2014年編 #5-5
耳を劈くようなエンジン音も、風を切る音も、今の紫苑の耳には届いていなかった。時間の流れが極端に緩やかになり、まるで自分だけが世界から切り離され、空中に静止して浮かんでいるかのような感覚。タイプレイダーへと変身した彼の感覚器官は、通常の人間はもちろん、他のフォームをも遥かに凌駕する鋭敏さで研ぎ澄まされていた。
視界は電子的なグリッド線で区切られ、空気中の微細な塵や水蒸気の流れさえもデータとして把握できる。そんな拡張された視界の先、青空を背景に黒い影が不規則な軌道を描いている。飛行型のロイミュード――その放つエネルギー弾は、熱源を帯びた赤い軌跡となって紫苑の脳内に描き出され、着弾点までが瞬く間に計算されていく。
「……逃がさない」
紫苑は低く呟くと、腰のホルスターから銃型の専用武装・レイダーマグナムを一気に抜き放った。重量感のある金属の感触が手のひらに伝わり、彼の戦う意志に応えるように銃口が鈍く光る。
地上からの一方的な迎撃が、こうして始まった。
紫苑の脳内では、タイプレイダーの驚異的な情報処理能力が全てを演算し続ける。上空の敵との距離、風速や湿度による弾道の湾曲、さらには重力加速度によるわずかなズレまでもが、一瞬にして補正されていく。彼にとって弾を外すという現象は、計算ミスか、それとも――。
ドォォン!
重厚で響きの良い銃声が、夏の街の空気を震わせる。発射された光弾は、まるで磁石に吸い寄せられるように上空のロイミュードへと迫り、装甲のわずかな継ぎ目や、関節部分の駆動系を正確に穿っていく。
「ギギャアアア!」
機械的な悲鳴にも似た金属音を上げ、ロイミュードは慌てて高度を変え、体勢を崩す。だが紫苑の指先は既に次の引き金を引くタイミングを捉えており、続けざまに放たれる銃撃が追い討ちをかける。
だが、相手もただの雑魚ではない。空中での圧倒的な機動力を最大限に活かし、急旋回や急上昇を繰り返し、紫苑の射線から巧みに逃れようとする。的が大きく動くたびに、計算された弾道は複雑に書き換えられ、紫苑にもわずかながら負荷がかかり始める。
「このままでは埒が明かない……!」
紫苑は迷いなくレイダーマグナム本体に手をかけると、銃身を力強くスライドさせた。カチリ、カチリと機械的な作動音が連なり、銃口部分がスライドして伸長、照準器が展開されていく。
遠距離狙撃に特化したスナイパーモードへの変形が完了すると、銃口の周囲にはエネルギーフィールドが形成され始め、周囲の光さえも歪めながら一点に収束させていく。
「これで……決める!」
紫苑は黒いシフトカーをブレスから引き抜くと、マグナムの装填口へと叩き込んだ。
『FULL THROTTLE!』
電子音声が闇を切り裂くように響き渡り、同時にマグナムの銃身が灼熱のように真っ赤に発光する。膨大な量のエネルギーが内部で圧縮され、今か今かと解放の瞬間を待ちわびる。
紫苑は荒くなる呼吸を整え、意識して全身の力を抜き、世界から余分なノイズを遮断する。風の音も、街のざわめきも、自分の心臓の鼓動さえも遠のき、視界にはただ一点、標的だけが浮かび上がる。
――見える。
敵の装甲の奥、その中枢部にある生命エネルギーの源、コアの脈動が、網膜に焼き付くような真っ赤な照準点となって重なり合う。
「……喰らえ!」
カチリ、と引き金を引き抜いたその瞬間、空が裂けるような轟音と共に、漆黒にも似た光条が大気を貫いた。
超精密射撃。それはまさに必殺の一撃。回避行動を取る間もない速度で、光弾はロイミュードの左翼の根元を正確に捉え、内部から機械体を粉砕する。
「ギ、ギィィァァァッ!」
断末魔の叫びが青空に木霊する。バランスを完全に喪失した巨大な体は、黒煙を噴き上げながら、まるで羽根のもげた鳥のように地上へと急降下し、コンクリートの地面へと激しく叩きつけられた。
ドカーン!
衝撃波が周囲の塵を巻き上げ、地面にはくっきりとクレーターが刻まれる。砂煙が晴れる中、ロイミュードは体をくの字に折り曲げ、それでもなお電子音を発しながら、何とか立ち上がろうともがいていた。
『……待て、紫苑! そいつの個体データを完全にスキャンした。間違いない……こいつは、四幹部の一角……ラフだ!』
紫苑がトドメを刺そうと一歩踏み出した瞬間、通信機器から聞こえてきた三原の声は、いつもの冷静な解析口調とはまるで異なり、悲鳴にも似た鋭い警告の響きを帯びていた。
「ラフ……幹部だったのか……!」
紫苑は思わず足を止め、レイダーマグナムを再度構え直す。四幹部。それはロイミュードの中でも頂点に立つ存在であり、先日のクライとの戦いでも彼らの力が如何に絶大であるかを思い知らされたばかりだ。
だが、墜落したはずのラフの様子が、次の瞬間に一変した。
先ほどまでのもがくような動きは嘘のように消え失せ、その巨体はゆっくりと、しかし確実に立ち上がる。全身から立ち込めていた黒煙が風に流されると、その姿は傷一つなく、先ほどの射撃がまるで効いていなかったかのような様相を呈していた。
奴は無言のまま、右腕をゆっくりと持ち上げる。
キィン……
金属同士が擦れ合うような甲高い音と共に、右腕部からは銀色に輝く三本の鋭利な爪が、長く、そして凶悪な光を放ちながら突出した。
その瞬間だった。
周囲の空気が凍りつき、夏の暑さが一気に消し飛ぶ。ラフの体から発せられる殺気、それはあまりにも濃密で、紫苑の全身の神経を逆撫でるように支配し、立っていることさえも困難にさせるほどの圧力だった。
「…………」
ラフは依然として口を開かず、ただ赤い両眼だけが闇のような暗闇の中で冷たく点滅している。
――来る。
紫苑の直感が危険信号を発したかと思った瞬間、ラフの脚がわずかに地を蹴った。
その動きは、紫苑の視覚を完全に超えていた。
「速いっ!?」
タイプレイダーの超感覚を以てしても、その姿を捕捉することができない。残像すら残さず、空間ごと消え去ったかのような移動速度。
次の瞬間、紫苑の眼前にラフの姿が出現し、同時に右腕の爪が紫苑の胸部装甲へと叩き込まれた。
ガガガガッ!
火花が四方に飛び散り、強化プラスチックと金属の複合材で作られた装甲が、まるで紙細工のように削り取られ、深々と抉られる。
「ぐああっ!」
衝撃と痛みが電撃のように走り、紫苑は思わず呻き声を上げる。タイプレイダーはあくまで遠距離戦、索敵、情報処理に特化したフォームであり、装甲の強度や近接戦闘能力は他のタイプに比べれば劣る。そして何より、感覚が鋭敏であるがゆえに、受けた一撃の痛みまでもが何倍にも増幅されて脳を焼き、体の自由を奪っていく。
「このままでは殺られる……!」
紫苑は苦悶に耐えながら、咄嗟にベルトのホルダーへと手を伸ばし、シフトカーを入れ替える。遠距離特化のこの姿では、この怪物の速度にはついていけない。ならば――。
『TYPE TURISMO!』
音声と共に体を覆っていた漆黒の装甲が分解・再構成され、瞬く間に紺碧の流線形の装甲へと換装される。高速戦闘特化型、タイプツーリスモへのフォームチェンジだ。
「これで速さなら……!」
紫苑は地面を強く蹴り、タイプツーリスモの真骨頂である超加速を発動させ、ラフとの距離を詰めようと、あるいは引き離そうとする。空気抵抗を限界まで削ぎ落としたボディが、一瞬にして速度を上げ、残像を残す。
だが、次の瞬間、紫苑は自分の目を疑うことになった。
加速したはずの自分のすぐ横を、ラフがまるで散歩でもするかのような緩慢な姿勢のまま、同じ速度で並走しているのだ。
「な……何で……!? ツーリスモの加速に……ついてくるのか!?」
理解を超えた事態に紫苑が戦慄する中、ラフは無表情のまま右腕を流れるように動かし、再び爪を振るう。
紫苑は防御の姿勢を取る間もなく、その一撃をまともに受け、巨大な質量となって横倒しに吹き飛ばされた。アパートの外壁に激突し、コンクリートの壁が大きく砕け散る。
ガラガラと崩れ落ちる瓦礫の中から、紫苑はどうにか這い出し、地面に転がる。変身は維持しているものの、ベルトからはピーピーという警告音が鳴り響き、システムが限界に近いことを告げていた。全身が悲鳴を上げ、まともに立つこともままならない。
ラフはそんな紫苑のもとへ、ゆっくりと、だが確実に距離を詰めてくる。その歩みには迷いがなく、まさに死への行進だ。紫苑が先ほどまで圧倒していたはずの空が、今ではラフを頂点として支配しているかのようだ。
右腕の三本の爪が、太陽の光を反射して凶悪に煌めく。ラフはその腕を高く掲げ、動けない獲物へと最後の止めの一撃を振り下ろそうと――その時だった。
カッ、と音がするかのように、ラフの動きが完全に停止した。
まるで古い映画のフィルムが止まってしまったかのように、腕を振り上げた体勢のまま、ラフは微動だにしない。
「……え?」
紫苑は迫り来る死の刃を見上げたまま、困惑に全身を硬直させる。
何が起きたのか。攻撃が発動しない。いや、ラフ自身が何かに制止されているように見えた。彼の赤い眼が、今までにない点滅を繰り返し、まるで何らかの信号を受信し、そしてそれに逆らえないかのような、奇妙な反応を示している。
『どういうことだ……? 敵の内部エネルギーが急激に変調をきたしている……』
三原の声にも珍しく混乱が混じる。
ラフは依然として無言のまま、しばらくの間その姿勢を保っていたが、やがてゆっくりと、先ほどの殺気が嘘のように力なく、掲げていた腕をゆっくりと下ろした。
そして次の瞬間、彼の巨体を白い霧のような光の粒子が覆い始める。体の輪郭が曖昧になり、機械の体と空気との境界線が失われていく。
「おい、待て……! まだ決着はついてない! 逃がすわけには……!」
紫苑は這うようにして手を伸ばすが、その指先は虚空を切り裂くだけで、ラフの体に触れることは叶わない。
白い霧が風に流されるようにして晴れた時、そこには亀裂の入ったコンクリートの地面、外壁の破片、そして息を切らせた自分一人だけが、ぽつんと取り残されていた。
戦場には再び、不自然なほどの沈黙が戻ってきた。
ただ、遠くの木々の間から聞こえてくる蝉の声だけが、カナカナと鳴き続け、先ほどまでの死闘が悪い夢などではなく、紛れもない現実であったことを紫苑に告げていた。
『紫苑、大丈夫か? 負傷の具合は?』
通信の向こうの三原の声にも、わずかながら安堵の色が混ざっている。
「……かろうじて、生きてます。でも、あいつは一体……」
『敵の反応が、完全にこのエリアから消失した。どうやら自らの意思ではなく、何者かの指示、あるいは制御によって緊急転送を行ったようだ。お前が強すぎるから撤退した、という状況ではないことだけは確かだ……』
三原の言葉が、紫苑の心に重く沈む。
立ち上がり、自分の震える手を見つめる。
タイプレイダーで見た世界の広さと恐ろしさ。そして、タイプツーリスモの最速をもってしても捉えることのできなかったラフの脅威。あれが四幹部という存在なのだ。これから始まる夏休みの裏側、自分がこれから対峙しなければならない敵が、どれほどに絶望的な存在であるかをまざまざと見せつけられた気がした。
紫苑はゆっくりと空を仰いだ。
そこには、さっきまで死闘を繰り広げていたのが嘘のような、どこまでも澄み渡った青空が広がっている。
風が頬を撫で、木々をそよぐ音がする。
「行かなきゃ……」
紫苑はボロボロの体にムチを打つようにして歩き出す。
「みんなが待ってる……海に……」
約束の場所へ。
たとえその道のりが険しく、その先にどれほど深い闇が待っていたとしても、今の自分にはただ一つだけ、心の支えになるものがある。
仲間たちの笑顔。楽しい時間。何ものにも代えがたい日常。
紫苑は停めてあった愛車へと跨り、エンジンを始動させる。
傷ついた体は痛みを訴え、心には重い現実がのしかかる。それでも彼の瞳には、先ほどまでの迷いや恐怖ではなく、守るべきものへ向けられた一途な光が灯っていた。
「待ってろ……今、行く……!」
バイクは一気に加速し、夏の風を切って走り出す。
彼は知らない。今回の戦いが、これから始まる長く、そして熱い戦いの、ほんの始まりの一齣に過ぎないことを。
だがそれでも、今だけは――ただ純粋に、青い海と、仲間たちの待つ白い砂浜を目指して。
紫苑は力強くアクセルを捻り、約束の地へと向かった。
(続)