2014年編#1-6
矢切は、血の滴る指先を震わせながら、紫苑の顔をまっすぐに凝視し続けた。その瞳の奥には、様々な感情が波のように押し寄せては消えていく。最初に浮かんだのは、深く重い絶望と、どうしようもない諦念——これほどまでに残酷で、あまりにも理不尽な運命を、ただ一人背負わなければならなかった自分自身への、そしてこれから同じ道を歩むことになるこの青年への、呪いにも似た思いだった。彼は自分がこの力を得てからというもの、どれほど多くのものを失い、どれほど深い絶望の淵に立たされてきたかを知っていた。だからこそ、この青年に同じ苦しみを与えなければならないことが、何よりも辛く、心を引き裂かれるような思いだった。
だが、その暗い感情は一瞬のことだった。次の瞬間には、彼の瞳の奥に、燃え盛る烈火のような強く鋭い決意が宿った。自分が果たせなかった使命、守り抜けなかったもの、そしてこの力が持つ真の意味——全てを、この青年に託す他ないのだ。それが運命であり、唯一の道なのだと、矢切は心から確信していた。
「……っ!」
低く呻くような声を漏らすと、矢切は残された全ての力を右手に込め、自分の左手首にしっかりと固定されていた重厚なブレス型のデバイスに手をかけた。金属同士が擦れ合う軋み音が響き、彼は傷口からさらに血が溢れ出すのも構わず、力任せにそれを引き剥がす。矢切の体は大きく震え、口から血の泡が溢れ出したが、彼はそれを意にも介さなかった。
次の瞬間、彼はその冷たく重たいデバイスを、まだ状況が飲み込めず呆然と立っていた紫苑の左手首に、叩きつけるようにして装着した。
「ちょ……何を! 離せよ!」
突然の出来事に驚き、紫苑は慌てて手を引っ込めようとした。だが、デバイスは装着された瞬間に自動的にサイズを調整し、彼の手首に吸い付くようにしっかりと固定され、まったく動かすことができなくなっていた。紫苑は必死にそれを取り外そうと引っ張ったり捻ったりしたが、金属は硬く冷たく、びくともしない。
「くっ……!」
紫苑が抵抗する中、矢切は最後の力を振り絞って体を起こし、ゆっくりとしかし力強く紫苑の両手首を掴んだ。彼の手は冷たく、血で濡れており、力も衰えていたが、その握力は不思議なほど強く、紫苑は振りほどくことができなかった。矢切は紫苑の手のひらを掴むと、自分の腰に巻かれた重厚なバックルの中心部分へと、まっすぐに押し当てた。
瞬間、鋭いスキャン音が鳴り響き、バックルの表面に刻まれた幾何学模様が次々と光り輝き始める。
『BIOMETRIC REGISTRATION COMPLETED』
機械的で冷徹な電子音が暗い路地裏に響き渡った。生体情報の登録が完了し、このデバイスが認識する唯一の存在が、自分からこの青年へと移されたことを告げていた。次の瞬間、カチャリという軽快な音と共にバックルのロックが解除され、矢切はそれをゆっくりと取り外すと、紫苑の腰元へと押し当てた。
すると、バックルの両側から柔軟でありながら非常に強固な素材で作られた帯が自動的に伸び、紫苑の腰を一周した後、カチャリと音を立てて強固に固定された。重厚な金属の感触が腰元に伝わり、青い光がバックルの中心から脈打つように点滅し、まるで生き物のような生命力を感じさせた。
「これで、こいつはもうお前の手足だ。……GTになれ」
矢切は荒い息を吐きながら、かすれた声でそう告げた。その言葉には、疑いようのない確信と、長年の想いが込められていた。
「GT? 何を言って……! 一体これは何なんだ、何が起きているんだ!」
紫苑は混乱し、次から次へと湧き上がる疑問を叫んだ。自分にはまったく関係のない、理解不能な状況の中で、見ず知らずの男に勝手なことをされ、得体の知れないものを身に着けさせられている——そのことへの戸惑いと不快感が、紫苑の心の中で大きく膨れ上がっていく。
「あいつらと……ロイミュードと戦え……」
矢切は紫苑の問いに答えることなく、ただ自分の言葉を続けた。彼の瞳はもうほとんど開けていられないほど重くなっており、声もさらに細く、弱々しくなっていった。
「ロイ……ミュード……?」
初めて聞くその名前を口にしながら、紫苑は背筋に寒気が走るのを感じた。先ほどから自分たちを追いかけ、街を破壊し、人々を襲っているあの不気味な怪物たちのことなのだと、直感的に理解する。
状況がまったく理解できない。自分はただ普通の大学生で、レポートを書いていただけだったのだ。なぜ突然こんなことになり、なぜ自分が戦わなければならないのか、何一つ分からない。それ以上に、目の前の男のあまりに勝手すぎる振る舞いに、紫苑の胸の奥では熱い怒りが込み上げてきた。
幼い頃、理由も告げられず、ただ「ここにいなさい」と言われて施設に置き去りにされた自分。自分の意思も感情も無視して、大人たちの都合だけで人生を決められ、歪められてきた——そんな過去の記憶が鮮明に蘇り、紫苑の心の奥底に眠っていた嫌悪感が、一気に噴き出してくる。
「勝手なこと言うな! なんであんたの命令で俺が戦わなきゃならないんだ! 俺には俺の人生がある、俺の未来があるんだ! 一体何の権利があって、俺にこんなことを押し付けるんだ!」
紫苑は声を荒げ、矢切に向かって叫んだ。言葉は次から次へと溢れ出し、その一つ一つには、長年抱え続けてきた孤独と怒りが込められていた。身勝手に自分を捨てた両親、そして今、自分に得体の知れない使命を押し付けようとするこの男——彼らは皆同じなのだ、自分のことなど何も考えず、自分たちの都合だけを押し付けてくるのだ、と。
だが、紫苑の激しい言葉を聞いても、矢切の表情は変わらなかった。彼はただ、悲しみと慈しみに満ちた瞳で紫苑を見つめ続け、震える手を再び紫苑の方へ伸ばした。
「頼む……お前しかいないんだ……。この力を使いこなし、あいつらを止められるのは、世界を救えるのは、お前だけなんだ……。戦ってくれ……自分の……運命と……そして、この世界のために……!」
絞り出すような、最後の力を使い果たすような声でそう告げる矢切。その必死な眼差しの中に、紫苑はふと、記憶の彼方にある、温かくてどこか懐かしい「誰か」の面影を見た。幼い頃、ほんの一瞬だけ見たような、抱きしめられたような——そんな曖昧だけれども、決して忘れることのできない、大切な人の姿。なぜそんなことを感じるのか、紫苑には理解できなかったが、その瞬間、彼の心に巻き起こっていた怒りの嵐は、少しずつ静まっていった。
それと同時に、背後の暗がりからは、さらに大きな破壊音が響き始めた。建物の壁が崩れ落ち、コンクリートが砕け散る音、そしてあの嫌な金属音が、ますます近く、はっきりと聞こえてくる。ロイミュードがこの路地裏まで確実に迫ってきているのだ。
紫苑は思わず背後を振り返り、迫りくる危機を感じた瞬間、様々な思いが頭の中を駆け巡った。
今この瞬間も、自分の大切な仲間たちが危険に晒されているかもしれない。いつもお節介で明るく笑顔を絶やさないちひろ、騒がしくて単純だけれど誰よりも仲間思いな悠真、冷静沈着でいつも皆を見守ってくれる朔也、優しくて繊細で、誰よりも人の心に寄り添ってくれる美穂——彼らは今、どうしているのだろうか。もしかすると、自分と同じように怪物に追われ、恐怖に怯えているかもしれない。あるいは、すでに……そんな考えが頭をよぎり、紫苑の胸は鋭く痛んだ。
自分が逃げ出せば、自分一人の命は守れるかもしれない。だが、そうすればこの街は破壊され続け、多くの人が死に、自分の大切な人たちも失われてしまうだろう。自分はこのまま、何もせずにただ逃げ続けるのか? 自分の手で誰かを守ることも、何かを変えることもできないまま、生きていくのか?
紫苑の瞳から、戸惑いや怒り、迷いといった感情が次々と消えていき、やがて、鋭く強い決意だけがその場に残った。彼はゆっくりと矢切の方に向き直り、真っ直ぐにその瞳を見つめ返した。
「……分かった。俺がやる。だが、これはあんたのためでも、運命のためでもない。俺が守りたいものを守るためだ……それだけだ」
そう告げると、矢切は満足げに、かすかに笑顔を浮かべ、自分の胸元から小さな車型のデバイスを取り出した。金属製のボディは精巧に作られており、細部まで実際の車を模したデザインになっていて、表面には青い光が走っていた。
「……シフトカーだ。ブレスに装填するんだ……」
紫苑はそれを慎重に受け取ると、手首に装着されたブレスの装填口に、力強くそれを差し込んだ。カチャリという音が響き、デバイスが固定される。
『MACHINE SET』
低く重厚な機械音声が響き渡り、ブレスとバックルが共鳴するように、青い光がさらに明るく輝き始めた。エネルギーが体の中を流れ込み、紫苑の全身に力が漲ってくるのを感じる。これまでに感じたことのないような、強大で制御不能な力——それでも、彼はまったく恐れを感じなかった。
紫苑は迷いなく、腰のベルトの中央から伸びるグリップを、力強く捻った。
「変身!!」
彼の叫び声が路地裏に響き渡った瞬間、紫苑の体から奔流のような青い光が迸り、空高く、夜空を突き抜けるように伸びていった。光は彼の周囲を渦巻き、無数の光の粒子となって降り注ぎ、彼の体を一つ一つ包み込んでいく。
粒子は実体化し、流線型の装甲を形作っていく。紺碧を基調としたボディは滑らかでありながら、どこか重厚で力強さを感じさせ、関節部分には銀色のラインが走り、暗闇の中で冷たく光っていた。頭部のバイザーの奥からは、鋭く、そしてどこか悲しみを秘めた緑の単眼が不気味に、また力強く輝いていた。炎の赤い光が装甲の表面に反射し、まるで地獄の業火の中から現れた守護者のような、荘厳で圧倒的な存在感を放っている。
こうして、新たな戦士が誕生した。
その名は——仮面ライダーGT・タイプツーリスモ。
全身に漲る力は、今まで感じたことのないほど膨大で、体の隅々まで行き渡り、自分自身が一つの巨大なエネルギー体になったかのような感覚だった。視界は通常の何倍も鮮明になり、暗がりに隠れた細部まではっきりと捉えられ、耳には遠くの物音や空気の流れまでもが克明に聞こえてくる。自分の体が、これまでとはまったく異なる次元の存在へと進化したことを、紫苑ははっきりと感じ取っていた。
だが、力に酔いしれることなく、彼の心の中には一つの思いが浮かんでいた。
倒れ伏す矢切に背を向けたまま、紫苑は低く、一言だけ呟いた。
「……父さん」
それは、20年間心の奥に秘め続けてきた、言葉にできなかった想いのすべてだった。幼い頃の記憶は曖昧で、顔も姿もよく思い出せなかったけれど、さっきから矢切から感じていた懐かしさ、温かさ、そして切なさ——それらすべてが、この一言に凝縮されていた。長年抱えてきた疑問や寂しさ、時には抱いたこともあった恨みや怒りも、この瞬間、不思議なほど穏やかなものへと変わっていった。
紫苑は振り返ることなく、迫りくる脅威に向けてゆっくりと足を踏み出した。地面が軋み、彼の一歩一歩に合わせて空気が震え、戦士としての覚悟と威圧感が周囲に溢れ出す。
一方、背後でその姿を見送る矢切は、もう視界がほとんど暗転し、体の感覚も薄れていく中で、その背中をただじっと見つめていた。自分が託すべき相手は間違いなくこの青年だった。彼ならば、この過酷な運命に立ち向かい、自分が果たせなかった使命を成し遂げてくれる——そんな確信が、彼の心に温かく広がっていく。
「行け……紫苑……。お前が……お前の……道を……」
かすれた声でそう呟くと、矢切の口元には、これ以上ないほど穏やかで満足げな笑みが浮かんだ。長い間、重荷を背負い続け、孤独な戦いを繰り返してきた彼の役割は、こうして終わりを告げたのだ。そのままゆっくりと瞳を閉じ、彼は静かに、永遠の眠りについた。
時は2014年。
一人の青年が送っていた平穏な日常は、この瞬間をもって完全に終わりを告げた。これから始まるのは、運命という名の過酷な戦いの日々。だが、彼はもう迷わない。守るべきものがあり、進むべき道がある限り、どんな困難が待ち受けていようとも、立ち止まることなく前に進み続けるだろう。
路地の角からは、ついに赤い双眸を光らせたロイミュードの巨体が姿を現した。金属の体が炎に照らされて妖しく輝き、空気を引き裂くような咆哮が響き渡る。
だが、紫苑——GTは一歩も退くことなく、その場に立ちはだかった。緑の単眼が敵の姿を捉え、冷徹なまでに鋭く光る。
「ここから先は、通さない」
低く重い声が装甲の隙間から漏れ出す。次の瞬間、青い残像を引きながら、新たな戦士は地を蹴って、絶望と破壊の象徴に向かって疾走していった。
こうして、仮面ライダーGTの戦いが、今、始まったのである。
#1完