2014年編#2-5
「ごめん、ちひろ! 急用を思い出したんだ!」
言葉を吐き出すが早いか、紫苑は自分でも驚くほど素早く立ち上がり、机の上に置かれたままのクッキーも、まだ心配そうに自分の名前を呼ぼうと口を開けたちひろの表情も、振り返ることなく背中にする。
「えっ、紫苑くん!? 待って、クッキー……!」
困惑と少しの寂しさが混ざった彼女の声が背後から追いかけてくるのを聞きながら、紫苑はただ無我夢中で講義室の扉を開け放ち、暗くなり始めた廊下を駆け抜けていった。心の中では「ごめん」と何度も叫び続けていた——彼女の優しさに応えられなかったこと、突然のことで不安な思いをさせてしまったこと、そして何よりも、自分がこれから向かう場所と行うことを、何一つ彼女に伝えられないことに対する罪悪感が、胸の中で重く渦巻いていた。だが今は、そんな感情に浸っている暇など一秒たりともなかった。
走りながら、紫苑は背中のリュックに手を伸ばし、中から鳴り続ける通信端末を取り出す。無機質な電子音の合間に表示された短い文字列は、彼にとってこれ以上ないほど冷酷な現実を突きつけていた。
『ロイミュード出現。港湾地区、第3埠頭付近。すでに建物の損壊および一般市民の負傷者が発生。規模は少なくとも3体以上。至急、俺の自宅へ来い。』
心臓が一瞬息を詰まらせ、次の瞬間には激しく早鐘を打ち始める。まだ一週間しか経っていない。あの悪夢の夜からたった七日間、ようやく日常という名の仮面が定着し始めたばかりだったのに、その薄っぺらな幕は今、まるで紙切れのように一気に引き剥がされ、隠されていた恐ろしい現実が再び姿を現したのだ。
——来たんだ。ついに、逃れられない瞬間が来た。
紫苑は端末をリュックに戻すと、さらに速度を上げて大学の門を飛び出し、夕暮れの街路を三原の家へと向かって走り続けた。風が頬を強く打ち、呼吸は次第に荒くなり、足取りも重くなっていくが、立ち止まるわけにはいかなかった。自分が行かなければ、誰かが傷つく。自分が戦わなければ、またあの夜のような惨劇が繰り返される。そう思うたびに、体の奥底から力が湧き上がり、足は自然と前へ前へと進んでいくのだった。
道のりは長く感じられた。普段なら自転車で十分もかからない距離が、今は果てしなく遠く感じられ、一秒一秒がまるで一時間のように長く重たく感じられた。周囲の風景はただ流れ去っていくだけで、紫苑の目には何も映っていなかった。ただ頭の中には、負傷者のこと、恐怖に怯える人々の姿、そして自分がこれから行う戦いのことだけがぐるぐると回り続けていた。
ようやく閑静な住宅街にある三原の家が見えてきた時には、紫苑は全身汗まみれで、息も絶え絶えになっていた。胸元は激しく上下し、足はがくがくと震え、もう一歩も動けないような感覚に襲われたが、彼は歯を食いしばり、門をくぐって玄関先へと向かった。
すると、すでにそこには待ち構えていた男の姿があった。黒いスーツに身を包み、無表情な顔立ちで腕を組んで立つ三原彰だ。彼は紫苑の姿を見ると、わずかに眉を動かし、短く冷たい声を発した。
「遅いぞ。」
「す、すみません……急いできたんです」
紫苑は荒い息遣いの中でそう答えると、三原は彼の言葉には何も反応せず、自分の横に置かれた巨大な物体に視線を向けた。
そこには、無機質で硬い灰色の防水カバーにすっぽりと覆われた「何か」が、重厚な車輪を地面につけて鎮座していた。カバーの上からでも分かるその形状は、流線型で滑らかな曲線を描き、見る者に強い威圧感を与えると同時に、どこか美しささえ感じさせるものだった。
「これは……一体何なんですか?」
紫苑が問うと、三原は無言でカバーの端を掴み、力任せに一気に引き剥がした。
夕暮れの最後の光が消え、夜の闇が訪れようとしているその瞬間、カバーの下から現れたものに、紫苑は思わず息を呑み、言葉を失った。
それは、見事なまでに美しく、そして力強いスポーツタイプの大型バイクだった。車体全体には、自分が変身した時に身に纏うGTの装甲と同じ、深く澄んだ紺碧の塗装が施されており、わずかに残った夕日や街灯の光を受けて、宝石のようにきらきらと輝いていた。車体の各部には複雑な機構やエンジン部品が露出しており、見ただけでもそれが並の乗り物ではなく、特殊な性能を秘めた代物であることが一目で分かった。特にエンジン部分は巨大で、まるで生き物の心臓のように脈打っているかのような雰囲気があり、近づくだけで低いエネルギーの振動が体に伝わってくるのを感じた。
「これが、GT専用に開発されたマシン、『ライドストライダー』だ」
三原が説明を始める。
「我々のチームが長年の研究とデータ分析を基に開発したものだ。矢切が生前に構想を描き、基礎設計までを完成させていたものを、我々が実用化まで持っていった。たった今、研究施設からロールアウトされ、専門のチームが運んできたばかりの、まさに新品同様の代物だ。GTシステムと完全にリンクしており、変身後はお前の意思と直接連動して操作することが可能になる。戦闘時には武器としても使用できるよう、各種装備も搭載されている——つまり、お前の戦闘能力を最大限に引き出すために作られた、お前だけの相棒と言ってもいい」
紫苑はただ黙って、目の前のバイクを見つめ続けていた。その美しさと威圧感、秘められた力の大きさに、ただただ圧倒されていた。
——自分はただの大学生だ。
ふと、そんな思いが頭をよぎる。ついさっきまで、夕暮れの講義室で女の子からクッキーを貰い、その真っ直ぐな好意に戸惑い、どう応えれば良いのか分からずにいた、どこにでもいる20歳の青年に過ぎないのだ。レポートの締め切りに追われ、食堂の定食の値段の高さに文句を言い、休みの日には友人たちと遊びに行く——そんな平凡な日常を送っていた自分が、なぜこんな特別なマシンを与えられ、世界の危機と戦わなければならないのか。現実感がまるでなく、これら全てがまた夢なのではないかと、何度も思った。
だが、そんな疑問や迷いは、紫苑が無意識のうちにバイクのハンドルに手を伸ばした瞬間に、跡形もなく消え去った。
冷たく硬い金属の感触が手の平に伝わり、次の瞬間、紫苑の体には奇妙な感覚が走った。まるで自分の体の一部が増えたかのような、あるいは長い間離れ離れになっていた大切なものと再会したかのような、暖かく、それでいて力強い感覚。それは自分がこのマシンと共にあることが当然であり、運命づけられていたかのような感覚だった。そして同時に、体の奥底からは、自分がこれから戦うために生まれてきたのだと言わんばかりの、激しい闘志と高揚感が湧き上がってくる。
これは父が遺してくれたものなのだ。自分に力を託し、守るべきものを守るために与えてくれた、もう一つの武器であり、絆の証なのだ——そう理解した瞬間、紫苑の手は自分の意志とは裏腹に、または自分の意志以上に強く震え、ハンドルをしっかりと握りしめた。
「さあ、時間がない。乗れ」
三原の言葉に促されるまま、紫苑はゆっくりとバイクの重厚なシートに跨った。シートの硬さや位置、ハンドルの高さや幅、ペダルの位置——それら全てが、まるで自分の体に合わせて作られたかのように完璧で、違和感はまったくなかった。むしろ、長い間ここに座り続けていたかのような、安心感さえ覚える。
紫苑は前を向き、暗くなり始めた街の方角を見つめた。港湾地区は町の東側にあり、ここからは直線距離で約10キロメートルほどの場所だ。通常の交通手段で行けば30分以上はかかる距離だが、このマシンの性能を考えれば、数分もあれば到着できるだろう。
心の中にはまだ、自分が戦うという実感が薄く、霧のように不確かな部分も残っていた。怖い、逃げ出したい、何も知らなかった頃の自分に戻りたい——そんな弱い気持ちがないわけではなかった。だが、それ以上に強く心に刻まれているのは、自分が行かなければならないという責任感と、守りたいものが確かに存在するという事実だった。
紫苑はゆっくりと顔を上げ、隣に立つ三原に向けて、はっきりとした声で言った。
「……行きます。」
三原は無表情な顔のまま、わずかに頷いた。
「気をつけろ。ただ敵を倒すことだけを考えるな、自分の身の安全も忘れるな。戦闘中はこちらからもモニターしている。」
紫苑は再び前を向くと、右手でアクセルをゆっくりと、しかし力強く捻った。
次の瞬間、ライドストライダーのエンジンが目覚めた。
低く重たい回転音から始まり、瞬く間に音は高く、そして太くなり、まるで野生の獣が吠えるような、地鳴りのような轟音が周囲一帯に響き渡った。地面がわずかに震え、車体は力強く脈打ち、紫苑は自分の体がマシンと完全に一体化していくのを感じた。エンジンの鼓動が自分の心臓の鼓動と同調し、マシンの感覚が自分の感覚となり、まるで自分自身が巨大で力強い生き物に変身したかのような錯覚に陥る。
紫苑は深呼吸を一つすると、アクセルをさらに力一杯に捻り込んだ。
ライドストライダーは紺碧の閃光となって夜の闇に飛び出した。瞬く間に速度を上げ、街路を駆け抜け、信号や建物、他の車両などを次々と後ろに置き去りにしていく。風が体中に激しく当たり、視界は流れるように変わっていくが、紫苑は少しも恐怖を感じなかった。マシンの性能を信頼し、自分自身の力を信じ、ただ目指す場所に向かって突き進んでいく。
(続)