2014年編 #11 - 完結編
冬の空気が木々の間を抜け、キャンパスの地面を覆う枯れ草をそっとなでていく。昨日まで重たく垂れ込めていた雲の姿はどこにもなく、視界いっぱいに広がる青は、まるで誰かが空全体を洗い清めたかのように澄み渡り、降り注ぐ日差しは冷たさを含みながらも、肌に触れるとどこか甘く、心まで解かしていくようだ。
紫苑はゆっくりと校舎の渡り廊下を歩いていた。数日前まで高熱にうなされ、まるで霧の中をさまよっているような感覚に包まれていた身体は、今は嘘のように軽く、そして力に満ちている。顔を上げれば青空が広がり、深呼吸をするたびに冷たい空気が肺の奥まで入り込み、研ぎ澄まされていくような感覚があった。
自分でも不思議なくらい、体調は完璧だった。熱が下がっただけではない。何か、自分の中の根幹に関わるような、そんな変化が起きているのをはっきりと感じていた。それは科学的な数値やデータで測れるものではなく、もっと曖昧で、けれど絶対的な確信のようなものだった。
中庭のいつもの場所に近づくと、賑やかな声が風に乗って運ばれてくる。見慣れた仲間たちの姿を認めた瞬間、紫苑の口元には自然と笑みが浮かんだ。
「おい、紫苑! こっちだ、こっち!」
真っ先に声を上げたのは悠真だった。彼はベンチから立ち上がるなり、大きな足取りで紫苑に近づくと、その肩を力いっぱい叩く。その衝撃は少し痛いくらいだったが、紫苑にはそれが嬉しかった。
「よお病み上がり!お前がいない間は講義室も静かで、俺にとっては昼寝が捗るいい機会だったぜ!」
ニヤニヤと悪戯っぽく笑う悠真に、紫苑は苦笑いを返す。すると今度は、悠真の後ろから朔也がゆっくりと歩み出てきた。彼はいつものように冷静な目つきで紫苑を眺め、少しだけ驚いたように眉を上げる。
「ずいぶんと顔色いいじゃん……復活どころかむしろ前よりもパワーアップして見えるけど?」
「そんな大層なものじゃないさ。ただ、ゆっくり休めただけだよ」
紫苑がそう答えると、今度は美穂が柔らかな笑顔を浮かべて近づいてくる。彼女は分厚いファイルを両手に抱えており、その表紙には紫苑が休んでいた日付が丁寧に書き込まれていた。
「本当に大丈夫? まだ熱が下がったばかりなんだから、無理は絶対にだめだからね。はい、これ。抜けた講義のプリントと、私がまとめたノート。要点だけ整理しておいたから、必要なところだけ確認すればいいよ」
「ありがとう、美穂。……みんなには、本当に心配をかけてしまった。すまない」
紫苑が心からの感謝を込めて頭を下げると、美穂は「気にしなくていいの」と言うように、そっと手を振った。
その時だった。紫苑はふと、悠真たちの少し後ろ、木漏れ日の落ちる場所に立つ少女の姿に目を留めた。
ちひろだった。
彼女はこちらをじっと見つめていたが、紫苑と視線が合うと、ぱちぱちと一度まばたきをして、柔らかく、けれどどこか緊張したような微笑みを浮かべた。昨日、あの雨の中、自分の家に駆けつけてきた時の、切羽詰まったような雰囲気はもうどこにもない。いつもの明るく、活発で、誰からも好かれる「ちひろ」がそこにいた。
だが紫苑には分かっていた。彼女の瞳の奥に宿る光が、昨日までとは明らかに違っていることを。それは少しだけ深く、温かく、そして甘くとろけるような、特別な輝きだった。周りの誰も気づいていないだろう、二人だけが知っている秘密が、その瞳には映し出されていた。
紫苑は周りに聞こえないように、一歩だけちひろに近づき、わずかに口元を動かした。
(ちひろ、ありがとう。……おかげで、本当にすっきりしたよ。あれ、めちゃくちゃ効いたみたい)
その言葉を受け取った瞬間、ちひろの顔はみるみるうちに赤く染まり、耳の先まで真っ赤になった。彼女は慌てて左右を見回し、悠真たちがこちらを見ていないことを確認すると、慌てたように人差し指を自分の唇に押し当てる。
(本当?! それなら、よかった……でも、絶対に、みんなには内緒だからね? )
慌てながらも、その目は嬉しそうに細められているのを見て、紫苑は思わず心の中で笑みを零した。
(分かってるって。俺たちだけの、秘密だ)
短い会話だったが、それだけで全てが通じ合ったような気がした。二人はまた視線を絡ませ、言葉にならない想いを交わし合う。その空気はあまりにも親密で、周囲の空気とはまるで違う色を帯びていた。
「……おいおい、二人とも。さっきから何をこそこそ話してるんだ?」
案の定、その様子に真っ先に反応したのは悠真だった。彼は首をかしげて、怪しいものを見るような目つきで紫苑とちひろを交互に見る。
「なんだか様子がおかしいぞ。……何かあったのか?」
「な、何もないよ! 悠真の妄想が過ぎるだけだろ!」
紫苑が慌てて否定すると、ちひろも大きく頷き、最大限に明るい声を出そうとする。だがその声は少しだけ裏返り、かえって怪しさを増幅させてしまっていた。
「そ、そうだよ! 私たちはただ、紫苑くんが休んでいた間の授業のこと、どこが大事なポイントだったかを話し合ってただけなんだから! 変なこと考えないでよね!」
「ふうん? 本当かあ? なんだか言い訳っぽい声だなあ」
悠真がまだ疑わしそうに目を細めていると、美穂が「はいはい、悠真は騒ぎすぎ」と彼の肩を叩いて制した。
「そんなことより、お腹が空いたね。みんな、学食に行くんでしょ? 早く行かないと、人がいっぱいになっちゃうよ」
「あ、そうだな。俺も腹減ってたんだった」
美穂の言葉に悠真はようやく納得したようで、「行くぞ」と手を振りながら歩き出す。朔也も「お先に」と言って彼らの後に続く。
四人の背中を見送りながら、紫苑は胸の奥から込み上げてくる温かなものを感じていた。昨日までは、身体の不調だけでなく、心のどこかにいつもぽっかりと穴が開いているような、そんな孤独感があった。
(……昨日の、あの時間)
紫苑はふと、昨日の夕暮れのことを鮮明に思い出す。
自分の部屋。雨音が窓ガラスを叩く中、真っ青な顔をしたちひろが飛び込んできたこと。熱で朦朧とする意識の中で、彼女が自分の側に座り、心配そうに額を当ててくれたこと。そして、自分が孤独と闇に怯えていた時、彼女は何も言わずに自分を抱きしめてくれた。
伝わってきた彼女の心臓の音。彼女の必死なまでの鼓動が、自分の胸にまっすぐに響いてきた。
抱きしめた彼女の身体は、華奢で折れてしまいそうなほどだったが、確かな温もりと柔らかさを持って自分を包み込んでくれた。
そして、重ねられた唇。
涙の味がした。彼女が流した涙が、二人の唇の間に混ざり合って、それは苦しくもあり、同時にこの上なく甘い味わいだった。
あれは治療などではなかった。三原の研究室にあるどんな最先端の医療技術よりも、GTシステムのどんなバージョンアップよりも、はるかに直接的に、紫苑の心と体に作用した。凍てついていた心の奥底まで、一瞬にして温め、溶かし、癒やしてくれたのだ。
ロイミュードの王は言った。お前の守ろうとしているものは幻に過ぎない、と。だが今、紫苑の手の中には確かなものがあった。この世界の「表側」にある、何ものにも代えがたい日常と、守るべき絆が。
この温もりがある限り、自分は何度でも立ち上がれる。どんな闇が襲ってこようとも、決して負けたりはしない。
「紫苑くん? どうしたの、ぼうっとして」
柔らかな声が耳元で響き、紫苑は我に返る。見れば、ちひろが少しだけ心配そうに、しかし優しい目で自分を見上げていた。彼女はそっと、紫苑のコートの袖口を指先でつまみ、小さく引っ張る。
「みんな、先に行っちゃったよ。……ほら、私たちも行こう?」
「……ああ、そうだな。行こう」
紫苑は笑顔で頷き、ちひろの少し冷たい手をそっと取ろうとして、思いとどまる。代わりに、彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。
並んで歩く二人の影は、冬の低い日差しに照らされて地面に長く伸び、時折重なり合い、また離れ、また寄り添いながら、まるで一つの生き物のように溶け合っていく。
この平穏な日常の裏側では、確かに巨大な闇が牙を研いでいる。ロイミュードとの戦いは終わることなく続き、いつだって命を落とすかもしれない危険が隣り合わせにある。それでも今は、怖くなかった。迷いも、不安もなかった。
青く澄み渡った空の下、紫苑は隣を歩くちひろの存在を強く感じながら、静かに心の中で誓った。
――たとえどんなことがあろうとも、この手にある確かな温もりと、この子がくれた光だけは、絶対に手放さない。俺は俺の信じる道を、真っ直ぐに進んでいくんだ、と。
冷たい風が二人の間を通り過ぎていく。けれど紫苑の心は、太陽のように熱く、明るく輝いていた。
#11 完