2014年編#12-6
密閉された倉庫の空気は、緊張と殺意で張り詰め、重く淀んでいた。その中心に佇むのは、かつて紫苑が心から慕い、共に時を過ごした親友・ちひろであった。だが今の彼女は、もはや人間とは呼べない姿へと変貌を遂げていた。硬質で暗い光沢を放つ甲殻が全身を覆い、その顔には、嘲りとも蔑みともつかない歪んだ笑みが浮かんでいる。その名はラフロイミュード――「嘲笑」の異名を持つ異形。
三原の指揮下にある監視員たちは、目の前の怪物に微塵の同情も逡巡も見せなかった。彼らにとって、ラフは排除すべき危険な存在に過ぎない。整然と構えられた拳銃の銃口が、一斉にラフへと向けられる。指が引き金にかかり、わずかな金属音が空気を震わせた瞬間、紫苑は全身の血が凍るような感覚に襲われた。
「やめろぉぉぉーーーっ!」
紫苑の叫びは、恐怖と悲痛が入り混じり、倉庫の壁に反響して木霊する。だが、訓練された監視員たちの指は止まらない。次の瞬間、連鎖的に引き金が引かれ、鼓膜を劈くような激しい銃声が空間を埋め尽くした。闇の中で、マズルフラッシュが白い閃光を放ち、まるで夜稲妻が走るかのように倉庫内を照らし出す。
放たれた弾丸は、いずれも高速で標的へと到達するはずの特殊なものだった。しかし、ラフの身に迫った弾丸は、彼女の甲殻に触れた途端、激しい火花を散らして無残に弾け飛び、地面へと落ちていく。まるで鋼鉄の壁に向かって小石を投げつけるようなもので、彼女の肌にはかすり傷一つつけることができなかったのだ。
銃声が鳴り止んだ後も、わずかな残響と火薬の匂いが漂う中、ラフはゆっくりと、美しくもおぞましい冷笑を浮かべた。その瞳には、監視員たちを虫けらを見るような冷ややかな光が宿っている。
「無駄よ、そんな玩具」
低く冷たい呟きが空気を震わせた次の瞬間、ラフの姿は忽然と視界から消えた。まさに目にも止まらぬ超高速移動。監視員たちが事態を把握する間もなく、彼女は彼らの懐深くまで潜り込んでいた。しなやかでありながら、想像を絶する強靭さを秘めた肢体が、次々と男たちを薙ぎ払っていく。
屈強な体躯を誇る監視員たちでさえ、ラフの力の前ではまるでもろい木の葉のようだった。重力を無視するかのように虚空へと舞い上がり、重いコンクリートの壁や太い鉄骨に激しく叩きつけられる。鈍い衝突音が響くたびに、うめき声一つ上げることもできずに沈黙し、動かなくなっていく。わずか数秒の出来事だった。
戦闘と呼ぶにはあまりにも一方的で、凄惨な光景が過ぎ去ると、倉庫には再び静寂が戻った。立ち込める血の生臭い匂いと硝煙の刺激臭が、生き残った者たちの鼻をつく。その中、返り血を全身に浴びたラフが、ゆっくりと首を巡らせる。赤く染まった視線が、まだ立ち尽くしていた紫苑を捉えた。
「紫苑くん、君も消してあげる。……そんなに悲しそうな顔をされると、無性にイライラするの。私の中の『笑い』が濁っちゃうじゃない」
その声は確かにちひろのものでありながら、中身はまったくの別物だった。昨日まで紫苑に向けられていた、あの温かく慈愛に満ちた瞳の色は、そこには欠片も残っていない。ただ、すべてを嘲笑い、踏みにじむことだけを求める異形の意志が、その奥に渦巻いているのが見えた。
ラフが低く身を沈め、次の瞬間には神速で襲いかかろうとする気配を放つ。鋭利な爪が紫苑を射抜くように向けられ、紫苑は絶望のあまり体を小刻みに震わせた。逃れられない。そう悟った彼は、しかし死を待つのではなく、本能的に腰に提げたドライバーのグリップを強く捻った。
「変身……! 」
機械的な電子音が倉庫に響き渡る。
『TYPE AEGIS』
声と共に、鮮やかなオレンジ色を基調とした重厚な装甲が展開し、紫苑の全身を隙間なく包み込んでいく。最高クラスの防御力を誇るタイプイージスで、本来ならばどんな攻撃も受け止め、反撃へと転じることができるはずだった。
だが、装甲に守られた紫苑の心は、完全に戦うことを拒絶していた。目の前にいるのは、自分が守りたかったちひろなのだ。傷つけることなど、できるはずがない。彼は攻撃の体勢を取ることなく、ただ真っ直ぐにラフを見つめ、かつて自分を何度も抱きしめてくれたその体を再び受け止めようと、両腕を大きく広げた。
「やめろ! ちひろ、目を覚ましてくれ! 君は……こんなに残酷な子じゃないだろ!? 嘘なんだろ、全部! 戻ってくれ、あの優しかった、みんなに愛されてた君に!」
紫苑の叫びは、装甲の響きを通してもなお、痛いほど真摯で、切実だった。だが、それがラフの逆鱗に触れた。彼女は顔を歪め、耳を塞ぐような仕草を見せると、先ほどよりもさらに激しい怒りを込めて叫んだ。
「うるさい! 私はラフ! 人間の下らない感情を嘲笑い、踏みにじるために生まれたのよ! 笑顔も優しさも……そんな偽り、もう何もいらないの!」
怒りと共に放たれた鋭い爪が、イージスの堅固な装甲に食い込む。キィィィィンという、耳をつんざくような金属の軋み音が倉庫内に響き渡り、火花が四方へと飛び散る。高い防御力を誇る装甲でさえ、ラフの凄まじい筋力と連続攻撃の前では徐々に削り取られ、傷ついていく。
紫苑はただ防御に徹することしかできず、次第に後退を余儀なくされる。動きは鈍り、体勢は大きく崩れ、ついにはラフの渾身の一撃が胴体に直撃した。衝撃は装甲を通じて全身に伝わり、紫苑は重い体ごとコンクリートの床へと激しく叩きつけられた。
視界のHUDからは警告音が鳴り響き、変身維持限界を示す赤色のランプが点滅する。受けたダメージは深刻で、このままでは変身が強制的に解除されてしまうほどだ。肉体的な痛みだけでなく、精神的な絶望が紫苑の心を深く深く蝕んでいく。
「……さよなら、紫苑くん。君のその真っ直ぐで、愚かなほど綺麗な瞳も、ここで終わりよ」
ラフは勝利を確信したかのように、ゆっくりと紫苑に近づく。その手には先端を鋭く尖らせた爪が輝き、心臓を貫くためのトドメの一撃を振り下ろそうと高く掲げられた。紫苑はその光景を、ただ無力に見つめることしかできなかった。
――その刹那。
ラフの体が突然、激しくけいれんし始めた。まるで全身に落雷を受けたかのように、青白い稲妻が走り、その動きはぴたりと止まる。バランスを崩し、よろめいた彼女は苦痛に顔を歪め、口からはこれまでの冷酷な声とはまったく異なる、押し殺したうめき声が漏れ出す。
「……っ!? ……が、あ……あ、あぁっ!」
硬い甲殻の下では、彼女の肉体が不気味に脈打ち、抑えきれないほどの膨大なエネルギーが内部から沸き上がり、バチバチと音を立てて放電しているのが見えた。何が起きているのか。ラフ自身も理解できていないようで、混乱と苦痛がその瞳に浮かぶ。
やがて、震える彼女の口から、か細く、そして懐かしい声が零れ落ちた。
「し……紫苑……くん…」
間違いない。それは、紫苑が何よりも愛した、ちひろの声だった。ラフという異形の意志に支配されながらも、彼女の中に残ったちひろの意識が、最後の力を振り絞って怪物の体と精神に抗っているのだ。
「ちひろ!? ちひろなんだな!?」
紫苑は希望の光を見出し、倒れた体を無理に起こして叫んだ。だが、次の瞬間、ラフの体からはさらに大きなエネルギーが噴き出し、周囲の空気を歪ませる。
「あああああぁぁぁぁぁーーーーっ!!」
内側から溢れ出す破壊的な力は、ラフの肉体を内側から焼き尽くすように作用する。彼女は頭を両手で抱え、地面を転げ回るようにもがき、獣が吠えるような咆哮を上げた。自分自身が崩壊していく恐怖、そして何者かに支配されている苦しみが、彼女を襲う。
ラフは紫苑に向かって手を伸ばしかける。その手は助けを求めるような、か弱い人間の女の手だった。だが、次の瞬間、彼女は自らの意志でその手を振り払うように反転させ、絶叫と共に倉庫の分厚いコンクリートの壁へと突進した。
大音響と共に壁は爆散し、巨大な穴が開く。ラフは砕けたコンクリートの破片を浴びながら、夜の冷たい闇の中へと一筋の光のように飛び出し、そして見えなくなった。
騒然とした音が収まり、後に残されたのは、粉塵が舞い上がり、静寂に包まれた倉庫だけだった。崩れ落ちた瓦礫の山、散らばる監視員たちの無残な姿、そしてまだ残る血と鉄の匂い。紫苑は変身が解け、元の姿に戻ると、その場にへたり込むように膝をついた。荒い息を繰り返しながら、ただぼんやりと、彼女が消えていった闇の出口を見つめ続ける。
「ちひろ……」
誰もいない空間に、彼の小さな呼びかけが響く。空っぽになった自分の手を見つめ、紫苑は冷たい夜気を掴むように握りしめた。
彼女の中にはまだ、確かにちひろが残っていた。最後に聞こえた声、あの反応――それは、どんなに小さくても、絶望の中にわずかに灯る希望の光だった。だが同時に、彼女がラフとなってしまったという事実、そして彼女自身が自分を拒絶し、苦しみながら逃げ出さなければならなかったほど、事態は深刻であることも突きつけられた。
希望はある。だがそれと同じくらい、いやそれ以上に、目の前には重く厚い絶望が立ちはだかっていた。紫苑はゆっくりと立ち上がり、壁の穴から見える空を見上げる。そこには、いつもと変わらない、冷たく青白い月が静かに輝いていた。
戦いは終わっていなかった。いや、これまでの戦いは単なる前座に過ぎず、紫苑にとっての真の地獄が今始まったのかもしれない。彼は静かに、しかし強く唇を噛みしめる。暗い闇の彼方に消えた親友を救うため、これから待ち受けるであろう困難と苦悩を思い、紫苑はただ一人、その場に立ち尽くしていた。鐘は今、確かに鳴り響いている――彼の戦いの始まりを告げる鐘が。
(続)