の膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、少しだけ視線を上げて、公園の木々の向こうに広がる青空を見上げた。
「……そうだね。きっと最初は、すごくショックを受けると思う。悲しくて、悔しくて、裏切られたような気持ちで胸がいっぱいになるはず。ずっと信じて積み上げてきたものが、一瞬で崩れ落ちるのって、本当に苦しいことだから」
遥はそこで一度言葉を区切り、深呼吸をしてから、再び蒼の目を真っ直ぐに見つめて続けた。
「でもね、蒼。私は思うの。その人が過去に何をしたかっていう事実は変えられないけれど、それよりもずっと大切なのは、今この瞬間にいる蒼自身が『これからどうしたいか』だと思うの。誰かが犯した罪が、そのまま蒼自身の価値や未来を決めるわけじゃない。悪いことを続けているのが誰であっても、それを止められる可能性が一番あるのは、もしかしたらその人に一番近い場所にいる人なのかもしれないよ」
柔らかくも確かな響きを持つその声が、凍りついたかのような蒼の心の奥深くまで、ゆっくりと染み込んでいく。
「私も昔ね、中学生の頃だったかな。些細な誤解から、一番仲の良かった親友と大喧嘩をしちゃったことがあるの。その時は『もう二度と口もききたくない』と思って、一ヶ月以上も無視し合っていたの。だけど時間が経つにつれて、相手が悪いとか自分が正しいとか、そんなことよりも『やっぱり彼女とまた笑い合いたい』『自分からちゃんと話して誤解を解きたい』っていう気持ちが強くなっていったの。だから勇気を出して自分から声をかけたら、案外あっさりとわだかまりが解けて、前よりも仲良くなれたの」
遥は少しはにかむように笑い、続ける。
「だから蒼も、周りの意見や過去の事実に縛られすぎないで。自分の心が本当に望む方向に、進んでいけばいいんだと思う。どんな道でも、蒼自身が選んだ道なら、きっと後悔しないから」
遥の言葉を聞いた瞬間、蒼はハッと息を呑むように顔を上げた。そして、少し前に仲間の紫苑が語った言葉が、脳裏に鮮やかによぎった。
――『俺の意志だけは、俺だけのものだ。誰かに操られることも、誰かの罪に押しつぶされることも、俺は自分の力で否定する。俺は俺のために生きる』
そうだ、と蒼は心の中で反芻する。自分は父が犯した罪の子だからといって、絶望したり責任を過剰に背負い込んだりする必要など、どこにもない。過去の因縁や他人の作り出した暗い呪縛に心を奪われ、立ち止まっている場合ではない。今ここに存在する自分自身が、何を選び、何を成し遂げるかこそが、未来を定めるのだ。
何も父のことやロイミュードの真相を知らないはずの遥が、無意識のうちに語ってくれた言葉は、暗い迷いの森の中でさまよっていた蒼の心を、静かに、だが確かに射抜き、新たな光を灯してくれた。
「……そっか。そうだよな。お前の言う通りだ」
蒼は長く重く溜まっていた息を、ゆっくりと吐き出す。胸の圧迫感が少しだけ薄れ、肩の力が自然と抜けていくのを感じた。そして、ようやく手の中の箸をしっかりと握り、弁当箱の中の卵焼きへと伸ばした。
口の中に運ぶと、甘みと適度な塩気が絶妙に調和した、懐かしくて温かな味が舌全体に広がる。遥の真心が込められたその味は、蒼の凍りつきかけていた心を、少しずつ解かしていくようだった。
「……美味しいよ。ありがとな、遥」
今度こそ、心からの笑みを浮かべて言うと、遥もまた嬉しそうに瞳を輝かせる。
「でしょ!? たくさん食べて、栄養をつけて、ほら、元気を出して! 悩み事があっても、お腹いっぱいになれば前向きになるものだから」
遥の明るい声に心から救われながら、蒼はゆっくりと残りのおかずも口に運んでいく。それと同時に、彼の心の中では一つの固く揺るぎない決意が、静かにだが力強く生まれていくのをはっきりと感じていた。
――父・刈谷義孝がこれまでに犯してきた罪や傷つけてきた多くの命、奪ってきた日常は、どんなに願っても消すことはできない。だが、その罪をこれ以上続けさせ、さらに多くの悲劇を生み出すわけには絶対にいかない。自分の手で父の隠された全ての計画を暴き出し、その行いを正しく止めなければならない。それが、たとえ血がつながっていても悪を見過ごさないために、刈谷義孝の息子として生まれた自分に課せられた、唯一の、そして最後の責任なのだ――。
弁当を食べ終え、残り物を片付け、風呂敷で包み直すと、蒼は立ち上がって伸びをした。時計を見れば、遥がアルバイトを始める時間が近づいている。
「じゃあ、遥。店まで送っていくよ。」
「うん、ありがとう! 今日も店は忙しくなりそうだから、早めに行って準備しないとね」
二人は並んで公園の出口へと向かい、駐輪場に停めてある蒼のバイクに乗り込んだ。午後のまばゆい日差しを浴びながら街路を走り、10分ほどで目的地へと到着する。道行く人の目を楽しませるように、店先や窓辺に色とりどりの花々が咲き誇る「かげやまフラワー」が、穏やかな雰囲気で佇んでいた。
店先に降り立つと、遥が元気いっぱいに声を張り上げる。
「影山さーん、こんにちは! 今日もよろしくお願いします!」
すると、店先でホースで水やりをしたり、剪定ばさみで枝を整えたりして花の世話をしていた悠真が、手を止めて顔を上げた。
「おお、遥ちゃん。今日もよろしく……って、そっちは....」
悠真の視線が、遥の隣に立つ蒼へと向けられる。蒼は悠真に、少し気恥ずかしそうに軽く頭を下げて会釈した。悠真もまた、柔らかく頷き返し、笑みを浮かべる。
「じゃあ蒼、送ってくれてありがと! また夜にでも連絡するね」
遥は大きく手を振りながら店の中へと入っていく。悠真も蒼にもう一度軽く手を挙げてから、彼女に続くように店内へと戻った。
ガラス扉が閉まると同時に、悠真はにやにやとした面持ちで遥の側に近づき、周りに客がいないのを確認してから、からかうように声を低くして言った。
「遥ちゃん、さっきの青年……まさかカレシかい? なかなかどうして、かなりのイケメンじゃない」
「もう、影山さん! やめてくださいよ、全然違いますから! ただの大切な友達で……っ!」
遥は瞬く間に顔を真っ赤に染め上げ、慌てて手を横に振って否定する。だがその瞳の奥や口元には、怒りよりも隠しきれない嬉しさや明るさがはっきりと浮かんでいるのを、悠真は見逃さなかった。
「ははは!冗談だよ。この間の仕返し」
「もう! 着替えてきます!」
遥は頬を膨らませて、仕事着が置いてある奥の部屋へと小走りに駆けていく。
一方、店の外に残された蒼は、すぐにバイクのエンジンをかけて走り去ることができず、少しだけその場に立ち止まっていた。そして、クリアなガラス窓越しに、店内でこれからの仕事に向かって忙しく動き始める遥の後ろ姿を、そっと見つめていた。
彼女がいるこの穏やかで温かな日常、何も恐れることなく笑い合い、未来に希望を持って生きられる平和な世界――これを、父が生み出したロイミュードの闇や、陰謀の争いで絶対に汚させてはならない。この平和を守ることこそが、自分が戦う真の意味なのだ――蒼はそんな強く熱い想いを心の奥深くに噛みしめるように、一度だけ力強く頷いた。
ヘルメットをかぶり、バイクのエンジンに火を入れる。低く安定したエンジン音が周囲に響き始めると、蒼は慎重にハンドルを握り、次の行動のためにこの場を後にしようとバイクを発進させた。
だが、この時、店の中で仕事の準備を始めた二人も、闘志を秘めて走り去る蒼自身も、誰一人としてその存在に気づいてはいなかった。
通りの向かい側、電柱と建物の壁の陰になった、日の光が届かない暗がりの場所に――まるで彫刻された石像のように、不気味なほど一切動かず、息を潜めてじっと立ち尽くす一つの影があったことを。
全身を覆う黒いローブのフードを深く目深にかぶり、顔の大部分は闇に包まれている。その奥からわずかに覗く瞳は、人間のものとは思えない冷たい青色に鈍く妖しく光り、まるで機械が標的を捉えるような無機質な視線が、店内にいる遥の後ろ姿をまっすぐに捉え、決して離そうとしなかった。
長い指先がローブの袖の中でゆっくりと曲がり、固く握りしめられる。
「……見つけた」
低く、低く、まるで地の底から響いてくるような重く不穏な声が、周囲の喧騒に紛れるように、闇の中で静かに零れ落ちた。
こうして、蒼の心には守るべきもののための決意が固まり、遥の日常には知らないうちに危険な影が忍び寄り、そして刈谷義孝が隠し続ける闇の計画は、水面下で着実に進行していくのだった。光と闇の境界線は次第に曖昧になり、これから始まるさらなる試練と戦いの足音が、ゆっくりとだが確かに、この街に近づき始めていた――。
(続)