2019年編#5-2
S.H.I.F.T.本部 廊下
本部棟の長い廊下は、いつも無機質な蛍光灯の白い光に照らされ、壁には警戒区域の地図が無造作に貼られている。夜間の任務明けのこの時間帯は、まだ人の気配が少なく、遠くの管制室から漏れてくる機械の駆動音だけが、淡く空気を震わせていた。時折、空調の送風音が低く響き、どこまでも続く直線の廊下には、静けさと冷たさだけが満ちている。
紫苑が疲れを押し隠すように歩いていると、ちょうど反対側から、哨戒任務を終えたばかりの朔也が戻ってくるところだった。ジャケットには夜露の湿り気が残り、肩にはわずかな塵と鉄錆の匂いが染みついている。二人は廊下の真ん中で、自然と足を止め、無言のまま向き合った。
「様子はどうだ? 朔也」
紫苑の声は平坦で、感情の起伏を完全に押し殺した事務的なトーンが張り付いている。まるで任務報告を受けるだけの相手と話すような、明らかに意図的に距離を置いた響きだ。
朔也は一度、深く息を吐き、肩の力を少しだけ抜くようにして答えた。長時間の巡回で疲れているはずだが、それ以上に紫苑の態度に心が重くなるのを感じていた。
「ああ、今のところ警戒網に異常はない。境界線付近にも不審な動きは見られなかった。静かな夜だったよ」
「そうか」
紫苑はただそれだけを口にすると、これで話は終わりと言わんばかりに、視線を外して再び歩き出そうとする。まるでこの場にいる朔也の存在さえも遠ざけようとするかのように。
その背中を見た瞬間、朔也の胸の奥に長い間溜まっていた何かが、再び重く押し上げてくるのを感じた。再会してからというもの、こんな冷たい応答ばかりが続いている。昔はもっと気軽に、馬鹿な話でも真面目な話でも、時間を忘れて語り合えたはずだった。紫苑がこんなにも心を閉ざし、自分一人で何もかも抱え込むような人間だっただろうか——いや、違う。この5年間の戦いが、彼をここまで変えてしまったのだ。
「…………」
朔也は唇を噛み、沈黙を数秒挟んでから、ようやく声を絞り出すように呼びかけた。
「……なあ、紫苑」
紫苑は足を止めた。だが振り返りはしないまま、後ろ姿だけで応える。
「なんだ? 」
朔也は一歩前に踏み出す。廊下の冷たい空気が、二人の間に見えない膜のように張りつめていく。蛍光灯の光が紫苑の横顔を照らすが、その表情は硬く、何を考えているのか読み取れない。
「お前の今の姿を見れば、この5年間がどれだけ壮絶で、どれだけ自分を削るような日々だったか、俺にも分かるつもりだ。だけどよ、俺たちは昔からの親友だろ? 少しくらい、他愛のない会話があってもいいじゃないか。いつもこんな事務的なやり取りばかりで、まるで他人か、それ以下のようだ。お前、本当にこの5年で何があったんだよ? どうしちまったんだ」
その問いに、紫苑の肩が微かに震えた。前髪が目元を隠し、瞳の奥に潜む感情を覆い隠すが、声にはわずかな、だが確かなためらいが滲んでいた。
「……お前が知る必要はない」
その一言が、朔也の胸の奥に燻っていたものに火をつけた。
「お前……!」
朔也は反射的に紫苑の胸元を掴み、力任せに後ろの壁へと押し付けた。乾いた鈍い音が廊下に響く。
「何でいつもそうなんだ! 全部一人で背負い込んで、自分だけが傷つけば済むとでも思ってるのか? 5年前だってそうだ! 何も言わずに、俺たちの前から勝手に姿を消しやがって!」
抑えようとしても込み上げる感情が声を震わせ、朔也の目には熱いものが滲んでいく。怒りではない、悲しみと、親友のことを何もできない自分自身への無力感が、言葉になって溢れ出していた。
「美穂はな、あの日から今でもずっと心に傷を抱えたままだ。お前が無事かどうか、毎日不安で眠れない夜だってあるんだ。悠真だって、懸命に花屋をやって、お前の帰りを待ち続けている。お前が何を守ろうとしているのか、分かってるつもりだけど……だったら、俺たちの気持ちはどうなるんだ?美穂や悠真が、どんな思いでお前を待ってるか、 分かってるのか?!」
押し付けられたまま、紫苑は黙って朔也の瞳を見つめ返していた。その右目は義眼の冷たい光を帯び、左目の奥には深い闇と、拭い去ることのできない後悔が静かに沈んでいる。長い間誰にも語らず、自分の中だけで抱え続けてきた重荷が、今、少しだけ形を見せようとしていた。
「……朔也、すまない」
紫苑の声は低く、廊下の空気に溶けるように響いた。怒りも、反発もない、ただ疲れ切った響きだった。
「確かに、俺は間違っているのかもしれない。俺はずっと、お前や悠真、美穂、そしてちひろがいてくれた、あの当たり前の日常を守りたくて、ずっと戦ってきた。平和で、何も変わらない、ただ笑い合えるだけの時間を取り戻すために、俺は一人で走り続けてきたんだ」
彼は一度、喉の奥を詰まらせるようにしてから、続けた。壁に背中を預けたまま、まるで全身の力が抜けていくように肩が落ちる。
「だが、その結果 、ちひろを死なせることになった。俺の行動が、今もお前たちを苦しめ、不安にさせている。三原さんにも言われたことがある。俺が守ろうとしている日常は、俺自身もその中にいてこそ意味があるんだと。だけどな、朔也」
紫苑の瞳に、深い絶望と諦念が浮かぶ。冷たい義眼が、蛍光灯の光を鈍く反射している。
「俺はもう、あの場所には戻れない。戻る資格なんて、とっくに無いんだよ」
「なんでだよ……! そんなこと、俺たちが決めることじゃないだろ?! お前が何を背負っていようと、俺たちにとっては昔からの紫苑だ!」
「俺自身の手で、そう決めたんだ」
紫苑はゆっくりと、自分の両手を見つめるように視線を落とした。指先まで伸びた機械の関節が、わずかな動きに合わせて微かに軋む音を立てる。
「この戦いを終わらせるために、俺はあらゆる手段を使ってきた。その過程で、この手で多くの命を奪った。ロイミュードだけじゃない。非道な研究に関わった科学者たちも……俺は容赦なく排除してきた。そして何より、ちひろを殺したのは、他でもない俺だ。俺の手はすでに汚れている。」
その言葉が、朔也の胸に重く沈む。掴んでいた紫苑の襟元から、力が自然と抜けていく。自分がどれだけ親友のことを知っているつもりでいたのか、その浅はかさを痛感させられる。この5年間、紫苑は一人でこんな地獄のような現実と向き合い、自分を責め続け、誰にも頼らずに道を選び続けてきたのだ。自分の言葉だけで、そんな深い闇から引きずり出すことなど、到底できはしないのだと、朔也ははっきりと理解してしまった。
廊下に再び重い沈黙が戻る。蛍光灯のちらつく電子音だけが、二人の間の張り詰めた空気をかき回すように続いていた。
紫苑は、朔也の手が離れるのを待つようにして、ゆっくりと壁から体を離した。乱れた襟元を直し、もう一度だけ朔也の顔を見た。その瞳には、言葉にできない感謝と、そして決別のような冷たい決意が静かに浮かんでいた。
「これ以上は、お前たちを巻き込むわけにはいかない。俺の戦いは、俺自身の手で終わらせる。これが俺に残された、唯一の道だ」
それだけを告げると、紫苑はもう振り返ることなく、静かに、だが迷いのない足取りで、長い廊下の奥へと歩き去っていった。白い光の中に、その細くも強張った背中が少しずつ遠ざかり、やがて角を曲がって見えなくなるまで、朔也はただ立ち尽くしたまま、何も言葉を発することができなかった。
朔也は深く息を吐き、遠ざかっていった親友の姿を思い浮かべながら、固く拳を握りしめた。
——俺たちが待っている場所は、いつまでも変わらない。だから紫苑、どんなに遠くに行っても、いつか必ず戻ってこい。
その思いだけを心に刻み、朔也は暗い廊下に一人、立ち続けていた。
(続)