2014年編#12-7
大学の広場は、今でもあの頃の面影をそのままに残していた。
春には桜が咲き誇り、夏には青々と木々が茂り、秋には枯れ葉が地面を覆い、季節ごとに装いを変えながらも、いつも変わらずに学生たちの憩いの場所となっていた。紫苑たち五人がこの学び舎に足を踏み入れた時から、この広場は特別な場所だった。まるで時間がゆっくりと流れるような、そんな穏やかな空気に満ちていて、彼らはここで多くの時間を過ごした。
青空のもと、寝そべっては「将来何になりたい?」なんて語り合ったものだ。誰かが弁護士になりたいと言えば、別の誰かは探検家だと笑い、また別の者は「とにかく平和に暮らしたい」とささやく。そんな何気ない会話が、いつまでも続くように思えていた。くだらない冗談を言い合っては腹を抱えて笑い、時には些細なことで言い争い、それでもすぐに仲直りをして、また同じように笑い合った。寒い冬の日には、一つだけ買った缶コーヒーを二人で分け合い、指先を温めながら冷たい風の中を歩いたこともあった。
まるでこの幸福な時間が永遠に続くかのように、誰もが信じて疑わなかった。この広場の空気の中には、そんな彼らの記憶が染み込み、漂い続けているように感じられた。だがそれは、もう過ぎ去った遠い日の幻想に過ぎなかった。
月が高く昇り、青白い光がキャンパスを淡く照らす夜。誰もいなくなった広場は、昼間のにぎやかな雰囲気が嘘のように静まり返り、ひっそりとしていた。その思い出の場所に、今は不釣り合いなほど異質な影が一つ、じっと立ち尽くしていた。
硬くごつごつとした外骨格に全身を覆われ、かろうじて人間だったとわかる程度のシルエット。それはラフロイミュード。かつてこの場所で太陽のような笑顔を輝かせ、周囲の誰もを明るく照らしていた西城ちひろが、あまりにも残酷な運命によって変り果てた、悲しき怪物の姿だった。
冷たい月光を浴びて、彼女の甲殻は鈍く、不吉な光を放っている。その姿はこのキャンパスの持つ穏やかで温かな情景とはあまりにもかけ離れ、そこに立っているだけで周囲の空気が凍てつくような、痛ましくも異質な雰囲気を周囲にまき散らしていた。
「……紫苑くん……」
異形の仮面の下から、か細く、かすれ、そしてひどく震える声が漏れ出す。それは紛れもなく、紫苑が何よりも愛した少女の声だった。どんなに姿が変わり果てようとも、その声だけは昔のまま、彼の心に直接響き渡るようだった。
広場の入口に立っていた紫苑は、その声を耳にした瞬間、まるで見えない手に導かれるように、ゆっくりとした足取りで彼女へと近づいていく。一歩踏み出すごとに、彼の心臓は、いつになく速く、激しく波打ち、高鳴っていた。緊張と、そしてわずかながらも希望の光が彼の胸の内に灯っていた。
「やっぱり、ここにいると思ったよ、ちひろ」
紫苑の声には、絶望と希望が入り混じり、震えていた。目の前にいるのは確かに愛しい少女でありながら、同時に恐るべき怪物でもあるという現実が、彼の心を引き裂かんばかりに締め付ける。
「俺たちの、一番楽しい思い出が詰まってる場所だから……君も、ここに戻ってきてくれたんだよな?」
彼は救いを求めるように、ただ無邪気な願いを込めて手を伸ばした。この手を取ってくれれば、昔の彼女に戻ってくれるのではないか。そんな儚い期待を胸に、指先を彼女へと向けた、その瞬間だった。
ピクリ、と空間がまるで布が皺になるように不自然に歪み、辺りに重苦しい空気がどんどんと満ちていく。地面からは漆黒の霧が湧き上がるように集まり、その濃い闇の中心から、一人の男がゆっくりと姿を現した。冷酷なまでに整った顔立ちに、口元にはゆがんだ笑みを浮かべている。クライだった。
「まったく……『第3世代』というのは扱いにくいものだ」
クライはラフロイミュードとなったちひろを見下ろし、まるで使い古して性能の落ちた道具を査定するかのような、冷徹で無感情な視線を注いだ。
「感情という不純物が多すぎて、制御するのにずいぶんと手間取る」
彼はため息まじりにそう言い放ち、指を鳴らす。
「こんなにも自我が強くては、『王』の駒としては不完全だ。役に立たない駒は必要ない。……仕方がない、余分なものはすべて塗り潰して、ただ命令に従うだけの存在に作り変えてやる」
冷酷な宣告が闇に響いた次の瞬間、クライの掌から生まれた無数の赤黒い触手が、音もなく弾丸のような速さで放たれた。
「やめろ!!」
紫苑の叫び声が夜の闇に響き渡るが、時すでに遅く、その凶悪な触手は無防備に背中を向けていたラフの体へと、一切の容赦もなく深々と突き刺さった。
「あああああぁぁぁ!!」
ちひろの絶叫が、静寂に包まれていたキャンパスを鋭く切り裂く。その叫び声には、耐え難い苦痛と、そして何よりも恐怖が込められていた。触手から流し込まれたのは、破壊と殺戮のためだけに作られた凶悪なプログラム。彼女の心の奥底にわずかに残されていた最後の人間としての理性、温かな感情、そして数え切れないほどの美しい記憶……それらすべてを根こそぎ焼き払い、上書きし、消し去っていく。
ラフの瞳から、ゆっくりと光が失われていく。
そこに宿っていた温かな色合いは消え去り、ただ破壊衝動だけが冷たく浮かんでいる。愛しい少女はそこにはもうおらず、ただの殺戮の権化へと墜ちていく彼女の姿を見届け、クライは満足そうな嘲笑を口の端に浮かべると、再び闇の中へと溶け込むようにして、その姿を消し去った。
「止まれ! ちひろ! 目を覚ませ! 俺だ、紫苑だ! 戻ってきてくれ、俺を見てくれ!」
紫苑は必死に彼女の名前を呼びかけ、何度も呼びかけ続けた。だがその声は、もはや彼女に届くことはなかった。
ラフは低い咆哮を上げ、まるで獲物を見つけた獣が臨戦態勢に入るように身構えると、次の瞬間、一気に紫苑めがけて襲いかかってきた。
「くっ……! 変身!」
紫苑は素早くベルトに手をかけ、タイプイージスへと変身を遂げる。
金属同士が激しくぶつかり合う耳をつんざくような音が、夜のキャンパスに連続して轟く。紫苑は装甲越しに伝わってくる想像を絶するほどの猛攻を、ただひたすらに、全身全霊をかけて受け止め続けていた。
今の彼女に言葉は通じない。目の前にいるのは、かつての面影すらなく、自分を殺そうとする敵。それ以外の何者でもないのだ。その事実が紫苑の心を締め付けるが、今は戦うしかない。
凄まじい衝撃が体幹を激しく揺らし、ついに紫苑は耐え切れずに地面へと強く叩きつけられた。全身に走る激痛、そして変身を維持することすら危うくなるほどの深刻なダメージを受け、身動きの取れなくなった彼に向かって、ラフはもう逃がさないと言わんばかりに、右腕の刃を一層鋭利に研ぎ澄ませ、高々と振り上げた。その刃が振り下ろされれば、紫苑の命はないだろう。
――このまま、殺されるのか。
紫苑は目の前に迫る死を感じ、ゆっくりと覚悟を決め、固く目を閉じた。これも運命なのかもしれない、そんな諦めの感情が心をよぎる。
だが、次の瞬間、胸元を貫くはずの鋭い痛みは、いつまで経っても訪れなかった。
ドスッ!!
肉と骨が砕けるような、重く鈍い音が静寂の中ではっきりと響き渡った。
恐る恐る目を開けた紫苑が見たものは、信じられない、奇跡とも呼べる光景だった。
ラフの左腕が、自らの制御できなくなって暴走する右腕を、まるで鉄で作られた締め具のように、骨が砕け、骨軸がきしみ軋む音を立てるほどの力で、渾身の力で抑え込んでいたのだ。
今まさに紫苑の心臓目がけて振り下ろされようとしていた右腕の鋭い爪は、逆に自らの左の手の平を深々と貫き、そこからは鮮やかな赤黒い血が、紫苑の変身した体のバイザー部分を汚すように、ポタポタと絶え間なく滴り落ちている。
「……くん、け……て」
自らの体から流れる血を浴びながら、異形の口から絞り出されるように漏れたのは、かすれた、しかし確かに紫苑の心に届く彼女の声だった。
「……紫苑くん……た……すけ……て……」
それは、闇に閉ざされた意識の底から、消えかかった魂が最後の力を振り絞って這い上がり、絞り出すようにして叫んだ、最期の叫びだった。
自分を殺してほしい。これ以上、愛するあなたを傷つけ、苦しめる怪物になってしまう前に。私を、私が私であったうちに、この狂った運命から解き放ってほしい。
その言葉の重み、そして自分が最も愛した少女の最期の願いであるということを、紫苑は全身全霊で、魂ごとすべて受け止めた。
もう、迷っている時間など一秒たりともなかった。これが彼女に対して自分のできる、最初で最後の、あまりにも残酷で悲しい、そして唯一の愛の証明なのだから。
「……わかったよ、ちひろ……」
紫苑の震える指先が、ベルトに取り付けられたグリップへとゆっくりと触れる。
視界はいつの間にか溢れ出した涙で曇り、何もはっきりと見えない。胸の奥は引き裂かれるように痛み、この場から逃げ出してすべてをなかったことにしてしまいたいという衝動を、歯を食いしばって、爪が食い込むほどに強く抑え込み、彼はゆっくりと、永遠の別れを告げるために、グリップを力一杯に捻り上げた。
『FULL THROTTLE!』
システムがまるで悲鳴を上げるように作動し、機械の限界を遥かに超えたけたたましい駆動音が周囲の空気を激しく震わせる。紫苑の拳には、地獄の業火のような燃え上がる紅蓮の炎と、彼女が流した涙のように清らかで冷たい蒼炎が渾然一体となって混ざり合い、熱く激しく、しかしどこか温もりを宿した荘厳な輝きを放った。
「うあぁぁぁぁぁぁぁーーーーっ!!!」
それは戦士としての勝利への咆哮などではまったくなかった。最愛の人を自らの手で葬らなければならない男の、魂が砕け散るような断末魔であり、この世で最も凄絶で、悲しい慟哭だった。
渾身の力を込めて放たれた一撃は、自らの胸を開いてすべてを受け入れるかのように立つラフの心臓部へと、まっすぐに叩き込まれた。
衝突の瞬間、紫苑の脳裏を、出会ってから今日までの数え切れない記憶が、まるで激流のように一気に駆け抜けていった。
『あ、あの……第二講義室ってどこですか? 迷っちゃって……』
初めて出会ったあの春の日、両手にいっぱいの教科書を抱え、頬を少し赤らめて困ったように立っていた、彼女の初々しい姿。
『へぇ~紫苑くんっていうんだ! 綺麗な名前だね。私は西城ちひろ! よろしくね!』
太陽がはじけるような、まったく屈託のない明るい笑顔で、初めて自分の名前を呼んでくれた、あの瞬間の心躍るような感覚。
『みーつけた! 紫苑くん、また講義サボってここで寝てたでしょ? もう、しょうがないなぁ……』
木漏れ日の差す木陰でうたた寝をしていた彼を見つけるたびに、いつも呆れたような、それでいてどこかうれしそうな笑顔で話しかけてきた、たくさんの午後のひととき。
『ありがとう、紫苑くん。これ、一生大事にするね』
誕生日の、夕暮れのオレンジ色に染まった街で、緊張しながら渡したブレスレットを受け取った時、瞳に涙を浮かべながらも満面の笑みで喜んでくれた、その美しい横顔。
『絶対、また来年も海にいこうね。約束だよ!』
夏の終わりの別れ道で、この上なく幸せそうに大きく手を振り、来年の約束を心から待ち望んでいるような瞳で言ってくれた、あの言葉。
『紫苑くん!』
『おーい、紫苑く~ん!』
次々と心に浮かんでは消えていく、愛おしくてたまらない記憶の数々。
やがて眩い光が、すべての思い出を包み込むように広場全体を満たした。光の中ではラフロイミュードの硬い装甲が音を立てて崩れ落ち、彼女の体は細かい粒子となって風に吹かれるように散っていく。
光がゆっくりと収まり、紫苑は解いた変身の代わりに、その場にふわりと崩れ落ちてきたちひろの体を、まるで壊れやすい宝物を扱うように、この世で最も尊い存在を抱きかかえるように、そっと、優しく両腕で受け止めた。
彼女の左腕には、流れ出た多くの血に染まりながらも、最後まで決して外れることなく彼女の腕に巻かれていたブレスレットが、月明かりを反射して鈍く、それでも確かな光を放って輝いていた。
「紫苑くん……ありがとう……これで……いいの……」
ちひろの顔には、いつもの、あの太陽のように明るく、誰もを温かく照らしていた頃の、何の曇りも陰りもない、かつて見せてくれた笑顔が戻っていた。
血の通った温かな手が、震える紫苑の頬を、か細い指でそっと撫でる。その手はとても柔らかく、昔とまったく同じ感触だった。
「ちひろ……ちひろ……! ごめん、俺が、俺がもっと強ければ……こんなことには……っ!」
紫苑は声を上げて子供のように泣いた。わんわんと、胸の内に詰まった悲しみのすべてを吐き出すように。
そして、今この瞬間を逃してしまえば、もう二度と伝えることのできない言葉を、喉の奥から絞り出すようにして、叫んだ。
「俺……ずっと言えなかったことがあるんだ……。ちひろ、俺……君が……好きだよ……! 愛してる……!」
紫苑の必死の、心の底からの告白に、ちひろは満足げで、とても幸福そうに瞳を細め、柔らかく微笑んだ。
「紫苑くん……私も……ずっと……ずっと…大好きだったよ……」
その言葉を最後に、彼女の手からゆっくりと力が抜けていき、長いまつげをわずかに震わせながら、静かに、その瞳が閉じられた。
風がぴたりと止み、世界からすべての音が消え、そして色までもが褪せていくように感じられた。
広場にはただ月の光だけが二人を静かに照らし、紫苑のむせび泣く声だけが、いつまでもいつまでも、夜の闇に吸い込まれて消えていった。
夜が明ければ、また世界はいつものように動き出す。
大学にはまた生徒たちの明るい声が戻り、講義はいつも通りに行われ、図書館では多くの者が勉強に励み、キャンパスのあちらこちらでは新しい出会いが生まれ、誰かが新しい恋に落ちるだろう。
けれど、紫苑が何としても守ろうとしたあの温かな日常は、もうどこにも存在しない。
彼の世界からは、太陽が永遠に、消えてなくなってしまったのだから。
自らの掌に残る、ほのかな彼女の体温の残滓だけを抱きしめ、彼は漆黒の闇の中、一人の戦士として、そして最愛の人を永遠に失ったただ一人の男として、終わりの見えない孤独な道を、ゆっくりと、一歩ずつ歩み始めるのだった。
日常は、永遠に失われた。
#12完