2019年編#5-1
4月も終わりに差しかかる頃、街の景色はすっかり新緑一色に染まっていた。桜の花びらは散り尽くし、代わりに街路樹の若葉が太陽の光を受けて鮮やかな緑色に輝き始める。柔らかな春の風が通りをゆっくりと抜け、どこからか甘い草の香りや土のにおいが運ばれてくる——本来なら、心が浮き立つような穏やかな季節だ。
だが、商店街の一角にある小さな花屋「かげやまフラワー」の店先には、いつも以上に忙しない空気が漂っていた。卒業、入学、就職、そして引っ越しといった人生の節目が重なり、母の日が目前に迫るこの時期は、一年で最も注文が殺到する繁忙期。電話は鳴りやまず、来客は絶え間なく扉をくぐり、店の中には常に花の香りと人の話し声が渦巻いている。
ガラス扉に取り付けられた真鍮製のベルが、カランコロンと軽やかな音を立てて鳴った。
その音に反応して顔を上げる者はまだいない。奥の作業台では、悠真が手に剪定バサミを持ち、次々と届く花材の手入れに没頭していた。エプロンには水の染みが無数に散り、襟元には白いカスミソウの花粉が少しついている。汗ばんだ額を手の甲で拭いながら、彼は手早く茎を切り揃え、水揚げの準備を進めている。
そんな店内に、美穂がゆっくりと足を踏み入れた。
彼女は少し緊張したような、それでいてどこか心の奥に迷いを抱えたような面持ちで、まずは店の奥まで視線を巡らせる。色とりどりの花が並ぶ棚、壁に掛けられたリボンや包装紙、水の入ったバケツが並ぶ光景。彼女は深呼吸を一つし、意を決したように一歩前へと進み出た。
「いらっしゃいませー、少々お待ちくださいね!」
悠真が声を上げながら手を動かし続けていたが、ふと来客の姿を認めると、次の瞬間には目を丸くして顔を上げた。
「あれ?……って、おお、美穂!」
一瞬で作業の手を休め、明るく弾んだ声で彼は迎える。その笑顔は、大学生の頃から何一つ変わらない、まっすぐで親しみやすいものだった。
「うん、また来ちゃった。忙しいのに、ごめんね」
美穂は少し頬を染めてはにかみながら、レジカウンターの前に立つ。悠真は手を軽く振り、「そんな謝る必要なんてないさ」と言わんばかりに首を横に振った。
「気にすんなって。今日はまた誰かに贈る用か? お見舞い? それとも記念日やお祝い事かな?」
いつものように軽い調子で問いかける悠真に、美穂はゆっくりと首を横に振る。
「ううん、今回はそうじゃないの。この間、ちひろのために作ってもらった花束、本当にきれいで。悠真が選んでくれる花は、なんだか生き生きとしているように見えるから……私も自分の部屋に飾る用のお花がほしいなって、思ったの」
「そりゃあお安いご用だよ。任せとけ、美穂に合うような花を選んで作ってやるから。それまでゆっくり座って待ってろよ」
「え、でも忙しそうだし悪いよ……お花ができたらすぐに帰るから」
美穂が遠慮すると、悠真は少しだけ大げさに肩をすくめて笑った。
「水臭いこと言うなって。今はアルバイトの子も頑張ってくれてるし、繁忙期に備えて人員も手配してある。少しくらい手が空いても、店の回転には全然影響ないよ。だから遠慮なんてしないで、ゆっくり待っててくれ」
そう言って彼は店内の奥、窓際に置かれた木製の椅子を指し示す。そこには柔らかな日差しが差し込み、壁に掛かるドライフラワーのリースが淡い影を落としていた。美穂は「ありがとう」と小さく囁くように頷き、静かに腰を下ろした。
それから数分も経たないうちに、トレイに湯気の立つ陶器のカップを二つ載せた女の子が、奥の休憩スペースから姿を現した。悠真が雇っているアルバイトの、遥だった。彼女は水仕事で少し赤くなった手でトレイをしっかりと支え、弾むような足取りでテーブルへと近づいてくる。
「はい、どうぞ! お待たせしました!」
テーブルの上にカップを静かに置くと、遥はにっこりと満面の笑みを浮かべ、美穂の顔をまじまじと見つめた。好奇心と好意がその瞳にはっきりと表れている。
「この間もいらっしゃってましたよね? 一目見た時から、本当にお綺麗な方だなぁって、ずっと思ってたんです!」
突然の率直な褒め言葉に、美穂は頬を少し赤らめ、慌てて手を振りながら応える。
「ちょっと、やめてよ。全然そんな美人じゃないから、恥ずかしいよ」
だがその口調や表情からは、悪い気がしているわけではないことがはっきりと読み取れる。遥はまったく気にする様子もなく、自分の名前を明るく告げる。
「私、ここでバイトしている遥って言います! まだ入って半年くらいの新人ですけど、花のことは少しずつ勉強してるんです。これからよろしくお願いします!」
「私は美穂。東美穂といいます。遥ちゃん、よろしくね。こんな忙しい中、お茶まで用意してくれて、ありがとう」
二人はそれから、自然と話し始めた。季節ごとの花の種類や育て方、最近の店の忙しさ、この街の春の景色の移り変わりなど、他愛もない話題が次々と浮かんでくる。遥の明るく裏表のない率直な性格は、ちひろの名前が出た後に少しだけ重くなりがちだった空気を、まるで風が雲を払うように軽やかにしてくれる。美穂自身も、久しぶりに肩の力を抜いて会話を楽しんでいる自分に気づいていた。
そうして15分ほどが過ぎた頃、悠真が奥の作業台から手にまとめられた花束を持って戻ってきた。
彼が手にしている花束は、まるで春の朝の光を閉じ込めたかのような柔らかな雰囲気を放っている。白く繊細なカスミソウが全体をふわりと包み込み、淡いピンク色のバラが優しい主役となり、その間には薄紫のスターチスがリズムを加えている。茎の長さもバランスよく切り揃えられ、緑の葉が色合いを引き立て、水漏れしないように丁寧に保護された上から、クリーム色の包装紙でくるまれている。
「お待たせ。こんな感じにまとめてみたんだけど、どうかな? 派手すぎず、部屋に置いても圧迫感がない大きさにしたつもりだよ」
悠真が手渡すように差し出すと、美穂は目を細めて花束を見つめ、手を伸ばしてそっと受け取った。手に伝わる花の重みと、柔らかな茎の感触。彼女は鼻をそっと近づけ、ほのかな甘い香りをゆっくりと吸い込む。
「すごい……本当にきれい。見てるだけで心が落ち着く。やっぱり悠真に頼んでよかった」
だが、その言葉が終わると同時に、二人の間にはいつもより少しだけ、微妙なぎこちない空気が流れ込んできた。
美穂には、胸の奥に重く引っかかっている事実があった。彼女は街でのロイミュードの襲撃で、鷹宮紫苑の姿を遠くから目撃していた。彼の背格好、歩き方、そしてあの雰囲気——見間違えるはずもない。だが、どうしても悠真に打ち明けられずにいた。
一方の悠真も、同じように口を閉ざしていた。今の紫苑の状況を知らせれば、美穂の心の傷をかえって抉るかもしれない。今はこの秘密を胸に収めておくのが最善の選択だと朔也と約束していた。
互いに相手を思いやり、守ろうとするあまり、言うべきことを言い出せずにいる。その小さなズレが、二人の間にわずかな気まずさと沈黙を生み出していた。
美穂は慌てて表情を整え、レジカウンターへと進み、代金を支払う。悠真はいつものように値引きをしようとしたが、美穂に強く断られ、定価通りに受け取る。
「これでいいの。いつもお世話になってるから」
「わかったわかった、商売だからな。でも次はまた考えるから、期待しておけ」
二人は軽く笑い合い、美穂は花束を両手でしっかりと抱えて店先へと向かう。悠真も扉まで送り出し、ガラス扉を開けて春の風が流れ込むのを感じながら、外に出た彼女の姿を見守った。風が美穂の髪を柔らかくなびかせ、花束の香りがほんの少しだけ外へと漏れ出す。
「ありがとう、悠真。また、お願いしてもいいかな?」
「もちろんだ。花ぐらい、いつでも見繕ってやるから、いつでも遠慮なく来いよ。忙しくても、美穂が来るくらいの時間は必ず作るからな」
悠真が力強く笑顔で答えると、美穂も柔らかく頷き返す。すると悠真は、さっきの遥の様子が少しだけ気になったのか、声を少し落として問いかけた。
「そうだ、なあ美穂。さっきの遥ちゃんだけど、なんか失礼なことを言ったり、迷惑なことをしたりしなかったか? あの子、元気がいいのは大変結構なんだけど、たまに思ったことを深く考えずにすぐ口に出すから……もし不快な思いをさせてたら、本当にすまない」
その言葉を聞いて、美穂はくすりと声を上げて笑った。久しぶりに、心の底から自然に浮かんできた、軽やかな笑みだった。
「そんなこと全然ないよ。むしろ、あの子は元気で明るくて、話してるとこっちまで気持ちが晴れてくるような、いい子だと思う。……ふふっ、それに少しだけ、ちひろに似ているところがあるね。思ったことを素直に口にするところとか、誰にでも分け隔てなく接するところとか」
その言葉が悠真の耳に届いた瞬間、彼の胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。美穂がこんなふうに穏やかで、悲しみに押しつぶされるのではなく、懐かしい思い出を温かく受け止めるような笑顔を浮かべるのを、ここ数ヶ月、いやここ数年は見ていなかったような気がした。
「ふふっ、しょうがないなぁ、あの子もこの子も、どうしてこう似たもの同士なんだか」
悠真も呆れたように肩をすくめ、柔らかい笑みを返す。二人はそれから少しだけ、この街の春の様子や、近くの公園の桜が散った後の新緑の話などを交わし、最後に手を振り合って別れた。
美穂がゆっくりと通りを歩き去り、その背中が曲がり角の向こうへと消えていくのを見届けると、悠真もため息を一つつき、再び店の中へと戻っていった。店のベルが静かに閉まる音が響く。春の柔らかな光が二人の歩いた道を照らし、通りにはいつも通りの、穏やかな日常の時間が流れているように見えた。
だが、そんな平和な光景を、少し離れた路地の暗い陰から、誰かが黙ってじっと見つめていた。
建物の壁に身を隠し立っているのは、紫苑だった。
彼は右半身に感じ続けている、機械の部品が組み込まれた冷たく重い感触を、無意識に左手で押さえつけるようにして立っていた。遠くに消えていく美穂の後ろ姿、そして店の中に戻っていく悠真の姿を、表情一つ変えず、ただ黙って見守り続けている。
今、この場所から飛び出して声をかけ、大学時代のように下らない話に花を咲かせられればどんなに幸せか。だがその後に続く未来は、彼にははっきりと見えていた。自分の存在が、彼らの平穏な日常を一瞬にして崩し、再び戦いの渦へと巻き込んでしまうことを。怪物たちの標的が、悠真や美穂の周りにも向けられることを。それだけは絶対に避けなければならない——そんな鋭い決意が、彼の足を鉄で固められたように重く、動けないものにしていた。
だから彼は、ただ見るだけに留める。声をかけることも、姿を見せることも、昔のように肩を叩いて冗談を言うこともできないまま、ただ遠くから、昔からの親友たちが少しでも穏やかな時間を過ごせていることを祈るだけだった。
春の風が再び吹き抜け、彼の前髪をなびかせる。紫苑は一度、深く長い息をゆっくりと吐き出し、心の中に沸き上がるさまざまな感情を、すべて奥深くに押し込める。そして最後にもう一度、花屋の明かりの灯る窓を見つめると、音もなく暗い路地の奥へと足を踏み出し、闇の中へと完全に姿を消していった。
彼にとって、これからも続く孤独で厳しい戦いの日々の中で、こうして遠くから見守り続けることだけが、今の自分に許された、唯一の「守り方」だったのだ。
(続)