2014年編#1-2
活気あふれる学食の喧騒は、まるで巨大な生き物が深く息を吐き出すような、重厚な鼓動を刻んでいた。
正午を過ぎたばかりの食堂内には、重なり合うプラスチック食器の乾いた音、厨房の奥から漂う揚げ物の香ばしくも油っぽい匂い、そして数百人の学生たちが発する熱気が充満している。それは将来への漠然とした不安と、目の前の空腹を満たす快楽が混ざり合った、大学というモラトリアム特有の空気だった。
その喧騒の中心、窓際の四角いテーブルを囲んでいるのは、いつもの5人だ。
「マジであり得ねえって、あの教授! 試験範囲の指定が広すぎるだろ。あんなの全部暗記してたら、脳みそがショートして耳から黒い煙が出るわ!」
トレーに乗った格安の唐揚げ定食を、親の仇のように箸で突きながら、悠真が鼻息荒く愚痴をこぼした。
「悠真くん、それは暗記力の問題じゃなくて、講義中に一番後ろの席でスマホゲームしてるからでしょ」
ちひろがサイドメニューのミニサラダからトマトを器用に口へ運びながら、容赦なく笑い飛ばした。その隣で、朔也が分厚い参考書を閉じることもなく、
「全くだ。昨日の刑法の講義、お前のいびきがうるさくて教授の声が半分聞こえなかったぞ。周囲の迷惑も考えろよ」
と、事務的なトーンで追い打ちをかける。
そんな、どこにでもある平凡で、それでいて奇跡のように平和な大学生の昼下がり。
箸を動かし、仲間たちのいつものやり取りを微笑ましく眺めていた美穂が、ふと手を止めた。彼女の澄んだ瞳は、賑やかな会話の輪の中にいながら、どこか別の場所に精神を置いているような紫苑の横顔をじっと見つめる。
「ねえ、紫苑。……紫苑ってさ、時々、すごく遠くに行っちゃうよね」
唐突に投げかけられた言葉に、テーブルの空気がわずかに形を変えた。
「え? そうかな?」
紫苑は意外な指摘に、少し驚いて味噌汁の椀を置いた。自分では普通に笑い、悠真のボケに相槌を打ち、会話のテンポに合わせているつもりだった。だが、誰よりも感受性が豊かな美穂の観察眼は、彼の内側にある僅かな「ズレ」を見逃さなかった。
「なんていうか、こうして5人で楽しく話してても、一人だけ私たち以外の『何か』を、もっとずっと遠いところを見てるみたいっていうか。何考えてるのか分かんない時があるんだよね。手を伸ばして掴もうとすると、煙みたいにすり抜けていっちゃうような……そんな感じ」
「美穂、それは考えすぎだって。紫苑はただの天然なだけだろ」
と悠真が笑うが、紫苑は少しだけ伏し目がちになって言った。
「……ごめん。無意識だった。……もしかしたら、両親のこととか考えてたのかもしれないな」
紫苑がポツリと、独り言のようにこぼした言葉に、隣でパスタをフォークに巻き付けていたちひろの手が止まった。彼女はいたずらっぽい表情を消し、慈しむような視線を彼に向ける。
「そっか……紫苑くん、施設育ちだもんね。ごめん、変なこと聞いちゃって」
紫苑は、物心がつくよりもずっと前に両親と離れ、街外れの孤児院で育った。
彼にとっての「家族」という概念は、概念でしかなく、実感を伴わない。施設にあった古びたアルバムの中にすら、両親の写真は一枚も残されていなかった。記憶の底をどれだけ必死に浚ってみても、親の顔は水面に映る月のように揺れ、霧がかかったようにおぼろげで、その輪郭を捉えることさえできない。
なぜ自分はあの場所に預けられたのか。彼らは今、この空の下のどこかで、どんな顔をして生きているのか。あるいは、とうの昔に土に還っているのか。
その正体の知れない「空白」が、時折、現実の解像度をふっと下げてしまうのだ。目の前の幸せが鮮やかであればあるほど、その幸せの根を支える土壌が欠落していることに、無意識の不安と疎外感を抱いてしまう。
「いいんだ。別に暗い話をしてるつもりじゃないよ。ただ、自分のルーツがどこにも繋がってない気がして、たまにふわふわしちゃうだけなんだ。足が地面についていないみたいなさ」
紫苑は無理に明るい声を出して、残りの味噌汁を飲み干した。
「俺たちがいるだろ」
朔也が短く、だが岩のように確かな重みを持って言った。眼鏡の奥の瞳には、一切の迷いがない。
「そうそう! 単位落として親に勘当される心配がない分、俺たちを使い倒せばいいんだよ! 困った時は俺の背中を見ろ。まあ、俺も絶賛困り中だけどな!」
悠真の豪快な笑い声に、再び食卓に明るい空気が戻ってきた。
「……ああ、そうだな」
紫苑は心からそう答えた。彼にとって、この4人と過ごす時間は、血の繋がりを超えた「家族」と同義だった。この温もりがある限り、自分は大丈夫だと、そう信じることができた。
午後の講義がすべて終わり、キャンパスが茜色に染まり始めた夕暮れ時。
重厚な正門は、沈みゆく太陽の光を背負って巨大な影を地面に落としていた。
「じゃあな紫苑、明日までにレジュメの共有頼むぜ! 俺の命運はお前にかかってるんだからな!」
「紫苑くん、ぼーっとして忘れ物しないでよ? 」
「それは悠真に言ってやれよ。あいつ、筆記用具すら忘れて帰ろうとしてたから」
門の前でいつまでも終わらない冗談を言い合い、それぞれの帰路につく仲間たち。悠真、朔也、美穂の3人が大きく手を振りながら坂を下っていく。ちひろとは途中まで住んでいる方向が同じだったため、二人は夕闇の混じり始めた街並みを並んで歩き出した。
二人の間には、穏やかな時間が流れていた。
「今日の美穂ちゃんの言葉、気にしないでね。あの子、優しいから紫苑くんのこと心配になっちゃっただけだと思うし」
「分かってる。あんなふうに言ってくれる奴らがいて、俺は幸せだよ」
ちひろは満足そうに頷くと、コンビニの角で足を止めた。
「じゃあ、私はこっちだから。紫苑くん、また明日ね!」
「ああ、また明日」
最後に一人になった瞬間、先ほどまでの喧騒とちひろの明るい声が、幻だったかのように静まり返る。
紫苑は一人、住宅街へと続く長い坂道を登り始めた。家々の窓に明かりが灯り始め、夕飯の匂いがどこからか漂ってくる。
その時だった。
「……?」
ふと、足を止めた。
坂の途中で見上げた、深い群青と燃えるような橙色が混ざり合う、境界の空。
そこに、現実のものとは思えないほどの強烈な「違和感」が走った。
雲の隙間、まるで世界の皮膜が物理的に裂けたかのような場所から、一筋の「青い光」が放たれたのだ。
それは地上から天空へと向かって、闇を切り裂く鋭い針のように突き刺さった。
流れ星よりも速く、既存のどんな兵器のレーザーよりも透明で、そして何よりも——その光自体に、冷徹な「意志」が宿っているかのような、悍ましくも美しい輝きだった。
「なんだ……あれ……」
紫苑が眩しさに目を細め、その正体を確かめようとした瞬間。
光は真空に吸い込まれるように、音もなく、爆発の予兆すら残さずに消え去ってしまった。網膜には、焼けるような青い残像だけが、いつまでもチカチカと残っている。
周囲を見渡してみる。だが、家路を急ぐ主婦も、犬を連れて散歩する老人も、スマートフォンの画面を眺めるサラリーマンも、誰もその光に気づいた様子はなかった。世界は何事もなかったかのように、緩やかで退屈な夜の帳へと沈んでいく。
だが、紫苑の胸には、言葉にできない「ざわつき」が深く、鋭く刻まれていた。
それは、幼い頃から抱え続けてきた「自分の中の空白」が、外側の世界にある未知の何かと共鳴し、呼応したかのような、奇妙で恐ろしい感覚だった。魂の奥底で、何かが目覚めようとしていた。
あの青い光が、偽りの平穏という仮面を被った日常が剥がれ落ちる、終焉へのカウントダウンであることを、今の彼はまだ何も知る由もなかった。
ただ、消えた光の行方を追うように、紫苑はいつまでも、夜の色に染まりゆく茜色の空を仰ぎ続けていた。
(続)