2014年編 #8-1
大悟とあのベンチで交わした言葉は、紫苑の心の奥底に積もっていた重い澱を、ゆっくりと、だが確実に溶かしていった。キャンパスを吹き抜ける秋風は、木々の葉をそよぎながら紫苑の頬をなでるたび、以前はどこか冷たく感じられたその空気に、今ではわずかながらも確かな温もりが込められているように思えた。空は高く澄み渡り、まるで自分の心の曇りまでも晴らしてくれるかのように、どこまでも青く広がっている。
これまでの紫苑にとって、戦いの呼び出しは常に重い負担を伴っていた。それは決して、怪物であるロイミュードと戦うことへの恐怖だけが理由ではなかった。むしろそれ以上に辛かったのは、ちひろや悠真、美穂、朔也たち、大切な仲間たちのもとを離れなければならないその瞬間に、必ず嘘をつかなければならないという事実だった。通信機から発せられる緊急の電子音は、まるで自分が平穏な日常を裏切り、別の世界へと旅立つことを告げる宣告のように感じられ、その音が鳴るたびに紫苑の心は緊張と罪悪感で締めつけられた。
「急に頭が痛くなって……」
「どうしても忘れられない用事を思い出したんだ」
そんな風に言葉を濁し、作り笑顔を浮かべて席を立つたび、ちひろはいつも不安そうに瞳を曇らせ、「大丈夫? 無理しないでね」と心からの言葉をかけてくれた。そのまっすぐで優しい視線が、紫苑には鋭い刃のように感じられ、自分のついた嘘がその瞳を曇らせているのだと思うと、何よりも苦しかった。自分が戦うことで彼らを守っているはずなのに、同時に自分は彼らを傷つけ、不安にさせている――その矛盾こそが、紫苑を最も苦しめていたのだ。
だが、状況は完全に変わった。紫苑にはもう、自分のすべてを話すことはできなくても、自分の立場も苦しみも理解し、そして陰から支えてくれる存在ができた。大悟――孤児院で共に育ち、幼い頃からいつも側にいてくた幼なじみ。彼が自分の秘密に気づき、そしてそれけ入れ、周りとの辻褄を合わせる役目を買って出てたことで、紫苑の心にかかっていた重圧は一気に軽くなった。
その日も、いつものように講義が進められていた。教授の話す声が教室に響き、学生たちはノートを取ったり、時折退屈そうに窓の外を眺めたりしている。紫苑は隣の席に座る大悟の横顔を眺めながら、この穏やかな時間がいつまでも続けばいいと願っていた、その時だった。
ポケットの中の通信機が、無音で細かく震え出した。紫苑は即座に画面を確認する。そこには三原からの緊急連絡が表示されていた。「重加速の反応を確認、至急現場へ向かえ」――いつもの文面だが、その文字は紫苑にとって戦いの始まりを告げる合図だった。
紫苑はわずかに身構え、隣に座る大悟へと視線を移した。大悟はすでに紫苑の異変に気づいており、こちらを見ていた。言葉は何も交わさない。だが、大悟はその鋭い瞳で紫苑の状況を一瞬で把握すると、声も発さず、ただ静かに、ゆっくりと一度だけ頷いてみせた。それは「行ってこい。後のことは任せろ」という、彼なりの合図に違いなかった。
紫苑は心を決め、席を立つ。
「あの……ごめん、ちょっと急な用事を思い出しちゃって……」
いつものように言葉を濁し、周りに聞こえないように小声で告げる。すると案の定、前の席に座っていたちひろがくるりと振り返り、大きな瞳をさらに大きくして不安げな表情を浮かべた。先日の事件で街が混乱した際、紫苑が姿を消したことが、彼女の中にまだ強く残っているのだろう。その瞳の奥には、微かながらも消えることのない恐怖の色が映っていた。
「えっ、紫苑くん? また……? 何かあったの? 体調でも悪いの?」
ちひろが立ち上がりそうな勢いで問いかけてくる。紫苑は思わず言葉に詰まり、「いや、そういうわけじゃないんだけど……」と口ごもってしまう。これまでなら、ここで何とか自分一人で嘘をでっち上げ、彼女を安心させなければならなかった。だが今は違う。紫苑が言い淀んだその瞬間、すっと横から声が割り込んできた。
「あぁ、ちひろ、そんなに心配することないさ」
大悟が自然な動作で間に入り、ちひろの肩を軽く叩く。彼の表情はいつもの余裕に満ちたもので、まったく慌てた様子がない。
「実はな、俺が紫苑に前から頼んでた調べ物があったんだ。今日が締め切りだっていうのに、こいつ、すっかり忘れてたみたいでさ。ほら、俺が貸した資料の件、あいつ自分で持ってるだろ? それをまとめて提出しなきゃならなくて、慌てて思い出したってわけだ。な、紫苑?」
大悟がわずかに目配せをしてくる。紫苑はすぐに頷き、話に乗る。
「あ、ああ……そうなんだ。悪い、大悟。すっかり頭から抜け落ちてた。早くまとめないと……」
「ほら見ろ。だから心配するなって。ただの俺たちの間の約束だからさ」
大悟の巧みな話術に、ちひろもようやく表情を緩め、笑顔を浮かべた。
「ああ、そういうことだったの。もう、紫苑くんたら、大悟くんに迷惑かけちゃダメじゃない。早く行ってきて、ちゃんと終わらせてくるんだよ?」
「ああ、すぐに終わらせて戻ってくるから。悪いな」
紫苑はちひろに笑顔を向けると、足早に教室を後にした。背中からは、ちひろの「気をつけてね」という柔らかな声が聞こえてくる。
教室を飛び出し、校舎の廊下を駆け抜けながら、紫苑は自分の足取りが軽いことに驚いていた。これまで、戦いに向かうために教室を離れるとき、その背中にはいつも暗い影が張り付いていた。「また嘘をついてしまった」「また彼らを置いていく」という後ろめたさが、足を重くし、心を締めつけていたのだ。
だが今は違う。自分がいない間、自分の代わりに大悟がちひろたちの側にいて、彼らの不安を取り除き、平穏な日常を守ってくれている。自分の嘘はもう、ただの罪悪感のためのものではなく、彼らの安全と安心を守るための、必要な盾へと変わったのだ。そしてその盾を、自分一人で支える必要はなく、大悟が共に持ってくれている。
この確信こそが、紫苑にとって何よりも大きな力となった。孤独な戦士として闇に身を投じる自分の背中を、大悟が明るい光の中で支え続けてくれている――そう思うだけで、どんな困難な戦いにも立ち向かえるような気がした。
人気のない裏庭へと走り、紫苑はリュックからGTドライバーを取り出す。
「変身!」
『TYPE TURISMO』
機械音と共に紺碧の装甲が体を包み込み、仮面ライダーGTへと変身する。その身にまとう力はいつもと同じはずなのに、今日はいつにも増して力強く、全身にみなぎってくるように感じられた。迷いはない。守るべきものがあり、信じて背中を預けられる仲間がいる。これ以上に心強いことがあるだろうか。
現場へと到着すると、そこではロイミュードが周囲の建物を破壊し、人々を襲っているのが見えた。GTは即座に戦いへと飛び込み、鋭い蹴りを放ち、敵を撃ち倒していく。その動きには一切の淀みがなく、これまで以上に素早く、的確で、そして何よりも果敢だった。自分がこうして戦っている間も、キャンパスのちひろたちは笑い合い、平穏な時間を過ごしている。それを可能にしているのが自分たちであり、そして大悟の存在なのだと思うと、力が湧き上がるようだった。
激しい戦闘の末、ようやくロイミュードを撃退し、事態を収束させた紫苑は、夕暮れ時のキャンパスへと戻ってきた。空は茜色に染まり、校舎の壁や木々が長い影を落としている。
中庭のいつものベンチには、大悟を中心にちひろ、悠真、美穂、朔也たちが集まり、楽しそうに話をしている姿が見えた。彼らの笑い声は夕暮れの空気に溶け込み、とても穏やかで、幸せな時間がそこに流れているのが遠くからでも伝わってくる。
紫苑が近づくと、真っ先に大悟がこちらに気づき、視線を合わせてきた。彼はわずかに口元を緩め、さりげなく声をかけてくる。まるで先ほどの戦いなど何もなかったかのように、自然で、日常的な調子で。
「お疲れさん、紫苑。調べ物の方は、うまく終わったみたいだな」
「ああ……おかげさまで、なんとかなったよ」
紫苑が短く答えてベンチに腰を下ろすと、ちひろがすぐに隣に座り、心配そうに紫苑の顔を覗き込む。
「本当に大丈夫? なんだか顔色が少し悪いみたいだけど……」
「平気だよ。ちょっと急いで資料をまとめたから、少し疲れただけさ」
そう言って笑う紫苑の言葉を、ちひろは何の疑いもなく受け入れ、安心したように微笑む。その笑顔を見ると、紫苑は胸の奥が熱くなる。自分にはまだまだ隠し事があり、真実を話すことはできない。世界は依然として危険に満ち、自分の戦いが終わることはないだろう。
だがそれでも、以前とはまったく違うのだ。自分の秘密は一人で抱えるにはあまりにも重かったが、今はそれを半分、いやそれ以上に大悟が受け止めてくれている。彼がいることで、自分の嘘は守りの道具となり、仲間たちの笑顔はより輝かしいものとなっている。
悠真がまた馬鹿げた冗談を言って周囲を笑わせ、美穂が呆れたようにそれをたしなめ、朔也が冷ややかな言葉を投げかける。そんないつもの光景の中に、大悟がいて、そして自分がいる。紫苑はその輪の中にいることの温かさを、全身で感じていた。
(……俺は、本当に救われてるんだな)
隣で笑うちひろの横顔を眺めながら、紫苑は心の中で静かに呟いた。自分が戦う意味、そして生きる意味。それらすべてが、大悟の存在によって明確になり、力強いものへと変わっていくのを感じた。
戦場へと続く道は、決して平坦ではない。これからも困難な状況に直面し、傷つくこともあるだろう。だが、大悟がいる限り、自分は迷うことなくその道を駆けていける。信頼という名の固い盾を手に入れた今、紫苑の心は以前よりもずっと強く、そして穏やかだった。
深まりゆく秋の空の下、紫苑は守るべき日常の温もりをしっかりと噛み締め、仲間たちと共に過ごす何気ない時間を、かけがえのないものとして胸に刻み込んでいた。
(続)