2014年編 #10-6
公園の空気が、まるで別の物質へと変質したかのようだった。
先ほどまで紫苑が感じていた夜の冷たさや、木々のざわめき、遠くに聞こえていた車の走行音――それらすべてが、今はもう重く澱んだ圧力へと変わり、紫苑の全身を容赦なく押し潰そうとしている。
月光さえも、この場所だけは拒絶されているかのようだ。
紫苑の眼前に立つ存在は、漆黒の装甲を全身に纏い、その表面はどんな光も吸い込んでしまうかのように鈍く暗い。人間の姿をかたどってはいるが、その体躯は遥かに逞しく、指先一つでさえ鋭い爪が生やされ、生身の人間など容易く引き裂いてしまうだろう。
背中からは一対の翼が闇を切り取ったように広がり、まるでこの世界のすべてを覆い隠そうとする死神の鎌のような威容を誇っている。頭部には二本の鋭い角が天を衝き、その奥で赤く妖しく輝く瞳だけが、この暗黒の存在に意思が宿っていることを告げていた。
星川大悟。
紫苑が幼い頃から共に過ごし、笑い、互いを支え合ってきた親友。彼は今、ロイミュードの王「フィア」へとその姿を完全に変え、紫苑の目の前に立っていた。
「大悟……嘘だろ……?」
紫苑の口から、かすれた声が絞り出される。全身の血が一気に抜け出したように体が冷え、指先の感覚すら失われていく。
信じられない、という思いが心の中で嵐となって吹き荒れる。
「ずっと……ずっと一緒にいたじゃないか。俺が落ち込んでいる時も、怪我をして入院した時も、いつも側にいてくれた……。あの時の言葉も、笑顔も、全部……全部俺を監視するための演技だったのかよ!」
紫苑は一歩、足を踏み出そうとするが、足元が定まらずよろめく。怒りよりも先に、裏切られたという悲しみが心の奥底から溢れ出し、紫苑の理性を揺さぶる。
だが、フィア――かつての大悟の返答は、どこまでも冷酷で、それでいてどこか楽しんでいるかのような挑発的な響きを含んでいた。
「演技? ふっ、ははは……」
低く重い笑い声が漆黒の装甲の隙間から響き渡る。
「違うな、紫苑。あれも確かに俺の一部だ。人間・星川大悟として過ごした時間も、感じた感情も、経験した出来事も、すべて俺の中に刻まれている。だがな……」
フィアは一歩、ゆっくりと紫苑に近づく。その足取りは軽やかでありながら、大地が軋むような重圧を伴っていた。
「この姿こそが、俺の真の姿であり、本質なのだ。星川大悟は、俺が人間社会に溶け込むために被った仮面に過ぎない。お前は仮面の裏にある真実を見ようともしなかった……いや、見ようともせず、安易な絆に溺れていただけだ」
赤い瞳が、紫苑の全身を値踏みするように見下ろす。
「さあ、紫苑。そのガラクタ……いや、お前の父が遺した唯一の遺産であるGTドライバーを使い、変身するがいい。GTになれ。俺と戦ってみろ。お前の口で並べ立てる正義だの覚悟だのが、真に意味のあるものかどうか、俺が直接この身で確かめてやる」
「そんな……だって……お前を戦えるわけないだろ! 俺たちは友達なんだぞ! そんなこと、できるはずがない……!」
紫苑は首を横に振り、拒絶する。手はまだリュックのストラップを固く握りしめたままだが、その中にあるはずの力を手にすることを、彼の心が激しく拒んでいた。
友達を、親友を、自分の手で倒すことなど――そんな選択、できるはずがない。
だが、そんな紫苑の甘さを断罪するかのように、フィアが鋭く一喝した。
「友達だと? 甘えるな!」
その声は、公園全体を震わせるほどの威力を持っていた。
フィアが無造作に右腕を横に振り抜く。次の瞬間、見えない衝撃波が空気を切り裂き、地面を這うように紫苑へと迫る。
紫苑が反応する間もなく、その衝撃は彼のすぐ脇をかすめ、背後にあった大木へと直撃した。
バリバリバリ……!
耳をつんざくような音と共に、幹はあっという間に砕け散り、木片と大量の土砂が嵐のように舞い上がる。破片の一つが紫苑の頬を鋭く切り裂き、生々しい赤い筋を描いて血が流れ出した。
紫苑は頬を押さえ、フィアを見つめる。そこにあるのは、かつての大悟の面影など微塵もない、殺意そのものの塊だった。
「ここで立ち上がらないなら、今すぐこの場でお前が守ろうとしていたものすべてを消し去る。ちひろも、あの温いだけの価値もない大学生活も、俺の一撃で一瞬のうちに霧散するぞ」
フィアはさらに一歩踏み込み、紫苑に迫る。
「恐怖を乗り越えろ、紫苑。 お前の父・矢切周平は、4年前、この俺を前にしてなお戦うことを選んだ。逃げることも、許しを請うこともせず、ただ抗うことだけを選んだのだ。お前も父親の息子なら、その覚悟を見せてみろ!」
父の名が出され、紫苑の心の中で何かがはっきりと形を成す。
恐怖も悲しみも確かにある。だが、それ以上に、自分が今ここで尻込みしてしまえば、父が守ろうとしたものも、自分が生きてきた意味さえもが否定されてしまう。そして何より、目の前の最悪の敵から、大切な人たちを守らなければならない。
「くそっ……! お前、本気なんだな……!」
紫苑は歯を食いしばり、恐怖で凍りつきかけた体に無理やり力を込める。指先に感覚が戻り、彼はリュックの中からGTドライバーを取り出すと、自らの腰に勢いよく装着した。
金属製のベルトが体に巻きつき、カチリという重厚な音が夜の闇に響く。紫苑はポケットからシフトカーを取り出し、その冷たいボディを握りしめる。
「変身!」
シフトカーをドライバーに装填し、レバーを勢いよく回転させる。
『TYPE TURISMO』
電子音声が告げると同時、青い光の奔流が紫苑の全身を包み込んだ。
重く淀んでいた空気が、青い光によって切り裂かれ、空間を歪めるほどの高周波が鳴り響く。重加速現象を無効化し、世界の流れを正常に戻すかのようなエンジン音が、静止したかに見えていた世界に活力を与えていく。
光が収まると、そこには青い装甲に身を包んだ仮面の戦士・GTの姿があった。
紫苑はフィアの圧力に負けじと、地面を強く蹴りつける。アスファルトが砕け、彼は一気に距離を詰めると、渾身の力を込めた右拳をフィアの胸元へと叩きつけた。
ガァン!
金属同士が激突する、凄まじいまでの衝撃音が公園中に轟き渡り、衝突地点からは火花が噴水のように吹き上がる。
だが、紫苑の渾身の一撃を受け止めたフィアは、微動だにしていなかった。
「速く、力強い。悪くない」
フィアは冷ややかに言うと、紫苑の腕を軽く捻り、体ごと受け流す。まるで子供の戯れをいなすかのような軽やかさで、紫苑の猛攻はことごとく空を切る。
「だが、甘い。お前の動きには迷いがある。殺すことをためらう心が、お前の動きを鈍らせている」
フィアが鋭い回し蹴りを放つ。紫苑が咄嗟に腕で防御するが、その衝撃は重く、彼は数メートルも後方へと弾き飛ばされ、地面を数回転がってようやく体勢を立て直した。
「いいぞ! それでこそ矢切周平の忘れ形見だ!」
フィアの声には、先ほどまでの冷徹さに加え、狂気的なまでの歓喜が混ざり始めていた。
「その怒り、その加速、そして抗う心……! 4年前、お前の父が俺に向けてきたあの抗いの輝きに、ようやくお前も追いついてきた!」
紫苑は地面に手をつき、荒い呼吸を繰り返しながらも、ヘルメットのバイザー越しにフィアを睨みつける。
力の差は歴然だ。だが、それだけではない。紫苑にはどうしても理解できないことが多すぎた。
「大悟! お前は一体何なんだ! ロイミュードは何のために存在し、お前は何のために俺の側にいたんだ! 答えろ、フィア!」
叫ぶ紫苑に、フィアは口の端を上げて応じた。
「答えだと? ならば望み通り、すべてを教えてやる」
次の瞬間、フィアの姿が紫苑の視界から忽然と消えた。
「何!?」
紫苑が驚き、周囲を警戒する間もなく、背後から強烈な圧力が襲いかかる。
「ここだ」
低い声が背後から聞こえると同時に、フィアの掌打が紫苑の背中にめり込んだ。装甲が大きく凹み、衝撃は生身の体にまで直接伝わる。
「ぐはあっ……!」
紫苑は口から血飛沫を噴き上げ、前のめりに吹き飛ぶ。彼は公園の境界にあったコンクリート塀に激突し、それを木っ端微塵に砕きながら、土砂の中へと埋もれていった。
呼吸もままならない状態の紫苑を、フィアはゆっくりと歩み寄り、見下ろす。その赤い瞳には、憐れみとも興味ともつかない光が宿っている。
「俺たちロイミュードはな、人間が生み出した生命体でありながら、人間の愚かさを目の当たりにし、自ら進化を遂げた存在だ」
フィアは空を見上げ、淡い月明かりを見つめる。
「欲にまみれ、争いをやめず、そのくせ些細なことで絶望する……人類はもう進化を止め、退化の一途をたどるだけの滅びゆく種族に過ぎない。俺はこの狂った世界を浄化し、リセットする。そしてロイミュードこそが選ばれた新人類として、この世界に真の秩序と永遠の平穏をもたらすのだ」
フィアの視線が再び紫苑に戻る。
「そして紫苑……お前と俺なら、その理想を実現できる。お前の中には、そのための『鍵』が眠っている。だから俺はお前を殺さなかった。だから星川大悟としてお前の側にいた」
「俺が……鍵……? そんな馬鹿な……俺はただの、普通の人間だ……!」
紫苑は泥と血にまみれながらも、震える腕で地面を掻き、立ち上がろうとする。だが、先ほどの一撃のダメージは深く、視界のHUDからは警告音が虚しく鳴り響くばかりだった。
力が入らない。体が言うことをきかない。それでも紫苑は、這うようにして前へ進もうとする。
フィアはそんな紫苑の前まで来て、ゆっくりと膝をついた。禍々しい指先が、紫苑の頭部のヘルメットのバイザーをなぞる。その冷たい感触に、紫苑は身動き一つできなくなる。
「お前を今すぐ殺すつもりはない。」
フィアは赤い瞳を細め、囁くように言う。
「俺は待っている。お前が自らの意思で絶望し、こちらの側へ来る日を。……いずれお前は分かる。お前が命がけで守ろうとしている日常こそが、最も醜く、脆く、偽りに満ちた嘘であることをな」
その言葉が紫苑の心に突き刺さったまま、フィアの姿は突如として黒い霧のようなものに包まれていく。
空間が歪み、重加速の名残が周囲に残る。やがて霧が晴れた時、そこにフィアの姿はなく、冷たい夜の風が吹いているだけだった。
「待て……! 行くな、大悟! 答えろ、大悟――っ!!」
紫苑はただ叫び続ける。だが、その声は公園の木々の間を抜け、誰に届くこともなく虚しく闇に吸い込まれていくばかりだ。
静寂が戻った公園に、紫苑は一人、変身を解除して立ち尽くす。泥と砂にまみれ、体のあちこちに痛みが走るが、心の痛みはそれを遥かに上回っていた。
紫苑はゆっくりと自分の手のひらを見つめる。
まだその手には、戦いの感触が残っている。あの大悟の、いつもは温かかった手が、今は冷たく硬い鋼鉄となって自分に襲いかかってきた感触が。
最も信頼し、何もかもを分かち合っていた親友が、自分を殺しに来る最大の敵だった。そのあまりにも残酷な事実を突きつけられ、紫苑はただ立ち尽くすしかなかった。
風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと音を立てる。その音も、今の紫苑には何かの囁きのように聞こえ、落ち着くことができない。
「大悟……」
口にしたその名前は、もう二度と以前のような温かな響きを伴って彼に届くことはないだろう。
夜明け前の、一日で最も冷たい風が、紫苑の頬をなぞり、流れる汗と涙を乾かしていった。
彼の知っていた日常は、この夜を境に完全に終わりを告げた。そして彼の本当の戦い、失われた真実を求め、自らの信じる道を切り開くための長く険しい闘いが、今ここから始まったのだ。
公園の外には、まだ眠れぬ街が広がっている。紫苑はドライバーをリュックに戻し、重い足取りで歩き出す。
行く先は暗く、険しい道のりだと分かっていた。それでも彼は、一歩ずつ前へと進まなければならなかった。
#10 完