2014年編#12-5
『よく聞け、紫苑。今……監視員が....ちひろを包囲した……』
その一言が紫苑の耳に届いた瞬間、全身の血が一気に凍りつくような感覚に襲われた。指先から足の先まで、まるで氷水を注ぎ込まれたかのような寒気が駆け巡り、頭の中は一瞬にして真っ白になり、何も考えられなくなる。手に持っていた端末を握りしめる手には、自分でも気づかないうちに力が入り、指の骨が軋む音が聞こえるようだった。
「なっ……何で! 三原さん、手を出さないって約束したじゃないですか! 彼女は一般人だ、ロイミュードとは関係ないって、俺は……!」
紫苑は声を荒らげ、まるでその場にいる三原に掴みかかるような勢いで叫んだ。心の底から湧き上がるのは、理解できないという思いと、裏切られたような悲しみ、そしてちひろに何かあってはならないという強い恐怖だった。彼女はただの普通の女の子で、自分がロイミュードとの戦いで傷つき、苦しんでいた時に、いつも側にいてくれた優しい存在だったのだ。
だが、端末から返ってきた三原の声は、まるで氷のように冷たく、情け容赦のないものだった。
『ちひろがクライと接触していた形跡がある。単なる目撃ではない、密会だ。……今、埠頭の第3倉庫にいる。紫苑、急げ。そして……最悪の事態を想定しておけ』
その言葉が告げられた後、通話は一方的に切断され、無機質な電子音だけが紫苑の耳に残った。紫苑はその場に立ち尽くし、視界が急に歪んでいくのを感じた。目の前が暗くなり、足元から地面が崩れていくような感覚に襲われる。
嘘だ、と心の中で何度も叫んだ。あんなにも自分のことを心配してくれて、怖がりながらも「二人だけの秘密」を共有してくれた彼女が、人知を超えた存在であるロイミュードと繋がっているなど、信じられるはずがなかった。誕生日プレゼントを受け取った時の、太陽のように明るい笑顔。3ヶ月前、自分が倒れた時、看病してくれた時に感じた、彼女の胸の鼓動の温かさ、涙の味さえも、すべてが真実で、かけがえのないものだと信じていたのに。
紫苑が言葉もなくうつむいていると、背後から静かな声がかけられた。
「……早く行ってやりな。お前との決着は必ずつける」
大悟だった。彼はいつものように無表情で紫苑を見つめていたが、その瞳の奥には、運命に翻弄される紫苑を哀れむような、それとも実験動物の成り行きを観察するかのような、言葉にできない複雑な色が渦巻いていた。その視線が、紫苑の心にさらなる焦りと痛みを与える。
紫苑は頷くことも、反論することもできず、ただ無我夢中で駆け出した。ライドストライダーに飛び乗り、エンジンを一気に吹かす。タイヤが地面を強く蹴りつけ、車体が急発進する。
夜の街を抜け、海辺へと続く道をバイクは疾走した。風がまるでナイフのように頬を切り裂き、視界に入るものすべてが流れるように後ろへと飛んでいく。酸素を求めて肺を目一杯に膨らませても、空気は熱く、まるで煙を吸い込んでいるかのように苦しい。喉の奥には鉄のような血の味がこみ上げてきたが、それでも紫苑はスピードを緩めることはなかった。
(ちひろ、お願いだ、無事でいてくれ……! 誰かが何かの間違いを犯しているだけなんだ、そうだろ!? 三原さんの見間違いか、それとも誰かが彼女に罪を着せようとしているだけなんだ……!)
心の中で何度も祈り、自分自身に言い聞かせながら、紫苑はただ前だけを見つめてバイクを走らせ続けた。
やがて、埠頭のエリアに入ると、潮風と錆びついた鉄の独特なにおいが濃くなり、重苦しい雰囲気が辺りを包み込んだ。そして、目的の第3倉庫の姿が暗闇の中に浮かび上がった。
倉庫の周囲には既に数台の車が停まり、物々しい雰囲気が漂っている。紫苑はバイクを急停止させ、倉庫の鉄製の扉へと駆け寄った。彼は全身の力を込めて分厚い鉄扉を蹴破るようにして開け、中へと飛び込む。
「ちひろ!」
その瞬間、紫苑の目に飛び込んできた光景は、まさに地獄と呼ぶにふさわしいものだった。薄暗い倉庫内には、無数の赤いレーザーサイトの光が乱れ飛び、それぞれが一点に集中している。
数人の武装した監視員たちが、中央のスペースを完全に取り囲むように配置され、銃口はすべてその中心に向けられていた。そして、その中心には――
「やめてください! 何をしてるんだ!」
紫苑は自分の存在も顧みず、監視員たちの銃口の間を擦り抜けるようにして割って入り、中央でうずくまる存在の前に立った。両手を大きく広げ、背中に感じる小さな震える体を、自分の体全体で庇うように構える。
「この子は、ちひろは裏切るような子じゃない! 俺が倒れた時だって、つきっきりで看病してくれたんだ! 俺の側にいてくれて、俺のために泣いてくれたんだ! 俺のことを、俺の日常を守ろうとしてくれた唯一の理解者なんだ! そんな彼女に銃を向けるなんて、どうかしてる!」
紫苑は声の限りに叫び、自分が知っているちひろの姿を、この場にいる全員に知らしめようとした。この恐怖に震えている少女が、どれほど純粋で、どれほど優しい心の持ち主であるかを。
だが、監視員たちは微動だにしない。ただ一人、彼らのリーダーらしき男が、銃口を紫苑とその背後の少女に向けたまま、冷酷なほど冷静な声で言い放った。
「退け、紫苑。君の感情は判断を鈍らせている。我々は証拠に基づいて行動しているのだ」
「証拠だと? 何が証拠だって言うんだ!」
「彼女は明らかに、クライロイミュードと密会し、長時間にわたって接触し、何らかの情報を授受していた。現場の監視記録、通信の傍受データ、目撃証言……すべてが彼女の『黒』を証明している。彼女は既に、我々の敵と断定された存在だ」
リーダーの言葉は、まるで鉄槌のように紫苑の頭を打ち砕いた。信じたくない、認めたくない、だが彼らがそう判断するからには、それなりの根拠があるのだということも、紫苑は理解していた。それでも、目の前にいるちひろがそんな悪意に満ちた存在だとは、どうしても思えなかった。
「何かの間違いだ……! ちひろ、何とか言ってくれ。違うだろ!? お前はただ巻き込まれただけなんだろ? 誰かに脅されて仕方なく従っていただけなんだろ!? 俺が助けてやる、だから早く……!」
紫苑は祈るような気持ちでゆっくりと振り返り、自分の背中側で小さく丸まっているちひろの肩に手を伸ばした。彼女は顔を深く伏せ、体を細かく、激しく震わせていた。きっと極限の恐怖に怯え、どうしようもなく混乱しているのだ、そうに違いない、と紫苑は疑いもしなかった。
だが――その時、事態は紫苑の想像を絶する方向へと動き出した。
「……ふふ……ふふふ……っ」
湿り気を帯びながらも、どこか乾いた、そして何よりも不気味な笑い声が、静まり返った倉庫のコンクリートの壁に反響した。その音を聞いた瞬間、紫苑の心臓がまるで腐った泥のようにドロリと重たい音を立てて脈打ち、伸ばした手は空中でピタリと止まった。
「え……? ちひろ……?」
「あはは……あはははははははははは!!」
ちひろはゆっくりと顔を上げた。月光が彼女の顔を照らし出した瞬間、紫苑は息を呑み、体が凍りつくような感覚に襲われた。
そこにあったのは、自分が長い間見つめてきた、優しくて愛らしい「ちひろ」の表情ではなかった。
三日月のように鋭く吊り上がった目には、もはや人間らしい感情の光はなく、獲物を見つけて喜ぶ獣のような、残酷で妖しい輝きが宿っている。彼女の口角はまるで耳元まで裂けんばかりに大きく歪められ、その口の中から覗く白い歯は、月明かりを反射して冷たく怪しく光っていた。
それは紛れもなく、紫苑がこれまで戦い続けてきたロイミュードたちが見せる、人間を嘲笑うための表情そのものだった。
「……ごめんね、紫苑くん。あんなに一生懸命守ろうとしてくれたのに」
ちひろはゆっくりと立ち上がり、今でも呆然と自分を見つめている紫苑に向かって、甘く囁くような声で話しかけた。その声は確かにちひろのものであるのに、その響きはあまりにも冷たく、紫苑の心の奥底まで凍てつかせた。
「私、あなたが苦しんだり、悲しんだり、それでも私のことだけを信じてくれたりする姿を見ているの、すごく面白かったの。滑稽すぎて、途中で笑い出しそうになっちゃって、我慢するのが大変だったよ」
彼女の言葉の一つ一つが、まるで鋭い針となって紫苑の胸に突き刺さり、心臓を貫いていく。
次の瞬間、彼女の透き通るように美しかった肌に、まるで大地の割れ目のような無数の亀裂が一気に走り始めた。その亀裂の奥からは、人間のものではない、毒々しく禍々しい色の光が溢れ出し、周囲の空気を歪ませる。
「なっ……あ、ああ……っ!」
紫苑は声にならない叫びを上げ、後ずさろうとしたが、体が言うことを聞かない。
ちひろの体は内側から何かが膨れ上がるように変形し、柔らかかった肌は失われ、代わりに冷徹で美しい金属質の甲殻が形成されていく。まるで生まれ変わるかのような激しい変化の中、紫苑がよく知っていた少女の姿は完全に消え去り、そこには異形の存在が姿を現した。
背中からは蝙蝠の羽を思わせる巨大で禍々しいマントのような器官が広がり、体のラインは美しくも残酷な曲線を描き、その姿は見る者を魅了すると同時に絶望させる――ラフロイミュード。
その体から放たれた、爆炎にも匹敵するほどの膨大なエネルギーの奔流が、至近距離にいた紫苑を容赦なく吹き飛ばした。紫苑は何も抵抗することができず、重い衝撃と共に倉庫の壁に叩きつけられ、床へと崩れ落ちた。
口の中に血の味が広がり、体中が痛みに満ちていたが、紫苑はそれよりも早く目を開け、自分の目の前にいるものを確認しようとした。
「ち……ひろ……。そんな、嘘だろ……」
床に這いつくばったまま、紫苑はただ呆然と、月光を浴びて傲然と立つその怪物を見上げることしかできなかった。
自分を抱きしめてくれた時の温もりも、誕生日に渡したブレスレットを嬉しそうにしていた姿も、二人で話した未来の夢も、毎日交わした何気ない会話も――すべてが、このロイミュードが自分を欺くために用意した、精巧で残酷な偽りの舞台装置に過ぎなかったのだ。自分が何よりも信じ、守りたいと願っていた存在は、最初から存在していなかったのかもしれない。
紫苑がこれまで築き上げ、守ってきた「日常」という名の砂の城は、最も信じた者の裏切りという名の大波によって、基礎から根本的に打ち砕かれ、跡形もなく崩れ去っていった。
夜の闇が倉庫の中をさらに濃く満たす中、紫苑の口からは絶望に満ちたかすかな呻き声が漏れ、それに応えるように、眼前の怪物が高らかに、そして愉快そうに笑う声が、虚しく倉庫内に響き渡り続けていた。
(続)