2014年 編 #13-3
深夜0時を回った頃――三原が隠れ家では、電子機器が発する微かなハム音だけが空気を震わせ、まるで時間そのものが凍りついたかのような静寂に包まれていた。
もともとこの部屋は、表社会から身を隠しながらも、わずかな希望を繋ぎ止めるための拠点として使われていた。紫苑が初めてこの扉を叩いた日のことを、三原は今でも鮮明に覚えている。あの時の紫苑は、まだ真っ直ぐな瞳に未来を映し、守るべきもののために力を求め、そして何よりも「生きる」という意志をその全身に漲らせていた。ちひろという、彼にとって唯一無二の光が傍にあったからこそ、持ち得た輝きだったのかもしれない。
だが今、部屋の空気はひどく冷たく、まるでこれから旅立つ者のために用意された棺桶のような、重く澱んだ静けさが満ちている。
三原はデスクに置かれたモニターから視線を外した。そこにはエリア0と呼ばれる区域の詳細な衛星画像やデータが並んでいた。かつてこの場所で紫苑の父である矢切周平が命を落とし、そして紫苑自身が「人間」としての道を外れ、異なる力へと目覚めるきっかけとなった、すべての始まりの土地。今やそこは立ち入り禁止の廃墟地帯となっているが、時折漏れ出すエネルギー反応は、この国の、いや世界の均衡を密かに揺るがし続けていた。
三原はゆっくりと振り返り、部屋の隅で黙々と装備を整える紫苑の背中を見つめた。
この数ヶ月の間に、紫苑の体躯は明らかに変わった。過酷な戦いと鍛錬を経て、無駄な脂肪が削ぎ落とされ、鋼のような筋肉がその身に纏われている。一見すると、彼は最強の戦士へと成長を遂げたかのように見えた。
だが三原には分かっていた。この若者の内側にあるものが、以前とはまるで違ってしまったことを。
紫苑の背中から発せられるのは、熱い情熱でも、正義への燃え上がるような思いでも、生き延びようとする渇望でもなかった。そこにあったのは、あまりにも冷たく、あまりにも澄み切った、絶対的な虚無だった。まるで彼の心は既にこの世になく、肉体だけが定められた運命に従って動いているかのような、そんな不気味な静けさがその背中には漂っていた。
「本当に行くのか」
三原の低い声が、部屋の重苦しい沈黙を引き裂くように響いた。
その声には、いつもの彼――組織の人間として、任務のためには情を捨て、冷徹に状況を分析し指示を下す監視員としての彼の面影はなかった。そこにいたのは、一人の人間として、目の前の若者の行く末を案じ、何とかして止められないものかと願う、ただの大人の姿だった。声の震えは意図せず漏れ出てしまい、それが三原自身の無力感をさらに強く自覚させた。
紫苑は手を止めず、静かに応えた。
「はい」
短く、迷いの欠片もない、凍てついたような返事だった。
彼は腰の部分にGTドライバーを装着し、ベルトのバックル部分に指を這わせる。重厚な金属の感触、そしてその内側に秘められた未知の力の流れを、指先で確かめるようにゆっくりとなぞる。その一つ一つの動作には、もはや逡巡も恐怖もなく、ましてや生きることへの執着など微塵も感じられなかった。まるで自分の体が既に自分のものではないかのように、冷徹に、機械的に準備を進めているように見えた。
その姿を見て、三原は胸の奥が激しく波立ち、苦しさに息が詰まるような感覚を覚えた。
これまで長くこの組織に身を置き、多くの人間の生き様と死に様を見てきた。己の正義を信じて戦い、散っていった者たち。裏切りや陰謀に巻き込まれ、無残に命を落とした者たち。さまざまな「死」を見届けてきたが、目の前にいる紫苑の瞳は、そのどれとも似ても似つかないものだった。
紫苑の瞳は、これまで三原が見てきた「戦う者たち」のそれではなかった。彼らは皆、何かを得るために、あるいは何かを守るために戦っていた。勝利を目指し、生き残ることを願っていた。
だが紫苑は違う。
彼は既にすべてを捨て去り、ただ一つの目標――「終わり」という一点だけを凝視している。
三原には痛いほど分かった。この若者がエリア0へ向かうのは、そこで何らかの勝利を手にするためではない。この長い長い苦しみの連鎖に終止符を打ち、自らの存在そのものをこの世界から消し去ろうとしているのだ。最愛のちひろを失い、心の支えを完全に断たれた彼が最後に選ぼうとしている道は、自らの死をもってすべてを清算することなのだ。
ちひろの元へ。あるいは父・矢切周平の元へ。彼はただ、その場所へと帰ろうとしているに過ぎないのだ。
「何を考えている?……何をしようって言うんだ、紫苑」
三原の問いかけは、もはや詰問ではなかった。それは懇願だった。組織の人間としてではなく、一人の人間として。この若者を戦いの渦中に引きずり込み、彼から最も大切なものを奪う結果となってしまったことへの、消えることのない罪悪感が、三原の言葉を震わせた。
「紫苑、お前には前に言ったはずだ」
三原は一歩、紫苑に近づいた。だがその距離は、物理的なもの以上に遠く感じられた。
「お前が守ろうとしていた日常は、お前自身がその中にいてこそ意味があるんだ。お前のいない日常など、彼らにとって、本当の意味での日常なんかじゃない。お前はまだ若い。あいつらのためにも、お前自身のためにも、絶対に生き残らなければならないはずだ」
三原の言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。これが最後の説得だった。この扉を出てしまえば、もう二度と彼を止める手立てはないだろう。
だが紫苑は、ゆっくりとした動作で玄関へ向かい、決して三原の方を振り返ろうとはしなかった。彼の視線は、部屋の壁際にある扉の外、漆黒の闇が広がる夜の街の景色だけを見つめていた。
「ちひろは、もうこの世にいないんです」
紫苑の声は、低く、そして驚くほど穏やかだった。怒りも悲しみも、そこには何もなかった。
「どうあがいても、何を願っても、もう二度とあの頃には戻れないんです。彼女が笑っていた日々も、俺がただの大学生だった時間も、すべては過ぎ去って、戻ってくることはない」
紫苑は一度、大きく息を吐いた。まるで胸の内に溜まった澱をすべて吐き出すかのように。
「けれど、それでもまだ、俺が守れるものは残っている」
その言葉には、わずかながらも確かな意志が込められていた。
「美穂も、悠真も、朔也も……それにこの街に住む何千もの人たちも、まだここで生きている。俺がここで立ち止まってしまえば、俺の後ろにあるものすべてが、再び危険に晒されるかもしれない。俺が背負ったもの、俺が生み出してしまった流れは、俺自身が終わらせなければならないんです」
紫苑の瞳の奥には、これまでの出来事すべてが閉じ込められているようだった。美穂や悠真、朔也が流した涙、ちひろが最期に見せた笑顔、父・矢切周平との確執、そして数え切れないほどの戦いの記憶。それら一つ一つがもはや感情を伴うことなく、凍りついた結晶となって彼の心の底に沈み、彼をこの道へと突き動かしていた。
紫苑はようやくゆっくりと首だけを回し、三原の方を向いた。
その顔には表情がなかった。だがその目は、初めてこの隠れ家を訪れた時のような、何もかもに怯え、ただ救いを求めていた青年のものでもなければ、力に飲み込まれかけていたものでもなかった。どこまでも遠く、透き通るような、それでいて何も映さない透明な瞳だった。
「三原さん……」
その声もまた、同じように澄み切っていた。
「今まで、本当にありがとうございました。俺に力を貸してくれたことも、道を示してくれたことも、全部……忘れません」
それはまるで、長い旅に出る友人や、永遠の別れを告げる家族に向けるような、穏やかで、そして決定的な言葉だった。
紫苑はそれだけを言うと、再び前を向き、扉の方へと歩き出した。
「それじゃ」
たった一言を残して、紫苑は躊躇うことなく夜の闇の中へと一歩踏み出した。
「紫苑……!」
三原は咄嗟に手を伸ばした。何としてもその肩を掴み、引き止めなければならないと思った。だがその手は虚空を掴み、力なく空しく宙を泳いだ。
紫苑の歩みは速く、そしてその背中から発せられる覚悟は、あまりにも硬く、あまりにも凍りついていた。それはもはや誰が何を言っても、何をしても変えられるものではないことを、三原はその瞬間、痛いほどに理解してしまった。どんな慰めの言葉も、どんな組織の命令も、今の彼にとっては意味を持たないのだ。
開け放たれた扉からは、夜の冷たい風が絶え間なく吹き込み、部屋の空気をさらに冷やしていく。三原は風に身を震わせながら、街灯の仄かなオレンジ色の光に照らされ、次第に遠く、小さくなっていく紫苑の背中を見つめ続けた。
その手は固く握りしめられ、爪が掌に食い込み、血が滲むほどだった。だがその痛みも、今の三原にとっては何の癒しにもならない。ただただ、無力感だけが彼の身に重く圧し掛かっていた。
紫苑が向かう先は――エリア0。
あの場所は、彼の人生のすべてが始まり、そして今、すべてが終わろうとしている場所なのだ。
父が命を落とした土地。紫苑が人間としての限界を超え、力を得る代償として多くのものを失うきっかけとなった土地。そして今、彼が最愛の人を失った悲しみを背負い、過去のすべてを断ち切り、自身の命を懸けて最後の決着をつけようと赴く場所。
始まりの地であり、そして多くの者にとって終焉の地となる忌まわしきその土地で、今まさに運命という名の歯車が、最後の一歩を回転させようとしていた。重く、鈍い音を立てながら。
三原は空を見上げた。
雲一つない夜空には、まるで血を塗りたくったような不気味なまでに赤い月が、一つだけ静かに浮かんでいた。
「終わりの始まりだ……」
三原は誰に言うでもなく、低く呟いた。
赤い月明かりの下、静まり返った街の彼方、エリア0の方角からは、まるで世界の終焉を予告するかのような、冷たく強い風が一陣、吹き荒れていくのが見えた。その風は、紫苑の黒いコートの裾を翻し、彼をさらなる闇の中へと誘うように吹き続けていた。
(続)