2014年 編#9-2
賑やかな祝宴の余韻が、まだ空気の中に柔らかく漂っていた。玄関の戸を開けた瞬間、外の冷たい空気が頬を撫で、室内の暖かな温度とのギャップに自然と身が震える。紫苑はコートの襟元をきつく合わせ、隣に並んだちひろに目を向けた。
「外はずいぶん冷え込んできたね。ちひろ、大丈夫?」
「うん、平気! むしろこのくらいの方が、頭がすっきりしていいよ。今日はみんながあんなに集まってくれて、本当に夢みたいな一日だった……」
ちひろは瞳を細め、街灯が作り出すオレンジ色の光の道を見つめながら、嬉しそうに言った。彼女の吐く息は白く、冬の夜の闇に浮かんではすぐに消えていく。紫苑はそんな彼女の横顔をそっと眺めながら、グローバルフリーズのあの絶望的な夜のことを思い出していた。
街が突如戦場へと変わり、ロイミュードの咆哮があちこちで響き渡ったあの時、自分はただ生き延びることだけを考えていた。いや、それ以上に、ちひろや仲間たちの無事を祈ることしかできなかった。崩れ落ちたビルの残骸の隙間から空を見上げた時、このまま世界が終わってしまうのではないかという恐怖が全身を凍らせ、あの時感じた冷たさは、今こうして吹いている冬の風など比べ物にならないほど、心の奥まで凍てつかせるものだった。
けれど今、こうして隣にはちひろがいて、遠くの家々からは漏れる灯りが見え、どこからかは犬の鳴き声さえ聞こえてくる。それは何の変哲もない、ありふれた日常の風景だ。だが紫苑にとっては、それが何よりも尊く、かけがえのないものに思えた。
「悠真くんも大悟くんも、本当に大騒ぎだったね。紫苑くんが戻ってきてくれたって聞いた時、二人とも大学そっちのけで駆けつけてきちゃって……まるで子供みたいだった」
ちひろがくすくすと笑いながら話す様子を見て、紫苑も自然と口元が緩む。
「ははは、まったくだよ。俺もてっきり退院したら静かに療養できると思ってたのに、あの勢いには参ったよ。でも……」
紫苑は言葉を区切り、空を見上げた。澄み切った夜空には、いくつもの星がまばゆい光を放っている。
「でも、ああやって待っていてくれる人たちがいるって、本当に幸せなことだなって思った。病院のベッドの上では、もう二度とこんな風にみんなと会えないんじゃないかって、何度も考えたから」
そう、あのフレアフェイズと呼ばれる現象の中で、自身の身体は未知のエネルギーに焼かれ、生死の境をさまよった。意識を失う寸前まで聞こえていたのは、機械の無機質な電子音だけ。だがその時、心の支えになったのは、いつも自分を励ましてくれるちひろの笑顔や、仲間たちの明るい声だった。「帰らなければならない場所がある」その思いだけが、死の淵から自分を引き上げてくれたのだ。
「紫苑くん……」
ちひろが柔らかい声で名前を呼び、そっと彼の腕に手を添える。その温もりが衣服越しに伝わり、紫苑の心をさらに穏やかに満たしていく。
「もう大丈夫。これからはずっと、こうしてみんな一緒にいられるよ。だからもう、不安になったりしないでね」
「……うん、ありがとう。ちひろ」
二人はゆっくりと歩き続ける。街灯の光は時折木々の影を作り、道に模様を描く。足元のコンクリートを踏む音が、二つ重なり合ってリズムを刻む。その何気ない音でさえ、今の紫苑には音楽のように心地よく響く。
ふと、ちひろの髪が風になびき、街灯の光を受けて黄金色に輝いた。その横顔の美しさに、紫苑は思わず見とれてしまう。戦いの日々では決して見ることのできなかった、平和な時間が紡ぎ出す光景。
このまま時間が止まってしまえばいいのに——そんな考えが、不意に紫苑の頭をよぎった。
もし自分が仮面ライダーでなければ。もしロイミュードと戦う宿命などなければ。ただの大学生として、こうして大好きな人と並んで歩き、笑い、他愛のない話をするだけの人生を送れたら、どんなに幸せだろう。それは甘く、魅惑的な夢だった。
だが、紫苑はすぐにその幻想を打ち砕いた。
——そんなことは、決して叶わない。
自分が目を背け、戦うことをやめた瞬間、この穏やかな時間は音を立てて崩れ去るだろう。ちひろの笑顔も、街の灯りも、何もかもがロイミュードのもたらす恐怖と破壊によって塗りつぶされてしまう。彼女の横顔を照らしているこの光を守るためには、自分は闇の中を走り続けなければならない。光がある限り、その陰には必ず闇が存在するのだから。
「紫苑くん? どうしたの? 急に黙り込んで……」
いつの間にか立ち止まっていた自分に気づき、ハッと顔を上げると、ちひろが心配そうに自分を見つめていた。紫苑は慌てて表情を緩め、いつものような柔らかな笑顔を作ってみせる。
「ごめん、ごめん。別に何でもないんだ。ただ……こうして普通に道を歩いて、普通に話をして……そんな当たり前のことが、俺にはとても特別なことのように思えて、少しぼうっとしてしまったんだ」
ちひろは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにまた花が咲くような笑顔を浮かべた。
「本当に紫苑くんはロマンチストなんだから。でも、そうだね。この『普通』が一番大事なものなのかもしれない。だから、これからもずっとこうしていられるように、二人で頑張っていこうね」
「……ああ、そうだな。必ず」
やがて二人は道の分岐点に差し掛かった。ここでちひろとは別れ、それぞれの家へと向かうことになる。
冬の大三角が空高く輝き、二人の上から冷たくも清らかな光を注いでいる。静かな時間が流れ、別れの瞬間が少しだけ名残惜しく感じられた。
「それじゃ、ここでお別れだね」
ちひろが少しだけ声を落として言う。
「うん。今日は本当にありがとう。楽しかった」
「私こそありがとう。また明日、大学でね。おやすみなさい、紫苑くん。くれぐれも風邪を引かないように」
「おやすみ、ちひろ。気をつけて帰れよ」
ちひろは大きく手を振り、「また明日!」と元気よく言って、自分の帰路へと足を向けた。その背中は小さくなりながらも、街灯の光の中を力強く進んでいく。
紫苑はその場を動かず、彼女の姿が完全に闇に溶け込み、遠くで玄関の戸が閉まる音が微かに聞こえるまで、じっと見送り続けた。
周囲からちひろの気配が消え去った瞬間、紫苑はゆっくりと大きく息を吐き出した。
その時、まるで仮面を脱ぐかのように、先ほどまでの柔らかな表情は消え、代わりに戦士としての鋭く引き締まった顔つきへと変わる。瞳の奥には、静かだが燃えるような闘志が宿っていた。
彼は再び歩き出す。ちひろと別れたこの道は、自宅へと続く道であると同時に、孤独な戦いへと戻っていく道でもあった。
コートのポケットに手を入れると、硬くて冷たい、それでいて重みのある存在に指が触れる。——シフトカーだ。これがあれば自身は仮面ライダーに変身し、ロイミュードと戦うことができる。だがその力は諸刃の剣でもある。
三原から聞かされたシステムの根本的な問題、「システム自壊」の可能性。そしてレイジが残していった不穏な言葉たち。それらは決して消え去ったわけではなく、むしろ今日一日の幸せな時間を過ごしたからこそ、この平穏が失われることへの恐怖が前よりも何倍も大きくなって、紫苑の心を締めつけていた。
「……俺は、やらなければならない」
紫苑は闇に向かって低く呟く。
「大悟。お前が命をかけて繋いでくれたこの『辻褄』を、絶対に無駄にしたりしない。嘘のまま、終わらせたりなんかしない」
守るべきものが増えるということは、それだけ失う痛みも増えるということだ。戦士としての心は守るもののために強くなれる一方で、その分だけ脆くもなってしまう。それでも紫苑は立ち止まるわけにはいかなかった。
次にロイミュードが現れる時、それがどんなに強大で凶悪な敵であろうと、自分は必ずその前に立ちはだかり、この街と大切な人たちを庇う盾になるだろう。たとえ自身の身体が再び炎に焼かれ、痛みに喚声を上げることになろうとも。
街灯の光が背中を照らし、長い影を道に伸ばす。紫苑は一人、より深い闇の方角へと歩を進めていく。
夜の街は静かで、今はまだ何の危険も感じられない。だが彼は知っていた。この穏やかさは嵐の前の静けさに過ぎず、運命の歯車はすでに次の局面へと向けて回り始めていることを。
風が再び吹き抜け、紫苑の髪をなびかせる。彼の背中は夜の闇に溶け込んでいくようでありながら、その歩みは微塵も揺らぐことなく、力強く、未来へと向かっていた。
たとえどんな困難が待ち受けていようとも、彼はこの夜明け前の暗闇を、必ず越えてみせる。それが仮面ライダーとして生きることを選んだ、紫苑の決意だった。
(続)