2019年編 #4-4
穏やかな午後の日差しが、クリーム色のガラス窓を柔らかく透かし、木製のテーブルや棚に淡い光の帯を落としていく。店内には古びたレコードから流れるジャズの調べが、空気全体を包み込むように漂っていた。コーヒーの芳ばしい香りと、時折漂うケーキの甘い香りが混ざり合う、二人にとって何よりも落ち着く場所——いつものカフェだ。
奥の窓際にある定位置のテーブルに、朔也と悠真は向かい合って腰を下ろしていた。特に前日から約束を交わしたわけでもない。だが時間に余裕ができると、自然と足がここへ向く。それは5年前のあの悲劇を境に、二人の間に生まれた暗黙の了解であり、共に失ったものの重みを分かち合える、たった一つの居場所でもあった。まるで時がゆっくりと流れるこの空間だけが、激動の日々の中で唯一変わらない拠り所のように感じられた。
「そういえば悠真、花屋の方は相変わらず忙しいのか?」
カップを両手で包み込むように持ちながら、朔也が最初に口を開く。
悠真は湯気の立つカップを見つめ、柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
「ああ、おかげさまでな。朝早くから店に出て、花の手入れに水やり、配達にと一日中体を動かしてる。そうしていると、頭の中が自然と整理されて、心が一番落ち着くんだ。それに……最近はアルバイトの子がとてもよく働いてくれるから、俺一人では回らない仕事もだいぶ助けられているよ」
彼の笑顔は、店先に並ぶ色とりどりの花々のように明るく、生命力に満ちている。最前線で常に死と隣り合わせの戦いを続ける朔也にとって、この時間こそが緊張を解き放ち、心を癒してくれる貴重なひとときだった。だが今日の朔也の様子はいつもと違っていた。
表情はどこか暗く沈み、指先でカップの縁をゆっくりとなぞるように動かし、言葉を口にするべきか、それとも胸の奥にしまい込んでおくべきか、長い間迷っているように見えた。
そんな朔也のわずかな変化を、悠真はすぐに察知した。彼はカップを静かにテーブルに置き、前傾きになって柔らかく問いかける。
「どうした、朔也? 顔色が優れないように見えるけど。何か……あったのか?」
問われた朔也は一度深く、長い息を吐き出した。まるで胸の奥に詰まった重たい空気を全部吐き出すかのように。そして、ゆっくりと重たい口を開いた。
「……実はな、悠真。紫苑に会ったんだ」
その一言が店内の空気を一変させた。悠真は手にしていたスプーンを落としそうになるほど驚き、カップを乱暴に置くと、まるで信じられないものを見るような目で朔也を見つめた。
「え!? 紫苑が……!? あいつ、生きてたのか!? 5年前のあの事件の後、遺体すら見つからなかったと聞いて、もしかしたらもうって……そう思う時もあったんだ……」
言葉が震え、次に続く言葉が出てこない。悠真の瞳には、驚きと同時に、かつて共に笑い合った仲間への複雑な思いが渦巻いていた。
「ああ、生きてはいたさ。だがな……」
朔也はそこで一度言葉を区切り、まるで遠い彼方を見つめるような、虚ろな視線を窓の外へ向けた。記憶の中に、戦場で対峙した瞬間の光景が鮮明に蘇る。冷たく光る機械の瞳、血と鉄の匂い、そして何も映さない無表情な顔——それが今の紫苑だった。
「けどな、悠真。あいつはもう、俺たちが知っている昔の紫苑じゃなかったんだ」
彼は喉の奥が締め付けられるような感覚を覚えながら、ゆっくりと続けた。
「体は想像以上に酷く損傷していた。右手は義手に置き換えられて、皮膚も継ぎ接ぎで、まるで生身の人間と機械が混ざり合った別の生き物のような姿になっていた。表情は完全に消え去って、昔のような笑顔の面影なんて、かけらも残っちゃいなかったんだ」
朔也は自分の胸元に手を当て、その痛みを押さえるようにして話し続ける。
「本部にいる間、何度か廊下や会議室で顔を合わせる機会があるんだ。だがあいつは俺の顔を見ても、まるで無機質な壁でも見るように、一切の反応を示さない。話す内容と言えば、任務の成果報告か、事務的な指示だけ。昔のようなくだらない冗談も、思い出話も、一切ない。まるで……感情を捨て去って、ただ戦うためだけに作られた兵器になってしまったかのようだった」
それは単なる性格の変化や、時間による変貌などではなかった。過去と現在の間には、深くて越えられない溝が生まれており、もはや同一人物と呼ぶことすら残酷に思えるほどの隔たりだった。
悠真は黙って話を聞きながら、眉間に深い皺を寄せ、唇を強く結んだ。胸の内に込み上げてくる悲しみと怒り、そして無力感を抑えるように、ゆっくりと頷く。
「そうか……俺はずっと、いつか平和が戻ったら、昔のように仲間たちが集まって、普通に笑い合える日常が必ず来ると信じて、花屋を続けてきた。だけどよ……今の話を聞くと、そんなささやかな願いがどれほど困難で、遠い夢だったのかってことを、改めて思い知らされるよ」
二人の間に、長く重たい沈黙が流れる。ジャズの音楽だけが空間に響き、それぞれが胸の奥に抱えた言葉にできない痛みと、失ったものへの思いが静かに渦巻いていた。
やがて、その沈黙を破るように、悠真が何かを思い出したかのように口を開いた。
「そういえば、朔也。こないだ美穂が店に立ち寄ってくれたんだよ」
朔也の瞳に、わずかな驚きの色が浮かぶ。
「へぇ、美穂が? 珍しいな、あいつがわざわざ街中まで出てくるなんて」
美穂は5年前の事件以来、人混みや騒がしい場所を避け、郊外の静かな家で暮らすようになっていた。だからこそ、その言葉が意外に感じられた。
「ああ。ちょうど休暇を取れた日だったらしい。話を聞くと、これからちひろの墓参りに向かう途中だったんだって」
「ちひろ……」
朔也はその名前を聞くと、心の奥が締め付けられるような痛みを感じ、つい先日の会議室での記憶や、5年前の光景が脳裏に鮮明に蘇った。
「……お前は最近、美穂とは会ってないのか?」
悠真の問いかけに、朔也は苦々しい表情を浮かべ、視線をテーブルの上に落とした。
「ああ、会ってない。……いや、会わないようにしてるんだ」
「どうしてだ? 彼女だって、俺たちのことを心配してるはずだろ?」
「あいつはな、俺たちと顔を合わせると、どうしても5年前のあの日の光景を鮮明に思い出してしまうらしいんだ。ちひろが死んだこと、紫苑がいなくなった瞬間、そして大悟がロイミュードになったこと……それらが一気にフラッシュバックして、呼吸が苦しくなり、体調を崩してしまうことがあると、聞いた」
朔也は自分の心の傷に触れるように、胸元をそっと押さえながら続ける。
「俺は今も、最前線でロイミュードと戦い続けてる。だからこそ、俺が美穂の側にいると、彼女の心の傷をえぐり、過去の恐怖を呼び起こすだけになりかねない。だから、なるべく距離を置いて、会わないようにしてるんだ……」
自分の選んだ道が、かえって大切な人を苦しめているのかもしれない。そんな思いが、彼の無力感をまた一つ重くしていた。
悠真はそんな朔也の心の内を深く察し、同情と共感を込めて静かに頷いた。
「……そうか。それにしても、今の紫苑のことは、美穂にはまだ秘密にしておいた方が良いかもしれないな。何も知らないまま、『いつか帰ってくるかもしれない』というわずかな希望を抱いてる方が、彼女にとっては今はまだ幸せなのかもしれない」
「ああ、そうだな。俺もそう思ってる。真実が必ずしも誰かを救うわけじゃないことを、今回は痛いほど思い知ったよ」
二人はそれから長い時間、特別な会話を交わすことなく、ただコーヒーをすすりながら、それぞれの思いを胸に沈めていた。ジャズの曲は次々と変わり、窓の外では太陽が少しずつ傾き始め、空が柔らかなオレンジ色に染まり始めていた。
会計を済ませ、店の外に出ると、夕暮れ前の心地よい風が二人の頬を優しく撫でていく。街路樹の葉がさらさらと音を立て、遠くからは子供たちの笑い声が聞こえてくる。これこそが、彼らが守りたいと願う日常の音だった。
別れ際、朔也が停めてあった自転車に跨ろうと足を上げた瞬間、悠真が何かを決意したように声を上げた。
「なあ、朔也。一つ聞いてもいいか?」
「なんだ? 珍しく改まった声だな」
朔也は自転車のハンドルに手を置いたまま、悠真の方を向く。
悠真は真剣で、少しだけ不安そうな眼差しで朔也を見つめた。
「お前はいつも命がけで戦ってるだろ? 俺はこうして平和な街の中で花を売ってるだけで、その世界がどんなものか、想像することしかできないんだ。……ロイミュードと戦うって、一体どんな感じなんだ? どんな思いで戦っているんだ?」
その問いの奥には、純粋な疑問だけでなく、親友の身を案じる深い心配と、自分には届かない世界への無力感が込められていた。
朔也は少しの間、傾き始めた夕焼けの空を見上げ、風になびく髪を手で押さえながら、心の中を整理するようにゆっくりと答え始めた。
「……そうだな。言葉で正確に言い表すのは、難しいな」
彼は遠い目をして、戦場の光景を思い描きながら続ける。
「それはな、悠真。まるで『世界の理不尽』と真正面から殴り合いをしてるようなもんだよ。どれだけ正しい道を選んで、平和を願っても、どれだけ守りたいものがはっきりと見えていても、向こうはそんな願いなど一切お構いなしに、力だけで全てをねじ伏せようと襲ってくる。体が砕けるような痛みもあるし、次の瞬間に自分が消えるかもしれないという恐怖もある。……だけどな」
朔也はこちらに向き直り、これまでの暗い雰囲気を一掃するように、力強く、そして晴れやかな笑みを浮かべて見せた。
「それでも俺が戦い続ける理由は一つだ。それはな……お前が守ってくれてるこの日常を、この街の静かな時間を、絶対に失いたくないからだよ。俺が血を流し、傷つくことで、お前や美穂、そしてこの街に住む人々が、安心して笑い、普通に毎日を過ごせるんなら、それで俺の戦いには意味がある。それだけで十分だと思ってる」
悠真は黙ってその言葉を胸の奥深くに受け止め、何度も深く頷いた。
「……そうか。お前の言葉、俺はしっかりと胸に刻んでおく。俺は俺の場所で、この街とこの平和を守り続ける。だからお前も……どうか、自分の命を粗末にするようなことだけは絶対にするなよ」
「ああ、心配するな。俺はまだまだ強いぜ。簡単にくたばったりはしない」
朔也は軽く右手を上げて笑い、ペダルを踏み込んだ。夕暮れの街路を自転車が走り去り、その背中が次第に遠くなっていく。悠真は店の前に立ったまま、親友の姿が角を曲がって見えなくなるまで、ずっと静かに見送り続けていた。
彼の心の中には、それぞれの場所で守り続けるものがあることを改めて感じ、夕暮れの風の中で、自分にできることを再び強く誓っていた。
(続)