2014年編 #8-6
消毒液の刺激的な匂いが、まるで肺の奥まで染み込んでくるような病室の中。外の世界は喧騒に満ちているはずなのに、この部屋だけが時間の流れから取り残されたかのように、ひたすらに静まり返っていた。窓硝子の向こうから微かに届く車の走行音や人々のざわめきは、紫苑にとっては遠い遠い、別の星で起きている出来事のように感じられ、白く平坦な天井を見つめる瞳には、わずかな虚しさが浮かんでいた。
意識を取り戻してから既に数時間が過ぎていたが、体中には鈍い痛みが波のように押し寄せ、特に火傷を負った箇所は絶え間なく熱を帯びて疼き続けている。まるで自分の体が自分のものではないかのような、そんな奇妙な感覚に包まれながら、紫苑はただじっと横たわっていた。
ベッドサイドに立つ三原は、いつものように無表情で、片手に持ったタブレット端末の画面と、紫苑の体に繋がれたバイタルモニターとを交互に見比べ、数値を確認し続けている。電子機器が発する規則的な心電図の音だけが、沈黙の部屋の中を淡々と満たしていき、そのリズムがかえって紫苑の神経を少しずつざわつかせた。
「フレアフェイズ――それはGTの連続稼働時間が設計上の限界、つまりリミットに達した時に起きる現象だ」
三原が口を開く。その声には一切の感情の色がなく、まるで機械が規則を読み上げているかのような冷徹さが漂っていた。
「システムが過負荷に耐えられなくなり、制御不可能になった内部エネルギーが一気に外部へと放出される。ほんの一瞬のことなら、先ほどお前が見せたように爆発的な出力を生み出し、敵を撃退することも不可能ではない。だがな、これは完全な諸刃の剣だ。放出される莫大な熱エネルギーは、システムそのものを内側から破壊していくだけでなく、同時に変身者であるお前の肉体をも、文字通り焼き尽くしていく」
言葉の一つ一つが重く紫苑の胸に沈んでいく。自分が身につけた力が、これほどまでに危うく、自分自身を殺しかねない代物だったという事実を、彼はこの時初めて、具体的な恐怖と共に理解した。
「今回は運が良かった。コンマ数秒、髪の毛一本ほどの差で変身解除の信号が間に合ったからな。もしあと一秒でも遅れていたら、お前の精神回路は物理的に消滅し、この世にお前の存在はなかったことになっていただろう」
三原は何事もないようにそう告げる。まるで明日の天気が晴れか雨かを予報するような、あまりにも淡々とした口調に、紫苑は言いようのない憤りと恐怖を同時に感じた。厚い包帯で幾重にも巻かれた自分の腕を、痛みを堪えながらゆっくりと動かし、紫苑は眉間にしわを寄せる。
「……そんな話、もっと早く聞いておきたかったですよ。本当に、今度こそ完全に死ぬんじゃないかって、戦っている最中も生きた心地がしなかったんですから」
小さく抗議の言葉を吐くと、三原はようやくタブレットから視線を上げ、紫苑の顔を見た。その目は不思議そうに細められている。
「言わなかったか?」
「聞いてませんよ! こんなに命に関わる重大な欠陥があるなんて、一言も聞いてない」
「いや、言ったはずだ。『あまり長い時間変身し続けるな』と、以前に注意しただろう」
三原の言い分はあまりにも簡潔で、あまりにも説明が省略されすぎていた。その一言が、これほどまでの致命的な危険性を含んだ警告だと、一体誰が理解できるというのか。紫苑は力なく肩を落とし、「言葉が足りなさすぎるだろ……」とムッとした表情で視線を天井へと戻した。
この三原という男は、理論を構築しシステムを設計する才能においては天才的だが、人の心の機微や、何がどれほど危険であるかというニュアンスを他人に伝える能力が、決定的に欠けているのだ。紫苑の不満などお構いなしに、三原は最後に事務的な言葉を残す。
「これ以上心拍数を上げるな。無駄に動かず、じっと安静にしておくように」
それだけ言うと、彼は風のように病室を出て行った。部屋には再び、モニターの電子音だけが残される。
三原が去った扉の方を見ていると、今度は廊下から聞き慣れた足音が近づいてくるのが耳に入った。リズムが良く、どこか堂々とした歩き方――間違いない、大悟だ。
カチャリと音を立てて扉が開き、予想通り大悟が顔を出した。彼はいつものように少し悪戯っぽく、不敵な笑みを浮かべている。
「よう、紫苑。……まだ生きてるか? 今回は随分と派手に大怪我をしたらしいじゃないか」
音を立てないようにパイプ椅子を引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろすと、彼は脇に抱えていたビニール袋をテーブルの上に置いた。中を覗くと、リンゴやオレンジといった果物がいくつも入っており、さらには退屈しのぎの雑誌や漫画まで詰め込まれているのが見えた。どうやら仲間たちが、それぞれに紫苑のことを気遣って持たせてくれたものらしい。
「みんな、お前のことをすごく心配してたぞ。特にな、ちひろが一番大変だった。お前が突然いなくなって、連絡も取れなくなった後、あいつ今にも泣き出しそうな顔をして、いや、実際半分泣きながら、街中の病院を片っ端から探し回ってたんだぜ。『紫苑くんがどこかで倒れてるかもしれない』ってな」
大悟の何気ない言葉を聞いた瞬間、紫苑の胸の奥が鋭く痛んだ。それは体の怪我の痛みなど比べものにならないほど、心の奥深くを抉るような痛みだった。
自分はただ、ちひろにはいつも笑っていてほしかった。彼女や仲間たちを悲しませるものから守りたい、その一心でGTの力を手に入れたはずだった。なのに今、自分の存在と戦いが、ちひろをこれほどまでに不安にさせ、涙を流させている。これはなんという皮肉なのだろう。自分が戦い続ける限り、この矛盾は解消されることなく、永遠に続いていくのかもしれない――暗い絶望感が、紫苑の心を覆い始める。
だが大悟は、そんな紫苑の心の内を見透かしているようだった。彼は生まれ持った勘の鋭さ、あるいはこれまで数々の修羅場を潜り抜けてきた経験から、紫苑がこの怪我を単なる不注意や事故で負ったものではないことを、既に確信していたのだ。
ショッピングモールの跡地で起きたと報道された不可解なガス爆発事故。そしてその翌日、重度の火傷と全身打撲で病院に運び込まれた紫苑の姿。この二つの出来事を結びつけることは、大悟にとっては何の難しいことでもなかった。
それでも彼は、紫苑の秘密に対して土足で踏み込むような真似は決してしなかった。
「……まあ、色々と事情があったんだろ? 俺はお前のことだから、『階段から足を滑らせて、大怪我をした』ってことにして、連中には完全に口裏を合わせておいたよ。悠真なんて、お前がよっぽど運動神経が鈍いんだと本気で信じ込んで、『さすがに紫苑らしいミスだな』なんて笑ってたぜ」
大悟は窓の外に広がる都会の景色を眺めながら、どこか遠い目をして笑った。その横顔には、紫苑が感じているのと同じように、誰にも明かすことのできない何か重いものを抱えているかのような、微かな影が落ちているように見えた。
「いいか紫苑。お前が言いたくないこと、話せないことは、死ぬまで言わなくたって構わない。お前にはお前の、俺たちには知られたくない背負い物があるんだろう。だがな、一つだけ忘れるなよ」
大悟はこちらを向き、真剣な眼差しで紫苑を見つめる。
「俺たちはお前の仲間だ。どんな時だってお前の側にいる。だから……一人で全部を抱え込んで、勝手に死ぬような真似だけは、絶対にするな」
飾り気はないが、心の底から湧き上がるような重みのある言葉だった。そのぶっきらぼうな優しさが、今は尖ってささくれ立っている紫苑の心に、何よりも温かく染み込んでいく。
自分が戦う理由など、三原が語るような「科学の発展」や「人類の守護」などという、立派で大きなものでは決してない。
目の前にいる大悟、今頃はきっと自分のことを心配してくれているちひろ、悠真、美穂、朔也……そして他の何よりも、この何でもないような日常を一緒に過ごしてくれる、かけがえのない仲間たち。彼らの誰一人として失うことなく、この笑顔が絶えない日々を守りたい。ただそれだけのことなのだ。そのシンプルで純粋な想いこそが、自分を再び立ち上がらせ、前へと進ませる唯一の原動力なのだと、紫苑は改めて強く自覚した。
「……ありがとう、大悟。お前がいてくれて、本当に助かったよ」
紫苑は心からの感謝を込めて、短く応えた。
窓の外はいつの間にか、深い夜の帳がすっかりと降りていた。
「じゃあ、また明日来るよ。ゆっくり休め」
大悟がそう言って部屋を去った後、紫苑は病室の窓硝子に映った自分の姿を、そっと眺めた。青白い顔、体中に巻かれた包帯、そしてこれからも続く戦いによって絶えない痛み。さらにはいつ爆発するかもしれない、GTシステムの欠陥という名の爆弾まで抱えている。
自分の行く先には、まだまだ過酷な運命が待ち受けているのかもしれない。それでも、紫苑は固く拳を握りしめる。手のひらには、まだ熱い闘志が燃えているのを感じた。
――俺は、負けるわけにはいかない。
この場所にいる大切な人たちの笑顔を守り抜くために、俺は何度でも立ち上がる。
暗闇に包まれた病室の中で、紫苑の瞳には静かだが燃えるような強い決意の光が、はっきりと宿っていた。
#8完