2014年編#12-2
夕暮れ時の街は、どこか切なさを孕んだオレンジ色の残光に包まれていた。建物の壁面を染め上げるその光は、まるで時間がゆっくりと流れているかのように、穏やかで、けれどもどこか名残惜しい色をしている。後期試験という大きな重圧から一時的に解放された帰り道、紫苑とちひろは、冷え込み始めた冬の空気の中を、肩を並べてゆっくりと歩いていた。吐く息は白く、二人の間を漂っては夕陽に照らされて消えていく。
「……それにしても悠真くん、あの顔は傑作だったよね。あんなに必死に単語帳をめくってる彼、初めて見た気がする」
ちひろが思い出したようにクスクスと笑い、両手をコートのポケットに突っ込んで少し前かがみになる。その横顔は、夕焼けの光を受けて柔らかく輝き、まるで絵画の中から抜け出してきたようだった。
「ああ。あいつ、普段は『余裕だぜ』なんてカッコつけてるくせに、いざ試験が近づくと一番焦るからな。まったく、いつも周りを巻き込んで慌てるんだ」
紫苑も口元を緩め、昼休みの学食での光景を思い出す。山積みの参考書に埋もれながら、必死に顔を真っ赤にして単語を詰め込もうとする悠真の姿は、今思い出してもおかしく、同時に彼らしくて安心する。
「でも、今日みんなが食べてた、あのもちもちしたチョコのお菓子、すごく美味しかったよ。あれ、ちひろが作ったんだろ? みんな、あれでかなり救われたと思う」
紫苑の言葉に、ちひろは嬉しそうに瞳を細める。
「本当? よかったぁ。実は美穂ちゃんと一緒に、夜なべして作ったんだ。焦がさないように、形が崩れないようにって、何度も試行錯誤した甲斐があったよ」
他愛もない会話が、絶え間なく二人の間に流れる。試験勉強の苦労話や、教授の物まね、友人たちの滑稽な様子、そして手作りお菓子の細やかな感想。どこにでもある、大学生のありふれた放課後の風景だ。けれど、紫苑にとっては、この一歩一歩、一言一言が、冬の冷たい風を遮る分厚くて温かなコートのように、凍てつきがちな心を守ってくれていた。この時間が、何よりも貴重で、何よりも失いたくないものだと、彼は強く感じていた。
やがて、二人の道が分かれる交差点が見えてきた。信号機が夕陽を浴びながら点滅し、やがて赤に変わる。二人は自然と足を止め、横断歩道の前に立つ。車の通り過ぎる音、風の音、遠くの人々のざわめきが、一層鮮明に耳に届く。
「じゃあ、私はここで。紫苑くん、帰ってからもまだまだ試験勉強は続くんだから、頑張ろうね」
ちひろはいたずらっぽく小首を傾げ、紫苑の顔を覗き込む。その瞳には、まるで3ヶ月前の出来事をからかうような、柔らかな光が宿っていた。
「……あんまり根詰めすぎて、また知恵熱出しちゃダメだよ? 今度はちゃんと栄養のあるスープ、作りに行くからね」
それは、激しい雨の夜、戦いの傷と心の疲れで倒れた紫苑を、ちひろが献身的に看病してくれた時のことを思い出させる言葉だった。紫苑は少しだけ顔が熱くなるのを感じ、視線を逸らしながらも頷く。
「あ、ああ……そうだな。気をつけるよ」
「うん。それじゃ、また明日ね」
ちひろは軽く手を振り、右側の道へと一歩踏み出そうとした。
「あ、あのさ」
紫苑は慌てて声を上げる。呼び止められた彼女は、不思議そうに足を止め、ゆっくりと長い髪を揺らしながら振り向いた。夕暮れの風が彼女の髪をなびかせ、その姿はあまりにも儚く、すぐに消えてしまいそうに見えた。
「ん? なあに、紫苑くん? 忘れ物?」
紫苑はコートのポケットの中で、ずっと固く、そして大切に握りしめていた小さな箱を取り出した。手のひらの熱がしっかりと移ったその箱を、彼は少し照れくさそうに、だが決して目を逸らすことなく、真っ直ぐに彼女へと差し出す。
「はい、これ」
「え……?」
ちひろの瞳が驚きで大きく見開かれる。オレンジ色の夕陽の光を反射して、彼女の澄んだ瞳の中で、小さな箱が宝石のようにきらきらと輝いて見えた。
「ごめん、さっき学食ではみんなもいたし、渡しそびれたんだけど……」
紫苑は言葉を少し詰まらせながら、心の中にある想いを言葉にする。
「……これ、誕生日プレゼント。おめでとう、ちひろ」
ちひろはまるで吸い込まれるようにして箱を受け取り、信じられないといった表情で紫苑を見上げた。彼女の細い指先が、丁寧に包装紙の感触を確かめるように、小さく震えているのが見て取れた。
「覚えてて……くれたの!? さっき美穂ちゃんに指摘されたとき、あんなに驚いた顔してたのに……」
「いや、ほら……バレンタインが誕生日なんて、珍しいだろ? 嫌でも印象に残るっていうか、一度聞いたら忘れられないっていうかさ……」
紫苑は慌てたように言い訳がましく答え、視線を少し斜め下へと逸らし、後頭部をかいた。だがそれは、彼の本心ではなかった。
本当は、美穂に指摘されるずっと前から、それこそ数ヶ月も前から、彼はこの日のことを考えていたのだ。親友だった大悟が姿を消し、フィアとなって敵対し、ロイミュードとの戦いに明け暮れる日々の中で、ただ一つ変わらずにあってほしいと願った日常。その日常の中で、ちひろの誕生日だけは、何者にも侵されない「普通」の、けれど最も特別な一日として、彼女のために祝いたいと心から願っていたのだ。
「……あ、開けてもいい?」
ちひろがおずおずと尋ねる。
「うん、もちろん。たいしたものじゃないけど……俺が良いと思ったものを選んだんだ」
ちひろは指先に力を込めて、丁寧にリボンをほどき、ゆっくりと箱の蓋を開ける。
中には、彼女の雰囲気やイメージにぴったりと合った、細身で可憐なシルバーのブレスレットが収まっていた。小さな星の形をしたチャームがいくつもついており、夕陽を浴びて箱の中でキラリと儚く瞬く。シンプルだけれど、いつでも身に着けていられるようにと、紫苑が時間をかけて探し求めた一品だった。
「……わぁ……っ」
ちひろの唇が小さく震え、感嘆の声が漏れる。すると次の瞬間、彼女の大きな瞳には、見る間に大粒の涙がいっぱいに溜まっていき、夕光を受けてまばゆく光り始めた。
「あ、あれ……もしかして、デザイン、気に入らなかった? ……やっぱ、変だったかな」
紫苑は慌ててそう言うが、ちひろは首を横に激しく振る。
「ううん、違うの……そうじゃなくて……。嬉しい、すごく嬉しい……っ。私ね、ずっと思ってたの。バレンタインが誕生日だから、いつも周りはチョコレートの話ばっかりで、私の誕生日って『ついで』にされちゃうことが多くて……」
彼女は溢れる涙を拭おうともせず、幸せそうに、そしてどこか切なげに微笑んだ。その笑顔こそが、3ヶ月前の雨の夜、孤独と絶望の底にいた紫苑を救い出してくれた、あの温かな「光」そのものだった。
「……だから、紫苑くんが私のために選んでくれたって思うだけで、胸がいっぱいになっちゃって……。ありがとう、本当にありがとう」
彼女は両手で箱を抱きしめ、まるで宝物のように大切に胸元に押し当てる。
「これ、一生大事にするね。肌身離さず着けてる。……それでね、試験が全部終わったら、これ着けてるから、紫苑くん、どこか素敵な場所に連れてってよ?」
涙に濡れた瞳で、彼女は紫苑を真っ直ぐに見つめ、約束を迫るように言う。
「ああ、約束する。……どこへでも、君が行きたい場所ならどこへでも」
紫苑の力強い言葉に、ちひろはまるで花が咲くような、この上なく明るい笑顔で応えた。
二人の間の信号が、チカッと緑色に変わる。
「じゃあ、また明日学校で会おうね。おやすみなさい、紫苑くん!」
彼女は何度も何度も振り返り、手の中の小さな箱を胸に抱きしめながら、軽やかな足取りで夜の帳が降り始めた道へと消えていった。
紫苑は彼女の背中が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。
風が吹き、彼の髪をなびかせる。冬の空気は冷たいはずなのに、体の芯からは温かなものが溢れていた。
ロイミュードとの終わりの見えない戦い、父が残した大きな遺志、そして親友だった男の変貌と裏切り。重苦しく、暗い運命は今も紫苑の肩に重くのしかかっている。だが、今夜だけは、ポケットの中に残った彼女の温もりと、去り際に見せた最高の笑顔が、彼の戦士としての心に、静かで、けれど確かな平穏をもたらしていた。
「……守るよ、ちひろ。この何でもないような日常を、君の笑顔を、絶対に俺が守り抜く」
紫苑は独り、色を深めていく冬の夜空を見上げて、固く誓うように呟いた。
街の灯りが次々と灯り始め、星もまた瞬き始める。その空の向こう、まだ誰も知らない暗い場所では、新たな嵐が産声を上げようとしていた。だが、今の彼にはそれを跳ね除け、立ち向かうための、確かな「絆」という名の力が宿っていたのだった。
(続)