2014年編#13-1
翌朝の大学広場は、まるで時間が凍てついたかのように静まり返っていた。昨日まであれほどにぎやかだった人の波は跡形もなく、残されたのは冷たいコンクリートの地面と、どこか湿っぽい重たい空気だけである。冬の太陽は低い位置から白い光を注いでいるが、その光には一切の温もりがなく、むしろ辺りの景色をより無機質で蒼白いものに変えていくだけだった。風が木々の枝をそっと揺らすたび、枯れ葉がカサカサと乾いた音を立てて地面に落ち、その音さえもこの広場では大きく反響して、人の心をさらに沈ませるようだった。
紫苑は広場の中央付近、ちひろが息を引き取ったその場所に立ち尽くしていた。足元のタイルは冷たく凍りついているはずなのに、彼にはまだちひろの柔らかな体温がそこに残っているように感じられ、時折風が吹くたびに、彼女の甘い香りが微かに漂ってくるような錯覚まで覚えた。だが、それはすべて彼の心が生み出した幻に過ぎない。現実は残酷で、スマートフォンの画面に表示されたニュースの見出しが、その事実を容赦なく突きつけてくる。
《女子大学生、埠頭付近で不慮の転落事故により死亡》
一行の冷たい文字が、何度見ても紫苑の網膜を焼き、心臓を鋭い針で刺し貫く。三原の組織が行った隠蔽工作は、まさに完璧と言うほかなかった。ちひろが最期に流した鮮やかな血潮も、彼に向けた「殺してほしい」という悲痛な叫びも、そして彼女が苦しみながら異形へと変貌していったあの悪夢のような光景も、すべてがこの数行の記事の中で「事故」という言葉に塗りつぶされ、世間の人々にとってはただの悲しいニュースの一つとして処理されているのだ。誰も真実を知らない。誰も彼女の無念を知らない。そう思うと、紫苑は自分の無力さに唇を噛み締め、血が滲むほどに力を込めた。
胸の内側にあるのは、もはや痛みという言葉では表せないものだった。悲しみを通り越し、怒りさえも通り過ぎ、ただただ大きな空洞がぽっかりと開いているような感覚。底の見えないその闇の中に、自分の心も、感情も、何もかもが吸い込まれていくようで、まるで自分自身がこの世に存在していないかのような虚しさに包まれていた。
信じていた親友は自分たちを裏切り、最愛の女性はただの駒として弄ばれ、最後には自らの手で命を絶たなければならなかった。紫苑はゆっくりと目を閉じ、これまでの日々を思い返す。共に講義を受け、食堂でご飯を食べ、帰り道に将来の夢を語り合ったあの時間。笑い声が絶えなかった仲間との日々。ちひろが誕生日に見せてくれた、太陽のように明るい笑顔。
――俺が守りたかったものは……俺が信じてきたあの時間は、全部、嘘だったのか……?
疑問が頭の中を何度も巡り、答えのない問いが彼をさいなむ。「日常」という名の脆いガラス細工を守るために、彼は力を求め、戦うことを決意した。だが、その力こそが皮肉にも、自分が何よりも大切にしていた日常を打ち砕くための刃となり、大切な人たちを傷つけ、奪っていったのだ。
信じていたものが次々と崩れ去り、絆と思っていた糸は一本、また一本と音を立てて断ち切られていく。もはや自分には何が残されているのか。誰の言葉を信じ、何を支えにして生きていけばいいのか。紫苑は目を開けても、視界に映る世界は灰色にくすみ、まるで霧の中にいるように輪郭がはっきりとしなかった。全身から力が抜け、今にも地面に崩れ落ちてしまいそうなほどの虚脱感が彼を支配していた。
「紫苑……」
柔らかく、しかしはっきりとした声が聞こえ、紫苑は重たい頭をゆっくりと上げた。
そこには、美穂、悠真、朔也の三人が立っていた。彼らの姿を見た瞬間、紫苑の胸の奥がまた締めつけられるように痛んだ。三人とも顔色は紙のように青白く、目は赤く腫れ上がり、まぶたにはくっきりと泣いた痕が残っている。彼らもまた、ちひろの死という受け入れがたい現実に直面し、一晩中眠ることもできず、涙を流し続けていたのだということが一目でわかった。
「嘘だよな……」
悠真が声を震わせながら一歩前に出る。普段は明るく活気に満ちた彼の声は、今は枯れ果て、かすれていた。
「ちひろが事故なんて……ありえないだろ。昨日の今頃は、みんなで集まって、ちひろの誕生日を祝ってたんだぜ? あいつ、すごく嬉しそうに笑って、チョコもくれて、元気そのものだったじゃないか……っ!」
言葉の最後は怒りとも悲しみともつかない叫びになり、悠真は固く拳を握りしめる。爪が手の平に食い込み、血が滲むほどの力だったが、彼はその痛みさえも感じていないようだった。行き場のない感情が、彼の体の中で荒れ狂っているのが見て取れた。
美穂は何も言わず、ただ涙を次から次へと頬に伝わらせていた。彼女は手に持っていた色とりどりの花束を、そっと紫苑の隣の地面に置く。それはちひろが昔から好きだった花で、買い物に行った時も、いつもこの花を眺めては嬉しそうにしていたのを紫苑は覚えていた。美穂の細い肩が絶えず震えており、声を上げて泣くこともできないほどの深い悲しみが、その背中から伝わってくるようだった。
「紫苑、お前……」
朔也が静かに口を開き、ゆっくりと紫苑の側に歩み寄る。彼もまた疲れ切った表情をしており、いつも冷静な彼がこれほどまでに動揺し、憔悴しているのを紫苑は見たことがなかった。
「顔色が良くない。ここにずっといたのか? 」
心配そうな瞳で紫苑の顔を覗き込みながら、朔也はそっと彼の肩に手を置いた。その指先は微かに震えており、そして確かな温もりを持っていた。
その瞬間、紫苑の心に何かが灯った。冷たく凍てついていた心臓が、再び規則正しく鼓動を打ち始めるような感覚。友人たちの涙、彼らの声、そして触れ合った肌の温かさ。これまでの狂わされた運命の中で、多くのものが偽りで塗り固められていたけれど、この温もりだけは紛れもなく本物で、真実なのだと紫苑には感じられた。
大悟は去り、ちひろは永遠にこの世を去ってしまった。だが、まだ自分の側にはこうして悲しみを分かち合い、心配してくれる友人たちが残っている。自分が守らなければならない日常が、完全に消え去ったわけではなかったのだ。その事実が、死にかけていた紫苑の心に、微かではあるが決して消えることのない火を灯し、再び立ち上がるための力を与えてくれた。
「みんな……ごめん……俺……」
紫苑は乾ききった唇を開き、絞り出すように声を出そうとした。自分がしっかりしなければ。自分が倒れてしまったら、この人たちは誰が守るのだ。ちひろのためにも、必ず真実を明らかにしなければならない。そんな思いが胸に溢れ、言葉を続けようとした、まさにその時だった。
――カツ、カツ、カツ。
背後の雑踏の向こうから、規則正しい靴音が近づいてくる。その音を聞いた瞬間、紫苑の全身の毛穴が逆立ち、凍りついたように動けなくなった。かつては何の変哲もない、毎日のように聞いていた友人の足音だった。だが今ではそれは、悪魔が近づいてくる音としか思えず、彼の心に恐怖と同時に激しい憎しみを呼び起こした。
「久しぶりだな。……いや、そうでもないか」
低く、冷たい声が空気を震わせた。
ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは紛れもなく星川大悟だった。だが、そこにいた男は、紫苑たちが知っていた星川大悟ではなかった。
以前の彼は、いつも明るく屈託のない笑顔を浮かべ、周りの者に安心感を与えるような青年だった。一緒にいるだけで楽しく、将来の夢を語る瞳はきらきらと輝いていたものだ。しかし今目の前にいる大悟は、まるで別人のようだった。
整った顔立ちには一切の感情が浮かんでおらず、瞳は暗く淀み、その奥には冷徹な光だけが宿っている。まるで生きとし生けるものすべてを見下し、支配しようとするかのような、絶対的な存在感がその体から放たれていた。
紫苑は言葉もなく、ただ大悟を睨みつけた。激しい憎しみと、まだ消し去れない悲しみが混ざり合って鋭い刃となり、彼の視線に込められた。
「大悟……!」
美穂が小さく叫び、悠真と朔也も驚きに目を見開く。
「おい、大悟! お前、いったい今までどこにいたんだよ!?」
悠真が我先にと大悟に駆け寄ろうとする。彼の瞳には、まだ大悟を友人として心配する色が強く残っていた。
「連絡もまったくつかなくなって……お前がいない間にちひろが……」
言いながら、悠真の目には再び涙が浮かんでくる。彼はまだ、目の前の男がかつての友人ではないことを、完全に理解していなかったのだ。だが、次の瞬間、世界は一変した。
――グオン……。
地鳴りのような低い音が響き渡り、同時に広場全体に凄まじい圧力が生まれた。空気そのものが重くなり、鉛の塊のように体にまとわりつき、自由を奪っていく。
「……っ!? な、なんだ、これは……急に体が重くて……」
悠真が悲鳴に近い声を上げ、よろめいて地面に手をつく。彼の額には瞬く間に汗が浮かび、息苦しさから口を大きく開けて喘ぐ。
「重い……息が……息ができない……動け、ない……!」
朔也もまた苦しそうに胸元を押さえ、顔を歪める。美穂はその場にしゃがみ込み、恐怖に満ちた目で周囲を見回していた。
周りを見ると、通りかかっていた学生たち、木々の葉、風に舞う塵一つまでもが、まるで時間が止まったかのように動きを止めていた。すべてが濃密な力の檻の中に閉じ込められ、彫刻のように固まっている。これは生半可な力ではない。常識を超えた、超常的な力がこの場を支配しているのだ。
三人が恐怖に体を震わせ、何が起きているのか理解できずにいる中、大悟の体に異変が起きた。
彼の体の表面から、禍々しい光沢を放つ金属のような結晶が次々と生まれ出て、肌を覆っていく。まるで人間の皮膚という殻を脱ぎ捨てるかのように、彼の体は歪み、膨張し、人間の形から徐々に遠ざかっていく。骨格が軋む音が聞こえ、漆黒の硬い鎧が彼の全身を覆い尽くした。
かつて彼らの友人だった星川大悟は、その姿を完全に消し去り、この世のものとは思えない恐るべき存在へと変貌を遂げた。漆黒の鎧に身を包み、周囲に死の気配をまき散らすフィア――死を司る王。
「なっ……なんだ、これは……! 怪物……怪物だ……!」
悠真が絶望的な声を上げ、腰を抜かしてその場に座り込んでしまう。
「う、嘘だろ……? だって、あれは大悟だったはずだ……俺たちの知っていた大悟が……こんな……っ」
朔也もまた言葉を失い、ただただ眼前の悪夢を見つめることしかできない。信じていた友人が、自分たちの理解を超えた異形の存在であり、さらには自分たちに害を与える存在だったという事実は、ちひろの死と同じくらい、いやそれ以上に三人の心に深い絶望を刻み込んだ。
だが、フィアは彼らの驚きや悲鳴などには一切の関心を示さなかった。苦痛に歪む三人の姿を一瞥もせず、彼はただ一人、紫苑だけをその赤く燃えるような瞳でじっと見つめていた。その瞳には、獲物を捕らえようとする獣のような鋭い光が宿っている。
「見たか、紫苑」
フィアの低い声が、凍りついた空気の中で重く響く。
「これが真実だ。お前が守りたいと願い、力まで手に入れようとしたありふれた日常など、俺の指先一つでこれほどまでに容易く静止し、崩れ去る。お前が信じてきたもの、守ってきたものは、すべて脆く、儚く、何の意味もないものだったのだ」
一語一語が紫苑の心に突き刺さり、彼のこれまでの生き方、考え方すべてを否定してくるようだった。
「……さあ、始めよう。絶望の続きをな」
冷徹な言葉が広場にこだまする。
失われた最愛の人。裏切られた友情。そして今、目の前に突きつけられた、あまりにも残酷で厳しい現実。これまで積み上げてきたものがすべて崩れ去り、自分一人だけがこの暗い世界に放り出されたような感覚に襲われながらも、紫苑はもう逃げ出すことは考えなかった。
彼はフィアを真っ直ぐに見据え、その瞳に宿っていた悲しみと迷いを徐々に消し去り、代わりに戦士としての鋭い覚悟と決意を燃え上がらせた。
「俺は……俺はまだ終わっていない」
低く、しかし力強い声で紫苑は宣言した。
「お前が何者であろうと、俺の知ってる大悟がもういないのだとしても……俺は俺の信じた道を進む。ちひろのために、そしてここにいるみんなのために……俺はお前を倒し、この理不尽な運命を打ち砕いてみせる!」
絶望の淵から立ち上がり、新たなる戦いの火ぶたが今、切って落とされた。冷たい風が二人の間を吹き抜け、凍てついた世界の中で、二つの力が激しくぶつかり合うように対峙していた。
(続)