2014年編#7-5
戦いの喧噪が完全に去り、街を包むのは重苦しいまでの静寂だけだった。その静けさを引き裂くように、赤色灯があちこちで点滅を繰り返し、血のような色の光が建物の壁やアスファルトを染め上げていく。遠くからは複数のサイレンの音が重なり合い、近づくにつれて次第に大きく、鋭く響き渡る。先ほどまで命からがら逃げ惑っていた市民たちは、まだ残る恐怖を胸に、おそるおそる崩れかかった建物の陰や路地裏から姿を現し始めていた。誰もが無事であることを祈り、互いの姿を確かめ合うように辺りを見回し、その表情には安堵と悲しみ、そしてこれから何が起こるかわからない不安が入り混じっていた。
紫苑は、人目につかない路地裏の奥深くで、ゆっくりと自分の体から力を抜いた。次の瞬間、彼の体を包み込んでいた不思議な光が霧のように消え去り、戦うための姿からいつもの自分へと変身を解除する。荒く乱れた呼吸を整えようと、何度も大きく息を吸い込み、吐き出す。心臓はまだ先ほどの戦いの名残で激しく脈打ち、まるで大きな鐘が体内で鳴り響いているかのようだ。全身にはアドレナリンが巡り続け、指先や足の裏まで微かだが絶え間ない震えが走っている。それでも彼は、すぐに自分の表情を引き締め、普段の「普通の大学生」である紫苑としての顔を作り上げた。この混乱の中で、もし自分の正体が誰かに知られるようなことがあれば、仲間たちまで危険に巻き込んでしまう。今は何よりも、彼らのもとへと急がなければならなかった。
「みんな……!」
紫苑は絞り出すように声を上げ、立ち込める煙の中をかき分けるようにして大通りへと駆け戻っていく。瓦礫の破片が道を塞ぎ、歩くのも容易ではないが、彼の足は自然と速まっていく。視界が開けた瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、見慣れた五人の姿だった。彼らは一箇所に固まるようにして立っており、周囲では救急隊員や警察官が慌ただしく行き交い、負傷者の救助や状況の確認に追われ、街全体が混乱の極致に達していた。そんな混沌とした空気の中にあっても、彼らの集まる一角だけは、まるで嵐の中の避難所のように、不思議と穏やかで安堵に満ちた光に包まれているように紫苑には感じられた。
「ちひろ! みんな!!」
紫苑は再び声を張り上げ、彼らのもとへとまっすぐに走り出す。その声が瓦礫の散らばる通りに響き渡った瞬間、五人が一斉に声のする方向を向き、紫苑の姿を捉えた。彼らの目が大きく開かれ、次の瞬間にはそれぞれの表情に驚きと、そして何よりも大きな喜びと安堵が浮かんだ。
「紫苑!! どこにいたんだよ!!」
最初に反応し、叫び声を上げながら駆け出したのは悠真だった。彼は地面に散らばるガラスの破片や瓦礫など目もくれず、ただまっすぐに紫苑へと向かってくる。そして勢いよく到着すると、紫苑の両肩を力いっぱいに掴み、その瞳には今にも涙が溢れそうなほどの感情が込められていた。
「お前、本当に……本当にどこに行ってたんだ! 突然いなくなるから、俺たち、生きた心地が全然しなかったんだぜ! もう二度とこんな思いはさせるなよ!」
「そうだ、悠真の言う通りだ。紫苑、お前は大丈夫なのか? 怪我はどこにもないか?」
続いて朔也も駆けつけ、いつもの冷静さを失った、焦燥感の滲む表情で紫苑の全身をくまなく素早く確認していく。彼の手は少しだけ震えており、それだけ紫苑の不在が彼にとって大きな不安だったことがうかがえた。その隣では美穂が両手を胸に当て、大きく何度も息を吐きながら、ゆっくりと頭を上下させている。彼女の目には涙が光っていたが、口元は柔らかく緩み、安心しきったような、それでいて先ほどまでの恐怖が残るような複雑な笑顔を浮かべていた。
しかし、紫苑の胸を最も強く、締めつけるような痛みで満たしたのは、他の誰でもないちひろの姿だった。彼女は他の四人よりも一歩遅れて、まるで地面に足を取られるかのようによろけながら、紫苑のもとへと歩み寄ってくる。
「紫苑くん……紫苑くん……!」
彼女の唇からは震える声が漏れ、次の瞬間には大粒の涙が両目から溢れ出し、頬を伝って次々と零れ落ちていく。彼女が両腕にしっかりと抱えているのは、つい先ほど、皆で立ち寄ったゲームセンターで紫苑が取ってあげた、大きな猫のぬいぐるみだった。彼女はそれをまるで自分の命綱であるかのように、腕に食い込まんばかりに強く、強く抱きしめ、小さな肩を激しく震わせている。
「もう……もう、本当に心配したんだから! 私、紫苑くんが忘れ物を取りに行くなんて言ったとき、すぐに止めたのに……! 危ないから、諦めて一緒に逃げようって、何度も言ったのに……! もしも紫苑くんに何か悪いことがあったら、私……私、どうしたらいいかわからなくなっちゃうんだから……!」
ちひろの声は次第に大きくなり、そして途中からは言葉にならない嗚咽へと変わっていく。彼女は泣きながら、それでも紫苑から目を離そうとせず、まっすぐに彼の姿を見つめ続けていた。紫苑には痛いほどわかっていた。自分が「忘れ物を取りに行く」と言って姿を消したあの瞬間から、今こうして再会するまでの時間が、ちひろにとってはどれほど長く、そしてどれほど恐ろしいものだったのかを。自分の正体を隠し、戦うために彼女についた「嘘」が、これほどまでに彼女を苦しめ、傷つけてしまっていたのだ。紫苑はただただ、自分の行動を後悔し、胸の奥が熱く締めつけられる思いだった。
「ごめん……ちひろ。本当に……本当に、心配をかけてしまってごめんな。でもほら、見てくれ。俺はこの通り、ちゃんと無事で、元気なんだ。どこも怪我なんてしていない。だから、もう泣かないでくれ」
紫苑は泣き崩れそうなちひろの側へと歩み寄り、そっと震える彼女の肩に自分の手を置いた。自分の体温が彼女に伝わるように、優しく、しかししっかりと。ちひろはその手の温もりを確かめるように、何度も何度も頭を縦に振り、そして抱えていたぬいぐるみに顔を埋めて、声を上げて泣き続けた。その涙がぬいぐるみの毛糸に染み込んでいく様子を見ていると、紫苑の心臓はまた別の痛みで波立った。
そんな涙と笑い、安堵が入り混じった騒ぎの輪の中心で、ただ一人だけ、驚くほど穏やかに、そして静かにこの光景を見守っている男がいた。
「ほら、やっぱりそうだったろ。だから俺は言ったじゃないか、ちひろ。紫苑は絶対に大丈夫だって、必ず無事で戻ってくるって」
ゆっくりと、しかし確かな足取りで歩み寄ってきたのは大悟だった。彼はこの混乱の中、自分のことよりもまず仲間たちの安全を確保し、的確な指示を出しながら全員をこの場所まで導き、誰一人として欠けることなく守り抜いていた。今もなお、彼の呼吸は乱れることなく整っており、表情にも焦りや不安の色は一切見えない。その姿はとても先ほどまでの騒乱の中にいた者とは思えないほどに落ち着き払っていた。
「大悟くん……」
ちひろは涙を指で拭いながら、大悟の方を見上げる。すると大悟は、彼女に向けて柔らかく微笑み、それから視線を紫苑へと移した。その瞳に浮かんだ笑顔は、確かに優しく温かいものであったが、その奥底には何か深い意味や、普通の仲間同士の間柄では感じられないような、特別な何かが隠されているように紫苑には感じられた。
「こいつはなかなかにしぶとい奴なんだよ。昔からそうだった。どんなに危険で、命の危険が迫るような場所にいたとしても、必ず自分の力で切り抜けて、俺たちのもとへと戻ってくる。そういう運命のようなものを背負っている奴なんだ」
大悟の言葉は、単に紫苑の無事を喜び、仲間たちを安心させるための励ましの言葉以上のものを含んでいた。紫苑にはそれがはっきりとわかった。まるで、自分が路地裏で何をしていたのか、どのような思いで戦い、どれほどの危険をくぐり抜けてきたのか、そして自分が何者であるのかということまでも、大悟はすべてをお見通しであり、理解した上でこの言葉をかけてくれているかのような、そんな不思議で、しかし心強い響きがあった。
「……ありがとう、大悟。本当に助かった。俺がいない間、みんなのことをしっかりと誘導して、守っていてくれたんだな」
紫苑は真っ直ぐに大悟の目を見つめ、心からの感謝の気持ちを込めてそう告げた。大悟はそんな紫苑の視線を受け止めると、軽く片方の目を瞑り、いつものような飄々とした態度で応じる。
「気にするな。俺たちは仲間であり、戦友だろ。お前がいつか俺たちを守ってくれるように、俺もお前たちを守る。それだけのことだよ。それよりも早く、この子を泣き止ませてやれよ。せっかくお前が取ってあげた大事なぬいぐるみが、ちひろの涙ですっかりびしょ濡れになって、重たくなっちまってるぞ」
大悟の言葉に、ちひろは「あっ……」と小さな声を上げ、慌てて自分の腕の中のぬいぐるみを見下ろした。確かに、彼女が流した大量の涙で、ぬいぐるみの耳や体の部分はすっかり湿って色が濃くなり、重たくなっているように見えた。それを見たちひろが慌てて手でそれを拭こうとする様子はいつもの彼女らしく、周りで見ていた悠真や美穂、朔也も緊張が解けたように、ようやく明るく柔らかな笑い声を漏らした。ちひろも周りの笑い声に気づき、自分の行動が少し騒がしかったことに恥ずかしそうに頬を染め、それでもまだ目元を赤くしたまま、小さく笑った。
立ち込めていた煙は少しずつ風に流されて薄くなり、遠くの方で鳴り響いていた救急車のサイレンの音も、次第に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。
この戦いで街は至る所に深い傷を負い、多くの建物が崩れ、道路は寸断され、人々の心には消えることのない恐怖と悲しみが刻まれたに違いない。だが、ここに集まった紫苑たち六人の間には、災厄を共にくぐり抜けたことで、以前よりも遥かに強く、固く結ばれた絆が生まれていた。そして互いを思いやり、心配し、無事を喜び合う確かな熱が、彼らの周りにも、それぞれの胸の中にも、生まれていたのを感じていた。
紫苑は、ようやく泣き止み、まだ時折鼻をすすりながらも安心した表情を浮かべるちひろ、いつも自分を支えてくれる頼もしい仲間たち、そして何か秘密を知っているかのような、不思議で深い微笑みを浮かべる大悟の姿を、一人ひとり順番にゆっくりと見つめていく。
(俺は、この光景を絶対に守り抜かなければならない。俺がこの目で見ているこの平和で温かい時間、この笑顔に満ちた瞬間を、何があっても守り続ける。そのためならば、俺は何度でも危険な戦場へと戻り、戦い続けてみせる。どんな困難が待ち受けていようと、俺は決して諦めたりはしない)
街にはいつの間にか夕闇が降りてきて、空は深い紺色に染まり始めていた。紫苑は自分の両手をぎゅっと固く握りしめ、その決意を胸の奥深くに刻み込んだ。
紫苑にとって、仲間たちと再会したこの時間は、失われかけた過去を取り戻したようなものだった。そして同時に、自分の使命と運命を再確認した現在でもあった。これから待ち受ける未来は、まだ何も見えず、不確かで暗い部分も多い。だが、過酷な運命という名の歯車が激しく回り始め、加速していく中にあっても、彼の心の中には、どんなことがあっても決して折れることのない、静かで、しかし熱い決意の炎が力強く灯り続けていた。
(続)