2014年編 #6-5
深夜の静寂が、海辺に佇むコテージの一つ一つを優しく包み込んでいた。
波の音が、昼間の喧騒が嘘のように、遠くで一定の穏やかなリズムを刻み続けている。砂浜を渡ってくる涼やかな風は、木製のベランダに掛けられたカーテンをわずかに揺らし、部屋の中に潮の香りと夜の冷たさをそっと運んでくる。
男たちが泊まる隣の棟では、悠真の豪快で規則的ないびきが壁を越えて響いてくるほど、皆が一日の疲れから深い眠りに落ちていた。だが、女子二人が過ごすこのコテージだけは、まだ明かりが消されることなく、昼間とは違った、甘くて柔らかい時間がゆっくりと流れていた。
ちひろが「何かあった時のために」と言いながら、実は自分が一番楽しみにしていたのではないかと思われるほど大量に持ち込んだスナック菓子の袋が、ローテーブルの上に所狭しと広げられている。その中でもひときわ目を引くのは、彼女が家で時間をかけて焼いてきたというカップケーキたちだった。ピンクや水色の可愛らしいアイシングが施され、チョコレートやナッツが飾られたそれは、まるでちひろ自身のように、明るくて温かな魅力に溢れていた。
「……ふふ、こんな真夜中に甘いものを食べるなんて、罪悪感がすごいね。明日起きたら、顔がパンパンにむくんじゃうかもしれない」
美穂は指先でケーキの上のクリームを少しだけすくい、舌に乗せながら、申し訳なさそうに、それでいて心から楽しそうに微笑んだ。
「大丈夫、大丈夫! 夏休みなんだから、たまにはこういう贅沢だって必要だよ。それに、せっかく作ってきたんだから、美味しいうちに食べてもらわないと! 美穂ちゃん、ほら、こっちのチョコチップがたくさん入ってる方も、絶対美味しいから食べてみて!」
ちひろは慌てて別のケーキを美穂の前に押し出す。その瞳は、自分の作ったものを誰かが喜んでくれることが、何よりも嬉しいと語っていた。
「ありがとう、ちひろ。本当に……ちひろはお菓子作り上手だよね。」
美穂の素直な賞賛に、ちひろは頬を少し染めて「そんなことないよ」と笑う。
テーブルの上には冷たいアイスティーも注がれ、二人はそれを飲みながら、昼間の海での出来事を次々と思い出しては話し続けた。波打ち際で大騒ぎしたこと、砂の上に座り込んで昼寝をしていた朔也の寝顔があまりにも無防備で面白かったこと、そして何よりも、悠真が砂の山に埋められて頭だけを出していた、まるで地蔵のような滑稽な姿。
それら一つ一つの思い出を語るたびに、部屋の中には笑い声が溢れ、二人は声を殺しながらも、時折お腹を抱えて笑い転げた。
会話が一段落し、カーテンの隙間から見える夜空に浮かぶ月を眺めていた時、ふと部屋の中に静かな時間が流れ込んだ。
その瞬間、美穂はコップをゆっくりとテーブルの上に置くと、いつもの柔らかでおとなしい雰囲気からは一変し、瞳の奥に悪戯っぽく、それでいて鋭い光を宿して、ちひろの方をじっと見つめた。
「ねえ、ちひろ。……一つ、聞いてみたいことがあるんだけど」
「ん? なあに、美穂ちゃん。改まってどうしたの?」
ちひろは残り少なくなったケーキに手を伸ばしながら、何気なく彼女の方を向く。
「……ちひろってさ、紫苑のこと、どう思ってるの?」
その問いかけは、あまりにも自然で、しかしちひろにとってはあまりにも予期せぬものだった。
「へ?」
ちひろはまさに口へ運ぼうとしていたカップケーキを、指先からぽろりと滑らせた。ケーキはテーブルの上に無残にも転がり、せっかくのアイシングが少し崩れてしまう。彼女はそれを呆然とした表情で見つめ、しばらくの間、まばたきも忘れて固まっていた。
「あ……お、落としちゃった……」
「誤魔化さなくてもいいんだよ。……私には全部、お見通しなんだから」
美穂はクスクスと笑いながら、さらに言葉を続ける。
「ちひろ、紫苑のこと、好きなんでしょ?」
「は、はぁ!?」
ちひろの顔は瞬く間に真っ赤に染まり、まるで夏の太陽をそのまま顔に映したようだった。彼女は慌ててテーブルをガタッと音を立てて後ろに引き、両手を大きく左右に振って、全力で否定のポーズを作る。
「な、な、なな、何でよ!? なんでそうなるのよ! 突然どうしたの、美穂ちゃん!? そんなわけ、全然、全然ないんだからね!?」
動揺しまくりのちひろとは対照的に、美穂はますます確信を深めたように、柔らかな笑みを浮かべて首を横に振る。
「見てれば、すぐに分かるよ。だってちひろ、分かりやすすぎるんだもん。いつだって紫苑のことを目で追ってるし、彼が他の男子たちと話していたり、少し遠くにいたりすると、すごく寂しそうな顔をするじゃない。それに……」
美穂は指を一本立てて、追及の手を緩めない。
「今日なんて特にそうだった。朝からウキウキして、私の水着選びにまであれこれ口出ししてきて、『これが絶対似合うよ!』って、自分も一番可愛い水着を選んで、すごく気合いを入れて着替えてきたくせに……いざ紫苑くんの前に出たら、ずっとモジモジしちゃって、ラッシュガードもずっと脱げずにいたじゃない?」
美穂の言葉は、まるで精密な射撃のように、ちひろの心の核心を一発一発、正確に射抜いていく。
「あれが『キュン』じゃなくて、何だっていうの? もう、それこそ恋する乙女そのものだったよ、ちひろは」
「あああああっ! もう、言わないで、言わないでええっ!」
ちひろの全身からは、昼間の灼熱の太陽に焼かれた時よりもさらに多くの汗が、まるで滝のように吹き出してくるのを感じた。心臓は大きく音を立てて脈打ち、頭の中は真っ白になりそうだ。
「た、たしかに……たしかに、紫苑くんは……一緒にいるとすごく落ち着くし、何かあった時はすぐに助けてくれるし、とても頼りがいがあって……それに、とても大事な、大事な……親友だけど!」
ちひろは必死に言葉を紡ぎ出そうとするが、心の中と口から出る言葉がちぐはぐになって、うまくまとまらない。
「べ、別にそういうんじゃないから! だいたい、私にカレシなんて……まふぁふぁあいひ!」
「え、え……? 何て?」
慌てすぎて、ちひろはテーブルの上にあったお菓子を口いっぱいに詰め込んでしまい、言葉が完全に不明瞭なものになってしまった。もはやそれは日本語としての体をなしておらず、彼女は自分でも何を言っているのか分からなくなり、さらに混乱する。
「ああもうっ!」
ちひろは慌てて口の中のものを無理やり飲み込み、隣に置いてあったアイスティーを取ると、一気に喉の奥へと流し込んだ。
「ぷはぁっ! ……だから! カレシなんて、まだ私には早いの! 私、そういうのはもっと、こう、大人の階段を一段一段登ってからっていうか……それにまだまだ自分は子供だし、紫苑くんは全然そんな風に私のことなんて見てないだろうし……」
「そんなことないんじゃない?」
美穂はニヤニヤとした表情を崩さず、まるで小さな子供をあやすような、それでいて確かな視線でちひろを見つめる。
「私たちだって、もう大学2年生だよ? 法律的にも立派な大人だし、恋をしたって、全然おかしくなんてない年齢だよ。それに……紫苑だって、ちひろのこと、どう思ってるか分からないじゃない」
美穂の言葉は、逃げ道を失ったちひろを優しく、しかし確実に追い詰めていく。普段は自分の意見をあまり前に出さず、控えめでおとなしい美穂からは想像もつかないほど、その表情は「真実」を知っているという確信に満ちていた。
「とにかく! 紫苑くんと私はそういうんじゃないの! ない、ない! 絶対にないです! 断じてございません!」
ちひろは真っ赤になった顔をさらに熱くしながら、必死に首を横に振って断言した。
だが、そう強く否定すればするほど、彼女の脳裏には、先ほど自分が否定した言葉とは裏腹に、紫苑とのこれまでの数々の思い出が、鮮やかに、次から次へと溢れ出してきた。
大学に入学したばかりの頃、講義室へ向かう道に迷って困り果てていた自分に、最初に声をかけてくれた時のこと。彼の何の変哲もない、だけどとても落ち着いた声と笑顔が、当時の緊張しきっていた自分の心に、すっと溶け込んできたあの瞬間。
それから幾度となく同じ講義を受け、時には一緒にサボって学食の裏庭や近くの公園で、アイスクリームを食べながら他愛もない話をした時間。彼はいつも真剣な顔で話を聞いてくれて、時には的確なアドバイスをくれて、時には一緒になって馬鹿なことを言って笑い合った。
そして今日。
水着に着替えて、彼の前に出た瞬間。少しだけ驚いたような、だけどすぐに柔らかな笑顔になって、真っ直ぐに自分の目を見て「似合ってる、すごくいいと思う」と照れくさそうに言ってくれた、あの紫苑の瞳の輝き。
あの時、自分の心臓が破裂するのではないかと思うほどに鼓動が速くなり、体中が熱くなったのは、夏の太陽のせいだけではなかったことを、ちひろは誰よりもよく分かっていた。
「あ〜、そうだよね。そういうことにしておこうかな」
ちひろが思い出に浸っている間に、美穂は含み笑いをすると、再びアイスティーを手に取り、一口飲んだ。
「大丈夫だよ、ちひろ。これは二人だけの秘密だから。誰にも言わない。……紫苑にも、悠真にも、朔也にもね。だから安心して?」
「もう、美穂ちゃんったら! いじわる言わないでよ! もう、私のこと、からかって楽しんでるだけでしょ!」
ちひろは恥ずかしさを隠すように、両手で自分の顔を覆い、うつむいてしまう。だが、その口元は自分でも気がつかないうちに、ほんの少しだけ、嬉しそうに緩んでいた。
「ふふ、からかってなんかないよ。ただ、ちひろの恋がうまくいったらいいなって、心から思ってるだけ」
「だから恋なんて……っ! もう、知らない!」
ちひろはバタバタと手を振ると、再びテーブルの上のスナック菓子の袋に手を伸ばし、中から取り出したポテトチップスを勢いよく口の中に放り込む。
バリバリ、ボリボリ。
深夜の静かなコテージの中に、お菓子を食べる小気味の良い音が響き渡る。
心臓の鼓動は、まだ少しだけ速いままだ。
友達として、紫苑のことが大好き。それは紛れもない本当のこと。一緒にいると楽しくて、安心できて、何よりも笑顔になれるかけがえのない存在。
でも、それだけではない何かが、この夏の太陽の暑さと潮風のせいで、自分の心の中でゆっくりと、だけど確実に膨らみ始めていることを、ちひろは本当はとっくに気づいていた。
「……ま、今はこれを全部食べて、明日の遊びのプランでも考えよ!」
ちひろは気持ちを切り替えるように、パチンと手を叩いて笑顔を作る。
「そうだね。明日はもっと遠くまで泳いでみようか。あの岩場の近くまで行けば、きれいな魚も見れるかもしれないね」
美穂も笑顔で応え、二人は再びお菓子をつまみながら、明日の予定について話し始めた。
甘いお菓子の香りと、窓の外から漂う潮の香り。そして、まだ言葉にはならない恋の予感が、部屋の中にふわりと漂っている。
二人の夜は、まだまだ終わりそうになかった。
この時、ちひろたちが泊まるコテージから少し離れたベンチでは、紫苑が朔也から突然の恋愛相談とも取れるような質問攻めに遭い、真っ赤になって言葉に詰まり、慌てふためいているなどとは、彼女たちは夢にも思わなかった。
だが、この夜。海辺に佇む二つのコテージでは、男女それぞれの場所で、同じように心がざわめき、熱くなり、戸惑い、そして淡い期待に胸を膨らませるという、名付けるならば「恋の嵐」とでも言うべき感情の揺れが吹き荒れていたことだけは、紛れもない事実だった。
夏の夜は、まだ明けない。
(続)