2014年編 #9-1
一ヶ月という時間は、絶え間なく流れる時の中で、紫苑の心と体に刻まれた傷を癒やすには、確かに十分な長さだったかもしれない。だがその実、病院の白い天井を眺めながら過ごした日々は、一秒一秒がまるで永遠のように長く感じられたのも事実だ。
季節はすでに秋の名残をほとんど失い、キャンパスの木々は落ち葉を敷き詰め、吹き抜ける風は頬を刺すような冷たさを帯びている。空気は澄み渡り、遠くの建物の輪郭までくっきりと見えるその様子が、時間の流れと季節の移ろいを否応なく紫苑に告げていた。
長かった入院生活も、ついに今朝で終わりを迎えた。退院許可の判子が押された書類をバッグにしまい、身支度を整えて病室を出る。長い廊下はいつものように静かで、車椅子の音や看護師の足音だけが響いていた。エレベーターで一階まで降り、重たいガラスの自動扉をくぐると、冬の冷たい外気が一気に全身を包み込む。
紫苑は大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が肺の奥まで染み渡り、血行が良くなるような感覚。消毒薬の匂いのしない、生きた空気。こうして自分が再び「外の世界」へと帰ってきたのだと、五感すべてが実感させてくれる。
「おっ、主役のお出ましだな! さあ乗れよ、紫苑! 待ちくたびれたぜ!」
門の前の道路脇で、聞き慣れた野太い声が響いた。はっと顔を上げると、少し錆びついた赤い中古車の窓から、悠真が上半身を乗り出して、大きく手を振っている。太陽の光を受けて笑うその顔は、いつものように豪快で、まるでこの一ヶ月の空白など最初から存在しなかったかのようだ。
助手席には少し身を乗り出すようにして美穂が手を振り、後部座席からは朔也が穏やかな笑顔を向け、大悟も無表情ながら軽く手を上げている。みんな、みんなここにいる。自分の帰りを待っていてくれたのだ。
「悠真……みんな……!」
紫苑は思わず声を詰まらせ、駆け出したい衝動を抑えながら車へと近づく。体はまだ少し重く、動きもぎこちないが、そんなことはどうでも良かった。
「退院祝いの準備は、俺たちが総出でバッチリ整えてあるんだからな。ほら、早く乗れ、寒いだろ!」
悠真はそう言って運転席のドアを閉め、美穂が助手席側から後部座席のドアを開けてくれる。「おかえり、紫苑」と柔らかい声が迎えてくれ、紫苑は頷きながら車内に乗り込んだ。
車のエンジンがかかり、ゆっくりと走り出す。車内は狭く、少し古い車特有のにおいがするけれど、そこにはすぐに仲間たちのにぎやかな声が満ちていく。
「全く、階段から落ちるなんておっちょこちょいにも程があるわよね。でも本当に無事で良かった」
と美穂が呆れたように言い、
「そうそう、俺も聞いたときは驚いたよ。いくら暗かったからって、よくもまああんな大怪我するまで落ちたもんだ」
と朔也が続く。
彼らは紫苑が「夜、キャンパスの階段を踏み外して転落した」のだと信じている。誰もそれを疑ってはいない。それが、紫苑にとってどれほどありがたいことか。
ロイミュードとの戦い、自らの体を蝕み始めたシステムの異変、全身が焼けるような熱に包まれるフレアフェイズ——紫苑がこの一ヶ月、生死の境をさまよい、誰にも言えない孤独な戦いと苦痛に耐えていたことなど、彼らは少しも知らない。だからこそ、こうして無邪気に自分の不注意をからかい、心から回復を喜んでくれるのだ。
その何気ない言葉の一つ一つが、まるで温かい湯のように、凍てついていた紫苑の心の奥底まで染み込んでくる。孤独な戦場で固まってしまった心が、ゆっくりと、だが確かに解けていくのを感じた。
やがて車は悠真の住むアパートへと到着した。二階の部屋に上がり、扉が開くと、紫苑は思わず目を見張った。
普段は男四人が共同で使っているせいか、いつもは荷物が散乱し、少しだらしない雰囲気の部屋が、今日は見違えるように綺麗に片付けられ、色とりどりの飾り付けや風船で華やかに彩られている。
「紫苑くん、退院おめでとう!」
扉をくぐった瞬間、パン! と軽快な音が響き、紙吹雪が舞い上がる。ちひろが手に持っていたクラッカーを鳴らし、部屋の中にいた全員が一斉に声を上げて祝福してくれた。
テーブルの上には、色とりどりの総菜やサラダ、煮物に揚げ物と、まるでお祭りのような料理が所狭しと並んでいる。
「これ、全部ちひろが朝早くから一人で作ってきたんだぜ。俺たちなんか手伝おうとしたら『邪魔しないで』って追い出されちゃってさ」
と悠真が苦笑いしながら言う。
さらにテーブルの真ん中には、真っ白なクリームにフルーツがぎっしりと飾られた特大のデコレーションケーキが置かれていた。
「これは朔也と美穂が、街で一番有名なケーキ屋に予約して買ってきたんだ。三日前から予約しないと買えないって聞いて、二人で朝早くから並んでたらしいぜ」
と大悟が説明してくれる。
「わあ……すごいな。これ、本当に全部俺のために?」
紫苑が言葉もなくそれらを眺めていると、
「当たり前だろ! お前がいない一ヶ月なんて、まるで抜け殻みたいな毎日だったんだからな。特に悠真なんか、毎日『紫苑がいないとバスケの練習も締まらない』ってボヤいてばかりだったんだぜ」
と大悟がからかうように言う。
「ちょっと大悟! 余計なこと言うなよ!」
慌てて否定する悠真に対し、
「あら、本当のことじゃない。私も何度も聞かされたよ」
と美穂が追い打ちをかけ、部屋の中には一斉に笑い声が沸き起こる。その笑い声があまりにも明るくて、紫苑は目頭が熱くなるのを抑えることができなかった。
そんなにぎやかな喧騒の中で、ちひろだけはまだじっと紫苑のことを見つめたままだった。彼女はエプロンをつけたまま、周りのはしゃぐ声も気にかけず、ゆっくりと紫苑のもとへ歩み寄ってくる。
そしてまるで壊れやすいガラス細工に触れるかのように、そっと紫苑の腕に手を添え、肩や背中、腕のあちこちを確かめるように見つめ、触れていく。
「紫苑くん……本当に、もうどこも悪くないの? 本当に、本当に痛いところや苦しいところはないの?」
ちひろの声は震えており、瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。その目の奥には、一ヶ月前のあの夜、紫苑が突然連絡もなく姿を消し、病院に運ばれたと聞いたときの、底知れぬ恐怖と不安の名残が、今なお消えずに揺らめいているのがわかった。
彼女もまた、悠真たちと同じように「階段から落ちた」という説明に一応は納得したふりをしてくれていた。だが彼女の繊細で優しい心は、何かがおかしい、何かが真実とは違うのだと、本能的に感じ取っていたのだ。紫苑が自分たちの手の届かない、遠くて暗い場所へ一人で行ってしまうのではないか——そんな漠然とした、だが絶望的な不安が、ずっと彼女を苦しめていたに違いない。
「ちひろ……」
紫苑は彼女の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
自分がこの一ヶ月間体験してきたこと——人ならざる存在との戦い、自分の体が兵器へと変化していく恐怖、そして命を削るような苦痛。それらはすべて、この部屋の温かな光景とはあまりにもかけ離れた、別世界の出来事のように思える。
だが、自分があの地獄のような戦場に立ち続け、どんなに苦しくても生きて戻ってきたのは、他ならぬここにある「当たり前の幸せ」を守るためだったのだ。
紫苑は少しだけぎこちなく、だが心の底から力強く微笑んでみせた。そして、ちひろの冷たくなった手を両手で包み込むように握りしめる。
「大丈夫だよ、ちひろ。見ての通り、こんなに元気になったんだ。心配ばかりかけて本当にごめん。……でも、約束する。俺はもう、どこにも行かない。ここにいるよ、ずっと」
その言葉を聞いた瞬間、ちひろの体からふっと力が抜け、大きく息を吐き出すようにして、ようやく彼女らしい、柔らかくて明るい笑顔がこぼれた。涙が頬を伝うのを拭きもせず、彼女は何度も何度も頷く。
「……うん。信じる。紫苑くんがそう言ってくれるなら、私、何も心配しない。……おかえりなさい、紫苑くん」
「ただいま、ちひろ」
それから宴が始まった。テーブルに並べられた料理はどれも美味しく、特にちひろの作った煮物は、体の芯まで温まるような味がした。部屋の中はさらに活気に満ち、大悟は口数は少ないながらもグラスを重ね、楽しそうに周りの話に耳を傾けている。
悠真と朔也はといえば、最後に残ったケーキの一切れを巡って「俺が先に手をつけた!」「いや、俺のだ!」と、まるで子供のような取っ組み合いの喧嘩を始め、それを見た美穂が「二人ともいい加減にしなさい!」と呆れながらも笑って止めに入る。
そんな何気ない、取るに足らないような光景を眺めながら、紫苑は自分の胸の奥に、かつてないほどに固く、熱い決意が生まれてくるのをはっきりと感じていた。
三原が語っていた「科学の力」も「人類の進化」も、今の紫苑にはまだ遠い、理解の及ばない話のように思える。時にはそれが正しい道なのかもしれないと思うこともあるが、今はまだ、そんな大きな理屈よりももっと大切なものがある。
部屋に漂うスープの温かな匂い、仲間たちの絶え間ない笑い声、隣に座って自分のグラスに飲み物を注いでくれるちひろの柔らかな横顔。
これこそが、自分が命を懸けて守らなければならないもののすべてなのだ。
たとえこの先、再びフレアフェイズの熱が自分の身を焼き尽くそうとする日が来たとしても。
たとえ自分だけが暗闇の中に一人立ち、誰にも理解されず、孤独な戦いを続けなければならない運命だとしても。
——この笑顔を、絶対に絶やしてはならない。そのためなら、俺はどこまででも強くなれる。
ふと窓の外を見ると、すっかり日が落ちた空には、冬の星座がくっきりとその姿を現し、冷たくも美しい光を放ち始めていた。
紫苑は仲間たちの輪の中心へと戻り、目の前に差し出された温かいお茶の入ったコップを、両手でしっかりと包み込む。
仮面ライダーGTとして戦う道は、これからも険しく、過酷なものに違いない。だが今の自分には、戻ってこられる場所があり、待っていてくれる人たちがいる。自分を信じ、無事を祈ってくれる存在がある。
夜はこれから更に更けていくだろう。だが紫苑の心に灯ったこの「守るための炎」は、どんなに強い風が吹こうとも、決して消えることはない——彼はそう確信していた。
(続)