2014年編#11-3
雨が降り出す前の街は、重苦しい霧に包まれ、まるで時間そのものが澱んでいるかのようだった。
先ほどまで人々の叫び声、車のクラクション、物が崩れ落ちる音などが入り混じっていた喧騒は、今は嘘のように消え失せ、代わりに辺り一帯を支配しているのは、耳鳴りのような低い唸り声――重加速の影響による、特異な空気の振動だけだ。
霧の中を漂うその力場に晒された人々は、逃れようと足を踏み出した瞬間、あるいは助けを呼ぼうと口を開いた瞬間の姿のまま、ぴたりと動きを止めている。まるで彫刻家が一瞬の感情をそのまま石に刻み込んだかのように、道行く人々は皆、生ける彫像と化し、その場に立ち尽くしていた。瞳には恐怖や混乱の色が宿ったまま、まばたき一つすることもなく、ただ虚空を見つめ続けている。
この異様で不気味な光景の中心部には、数体の下級ロイミュードの姿があった。金属質の皮膚を鈍く光らせ、関節部からは機械油のような臭いを漂わせながら、彼らはゆっくりと、しかし正確な動きで歩き回っている。その動きはまるで、動かなくなった獲物たちを品定めし、どれから解体しようかと選んでいるかのようで、見る者の背筋を凍らせた。彼らの赤く怪しく輝く目が、次々と人々の姿を捉え、無機質な思考回路の中で情報が処理されていくのが、空気の冷たさから伝わってくるようだった。
「……お前らは、一体何を企んでる?」
静寂を切り裂くように、若い男の声が響いた。
霧の彼方から現れたのは、紫苑だ。少し乱れた髪の毛をかき上げながら、彼はじりじりとロイミュードたちに近づいていく。その瞳は真っ直ぐに敵を見据えているが、わずかに眉間に寄せられたシワが、彼の心の内に渦巻く複雑な感情を物語っていた。
ロイミュードたちは一斉に首を巡らせ、まるで機械が作動するような硬い動作で紫苑の方を向く。赤い光の点が集まって視線となり、一斉に紫苑へと注がれる。
彼らの身体から発せられる殺意、破壊への欲求、そして人間をモノとして見下す冷たい視線……それらが一気に紫苑に襲いかかってくる。その感覚は、かつて自分の隣で笑い、共に未来を語り合っていた親友――大悟のことを思い出させる。いや、それだけではない。今、目の前にいる存在こそが、大悟が変わり果てた姿、あるいは大悟が属する世界の一部なのだという事実が、鋭い刃となって紫苑の胸の内を何度も切り裂いた。
「どうして……お前たちが存在することで、俺たちはこんなにも多くのものを失わなければならないんだ」
声には出さないが、紫苑の心の中で叫び声が上がる。迷い、戸惑い、悲しみ、怒り……それらが渾然一体となって彼を苛む。だが、目の前には無数の命が危険に晒されている。今ここで立ち止まるわけにはいかない。
紫苑はぎゅっと唇を噛み締め、心の中に巣食う弱さを無理矢理にでも押し込めるように、左腕に装着されたブレスに手を伸ばした。内ポケットから取り出したシフトカーを、指先でしっかりとつまむ。金属の冷たい感触が、逆に彼の意識を鮮明にしていく。
「変身!」
高らかな叫び声と共に、シフトカーがブレスに装填される。
『TYPE TURISMO』
電子音声が告げると同時に、青い光の粒子が紫苑の全身を渦巻くように包み込んだ。光は一瞬にして固まり、彼の身体に強靭な鋼鉄の装甲を形作っていく。頭部にはヘルメットが現れ、緑色の単眼が闇の中で力強く輝き出す。
次の瞬間、低く、それでいて地鳴りのように重厚なエンジン音が辺りに響き渡った。重加速によって緩慢になっていた世界の流れを、まるで無理矢理に引き戻すかのような、力強いエンジンの唸り。それは同時に、この戦いに身を投じる者の決意の証でもあった。
紫苑――仮面ライダー・タイプツーリスモとなった彼は、地面を強く蹴り、一気にロイミュードたちの懐へと飛び込んだ。
視界が一変する。
彼の時間感覚は通常の数十倍にまで加速され、周囲の景色はまるでスローモーションで流れるように見える。舞い上がる塵一つ、霧の粒子一つまでが鮮明に捉えられ、ロイミュードたちの動きはまるで止まっているかのように鈍重だ。
紫苑は迷いを振り払うように、そして胸の内にある悲しみを力に変えるかのように、次々と鋼鉄の拳を繰り出していく。
一撃、また一撃。
装甲と装甲が激しくぶつかり合い、その度に火花が弾け飛ぶ。彼の打ち込む拳には、何のためらいも、何の甘さもない。いや、そもそも「迷っている暇などない」という切迫感が、彼をここまで駆り立てているのかもしれない。大悟のことを思い出す度に胸が締め付けられるが、その痛みすらも、彼の拳をより強く、より速くするための燃料となっていた。
ロイミュードたちが反撃のために腕を上げるよりも早く、紫苑は彼らの死角へと回り込み、さらなる打撃を叩き込む。絶望的なまでの速度の差。彼らにとって紫苑の姿は、青い稲妻がその場所から場所へと瞬くようにしか見えていないに違いない。
「これで……終わりだ!」
戦いの最中、紫苑は低い声で呟くと、腰のドライバーに接続されたグリップを強く握り、一気に限界まで捻り上げた。
『FULL THROTTLE』
システムが最大出力を解放することを告げる電子音が鳴り響く。
彼の右足には、青く煌めく高密度のプラズマエネルギーが収束し、空気中の塵や霧を巻き込みながら渦を作り出す。熱風が周囲を薙ぎ払い、重い霧の一部が吹き飛ばされた。
紫苑は地面を強く踏み込み、全身の力を推進力へと変換すると、一気に大きく空中へと跳躍した。彼の身体は夜空を背景にして大きな弧を描き、まるで一本の閃光となって標的へと突き進む。
「はあああああーっ!!」
全身の力、そして心の中に秘めた思いの全てを足先に込め、紫苑は渾身の力で蹴りを放った。
青いエネルギーを纏った右足が、ロイミュード一体の硬い胸部装甲を撃ち抜く。貫通したエネルギーは背中側から噴き出し、そのまま連鎖的に周囲のロイミュードたちを巻き込んでいく。
凄まじい衝撃と共に、閃光が辺りを昼間のように明るく照らし出し、続いて大地が震えるような大きな爆発音が轟く。
紫苑は爆風を巧みに回避しながら着地すると、最後に残った一体に向けて再び駆け出し、先程よりもさらに鋭いライダーキックを叩き込んだ。
断末魔のような機械的な悲鳴と共に、最後のロイミュードもまた、赤い破片となって弾け飛ぶ。
爆炎が火の粉となって暗い空へと舞い上がり、そしてゆっくりと地面へと落ちていく。辺りに立ち込めていた重加速の霧は晴れ、先ほどまでの異質な空気は薄れ、ようやく元の静寂が街に戻ってきた。
その瞬間――まるで戦いの終わりを待っていたかのように、空模様が一変した。
今まで重苦しく垂れ込めていた黒い雲の切れ間から、大粒の雨粒が一つ、また一つとこぼれ落ちてくる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
紫苑は呼吸を整えながら、まだわずかに震える身体を支えるように立っていた。
雨は瞬く間に勢いを増し、無数の線となって空から降り注ぐ。バチバチとアスファルトを叩く音が激しく響き、先ほどの爆発の余韻を掻き消すように、辺り一面を雨の音が覆い尽くす。
地面にはロイミュードの残骸から立ち上る黒い煙があったが、それも激しい雨に打たれ、次第に勢いを失い、冷たい水に押し流されていく。紫苑の身に纏う蒼い装甲にも雨粒が勢いよく打ち付け、白い飛沫を上げながら流れ落ちていく。
『紫苑、ロイミュードの反応は完全に消えた。……これから雨がさらにひどくなる。早く現場から離れろ』
紫苑は無言で頷くと、左腕のブレスに手をかけ、ゆっくりと操作する。
電子音と共に、青い光の粒子が再び彼の周囲に現れ、今度は装甲を解き放つようにして身体から離れていく。光は雨粒に混ざり、水に溶けるようにして消え去り、そこには一人の、全身ずぶ濡れになった青年の姿が残された。
「はぁ……はぁ……」
荒い息遣いが白く曇り、すぐに雨に消える。
冷たい雨が容赦なく紫苑の肌を打ち、体温を急速に奪っていく。濡れた服が身体に張り付き、重苦しさと寒さが身に染みるが、彼にはそれすらも感じないかのようだった。
紫苑の瞳は、もはや目の前に広がる光景を捉えてはいなかった。
虚ろな色を浮かべたその瞳の奥に映っているのは、雨に煙る街の風景ではない。漆黒の翼を広げ、冷たい光を放つ瞳でこちらを見つめる、かつての親友の姿――大悟の、今やロイミュードと化した姿だけが、くっきりと焼き付いていた。
「大悟……」
声にならないほどのかすれた声で、彼は親友の名を呼ぶ。
その声は、激しく降り注ぐ雨音と風の唸りに一瞬でかき消され、誰の耳に届くこともない。
張り詰めていた緊張の糸が、音を立てて切れる音が自分の内側で響いたように感じた。戦いと、そして心の葛藤で限界まで消耗しきった紫苑の身体から、力が抜けていく。
バタンッ!
重い音を立てて、紫苑は広がった水たまりの中へと力なく倒れ込んだ。冷たい雨水が顔を打ち、口の中にまで入り込んでくる。視界がぐにゃりと歪み、意識が深い闇の底へと沈み込んでいくのがわかる。
『おい、紫苑! 聞こえるか? 応答しろ! 紫苑!』
通信機の向こうから、三原の焦りと不安に満ちた叫び声が響いているのが微かに聞こえた。だが、その声も遠くなる一方で、次第に闇に飲み込まれていく。
降りしきる大雨は、倒れたまま動かない戦士の姿を、まるで世界から隠すかのように、ただただ激しく、いつまでも街を打ち続けていた。
(続)