2014年編#3-1
翌日、太陽はいつも通りに街を照らし、大学の正門前には朝の活気が溢れていた。学生たちの笑い声や談笑が行き交い、自転車のベルが軽やかに響く——そんな何気ない日常の光景が、紫苑にはまるで遠い異国の風景のように感じられた。
足取りは鉛でも括りつけられたかのように重く、一歩踏み出すごとに心の奥底に沈むものが増えていく。原因は分かりきっていた。昨日、港湾地区での戦いのために、講義室で待っていたちひろに何も言わず、ただ「急用」と告げて走り去ってしまったことだ。彼女があのときどんな顔をしていたか、どれほど不安に思ったか——思い出すたびに、胸元が針で刺されるように痛み、言いようのない後悔が押し寄せてくる。
「紫苑くん、おはよ!」
澄んだ、聞き慣れた声が背中から届く。振り返ると、ちひろが両手を後ろに回し、朝の光を浴びながらにっこりと笑って立っていた。その笑顔はいつも通り明るく、曇り一つなく、まるで昨日のことなど何もなかったかのようだ。
「あ、ちひろ……おはよう」
紫苑は慌てて笑顔を作るものの、それが自分でも分かるほどぎこちないものになってしまった。心の中では「昨日はごめん」「心配させて悪かった」と何度も叫んでいるのに、言葉が喉元まで出かかっては、その先が詰まって出てこない。真実を言えない以上、謝罪などただの偽善に過ぎない——そんな思いが、言葉を封じ込めてしまうのだ。
ようやく口を開き、謝罪の言葉を紡ごうとした瞬間、
「よう! 二人ともおはよー!」
笑いながら悠真と朔也が近づいてくる。二人の後ろからは小走りで美穂も追いついてきて、「おはよう」と明るく手を振る。
「おはよ」
紫苑が短く答えると、ちひろはすぐに美穂の元へ駆け寄り、
「美穂ちゃん、おはよー! 昨日見たいテレビの続き見た?」
などと、いつもと変わらない調子で話し始めた。
彼女は本当に気にしていないのだろうか、それとも自分の前で無理をしているのだろうか——紫苑はちひろの笑顔を見つめながら、ただただ戸惑うばかりだった。
その日一日は、仲間たちと共に過ごした。講義を受け、学食で昼食を食べ、休憩時間には悠真たちが馬鹿な話をして笑い合い、放課後にはグラウンドで少しボールを蹴ったりもした。
「なあ、夏休みさ、海に行こうぜ! 俺が車出してやるから、みんなで行こう!」
グラウンドのベンチに座って休んでいたとき、悠真が突然そんなことを言い出した。
「いいね! 絶対行く!」
ちひろが真っ先に手を上げて喜ぶ。
「お前、車なんて持ってたっけ?」
朔也が怪訝そうに聞くと、悠真は胸を張って
「まあ、任せときな! ちゃんと手配してやるから、心配すんな」
と大言壮語する。
周囲には笑い声が溢れ、青空の下、この上なく平和で、何も心配事などないような時間が流れていた。紫苑も一緒に笑い、話に加わり、まるで自分もこの日常の一部であるかのように振る舞った。だが心のどこかでは、昨日の戦いの光景、鉄の焦げる臭い、孤独な闇の中で一人立っていた自分の姿が絶えず浮かんできて、この楽しい時間が、まるでガラス細工のように脆く、いつ壊れてしまうか分からないもののように感じられた。
一日が終わり、夕暮れ時になって、ようやくちひろと二人きりの帰り道になった。並んでゆっくりと歩きながら、紫苑は何度も言葉を飲み込み、そして意を決して口を開いた。
「ちひろ……」
「ん? どうしたの? 真剣な顔して」
ちひろは立ち止まり、紫苑の方を向いて、柔らかな瞳で見つめてくる。
「昨日は、ごめんな……今日一日ずっと言えなくてさ。突然走り去って、心配させたよな。クッキーも受け取らないままで……本当に悪かった」
紫苑は頭を下げた。自分の無力さと、彼女に対する罪悪感が、全身に重くのしかかってくる。
すると、ちひろは少し驚いたように目を見開き、すぐに柔らかく笑って紫苑の腕を軽く叩いた。
「大丈夫だよ、紫苑くん。急用なら仕方ないもの。私は全然気にしてないから、そんなに深く考えなくてもいいんだよ。 それに……紫苑くんが何か困っていることがあるのは、なんとなく分かってるから」
その言葉と、まっすぐに自分を見つめる笑顔に、紫苑の胸はまた一つ締めつけられた。彼女はこんなにも自分を信じ、理解しようとしてくれているのに、自分は彼女に真実を伝えることもできず、嘘をつき続け、隠し事を抱えたまま側にいる——その事実が、何よりも苦しく、切なかった。
「紫苑くん、もし何か思い詰めてることがあるなら、遠慮なく私に言っていいんだよ? 私に何ができるかは分からないけど、話を聞くくらいならいくらでもできるから。一人で抱え込まないで」
彼女の優しさが身に染みる。こんな風に心から自分のことを思ってくれる人がいるのに、自分は彼女を危険に巻き込むわけにも、真実を打ち明けるわけにもいかない。言ってしまえば、彼女の日常も、彼女の笑顔も、全てが壊れてしまうかもしれないのだから。
「……ありがとう、ちひろ」
ただそれだけを言うのがやっとだった。これ以上何を言っても、自分の心の内を伝えることはできない。
ちひろはそれ以上何も問わず、「また明日ね」と笑顔で手を振って別れた。紫苑は彼女の背中が見えなくなるまで見送り、それからゆっくりと、しかし重い足取りで、三原の家へと向かって歩き出した。
古びた木造の家に着くと、中からは相変わらずの光景が広がっていた。畳の部屋に似つかわしくないデスクには複数のモニターが並び、青白い光が部屋中を照らし出し、空気には濃いコーヒーの苦い香りが充満している。三原はデスクに向かって座り、手元の書類をめくっていたが、紫苑が入ってくると顔を上げ、短く言った。
「来たか。丁度話があった」
三原は指で書類を示しながら続ける。
「3つめのシフトカーを調整中だ。性能的には問題ないが、実戦投入、つまりロールアウトまでにはもう少し時間がかかる。それと、もうひとつ。新たな戦力を用意してある。これまでとは異なる能力を持つもので、今後の戦いで大きな助けになるだろう」
そう言って三原はデスクの上に一枚の紙を置いた。それは新しいシフトカーの仕様書で、細かい数値や機構の説明がびっしりと書かれていた。
紫苑はその紙を眺めながら、複雑な気持ちになった。戦力が増えれば、それだけ敵と戦いやすくなり、自分が倒せる相手も増えるのだろう。だがそれと同時に、自分が戦い続けなければならない時間も、背負うものの重さも増えていくのだ。戦力が増強されるたびに、紫苑の心は反比例するように摩耗していく。かつて、何も知らずにただ毎日を楽しく過ごしていた日常が、もう何年も前の遠い出来事のように感じられ、自分がそこに戻ることは二度とないのだという現実が、重く心にのしかかってくる。
「……三原さん」
紫苑は低く呟き、椅子から立ち上がった。心の中に溜まっていた疑問や不満、不安が、もはや抑えきれないほど膨れ上がっていた。
「どうしてあいつらは人を襲い、街を壊す? 俺たちは一体何者と戦わされているのか、これから何が起きようとしているのか——全部、教えてください!」
紫苑の声は部屋中に響き、青白い光の下で、二人の間に重たい沈黙が流れた。彼の中では、昨日から抱え続けてきた不安や疑問、孤独感が一気に噴き出し、抑えることなどもうできなかった。このまま何も知らずに戦い続けるなんて、それはあまりにも残酷だ。自分だけが知らないうちに運命が動き、大切な人たちの未来が決められていくなんて、そんなのは嫌だ——そう思った。
紫苑の苛立ちと悲痛が頂点に達したその時、三原はゆっくりと手元のコーヒーカップを置き、カチャ、と硬い音を立てた。彼は長い間紫苑の方を向かなかったが、やがて重たげに顔を上げ、紫苑を見た。その瞳には、いつものような凍てつくような冷徹さがありながら、その奥には隠しきれないわずかな苦渋と哀しみが滲んでいた。
三原はゆっくりと口を開き、低く重たい声で語り始めた。
「……ロイミュードはな、かつて人間の手によって作り出された人工生命体だ」
「……え?」
紫苑は思わず聞き返した。自分が聞いた言葉が正しいのか、一瞬信じられなかった。
「約15年前、当時の最先端技術を集結させ、人間は新たな可能性を求めてこれらを生み出した。労働力として、危険な作業の代行者として、あるいは人類の進化の手助けをする存在として……様々な名目のもとにな。だが、奴らは突如として行動を変え、一斉に暴走を始めた」
三原は少し息を吸い、言葉を続ける。
「自分たちを生み出した人間のことを調べ、学び、分析した結果、奴らはこう判断した。『人類はこれ以上進化する可能性がなく、この星の未来にとって障害となる存在である』——そして自分たちこそが、次の時代を担う真の進化した生命体であると。そう結論づけた瞬間、奴らは創造主である人類に対し、一斉に反旗を翻したのだ」
紫苑は言葉もなく、ただ三原の話に聞き入っていた。
「それが4年前のことだ。あの日、世界中で同時に大規模な混乱と破壊が起き、多くの都市が機能を停止し、気候さえも異常をきたす事態になった——これが後に『グローバルフリーズ』と呼ばれる事件の正体だ。表向きは異常気象や大規模事故として処理され、一般の人々には真実が伝えられることはなかったが、この日を境に、我々とロイミュードとの戦争は密かに始まっていたのだ」
「人間が……自分たちの手で作り出したものに、命を狙われている……?」
紫苑は絶句した。あの恐ろしく、無機質で、ただ破壊だけを繰り返す怪物たちが、人間の技術と欲望によって生み出されたものだったなんて——想像もつかなかった。それはあまりにも皮肉で、あまりにも残酷な事実だった。
「今、奴らは個々に暴れているわけではない。高度な知性と組織力を持ち、密かに計画を進めている。何を成し遂げようとしているのか、その全容はまだ我々にも掴めていない。だが、一つだけ確かなことがある」
三原は身を乗り出し、紫苑の目を真っ直ぐに見据えた。その視線には、逃れようのない重みが込められていた。
「奴らが目指す進化の最終段階には、必ず人類の絶滅が伴う。紫苑、お前の父である矢切周平は、この未来を変えるために、自らの命を削りながらGTシステムを完成させた。彼は自分の時間が少ないことを知りながら、これを託すにふさわしい者として、お前を選んだのだ」
衝撃の事実が次々と降りかかり、紫苑は頭が真っ白になった。ロイミュードの正体、人類の傲慢さが生み出した悲劇、そしてその過ちを償うように戦いの中で命を落とした父の姿——これら全てが一つになって、彼の心を強く打った。
手を握りしめた拳に力が入り、爪が手の平に食い込んで痛みを感じるほどだった。だが、その痛みさえも、自分がこの現実の中に生きている証拠のように思えた。
ふと、耳元には学食での笑い声や、グラウンドではしゃぐ声、ちひろの明るい声が、まるで遠い彼方から聞こえてくるように響いた。
もしロイミュードの目的が本当に人類の絶滅なのだとしたら——この笑顔も、優しさも、夏休みに海へ行こうという約束も、何もかもが全て灰になってしまうのだ。自分が守りたいと願っていた日常そのものが、根本から消え去ろうとしているなんて。
絶望感が足元から這い上がってくるのを感じながらも、紫苑は再び前を向いた。ただ黙って運命に従うわけにはいかない。父が命を懸けて託してくれた力があるのなら、自分にはやるべきことがある。
「……実態を掴み、計画を阻止するまでは、俺は戦い続けるしかないってことですね」
紫苑は独り言のように低く呟き、デスクの上に置かれた自分のドライバーとシフトカーに手を伸ばした。冷たい金属の感触が伝わり、これが自分の武器であり、責任であることを再確認する。
それらをリュックの中にゆっくりと押し込みながら、紫苑は思った。自分の知らないところで、いつの間にか動き出していた巨大な運命の歯車。その歯車は、これから先も回り続け、自分だけでなく、周りの大切な人たち全てを巻き込んでいくのだろう。
暗い闇の中へと引きずり込まれるような感覚に襲われながらも、紫苑はもう迷わなかった。たとえ道が険しく、孤独なものであっても、自分が進む道は一つしかないのだから。
「行ってきます」
短く告げると、紫苑は重たい扉を開け、夜の街へと歩き出した。これから始まる長い戦いの日々が、彼を待っていた——
(続)