2014年編#1-5
戦火が街を焼き尽くしてから、どれほどの時間が経ったのだろう。空は常に煤けた灰色に覆われ、太陽の光さえも届かないこの場所は、まさに生き地獄と呼ぶにふさわしかった。
矢切は、己の身体に走る激痛を歯を食いしばって耐えていた。先の戦いで受けた傷は深く、刃物で切り裂かれたような痛みが全身を駆け巡り、呼吸をするたびに肺が軋む音が自分自身にも聞こえるほどだった。致命傷であることは、彼自身が最もよく理解していた。血は止まることなく流れ続け、視界は徐々にぼやけ、力が体から抜け落ちていくのを感じる。
それでも彼は、敵の追っ手から逃れるために一歩一歩、重い足を動かし続けた。どこへ向かっているのか、自分でも定かではなかった。ただ、生きなければならない——その一心だけが、彼を突き動かしていたのだ。
だが、限界はすぐそこまで迫っていた。炎上する建物の立ち並ぶ通りを抜けた先、崩れかかった高層ビル群が立ち並ぶ一角まで来たとき、矢切の足はついに止まった。膝から崩れ落ち、そのまま燃え盛る瓦礫の山の上に倒れ込む。熱風が肌を焼き、破片が体に突き刺さるが、今の彼にはそれさえも感じないほどに意識が薄れていた。
「くっ……」
低いうめき声が漏れる。視界は赤く染まり、耳鳴りが響き、まるで世界が自分を置いて遠くへ去っていくような感覚に襲われる。このままここで命を落とすのだろうか。そんな思いが頭をよぎるが、もう体を動かす力は残されていなかった。彼はただ、瓦礫の冷たさと熱さの両方を感じながら、意識が闇に沈んでいくのを待つしかなかった。
一方、紫苑はといえば、死の恐怖に駆られて路地裏へと逃げ込んでいた。
混乱と破壊が広がる大通りから外れ、入り組んだ住宅街や古いビルが密集する区域へと入り込む。道は細く曲がりくねり、建物同士が肩を寄せ合うように建っているため、昼間でも薄暗いこの場所は、夜ともなればまるで迷路のようだった。紫苑は細い路地を次々と曲がり、階段を駆け上がり、時には狭い隙間を体を横にしてくぐり抜け、少しでも追跡者から逃れようと必死になっていた。心臓は今にも破裂しそうなほど高鳴り、肺は焼けるように熱く、足は鉛のように重たくなっていく。だが、後ろから聞こえる音が、彼に休むことを許さなかった。
——キキキキッ、ガガガガッ……
アスファルトを削り、金属同士が擦れ合う、耳を塞ぎたくなるような鋭い音が、絶え間なく背後から迫ってくる。それは単なる追跡の音ではなく、獲物を狙う捕食者の、執拗で冷徹な足音だった。紫苑は感じていた。この怪物は、ただ目についた人間を無差別に襲っているのではない——自分だけを、明確な標的として定め、追いかけてきているのだと。なぜ自分なのか、どうしてこんな目に遭わなければならないのか、答えなどどこにもなく、ただ恐怖だけが心を占めていく。
突然、背後から強い光が閃いた。紫苑が反射的に身をかがめると、赤い光弾が風を切って飛んできて、彼の肩のすぐ脇をかすめていった。
「クソッ....!何なんだよ、これ...!」
叫び声が口から溢れ出すのと同時に、光弾はすぐ側に立っていた古い木造アパートの壁に命中した。ドカンという爆発音が響き、厚い壁が木くずとコンクリートの破片をまき散らしながら大きく崩れ落ちる。炎の粉塵が舞い上がり、熱風が紫苑の肌を焼くようになでた。彼は目を開けていられないほどの状況の中、なりふり構わず前に転がり、半壊した鉄筋コンクリート製のビルの影へと滑り込んだ。
ようやく追跡者の視界から外れたようで、しばらくすると背後からの音も少し遠のいた。紫苑は壁に背中を強く押しつけ、崩れ落ちるように腰を下ろす。両足はガクガクと震え、体中から冷や汗が溢れ出し、呼吸が荒くなる一方だった。
「はぁ、はぁ……っ! 死ぬ……死ぬのか、ここで……」
口の中は乾ききって鉄の味がする。このまま見つかれば間違いなく殺される、だがこれ以上走り続ける体力も残っていない——絶望感が心の底から湧き上がり、紫苑は思わず顔を両手で覆った。これまでの人生で、これほどまでに死を身近に感じたことはなかった。施設で育ち、孤独を感じることは多かったが、それでも平和な日常の中で生きてきた。仲間たちと過ごす何気ない時間が、どれほど貴重なものだったのか、今になって痛いほど理解する。もう二度と、ちひろの笑顔を見ることも、悠真の愚痴を聞くこともできないのだろうか——そんな考えが頭をよぎり、紫苑の目からは自然と涙が溢れ出した。
荒い息を整え、少しだけ落ち着きを取り戻そうとしたその時、紫苑は自分の足元に何かが転がっていることに気がついた。
暗がりの中でも、それが人間であることはすぐに分かった。男は地面に横たわり、体を小さく丸めるようにして倒れていた。紫苑は警戒心を抱きながらも、ゆっくりと身を乗り出してその姿を確かめる。
整った顔立ちは苦痛に歪み、額からはどくどくと鮮血が流れ落ち、頬を伝って地面に滴っている。衣服は破れ、あちこちが血まみれになっており、体が大きな損傷を受けていることは一目瞭然だった。だが、紫苑の視線は男の顔ではなく、その腰元に強く引きつけられた。
そこに巻かれていたのは、見たこともない種類のベルトだった。重厚な金属製のバックルは、まるでこの世の技術で作られたものとは思えないほど精巧で複雑な構造をしており、暗闇の中でも淡く青い光を放っている。バックルの表面には幾何学的な模様が刻まれ、その中心部からはエネルギーが脈打つように光が点滅していた。ベルト自体も特殊な素材で作られているようで、見た目だけでも重圧感と神秘的な雰囲気が漂っており、ただの装身具や道具ではないことは明らかだった。
この男こそ、矢切だったのである。
矢切は紫苑の気配を感じ、焦点の定まらない瞳を必死に動かし、ゆっくりと上を仰ぎ見た。最初はぼやけていた視界が、少しずつ鮮明になり、目の前に立つ青年の顔がはっきりと映し出された瞬間——矢切の表情が、苦痛から大きな驚愕へと変わった。
息が詰まるような感覚が全身を走り、彼は信じられないものを見るように紫苑の顔を見つめ続けた。
「……お、お前……」
血を吐き出すようなかすれた声で、矢切は呟いた。震える手をゆっくりと紫苑の方へ伸ばす。その動きはゆっくりで、力強さはまったくなかったが、その手に込められた思いはあまりにも重く、深いものだった。
その呼びかけは、ただの通行人に助けを求めるためのものではなかった。まるで昔からの知り合いであり、長い年月を経てようやく再会できた家族に向けるような、そして何よりも、自分が知っている「事実」と「運命」を告げようとする者の、切実で確信に満ちた響きが含まれていた。
「どうして…」
矢切が再び口を開き、何かを問おうとした。その言葉の意味も、彼が何を知っているのかも、紫苑にはさっぱり理解できなかった。なぜ見ず知らずのこの男が自分のことを知っているような口ぶりなのか、なぜこれほどまでに深い感情を込めて自分を見つめているのか、疑問が次々と頭に浮かぶ。だが、彼が答えを問い返す暇など、この時にはすでに残されていなかった。
背後の暗がりから、再びあの嫌な金属音が響き始めた。先ほどよりもはっきりと、大きく、そして近くなっている——怪物がこの場所まで追いついてきたのだ。地面が震えるような重い足音が一歩一歩近づき、空気が再び重く粘り気を帯び始めたのを紫苑は感じた。時間がゆっくりと流れ始め、身動きが取れなくなるあの感覚が、再び迫ってきている。
紫苑は身構え、逃げ出そうと思ったが、足がまだ震えており、体が硬直して動かない。一方の矢切は、迫りくる危機を感じ取り、最後の力を振り絞って紫苑に向かって手を伸ばし続けた。彼は自分の残された時間がほとんどないことを知っており、自分が果たせなかった使命を、この青年に託すしかないことを悟っていた。
青い光がバックルから漏れ出し、二人を柔らかく包み込む。この出会いは偶然ではなく、定められた運命だったのだ——そんなことを感じさせるような瞬間が流れた後、怪物の巨体が路地の角から姿を現し、赤い目が二人を捉えた。
運命の歯車は、こうして再び回り始めた。紫苑はまだ何も知らないまま、自分がこれから背負うことになる重責と、過酷な未来の入り口に立っていたのである。
(続)