2014年編 #9-6
潮風が、まるで重たい布団のように紫苑の全身にまとわりつく。夜の闇に浮かぶ埠頭には、戦いの名残である焦げたコンクリートの匂いと、オゾンの刺激臭が充満していた。彼は大きく、荒々しく呼吸を繰り返すたびに、肺の奥が鈍く軋むような痛みを訴える。
「……三原さん、こっちは病み上がりなんですよ。少しは加減してください。あんなG、気絶するかと思いましたよ……」
紫苑は呻くようにそう呟きながら、まだ重力感覚が狂ったままの体を何とか支えて立っていた。全身の筋肉は今にも断裂しそうなほどに張り詰め、ハンドルを握り続けた指先は、血管が浮き出るほどに細かく震えが止まらない。超音速の世界で受けた重力加速度は、彼の内臓を文字通り内側から圧し潰し、今もなお体内のあらゆる器官が位置を変えたかのような不快感と痛みが残っていた。
通信機のスピーカーから、三原の冷静な声が届く。
『悪かったな。だが、お前がその場にいなければ、今頃市街地の三割が消失していた。あの規模の爆発が都市部で起きていたら、被害は数万人規模になっていただろう』
三原の声は相変わらず事務的で、どこか冷徹な響きを持っていた。だが、紫苑はこれまでの付き合いでわかっていた。その声のわずかなトーンの変化、言葉の端々に、彼が紫苑の無事を心から喜び、安堵している様子が滲み出ているのを。
『あとの始末はこちらでやる。現場の検証、残骸の回収……全て手配済みだ。お前は一刻も早く戦域を離脱し、通常の生活に戻れ。これは任務の一環だ』
「……了解です」
紫苑が応答すると、通信は無情にも途切れた。
彼の足元では、先ほどまで大空を駆け抜けた鋼鉄の翼――『アーセナルラプター』が、重厚な機械音を響かせながら次々とその姿を変えていく。伸長した主翼は折り畳まれ、機首は車両型のフォルムへと収納され、青く輝いていた装甲板は元の無骨な軍用車両へと戻っていく。変形という名の魔法が解け、巨大な戦闘機は再び『アーセナルライナー』へとその姿を戻したのだ。
やがて自律制御システムへと移行した巨大車両は、エンジンを低く唸らせ、路面に残ったタイヤの痕を掻き消すように砂塵を巻き上げながら、闇の彼方へと静かに、そして力強く去っていった。残されたのは、冷たいコンクリートの地面と、まだ熱を帯びた空気だけ。
紫苑は一人、夜風の中に立ち尽くし、深く長い溜息を吐き出した。
「さてと……俺も戻らなきゃな」
彼は傍らに停めてあった愛車――ライドストライダーにゆっくりと跨る。痛みに顔をしかめながら重い腰を上げ、エンジンに火を入れる。低い振動が体に伝わると、ようやく現実へと引き戻されるような感覚があった。
ここからが、彼にとってもう一つの戦いの始まりだ。
紫苑は、埠頭に立ち込める焦げ臭い硝煙の匂いを背中に受けながら、バイクを走らせる。目指す先は、明かりの溢れる市街地。だが、彼が向かうのは人通りの多い表通りではなく、建物と建物の間にひっそりと佇む、誰も通らない裏路地だ。
これが、仮面ライダーとして生きる者の絶対のルールであり、彼自身が定めた鉄則だった。
正義の味方として戦う自分。そして、何の変哲もないただの大学生として生きる自分。この二つの顔を使い分け、決して交わらせてはならない。もしその境界線が崩れた時、自分が守るべきだと信じている日常そのものが、脆く崩れ去ってしまうからだ。特に、ちひろの前では絶対に……。
彼女の笑顔、彼女の声、彼女と過ごす何気ない時間。それら全てが、紫苑にとって戦う理由であり、心の拠り所だった。どんなに激しい戦いの後でも、ちひろの元に帰れば全てが癒され、また明日への力が湧いてくる。そんな、かけがえのない時間を汚すわけにはいかなかった。
ようやく辿り着いたのは、古びたレンガ造りの壁に挟まれた、細長い路地裏。街灯の明かりさえも届かないこの暗がりは、彼にとって姿を隠すための隠れ家であり、現実と非現実を切り替えるための境界点だった。
紫苑はバイクを止め、壁に背中をもたせかけるようにして立つ。心臓はまだ高鳴ったまま、耳の奥ではジェットエンジンのような金属音が鳴り響いている。彼は重い溜息を一つつき、左腕に装着されたシフトブレスへと手を伸ばした。
「変身解除……」
低く、静かな声が闇に吸い込まれる。
次の瞬間、紫苑の全身を硬く覆っていた青い装甲が、無数の光の粒子となって宙に舞い、霧散していく。引き締まったボディラインを描いていたタイトなアンダースーツも消え去り、代わりにいつもの着慣れたジャケットとシャツが姿を現す。
変身が解け、緊張の糸が完全に切れた瞬間、紫苑は耐え切れずに壁に手をつき、前のめりになって激しく咳き込んだ。口の中には鉄のような味が広がり、押し殺していた痛みと倦怠感が一気に体中を駆け巡る。
(……やっと、終わった。早く帰って、ちひろとの『明日』に備えないと……)
乱れた前髪をかき上げ、紫苑はゆっくりと体を起こす。視界がくらくらと揺れる中、彼は一歩、また一歩と前に踏み出そうとした。ここを出れば、いつもの日常が待っている。ちひろの笑顔が待っている――そう自分に言い聞かせて。
その、時だった。
「……紫苑、くん……?」
冷たい夜の空気を、まるで刃物で切り裂くような、細く、そしてひび割れた声が闇の中から響いた。
紫苑の全身から、一気に血の気が引いていく。心臓は先ほどの戦闘時よりも激しく、まるで張り裂けるかのように鼓動を打ち鳴らし、耳鳴りが一層激しくなる。指先からは力が抜け、氷のように冷たくなっていくのを感じた。
この声を、彼が聞き間違えるはずがない。
信じたくない、聞かなかったことにしたい。そんな思いが頭の中を駆け巡りながらも、紫苑は錆びついた歯車を回すように、ゆっくりと、そして重たく首を巡らせ、暗がりの向こうへと視線を向けた。
そこに立っていたのは――他ならぬ、ちひろだった。
さっき、分岐路で「おやすみなさい」と笑顔で手を振り、別れたはずの、ちひろ。彼女は今、この薄汚れた路地の入り口に、凍りついたように立ち尽くしていた。
彼女の白い指は、小さな布製のポーチをきつく握り締めている。もしかしたら、さっきの場所に忘れ物でもしたことに気づき、取りに戻る途中だったのかもしれない。あるいは、言葉にできない胸のざわめき、不吉な予感に突き動かされ、無意識のうちに彼の後を追いかけてきてしまったのかもしれない。
だが、そんな推測はもはや意味をなさなかった。
ちひろの瞳は、今まで紫苑が見たこともないほど大きく見開かれ、その奥には紛れもない混乱と、深い深い絶望の色が浮かんでいた。
彼女の瞳に映っているのは、テレビのニュース速報で流れていた青い戦士が、光となって解け、一人の人間の男へと戻る瞬間だったに違いない。
足元には、戦いの痕跡で傷ついたライドストライダーが転がり、彼の腕には異形のデザインをしたブレスが巻きついている。そして何より、彼女の知っているいつもの穏やかな紫苑ではなく、荒い息を繰り返し、苦痛に顔を歪める傷ついた男の姿が、そこにはあった。
何も言わなくても、全てが語っていた。
「ち、ちひろ……これは、その……」
紫苑の口から漏れた声は、情けないほどにかすれ、震えていた。
何かを言わなければならない。いつものように軽口を叩き、「これは大学の実験で」とか、「手品の練習をしていたんだ」とか、何でもいいから笑い飛ばして、この状況を誤魔化さなければならない。
だが、眼前に広がる生々しい火傷の痕の臭い、戦いによって破れた服、そして彼自身が放つ疲弊しきった雰囲気を前に、どんな言葉も空虚な音にしかならず、喉の奥に刺さって出てこなかった。
ちひろは微動だにしない。
その唇が、まるで寒さに凍えるように、小さく、細かく震えている。彼女は何かを言おうと口を開きかけたが、声にならない悲鳴を飲み込むように、再び口を閉ざし、短く、鋭い息を吸い込んだ。
「……っ!!」
それが、彼女が発した唯一の音だった。
ちひろの瞳には、裏切られたという怒りや悲しみよりも、自分の知らなかった紫苑の姿、そして彼が立っている世界と現実のギャップに対する、言いようのない恐怖が満ちていた。彼が守ろうとしていた日常とは、こんなにも脆く、危ういものだったのか。
彼女は絶望的なまでに混乱した表情を浮かべたまま、その場から弾かれるように体を反転させる。
「待って、ちひろ! 聞いてくれ! 誤解だ!」
紫苑は必死に手を伸ばし、彼女を引き留めようと一歩踏み出す。だが、先ほど受けたダメージは深く、左足に激痛が走り、彼はその場にくずれるように膝をついてしまった。
ちひろは一度も、振り返らなかった。
彼女は暗い路地の出口へと向かって、一目散に走り去っていく。ヒールの音がコンクリートを叩くたびに、カツン、カツンと乾いた音が響き、それは次第に遠く、小さくなっていく。
その音が消えていくのと比例するように、紫苑が命がけで守り続けてきたはずの「普通の日常」の欠片が、音を立てて粉々に砕け散り、風に吹かれて消えていくような感覚に襲われた。
「ああ……あああ……」
紫苑は路地の真ん中に一人、崩れるように座り込み、空を仰いだ。
守るために手に入れた力。人々を、街を、そしてちひろを災厄から守るために戦ってきた。だがその力を行使した代償として、彼は最も守りたかった相手の心に、消えることのない深い傷を刻み込み、恐怖という名の楔を打ち込んでしまったのだ。
静まり返った裏路地には、紫苑の荒い呼吸だけが響いていた。
彼は自分の震える両手を見つめる。この手で敵を倒し、数多くの命を救ってきた。だが今、この手は最も大切なものを掴み損ね、空っぽのままだ。
仮面ライダーとして生きると決めた時から、いつかはこんな日が来ることを覚悟していたつもりだった。だが、いざ現実となってみると、これほどまでに体の芯から凍てつくような絶望が待っているとは思わなかった。
闇の中で紫苑は、ただじっと絶望を噛み締めていた。
仮面の下に隠していたはずの宿命は、ついに彼の唯一の居場所さえも奪い去り、彼を孤独な戦士として、再び闇の中へと突き落としたのだった。
空に浮かぶ月だけが、それでも変わらず、凍てついた光で彼のことを照らし続けていた。
(続)