2014年編#11-4
翌日になっても、空を覆う鈍色の雲が晴れることはなかった。まるで天そのものが重いため息をついているかのように、低く垂れ込めた雲は街全体を灰色の色調に染め上げ、窓の外では昨日から続く雨が絶え間なくガラスを叩き続けている。雨粒がガラス面を伝って細い筋を作り、外の景色を滲ませながら流れ落ちる様子は、まるで時間さえもがゆっくりと溶けていくように見えた。冬の冷気は雨に運ばれて部屋の中へと忍び込み、暖房をつけていても、肌に触れる空気はどこかひんやりとして、身震いするほどだった。
紫苑は自宅のベッドに横たわり、重い瞼を閉じていた。まぶたの裏側には熱がこもり、開けようとすると鋭い痛みが走る。意識が覚醒するたびに、頭の芯を金槌で叩かれるような鈍い痛みが頭蓋骨の内側から響き渡り、呼吸をするだけで肺の奥が熱く焼けるような感覚に襲われる。まるで内臓の一つ一つが熱せられた鉄で覆われているかのようで、身動きするたびに体のあちこちから悲鳴が上がった。
枕元に置かれた体温計の数値は、彼自身が予想していた通り、39度を超えていた。指先ひとつ動かすのにも、泥の中に沈んでいるかのような異常な倦怠感が付きまとい、まばたきをすることさえも大きな労力を要する。体の表面は火照っているのに、骨の髄までが冷え切っているような奇妙な感覚が、絶え間なく彼を苛み続けていた。
昨夜、雨の中で倒れ込んだ紫苑を救ったのは、紛れもなく三原の迅速かつ的確な判断だった。任務中に突如として通信が途絶え、遠隔でモニタリングしていたバイタルサインの数値が急激に乱れ、異常な数値を示した瞬間、三原は即座に複数の部下を現場へと派遣したのだ。
雨が地面を叩く激しい音の中、部下たちは意識を失ってぐったりと倒れ込んでいた紫苑を発見し、急いで彼を自宅へと運び込んだ。体は氷のように冷たく、それでいて内部は異常な熱を帯びており、誰もが事態の深刻さを感じ取っていた。それから数時間が経過した今も、その熱は完全に引くことなく、彼の心身を拘束し続けている。
枕元に置かれた通信機が、静まり返った部屋の中に規則的な電子音を響かせた。その音は、雨音に紛れながらも確かに彼の耳に届き、重い体を引きずるようにして、紫苑は震える指先でそれを取り上げる。呼吸を整えようとしても、浅く速い息しか吐き出せず、喉はからからに乾ききっていた。
「……はい」
絞り出すようなかすれた声が、狭い受話口から漏れ出す。自分の声でありながら、まるで別人の声のように遠くに聞こえ、耳に残る。
『紫苑、調子はどうだ? 意識が戻ってから数時間は経つはずだが』
通信機越しに聞こえる三原の声は、いつもと変わらず冷静で落ち着いたトーンだった。だが、彼のもとで活動し、その声を聞き慣れている紫苑には、言葉の端々からわずかながら安堵の響きが滲み出ているのを感じ取ることができた。それは、単なる部下への関心を超えた、もっと深い信頼と心配の証だった。
「三原さん……すいません。まだ、熱が引かなくて。体が、思うように動かないんです。」
紫苑は言葉を続けるうちに、息が上がり、再び頭に鈍い痛みが走る。彼はベッドの背もたれに体を預け、少しでも楽な姿勢を取ろうと努めたが、どんな体勢でも不快感が消えることはなかった。
『無理もない。昨夜の戦闘データと精神状態のログを詳しく確認したが、お前の精神状態は任務の後半、極度の不安定な状態に陥っていたことが数値的にも明らかだった。肉体的な疲労はもちろんのこと、ロイミュードの王――フィア、つまり大悟との直接的な接触によって引き起こされた精神的なショック。それらが複雑に絡み合い、積もり積もった結果が、こういった形で表面化したのだろう。いわば、知恵熱のようなものであり、心と体が限界を超え、悲鳴を上げている状態だ』
三原の言葉は的確で、紫苑自身もそれを否定することはできなかった。自分の中で何かが壊れかかっていること、そしてそれがあの夜の出来事に深く根ざしていることを、彼は痛いほど理解していた。
「精神的な、要因……そんなにも、俺は打ちのめされていたんですね」
紫苑は熱で朦朧とする頭の中で、雨に濡れたあの夜の公園の光景を鮮明に思い出していた。冷たい雨が頬を打ち、視界を曇らせる中で向き合った大悟の姿。彼の瞳に浮かんでいたのは、かつて自分が知っていた温かな光などではなく、凍てついた冷たさと、全てを見下すような絶対的な意志だった。漆黒の装甲は闇に溶け込み、まるで現れた存在そのものが悪夢のように感じられた。
そして彼が紫苑に突きつけた言葉、「世界の浄化」という狂った理想。それは、紫苑がこれまで信じ、守ろうとしてきた全ての価値観を根本から覆すものだった。自分の日常、自分の仲間たち……それら全てが、最初から大きな嘘の上に成り立っていたのではないかという疑念。信じていたはずのものが、根底から腐り落ちていたという厳然たる事実は、彼が想像していた以上に深く彼の精神を傷つけ、磨り減らしていたのだ。
『とにかく、今は余計なことを何も考えず、ただ休め。体を休め、心を落ち着けることが最優先だ。大学の方には、俺のコネクションを最大限に活用し、「重度のインフルエンザによる出席停止」という形で既に連絡を済ませてある。お前の仲間たちや教職員が不審に思うような要素は何もない。ちひろという娘からも何度か連絡が来ていたようだが、そちらへの返信も、お前の病状が完全に落ち着き、精神的にも余裕が生まれてからで構わない。今は何もかもを遮断し、自分自身の回復だけに集中しろ』
「ありがとうございます。こんな時まで、俺のことばかり面倒をかけてしまって……すいません、本当に」
紫苑は感謝の言葉を口にするたびに、自分の無力さを痛感した。守るべき存在でありながら、結局は誰かに守られ、助けられている自分。それが歯がゆく、同時に心の支えにもなっていた。
『気にするな。お前が倒れ、動けなくなれば、GTシステムもただの鉄くず同然になる。この街を、そしてこの世界を守るための要であるお前が万全の状態でなければ、何の意味もない。だからこそ、我々にとってもお前の快復が最優先事項なのだ。……それから、紫苑。これは俺からの個人的な助言として聞いておけ。大悟のことは、今は完全に忘れろ。奴の言葉一つ一つに惑わされ、心を乱される必要などどこにもない。お前は、お前が守るべきもののためにだけ、今は力を蓄え、牙を研いでおけばいい。それ以外のことは、全て後回しで構わない』
「……はい。分かりました」
紫苑は力なく頷き、通信機を握る手にわずかに力を込めた。三原の言葉は彼の心に深く響き、暗闇の中に差し込む一筋の光のように感じられた。だが、頭の中に渦巻く思考と感情は、そう簡単に沈黙してはくれなかった。
通信が切れると、再び部屋の中には雨音だけが支配的な存在として残された。規則的で、それでいてどこか不穏なその音は、まるで世界が彼に語りかけているようでもあり、あるいは彼の内面の混乱を映し出しているようでもあった。
紫苑は通信機をサイドテーブルの上にそっと置き、再び天井を仰ぎ見る。白い天井に浮かんだ古いシミを目で追いかけながら、彼はただ横になっていた。熱に浮かされた視界は霞みがかり、時折、まるで幻のように大悟の冷ややかな笑い声や、ロイミュードたちの低い咆哮が耳の奥から響き出す。目を閉じても、それらの幻聴と幻覚は彼を追いかけてきて、心の休まる暇を与えてくれない。
自分が「世界の浄化」を行うための鍵である――あの夜、大悟が告げた言葉が、何度も何度も頭の中を駆け巡る。それは到底受け入れがたい、恐ろしい真実でありながら、彼の心の奥底にある不安を的確に突き刺してくる。
そしてさらに重くのしかかるのは、自分の父である矢切周平が長い年月をかけて隠し通してきた数々の事実、そしてそこに秘められた「真実」の存在だ。自分の出自、自分の役割、そしてこの世界の成り立ち……全てが暗い闇の中に埋もれており、それらが一気に彼の上に降りかかってきたのだ。
休めと言われても、目を閉じれば闇の中からあの赤い瞳がじっと自分を覗き込んでいるような気がして、紫苑は深く長い溜息をつく。体の熱はまだ高く、心臓はいつもよりも速く、そして強く脈打っている。このまま心臓が破裂してしまうのではないかと思うほどだった。
それでも、今の自分にはこの状況に抗うだけの力が残されていないことを、彼は痛いほど自覚していた。精神的にも肉体的にも、彼は完全に消耗しきっていたのだ。
紫苑はベッドサイドの水差しから水を少量コップに注ぎ、一気に飲み干す。冷たい水が喉を通り、焼けるような内側をわずかながら冷ましてくれる。彼は額に乗せていたタオルがすっかり温くなっていることに気づき、新しく冷たい水で絞ったタオルを再び額と首筋に乗せ直した。冷たい感触が肌に触れ、わずかな安らぎをもたらす。
再びベッドに横たわり、紫苑はゆっくりとまぶたを閉じる。外では、鈍色の空から降り続く雨が、彼の抱える大きな葛藤と高熱を少しでも冷ますかのように、いつまでも、いつまでも降り続いていた。暗く長い眠りの淵へと、彼は再びゆっくりと沈み込んでいった。
(続)