仮面ライダーGT   作:カッティングカマター

103 / 107
2019年編#4-5

2019年編 #4-5

 

ある朝のことだった。

 

紫苑は深い眠りの底に沈んでいた。枕元の目覚まし時計が何度も甲高い音を響かせていたはずなのに、疲れ切った精神と肉体はその音を遮断し、暗い静寂の中に閉じこもらせていたのだ。意識が浮上してきた瞬間、最初に襲ってきたのは胸の奥からせり上がる焦燥感だった。慌てて枕元に手を伸ばし、時計の針を確認したとき、彼の心臓は一気に跳ね上がった。

 

「やばい……!」

 

予定の時間はとうに過ぎ、一限の講義が始まる時刻はすぐそこまで迫っていた。その講義の教授は出席確認を最初の5分で厳格に行うことで有名で、遅刻は即座に欠席扱いとなる。単位を落とせば卒業にも響く——そんな考えが一瞬で頭を駆け巡った。

 

紫苑は布団をまるで敵でも払うかのように力強く蹴飛ばし、ベッドから跳ね起きた。手早くシャツを着込み、ジーンズに足を滑り込ませる動作はまるで戦場に向かう兵士のようだった。机の上に置いてあったリュックを肩に引っ掛け、ドアノブを掴むと同時に、彼は自分の部屋を勢いよく飛び出していた。

 

キャンパスへと続く坂道は、いつも通りの風景だった。まだ早い朝の光は柔らかく、木々の緑を透かして地面に模様を描き、冷たく澄んだ空気が肺の奥まで染み込んでくる。通りを歩く人の姿はまばらで、街全体がまだゆっくりと目覚め始めたばかりのような静けさに包まれていた。

 

紫苑は息を切らしながら、一歩でも多く前へ進もうと足を速める。汗が額から流れ、こめかみを伝って首筋へと落ちていく。そんなとき、彼の視界の先、少し前方を走る小さな後ろ姿が目に入った。

 

長い黒髪が走るたびに揺れ、いつも少し大きめのリュックを背負ったその姿——見間違えるはずもない。

 

——ちひろだ。

 

彼女もまた遅刻の瀬戸際に立っているのだろう。普段はおっとりとした足取りなのに、今は前だけを見つめ、乱れた髪を気にする余裕もないまま、力強く地面を蹴って走っている。その必死な背中を見た瞬間、紫苑の心には焦りと共に、どこかくすぐったいような親しみが湧き上がった。

 

「ちひろ!」

 

彼は道いっぱいに声を張り上げた。

 

名前を呼ばれた瞬間、ちひろの肩がびくりと大きく震え、次の瞬間には勢いよく上半身だけを振り返る。だが、その顔をはっきりと見た途端、紫苑はまるで足元に杭でも打たれたかのように、走る動きをぴたりと止めてしまった。

 

彼女の口の中は、驚くほど大きく膨らんでいた。手に持ったおにぎりは具材の梅干しが端からはみ出すほどで、まるで頬の中に無理やり詰め込んでいるかのようだ。リスが木の実を蓄えるときのように、頬がはち切れんばかりに丸く膨らみ、口を閉じることもままならない様子だった。どう見ても、朝食を取る時間がないまま、走りながら食べようとしているとしか考えられない。

 

「……何してんの?」

 

驚きと呆れ、そして少しのおかしみが入り混じった声で紫苑が問いかけると、ちひろは大きな瞳を何度も瞬かせながら、なんとか答えようと口を動かした。

 

「んふぁん!」

 

発せられた音は不明瞭で、言葉になっていない。だが紫苑には、それが「ごはん!」と必死に伝えようとしているのだとすぐに理解できた。

 

「え、今? この状況で? 遅刻しそうなんだろ?」

 

紫苑がさらに問い詰めると、ちひろは勢いよく首を縦に何度も振り、再び口を開く。

 

「んんっふんんんふん!」

 

今度は「朝ごはん食べてなかったの!」という意味だと、紫苑はため息をつきながら推測する。ちひろは目を白黒とさせ、口の中のおにぎりを少しでも小さくして飲み込もうと、必死に咀嚼を続けている。そのなんとも間抜けで、だが真剣な姿を見ていると、紫苑の心の奥には、忙しさも焦りも忘れてしまうような、懐かしく温かい波が広がっていくのだった。

 

「いや、本当に時間がやばいんだよ? そんな悠長に食べてる場合じゃないだろ……! まずはちゃんと飲み込んでから喋れよ、喉に詰まらせるぞ」

 

紫苑が注意すると、ちひろはその声を聞くより先に、むせ返りながらもおにぎりを無理やり喉の奥へと押し込もうとする。途端に彼女の喉元が不自然に動き、噎せかかって涙目になりながら、慌てて紫苑の腕を両手でぎゅっと掴んだ。

 

「遅れるぅぅぅ!」

 

ようやく絞り出すように発した声には、焦りと少しの怒りが混じっている。

 

「お前が食ってたせいだろ!」

 

突き抜けるような青空の下、二人の他愛もない言い合いが風に乗って響いた。笑いが混じり、お互いをからかいながら、彼らは並んで肩を並べ、キャンパスへと続く道を再び駆け出していく。

 

 

 

——だが、次の瞬間、その柔らかく幸せな光景は、突如として暗転した。

 

まぶしかった朝の光が一瞬にして消え、視界は完全な闇に覆われる。澄んだ青空はどろりと重たく濁った漆黒へと塗り替えられ、木々のそよぐ音も、鳥のさえずりも、そして隣を走るちひろの笑い声までもが、遠く遠く彼方へと引き裂かれていく。耳の奥には鋭い耳鳴りだけが残り、世界全体が沈黙と重圧に包まれていく。

 

「ちひろ……?」

 

紫苑は慌てて手を伸ばす。だが、さっきまで確かに隣にいたはずの彼女の姿は、まるで霧のように掴みどころがなく、どんどんと遠く、小さくなっていく。必死に足を動かそうとしても、体は泥沼の中に足を取られたように重く、前へ進むことができない。一歩進むたびに力が奪われ、まるで自分だけが時の流れから取り残されていくような感覚に襲われる。

 

そんな彼の背後から、氷点下の冷気を帯びた声が響いた。

 

『ねえ……紫苑くん。どうして私を殺したの?』

 

それは紛れもなく、ちひろの声だった。だが普段の柔らかく明るい響きはなく、凍りつくような冷たさと、深い悲しみだけが込められている。

 

紫苑は全身の血が凍りつくような恐怖を感じながら、ゆっくりと、そして重たい頭を回して振り返る。

 

そこに立っていたのは、彼が知っている笑顔の可愛らしい少女の姿ではなかった。冷徹な金属の装甲を全身に纏い、関節部分からは機械油のような黒い光沢が滲み、瞳の代わりには赤い光が妖しく、まるで炎のように点滅している異形の存在——ラフロイミュードだった。だがその姿は、確かにちひろの輪郭をなぞっているかのようで、悲しげに首を傾げながら紫苑を見下ろしている。

 

「……ちひろ……?」

 

声が震え、言葉にならない。

 

『ひどいよ、紫苑くん。また来年も海に行こうって、約束したのに……。それなのに、約束、守ってくれなかったんだね……』

 

悲痛な問いかけが、闇の中からいくつもいくつも降り注ぎ、紫苑の心を鋭い刃で何度も切り裂いていく。

 

「違う、俺は……! 俺はお前を守ろうとして、ただそれだけで……!」

 

必死に弁明しようと手を伸ばした紫苑は、自分の腕先に視線を落とした瞬間、喉の奥から絶叫が飛び出しそうになった。

 

そこにあったのは、自分のものだったはずの温かい人間の手ではない。黒く禍々しく光り、鋭い爪が獣のように伸びた、怪物のそれと変わらない異形の手だった。

 

「あああああっ!!」

 

絶叫が闇に響き渡ると同時に、紫苑はまるで水底から浮上するように、勢いよく跳ね起きて目を覚ました。

 

激しく上下する胸、汗でびっしょりと濡れたシーツ、そして視界に飛び込んできたのは、S.H.I.F.T.本部の冷たく無機質な白い天井だった。

 

心臓はまるで胸の壁を突き破って飛び出すのではないかと思うほど激しく鼓動し、全身を流れる汗は不快な冷たさを伴って肌に張り付く。荒い息を繰り返しながら、彼はようやく、自分が本部のベッドの上で眠っていたのだという現実を理解した。

 

失われた穏やかな日常。青空の下で笑い合った朝の光景。そして、あの忌まわしい事件の日——自分自身の手で、最も守りたかった存在にとどめを刺してしまったという、決して癒えることのない傷。夢と現実の境界線は曖昧に揺らぎ、紫苑は今もなお、過去の悪夢の中を彷徨い続けていた。

 

「……また、か」

 

震える両手で顔を覆い、荒い息が少しずつ落ち着くのを待つ。胸の奥に渦巻く後悔と絶望の重さだけが、現実であることを彼に告げていた。

 

やがてベッドからゆっくりと立ち上がった紫苑は、足取りも重く洗面所へと向かった。蛇口を捻ると、冷たい水が勢いよく流れ出す。彼はその水を両手に受け、何度も何度も顔を洗った。冷たさで頭の芯から悪夢の残滓を洗い流し、少しでも覚醒させようとするかのように。

 

そして、顔を上げて鏡を見た瞬間、彼は再び深い絶望の淵へと突き落とされた。

 

鏡の中に映っていたのは、自分自身だった。だがその姿は、かつての大学生だった紫苑とはまるで別人だ。右目の部分は生身の皮膚ではなく、機械仕掛けの義眼が埋め込まれ、その奥からは赤い光が不気味に、まるで生き物のように点滅を繰り返している。まるで怪物が人間の姿を借りているかのような、そんな異質な雰囲気が全身から漂っていた。

 

これが今の自分の正体なのだ。そう思うだけで、吐き気が込み上げてくるほど忌まわしく、自分自身を許すことなど到底できなかった。

 

紫苑は無言のまま、全身の力を左の拳に込め、思い切り鏡の表面へと叩きつけた。

 

ガシャンッ!

 

重く鈍い衝撃音が洗面所に響き渡り、鏡は蜘蛛の巣状に亀裂を走らせた後、一気に粉々に砕け散った。鋭い破片が彼の拳の皮膚を深く切り裂き、熱い赤い血が一筋、また一筋と流れ落ちる。金属の冷たさとは対照的に、生々しく温かい雫となって洗面台の白い陶器を汚していく。痛みが走るが、紫苑にはその痛みが、自分自身への罰のように感じられた。

 

それからしばらく時間が経ち、包帯も巻かずに傷口から血が滲むまま、紫苑は重い足取りで指令室へと向かった。扉を開けると、室内には既に三原が一人、何百というモニター画面に映し出されたデータの波を見つめながら、静かに待っていた。

 

彼は紫苑の姿を横目で一瞥すると、その青ざめた顔色と、傷ついたままの拳にすぐに気づいた。だが、それについて特に問いただすことも責めることもせず、ただ低い声で静かに言葉を発した。

 

「……目覚めは、あまり良くなかったようだな」

 

紫苑は黙って頷き、痛みを感じる拳を握り締める。

 

「三原さん、例の件だ。孤児院跡で戦ったライダーに酷似した、あのロイミュードについて何か新しい情報は掴めたか?」

 

紫苑の声には、焦りと、そして真実を突き止めたいという強い決意が込められていた。

 

三原は指先でデスクの端を軽く叩きながら、慎重に答える。

 

「いや、まだ詳細な素性や目的までは掴めていない。現場に残されたデバイスの残骸から成分分析を進めさせているが、その構造は紛れもなくロイミュードのものだ。それだけが今のところ確かな事実だ」

 

紫苑は歯を食いしばる。

 

「俺は忘れていない。2年前、俺はこれと同じ力を持つ敵と、一度戦っている。……あいつらの正体を知ることが、過去を清算し、前に進むための一歩なんだ」

 

三原は深く頷き、静かに応えた。

 

「ああ、わかっている。解析作業はこれからも最優先で急がせる」

 

そう言った後、三原は少し間を置き、紫苑の瞳を真っ直ぐに見つめながら続けた。

 

「だが、それよりも先に話しておきたいことがある。紫苑、お前が2年前にあの事件で消息を絶った後、俺は密かにGT-Xの中枢システムを解析し、新たな可能性を探り続けていた。そしてついに、『次なる力』の開発に目処が立った」

 

三原はそう言うと、デスクの上に置かれていた黒い革張りのケースを手に取り、紫苑の前に置いた。

 

ケースの留め金を外して蓋を開けると、そこに収められていたものは、これまで紫苑が使ってきたどのシフトカーとも比較にならない、圧倒的な存在感を放っていた。

 

まるで太陽そのものを凝縮したかのような輝きを持つ黄金のボディ。表面に刻まれた複雑な回路模様は、生き物の脈動のように強く明るく点滅し、ケースの中だけでなく、指令室全体に暖かくも力強い光を満たしていく。

 

「一言で言えば、これは『フレアフェイズ』の再定義だ」

 

三原の声には、長年の研究が結実した確かな自信が滲んでいた。

 

「5年前のあの日、お前の体を内側から崩壊させかけた、あの爆発的なエネルギーの出力……制御不能だったあの力を、システム側で完全に安定化させ、安全に引き出せるように設計し直したのが、このシフトカーだ」

 

紫苑はその神々しいまでの輝きを、複雑な感情を込めた眼差しでじっと見つめていた。あの時、体の芯から焼かれるような痛みと熱さ、命の限界まで力を絞り出した記憶は、今でも鮮明に残っている。この力は希望であると同時に、再び身を焼き尽くすかもしれない危険な代物でもあった。

 

「……本当に大丈夫なのか? 『爆発』は二度とごめんだぞ」

 

警戒心を隠さない紫苑に、三原はわずかに口角を上げ、力強く答えた。

 

「安心しろ。今度の力は、お前自身を焼き切るためのものではない。過去の鎖を断ち切り、運命そのものを切り拓き、砕き、前へ進むための力だ」

 

三原の言葉が胸に響く。紫苑は黙ったまま、ゆっくりと深く頷いた。

 

だが、彼の右腕に取り付けられた義手は、見えないほど微かに、だが確かに震え続けていた。

 

新たな力を手に入れ、いくら強くなったとしても、自分のこの手にかけられた「ちひろを殺した」という名の重い十字架は、決して消えることも、軽くなることもないのだ。

 

それでも紫苑は、拳からまだ血の滲んだままの手を伸ばし、その黄金のシフトカーを強く、力強く握りしめた。過去の亡霊と、自らが背負う宿命とを再び正面から見つめ直すように、彼は迷いを断ち切り、まっすぐに前だけを向いた。

 

この力が、いつか真の答えへと導いてくれることを信じながら——。

 

(続)

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。